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探訪記録 山形  29 : 村山  4


佐藤リスト 位置番号 24 : 西村山郡大江町三郷・滝の沢 腰王堂
佐藤地名リスト位置番号 51 : 西村山郡大江町三郷(旧・西村山郡左沢三郷) 腰王堂 

                   〈桑原リスト:西村山郡大江町左沢三郷滝の沢・腰王堂

〈始めに〉
 佐藤偵宏はコシオウ神社所在地リスト〈佐藤リスト〉とコシオウ地名所在地リスト〈佐藤地名リスト〉の両方に「大江町三郷」の情報を載せています。
 腰王堂という建物があり腰王堂という地名があるということかと思いますので、両方の情報を記しておきます。

《探訪の準備》
*探訪記録 村山3の記事で取上げましたように、川崎『美人反別帳』に「左沢町三郷滝の沢に条件通りの腰王堂あり」と記されています。
 これを受けた形になるのでしょうが、桑原リストにも佐藤リストにも載せられています。
 川崎浩良『古志族の検討』には、西村山郡所部はありますが三郷滝の沢の情報はありません。
 月光リストには、西村山郡大江町所部はありますが大江町三郷はありません。これは月光リストの所在地情報の資料は、川崎浩良の著作では『古志族の検討』のみを取上げて『美人反別帳』を反映していないためです。 

*市町村の変遷を見てみると、明治10年に、深沢村・伏熊村・用村が合併して三郷村になっています。三村の合併で三郷村となったのでしょうか。
 明治22年に左沢村・三郷村・等により左沢村が発足し、明治29年に左沢町になり、昭和34年に左沢町・漆川村が合併して大江町が発足しています。
 『山形県地名録』の「西村山郡左沢町」の「三郷」に腰王堂があります。
 2013年の大江町住所一覧のネットプリントに「三郷乙字腰王堂サンゴウオツアザコシオウドウ」がありましたので、字地名の腰王堂は三郷乙地域にあったことは間違いないと思います。
 現在の住所表示では大江町三郷乙に字地の表示はありません。
 三郷乙のどの辺りに字腰王堂があったのか分かりませんし、腰王堂という堂宇の情報もありません。 
 三郷乙は、旧深沢村の領域のようです。三郷甲が用村で、三郷丙が伏熊村にあたると思われます。
 村山3の記事でも触れましたが、三郷乙の西側の最上川の対岸は西村山郡朝日町中沢になり、腰王神社の石祠があるとの情報がある場所です。

*地理院地図で三郷乙の辺りを見ますと、鳥居の地図記号が二ヵ所ありました。一ヵ所は集落沿いの道路の近くで、もう一ヵ所は集落からは離れたところにあります。
 最上川のそばに寺の地図記号があります。集落沿いの鳥居記号はその寺から東側〈直線距離で約720m〉になり、集落外れのほうは南南東側〈直線距離約400m〉に位置しています。
 ネットの有料地図を見ると、寺は安養院と記され、集落外れの鳥居記号は熊野神社と記されていますが、東側の集落沿いの鳥居記号に関しては文字は記されていません。
 有料地図上で東側の鳥居記号の場所と思える建物の色の濃淡が民家とは異なっていますので、一般住宅以外の何らかの建物のようですので、名前の不明な神社があるようです。
*『山形縣神社誌』を見てみますと、大江町には17社の神社が記載されています。
 腰王堂の記載はありません。
 記載によると鎮座地が大江町三郷字上之田丙331−1に熊野神社があり、大江町深沢字境沢1228−1に熊野神社があります。
 現在の大江町三郷地区の法人社はこの2社のようです。現在の住所表示で、大江町三郷丙331−1に熊野神社がありますので大江町深沢字境沢1228−1の熊野神社が大江町三郷乙に鎮座している熊野神社であろうと思います。
*ネットで検索しても有力な情報が得られませんし、ネットの有料地図には三郷乙の山中に建物が幾つかあることが分かりますが、それらの建物の色の濃淡が民家と異なるものが見受けられませんので、先に見た集落沿いの東側の鳥居記号の名称不明の神社を確認すると何かが分かるかも知れないと思います。

