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探訪記録 山形  30 : 村山  5


佐藤リスト 位置番号 25 : 天童市原町・越王山 越王神    備考)北向き石祠
                  〈桑原リスト:天童市・越王山

《探訪の準備》
*天童の越王山については、川崎浩良『美人反別帳』には「東村山郡豊栄村に越王山があり、山上に北向きの石祠からなる越王神がある。」とあります。
 川崎『古志族の検討』には記載がありません。

 東村山郡豊栄村は、昭和30年に干布村と高擶村〈タカダマ〉が合併して発足し、昭和31年に山寺村大字荒谷を編入して、昭和37年に天童市に編入になっています。
 干布村は、明治22年に奈良沢村・原町村・下荻野戸村・上荻野戸村によって発足した村です。

 佐藤リストは、川崎の『美人反別帳』の情報を取っているようです。
 月光リストは、所在地情報の調査項目が少なく、川崎浩良については『古志族の検討』に依っていますので「東村山郡豊栄村・越王山」の情報はありません。
 月光リストでは、丸山茂『越国と越王神社』に依るとして「東村山郡干布村」及び「同 楯山村」が載せられていますが、『越国と越王神社』(山形縣文化史 第一巻、昭22)には「東村山郡干布村」も 「楯山村」も見当たりません。
 丸山『腰王神社及び越王山の考察』(昭和10年の著作)には「越王山と名付くる山が、干布村にも楯山村にもある…」と記し「五、越王神社の分布」の中に「東村山郡干布村、楯山村(山)」と記していますので、この著作からの情報ではなかろうかと思います。
 「楯山村」については別の機会に検討することになるかと思いますので、ここでは触れません。
 それはさておき、『腰王神社及び越王山の考察』に「我が郷土ー東村山郡干布村」とありますので、地元の丸山茂の著作をもう少し見てみたいと思います。
 『腰王神社及び越王山の考察』には、所部の腰王神社についての記述はあっても、名前を記している干布村の越王山のことも神社のことも具体的な事柄は記されていません。
 丸山茂『干布村郷土誌』(東村山郡豊栄村干布地区公民館、昭33−11・1958)に「越王山」の項目があり、そこに「越王山の名の起りは、今はその社のあとかたもわからないが、その昔には越王神社が祀られていた山であったからである。」とあります。
 もう神社は無いということのようです。
 川崎に「山上に北向きの石祠からなる越王神」とありましたが、あとかたもないのであれば、どういうことなのでしょうか。

*『天童市史 上巻-原始・古代・中世編=第三章古代の出羽国と天童』(天童市史編さん委員会 昭56・1981)の「第二節-1」中の「越王山」の項目に「〈略〉越王山は越王崇拝の神山であろうとされ、これまでも種々調査されてきたが、麓には古峯原神社が祀られ、頂上には羽黒神社の祠があるだけで、越王神社はない。越王神社はいつの頃か衰頽し、山名にのみ名残をとどめることになったものであろうか。」とあり、「第六節-4」中の「越王神社」の項目には「天童の舞鶴山と原町の八幡山と奈良沢のお寺山は、むかしから出羽の三森とよばれて、その美しさがたたえられてきた。そのうち奈良沢のお寺山は、麓に長竜寺があるので俗にはお寺山とよばれてきたが、もともと正しくは越王山である。越王山の名の起りは、昔この山に越王神社が祀られていたからである。〈略〉越王神社が廃されて地名にだけ残っているものが多いが、奈良沢のもその一例であろう。」とあります。
 市史においても、神社は無いが名前が地名に残っているとされているようです。

 『山形県地名録』の「干布村」の地域項目の「原町」に「越王山」が記されており「コシヨウヤマ〈コショウヤマ?〉」の振仮名がありました。

*『干布歴史探訪』(干布地域づくり委員会・編 平16・2004)という本の中に『奈良沢の歴史探訪』(奈良沢歴史調査委員会)があって、奈良沢の史跡として38ヵ所の記事があり、そのなかに「越王山」「羽黒山神社と越王神社」「古峯神社(古峯ケ原神社)」の項目がありました。
 「越王山」の項目に「越王山(コシオウヤマ)は、天童の出羽三森の一つで、その中でもっとも東に位置する山です。南麓に長龍寺が建立されていることから、お寺山とも呼ばれています。越王山の名の由来は、現在、羽黒山神社と合祀されていますが、昔は山頂に『越王神社』が祀られてあったからだと思われます。山麓には、太平洋戦争末期に、東京陸軍第一造兵廠の工場を、ここに移すことを考えて掘った、試掘坑道跡の洞窟が数十箇所あります。〈略〉」があり、「羽黒山神社と越王神社」の項目には「両神社は、合祀(一緒に祀ること)され、越王山の頂上に鎮座しています。羽黒山神社(おはぐろ様)は、出羽三山神社の一つで五穀豊穣の神(出羽神イデハノカミ)として知られています。越王神社は、先住民族の越族が祀った古代の神と言われています。又、この神社は、場所によって腰王・古四王・高志王などとも書かれ、祭神についても諸説あり、呼び名や御利益も色々で、不明な点の多い不思議な神社です。尚、両神社の祭礼日は、毎年2月8日と5月8日になっており、横宿で維持、管理を行なっています。」とあり、「古峯神社」の項目には「この神社は、火難消除の神社として信仰され、越王山の南端に鎮座しています。通称は、こぶはら様と呼ばれています。創立年月日は不詳ですが、古峯神社(フルミネ)の信仰者の団体『古峯講中(コブハラコウチュウ)』があります。祭神は、日本武尊で、祭礼日は、毎年4月13日です。尚、写真の万年堂と御神符奉納塔は、大正5年3月13日に、講中一同で建立しました。」〈フリガナ一部省略〉とありました。
 越王神社と羽黒山神社は合祀されて、越王山山頂に社殿があるということのようです。
 また、「横宿で維持、管理」とのことですが、「横宿」とはどこのことか不明です。
 インターネットで越王山で検索すると山登りの記事が見つかりましたので、記事を見てみますと山頂に神社があります。
 こういうことですと、越王山に行って山に登り山頂の神社を訪ねても、今は羽黒山神社と合祀されて越王神社がありますが、いつこのようになり、かつてどのようになっていたのかは分かりません、としか言いようがないように思います。
 経緯が分かればよいのですが。