*『大江町史』の「腰王信仰の痕跡」の項目には三郷の腰王堂についての記載がありません。
 腰王堂については、図書館を訪ねて『大江町史資料』等の文献を見てみないと分からないと思います。

《探訪の記録》
*2018年11月10日
 大江町所部の腰王神社を訪ねる前に大江町三郷乙に向いました。
 この日の行程は、西村山郡朝日町宮宿から東村山郡山辺町北山へ、そこから西村山郡朝日町中沢に行ってから、最上川を渡って大江町三郷乙というルートをたどっています。
 ここのあとに所部の腰王社を訪問してから大江町立図書館を訪ねましたので、文献史料に目を通す前に所在地情報の場所と思える所を訪ねることになりました。

*最上川に掛る橋(大江大橋?)を大江町富沢の側から渡って右折して三郷乙の集落沿いの道を走って名称不明の神社を目指しました。
 集落沿いの道を東から西に進むと、道路から左に行く側道のような道路がありましたので、そこへ車を乗り入れて未舗装路に入ってその端に駐車しました。旧道の残っている場所なのでしょうか。
 そこから少し戻り、山に向う道を進むと目指す名称不明の神社のはずですが、そこに建物はありませんでした。
 神社であったろうと思われる建物は解体されたものか、残材が積まれて基礎と思われる石が残されていました。
 敷地の奥に十八夜塔の石碑がありました。
 近くの店舗をお訪ねしてお聞きしましたところ、名称不明の社は月山神社だったとのことです。
 腰王堂のことはご存じないとのことでしたが、他の方をご紹介いただきました。
 ご紹介いただいた方をお訪ねいたしましたが、情報は聞けませんでした。

*腰王堂の手掛かりはないだろうかと、集落沿いの道路を行き来してみたり、車を停めた所から山のほうに入ってみたりしましたが、そんなことで見つかることはなく、三郷乙を離れました。

左: 神社に向う山のほうに行く道                      右: 建物の部材が積まれている
下: 礎石 奥に十八夜塔


《探訪の整理》
*大江町立図書館でコピーさせていただいた『大江町史 地誌編=第二編・第三章・7深沢』の項目に次のような記述がありました。
 それを見てみますと〔「深沢と中沢〈朝日町中沢〉を結ぶ渡し場は、安政年間に始まったもので、深沢から左沢に行くにはこの渡船を利用して中沢にあがり、そこから五百川〈イモガワ〉街道を北に向った。〈略〉昭和五十二年九月に、大江大橋が完成し、渡し場は廃止された。」「深沢は成立の古い集落といわれ、集落の南の山に不動尊があり、背後の麓から清水がとうとうと流れ出している。堂宇の中には腰王の本尊といわれる穴あき石や丸い石が、たくさん納められている。この不動尊は、以前はカラス丸山の中腹、腰王堂に祀られていたもので、今でもその跡には土盛りが残っている。平安時代に創始されたといわれ、仏の山を切り開くとき、七かしらのシシが先導役を勤めたという伝承があり、獅子舞が深沢にあるのはそれに因むものという。」「安養院は真言宗で寒河江総持寺の末寺であったが、今は西根長松寺が兼務している。〈略〉湯殿山修験道との関連が深い寺であった。寺の南のところが仁渡の地名で、仁渡大明神がここに安置されていて、五輪塔が出土した。また熊野権現もかつて、この近くにあり、月山神社も祀られている。寺を中心にしていくつかの神社が分布しているのは、伏熊の場合でもみられる。熊野神社は深沢の鎮守で、字境沢の斜面にあって見晴らしがよい。熊野本宮から勧請したものといわれ、初め前田にあったが明治初期に山腹に移された。石段を登ったところに大神宮の石塔が立っており、背後の山に虚空蔵が祀られ、斜面の下が深沢不動尊である。腰王堂の地名を持ち、修験道の寺があるなど、所部の腰王堂と西光寺との関係に似ている。」〕の記述があります。
 この文の中に「この不動尊は、以前は…、腰王堂に祀られていたもので、今でもその跡には土盛りが残っている」とありますので、腰王堂の堂宇が以前は存在して不動尊はその腰王堂の堂宇に祀られていたと受け取れるのですが、それでよいのでしょうか。そうではなくて、字地の腰王堂の場所に不動尊があったのでしょうか。
 『地名を探る(大江町の歴史探訪)=第三章・14 深沢(三郷乙)』にも腰王堂に関する記述があります。
 それには「カラス丸山の中腹に、『腰王堂』がある。今は字名となり、土壇の跡が残っている。伝承ではこの地の『仏の山』を切り開くとき、七かしらの獅子が先導役を勤めたという。〈略〉『境沢』の斜面にある鎮守の熊野神社は、見晴らしがよく集落が一望できる。…はじめ前田にあったが明治初期山腹に移された。この下方から清水が湧き出し、不動尊が祀られている。不動尊はもと腰王堂にあって、腰王の本尊といわれる穴あき石や、丸い石がたくさん納めてある。深沢は、最上川を下ってきた腰王信仰の痕跡を、色濃く残している。集落の成立は、古代に遡るものだろう。」があります。
 これによると、“腰王堂がカラス丸山の中腹にあり、今は字地名となり土壇の跡がある。熊野神社の下方に清水の湧く場所があり不動尊がある。この不動尊はかつては腰王堂にあった。不動尊の堂宇には穴あき石や丸い石がたくさん納められている。”ということのようです。
 不動尊は堂宇の腰王堂にあったのでしょうか、字地の腰王堂にあったのでしょうか。
 これらの記載は、腰王を祀る施設についての直接的な記述ではないようです。
 字地名腰王堂が存在するのですから、腰王を祀る堂宇があったのでしょうが、あったとすればその堂宇にはなにが祀られていたのでしょうか、その堂宇はどうなったのでしょうか。
 「平安時代に創始されたといわれ」るのは、不動尊なのでしょうか。「仏の山を切り開く」のは、平安時代に創始するためなのでしょうか、仏の山とは字地腰王堂の辺りのことなのでしょうか。
 不動尊と腰王堂の関係はどうなっているのでしょうか。
 不動尊の堂宇に穴あき石や丸い石がたくさん納められているそうですが、腰王の堂宇を熊野神社の下手の清水の涌く所に移し、腰王の堂宇に祀られていた不動尊を主とする堂宇に変えたのでしょうか。腰王がなにを祀るか分からなくなったのでしょうか。
 腰王の堂宇と不動尊は別にあって、腰王の堂宇が維持出来なくなる等で不動尊の堂宇に腰王に納められた穴あき石などを移し納めることになったのでしょうか。
 いずれにせよ、今あるのは不動尊であって、腰王の社殿は無いようですが、耳の病に関する信仰としての腰王のお堂があったことは、不動尊の堂宇に納められた穴あき石によって証されると思います。
 何時の時代までかは不明ですが、かつてカラス丸山の中腹に腰王神のお堂があり腰王堂という字地名になりましたが、今そこに堂宇は存在していません。
 また、かつて山の中腹にあった不動尊は、その後熊野神社の下手に場所が変わりましたが、不動尊の辺りに腰王神は祀られてはいないようです。
 腰王堂は今は無く腰王神も祀られていないということかと思います。


 『地名を探る』の巻末にも「大江町字寄図」があり、その「左沢地区(2)」に腰王堂・境沢・前田・仁渡等の字地名が記されています。
 字地の範囲を区切ると思われる線も記されていますが、現在の地図のどこに当るか特定できないこともあり、字地名の腰王堂だけをカシミール3Dの解説本の地図に書き加えてみました。

カシミール3D解説本の地図に、
字地名「腰王堂」の文字を加え、鳥居記号2ヵ所に◯を付けました。
腰王堂の文字を加えた場所は、字寄図に記されていた場所を参考にしました。字地の範囲は確認できていません。
の鳥居記号は熊野神社
の鳥居記号は月山神社と思える建物部材が積まれていた跡地
は安養寺








  



=追記=
 ホームページにアップしたここまでの記事の文字の抜け落ちなどの修正をいたしましたが、記載の混乱などをそのままにして、以下に追記をしていこうと思います。
 
《再訪の記録》
 資料を入手できたことで、地名の字腰王堂のおおよその位置関係が分かり、不動尊と穴あき石のことも分かり、同時に疑問も出てきましたので、三郷乙の深沢地区を再訪したいと思っておりました。
 『山形縣神社誌』に熊野神社の例祭が5月3日とありましたので、その日に行けば話を聞ける人に会えるだろうと、準備をいたしました。

*2019年5月3日
 例祭日情報にあわせて熊野神社を訪問しました。
 深沢地区に入ると、道を行く人々のはなやかな姿から祭礼が行なわれていることが分かり、ほっとしました。
 地図情報では高台の熊野神社の下にあたると思われる池まで来たところで、神社に行ってきた様子の方にお尋ねしますと、神社の階段の下まで車で行けるが狭い道なので気を付けてとのことでした。
 池を左手にした坂道を登ると、石段の脇に車2台分くらい駐車できる場所がありました。
 石段をのぼり鳥居をくぐり、さらに登っていくと右手は切り開かれた山のゆるやかな斜面があり、坂道の先に木立に囲まれた神社がありました。
 拝殿の向拝間に渡された注連縄は三束の藁を綯って作った中央部が太くなった左縄のようです。両末部を木鼻にまわしてあげられており、集落の方の手作りになるもののようです。
 お昼前頃の時間でしたが、神社には次々に老若男女が参拝に訪れており、にぎやかなお祭りが地区をあげて行なわれているようでした。
 そのようななかでしたが、拝殿にお集まりの役員の方々に腰王堂の字地と堂宇のことを伺うことができました。
 字腰王堂の範囲は、けっこう広いとのことで、県道143号線〈深沢コミュニティセンターの向い付近からカラス丸山の東側を通り三郷甲につながっている〉が熊野神社の南で大きくカーブしている所〈神社から160b程〉から分かれて南西に続く道の南側ばかりでなく北側あたりも腰王堂の範囲とお聞きしました。
 腰王堂の堂宇の情報は得られませんでした。
 突然の闖入者にもご親切にご対応いただき、御神穀まで頂戴いたしました。
 不動尊の場所をお聞きしておいとまいたしました。
 背後の山に祀られているという虚空蔵様の事は聞き漏らしました。

 左上: 熊野神社の階段と鳥居                           右上: 階段上の参道と熊野神社の木立
 左下: 山の斜面と左に熊野神社の木立                   右下: 熊野神社拝殿前


*不動尊は、熊野神社の石段下から少し下った所に池方面への小径があり、その先の窪地状のところにありました。
 こちらも、堂宇を開き、役員の方々がお集まりになり、お詣りの方々のご対応をなされておいででした。
 境内の奥のほうに、背後の崖からの湧水が小滝となって流れ、不動尊像が祀られており、賽銭箱が置かれ鈴緒を下げた屋根付の礼拝施設が設けられていました。
 訪問の訳をお話しし、堂宇のなかにあげていただいて、穴あき石を拝見させていただき、写真の許可もいただきました。
 不動尊の額が置かれ、その前の左側に10個程の穴あき石がたしかにありました。大小ありますが、こぶし大のものを中心とした大きさです。
 コシオウに関連するような表示は見受けられません。
 ろうそく台や奉納物があり、観音像ではないかと思える小さな御像や大黒像や陶器の狐がありました。
 不動尊額の右に、摩耗してくびれたようなあるいは燈籠などの石造物の一部のような不思議な石が置かれていました。
 こちらの不動尊は、すわり不動と言われているとのことでした。
 次々とお詣りの方が来られますし、それらについての詳しいことはお聞きいたしておりません。
 お祭りの時におじゃまさせていただいた事で、穴あき石を見る事ができ、お話しもお聞きできたのですが、参拝の方のご対応などでお忙しい中ですので、時間を掛けていろいろお聞きするということは出来ませんでした。
 こちらでも御神穀を頂戴いたしました。
 この不動尊は池の南西の細く伸びている場所の岸辺付近にあり、池の先端に滝と不動尊が位置しているようです。
  ネット検索で「山形県の湧水(村山地域) 平成27年11月山形県調べ」がありました。大江町三郷に「御不動尊水」が記載され、概要「○熊野神社のある小高い丘の麓に大きな池があり、池の端に不動尊が祀られている。その不動尊の足下にこの水は湧いている。 ○水道が敷かれる前は、地元の人々の水道として使用されていたが、現在は雑用水として供給している。」があり、「地区民による年数回の清掃活動。年1回熊野神社の祭典と合せて御不動尊の祭典も実施」と記されていました。

 左上: 不動尊にある堂宇                         右上: 不動尊の祀られる滝と施設
 左下: 堂宇内の穴あき石など                          右下: 堂宇内の石など


安養院に立寄ってから、県道143号で熊野神社の南に当たる急カーブの所からカラス丸山の北側を通る道に行ってみました。
 道の両側でゆるやかな斜面は切り開かれて、畑や果樹園として利用されているようでした。
 木立の残っているところがありますが、傾斜の急な斜面や谷状の地形の所ではないでしょうか。
 県道143号に戻り、路肩に車を駐めて、南の熊野神社の方角から西側の方画を見てみました。
 熊野神社の木立と不動尊付近と思われる木立が見えます。
 西側には果樹の植えられた斜面が見え、奥の方に見えるのはビニールに覆われた畝の列のようですので畑地でしょうか。
 杉木立の列は谷状の地形に沿っているのではないでしょうか。
 これらを写真に収めました。

 左上: 右の杉木立ー熊野神社、左の杉木立ー不動尊周辺      右上: 右の杉木立ー不動尊周辺、左にビニール畝の畑地
 左下: 中央右上方にビニール畝列の畑地                  右下: 中央部を横切る杉木立の列


《再訪の整理》
*祭礼日に訪問できたおかげで、お話しをお聞きできましたし、不動尊の堂宇に納められていた穴あき石も拝見できました。
 穴あき石とコシオウ神を結び付けるような物は見当たりませんでした。
 コシオウ信仰には、耳の聞こえの霊験の信仰が見受けられます。耳の聞こえの回復を祈願する対象としてのコシオウ神の存在がいろいろなところにあります。
 穴あき石は、祈願と成就のおりに用いられる物ではあっても、『地名を探る』の記す「腰王の本尊といわれる」物ではないと考えます。
 また「最上川を下ってきた腰王信仰の痕跡」の記述がありますが、コシオウ神の「進入経路」等を記す方々がおられますが、コシオウの本源地を措定した仮説であれば、問題があるのではないかと思います。
 この地の腰王堂は、所部の腰王神社、朝日町中沢の腰王社、山辺町北山の腰王神社、等との関連を考慮しないわけにはいかないものと思いますが、先入観なしで考慮するほうがよいと思います。

*以前の記事では、字地名としての腰王堂と堂宇としての腰王堂と不動尊と土壇の跡が混乱していました。
 腰王堂という字地名があるのですから、腰王堂の堂宇があっただろうと推定し、土壇の跡を腰王堂の堂宇の跡と思ったことで混乱したと思います。
 『大江町史 地誌編』と『地名を探る』には、腰王堂の堂宇とは記されていませんでした。
 『大江町史 地誌編』の「この不動尊は、以前はカラス丸山の中腹、腰王堂に祀られていたもので、今でもその跡には土盛りが残っている」と『地名を探る』の「カラス丸山の中腹に、『腰王堂』がある。今は字名となり、土壇の跡が残っている」を、どのように読み取るのが正解なのでしょう。
 字腰王堂には、かつて不動尊が祀られており、その不動尊のための土壇・土盛りの跡がある、ということを述べているだけでしょうか。
 「カラス丸山の中腹に、『腰王堂』がある。今は字名となり、土壇の跡が残っている」とありましたので、この腰王堂を堂宇とし、その腰王堂の土壇の跡、と受取ったのですが。

*腰王堂という字地名が残っていたのですから、何時のことか分かりませんが、かつて腰王の堂宇があった時代があるのでしょう。
 現在の深沢不動尊の堂宇内の穴あき石の数が10個程であったことからすると、耳の病に御利益のあるとする腰王の信仰は長くは続かなかったのかもしれません。10個程の穴あき石がすべてだったとは限りませんが。
 腰王信仰は、大江町所部〈ナビで10q弱の道程〉があり、朝日町中沢があり、山辺町北山湯舟〈ナビで19q程〉がありますので、かつてこの地にも勧請され祀られたが、信仰としては忘れられたのかもしれません。
 信仰の奉納物や関連の遺物を、かつては字腰王堂の地域内〈より山の奥まった場所〉に祀られてあった不動尊の堂宇に納めて祀ったのでしょうか。
 腰王堂の堂宇が、不動尊の堂宇に変わったのでしょうか。
 経緯は既に歴史のなかに埋もれてしまっているのでしょう。

*今回の訪問で、カラス丸山の北側の、熊野神社の南西側の字腰王堂にあたる範囲を含めた、山の様子を見る事ができました。
 山のゆるやかな斜面は切り開かれて、山林ではなく果樹や畑のゆるやかな野原のようでした。
 樹木の残っているところは、傾斜のきつい所や谷の地形になっている所や神社等の周辺のようでした。
 『大江町史 地誌編』に「仏の山を切り開くとき、七かしらのシシが先導役を勤めたという伝承があり、獅子舞が深沢にあるのはそれに因むもの」との記述がありますが、伝承になっている山の切り開きが現在のゆるやかな野原のような土地につながっているのでしょうか。
 深沢の七頭の獅子舞と山の切り開きが結び付けられておりますので、獅子舞の歴史が分かれば山の切り開きの始まりの時期の想定ができるかもしれません。
 切り開く山は「仏の山」で信仰に関する山であったのでしょうから、そこに不動尊や腰王堂があったとしてもおかしくはないし、あるいは腰王を勧請し御堂を建てる場所として選ばれたとしてもおかしくはないと思えます。
 深沢不動尊が、字腰王堂から現在地に移ったのは、字腰王堂のあたりが切り開かれ土地が生産に利用されるようになったが為に移されたのでしょうか。
 字腰王堂にあった時の不動尊も現在のように滝に祀られていたとすれば、山地の開発で湧水が少なくなった為に現在地に移ったのかもしれないとも思います。
 そうであれば、かつての不動尊のあった場所は、谷状の地形で、上の写真の杉木立の列のあるあたりかもしれないと思ったりします。
 杉木立が列になっているように見える場所には行っておりませんので、谷状の地形なのかどうか確認していません。
 地図の等高線の様子や『カシミール3Dのスーパー地形』によって、杉木立の列のあたりが谷状の地形に当たるのではないかと想定いたしました。

 川崎浩良が「三郷滝の沢に…腰王堂あり」と記していますが、『大江町字寄図』に「滝の沢」が見えませんし、『山形県地名録』にもありません。「滝の沢」に腰王堂の堂宇があれば腰王堂の字地名が余計物になるようで、「滝の沢」は何かの誤りかもしれないと思います。
 現在の深沢不動尊の場所を「滝の沢」と呼ぶのでしょうか。
 「滝の沢」地名があったのかなかったのか、分かりませんが、もし深沢不動尊がかつてカラス丸山北側の中腹の谷地形の場所にあったのならば、そこは「滝の沢」と呼ばれてもおかしくはないと思いますし、逆に「滝の沢」にあったとすれば谷地形の所にあったと考えてよいと思います。

 素人の調査の至らなさで、確認してこなかったこと聞き漏らしたことが多くあります。

 現在時点で言えることは、腰王堂の字地名があったが腰王堂の堂宇は確認できず、現在は腰王神を祀る施設は見受けられないが、熊野神社の鎮座する高台の麓付近に不動尊が祀られており、境内地の堂宇に穴あき石が納められています、となると思います。

 ひとつの思いつきですが、
 かつてカラス丸山北側の中腹にある滝に不動尊が祀られていた。不動尊の堂宇はなかった。
 腰王神が勧請され腰王堂が建立された〈 腰王堂が先に祀られていたとしても差し支えない。〉
 腰王信仰と不動信仰の信者は重複するでしょうから、堂宇の腰王堂を不動信仰の際には使わないということはあり得ないでしょう。
 腰王信仰が忘れられていくと、堂宇の腰王堂は不動尊のための堂宇と化していった。
 不動尊が遷され、腰王堂であった堂宇も不動尊とともに遷されて、現在の形につながっていった、ということはないでしょうか。

左地図
: 深沢不動尊。

::このあたりの谷地にかつて不動尊があっ   たのではないか?と想像している場所。

: ビニール畝の畑地?の場所では。

★: 写真撮影場所

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