 なお、『平成の祭』には、天童市に羽黒山神社は見当たりません。
 『平成の祭』では、天童市に羽黒神社が三社記載されており、越王山により近い社としては大字貫津字荒沢2111−113(現住所は貫津2111−113)の羽黒神社になるかと思います。なお祭神は倉稲魂命です。


《探訪の記録》
*2018年11月11日
 天童市には何回か足を踏み入れており、天童市立図書館にも二度うかがって資料を探させていただいておりましたが、所在地情報の場所を訪ねることができないでおりました。
 越王山は標高226m程で麓との標高差は80メートル程ですが、山に登らなければなりませんので、秋遅く冬の前頃が登りやすいのではないかと思っていて、今回の天童行きでようやく訪ねることができました。
 長龍寺様をナビの目的地にさせていただいて、越王山を目指しました。
 県道111号線から長龍寺様へ続く狭い道に入り進んでいきますと、曹洞宗 天澤山 長龍寺の門が見えてきます。さらに進むと「古峯神社」の石柱の社標があり未舗装の小径がありました。
 「越王山の南端に鎮座」する古峯神社への参道の入り口かと思いますが、車は入れません。
 さらに進んで御苦楽園を過ぎても、車を停めておけるところが見当たりませんので、そのまま進んで県道279号線に出てしまいましたので、長龍寺様まで戻り、長龍寺様のお許しをいただき駐車場に車を停めさせていただくことが出来ました。
 そこから、墓地の前を歩き果樹園の中を歩いて行くと、山裾に看板が見えましたので行ってみますと奈良沢地域づくり委員会による越王山の案内板でした。
 案内板の所が越王山の南からの登山口でした。
 登山口からすぐにジグザグののぼり道で、山に登る習慣の無い身には急登がしばらく続いて、少し開けてブロック塀で囲まれた建造物が見えました。
 古峯神社の石祠と御神符奉納塔があり、それを囲っているブロック塀でした。
 『奈良沢の歴史探訪』の「古峯神社」の記載によって、「万年堂」というのはこの探訪記録の記事で石祠とか石宮と記してきたものがそれにあたるようです。石造の御堂で腐朽しないので万年堂なのでしょうか。
 地図上では、長龍寺の建物からいくらも離れていない場所にあるように見えるのが信じられないほど山道を登った場所にあるという印象でした。
 お詣りをして、先に進むと、鳥居の跡があり、鳥居の石材が脇に積まれていました。
 その先は、南から北にむかう一本の尾根道になり、進むにつれて何回もキジが前を走り驚かされ、キジの多さにも驚きました。
 山頂付近の少し開けた場所の奥に、小さな神社が見えました。
 神社は在りましたが、赤い金属板葺きの屋根の下の部分がブルーシートで巻かれていました。冬囲いがされたようです。時期を選んだつもりだったのですが、少し来るのが遅かったようです。
 屋根の様子などから、「奈良沢の歴史探訪」の「羽黒山神社と越王神社」の記事に載せられていた写真の神社に間違いないようです。
 ブルーシートで見えませんが、神社建物の正面は南を向いているようです。
 神社の脇に、越王山三角点がありました。
 山を下りると、お寺の駐車場に数台の車が駐車しておりました。お寺にお客様のようですので、庫裏にお礼の声がけをしないまま戻ってしまいました。

左上: 長龍寺                                  右上: 山裾の看板(内)
左下: 越王山案内板                              右下: のぼり道
左上: 古峯神社(万年堂の奥は御神符奉納塔)              右上: 鳥居跡と石材
左中: 尾根道                                   右中: 山頂の小祠(正面)
左下: 小祠                                    右下: 三角点


《探訪の整理》
*越王山に登ってみましたが、残念ながら、山頂部分に建物があることを確認するにとどまりました。
 登山口の案内板は「越王山(こしおうやま)」と表題され「この山は、天童の出羽三森(舞鶴山・八幡山・越王山)の一つで、その中でもっとも東に位置する山です。南の麓に長龍寺(曹洞宗)があることから『お寺山』とも呼ばれています。〈改行〉山頂(標高225.8m)に、名称の由来と思われる越王神社(先住民族の越族が祀った古代の神といわれています)と、五穀豊穣の神といわれる羽黒神社が一緒に祀られ鎮座しています。しかし、いつ創建されたかについては不明です。〈改行〉また、南端にある古峯神社は火災を防ぐ神として大正5年に建てられました。〈略〉〈ふりがなを省略〉」と記され「平成29年12月 奈良沢地域づくり委員会」とあります。
 案内板の内容は、『奈良沢の歴史探訪』の「越王山」「羽黒山神社と越王神社」「古峯神社」の項目の内容をまとめたもののようです。
 案内板では、羽黒神社とありました。。
 かつてあった鳥居には「羽黒山」という社額があげられていたことが、インターネットの越王山の検索から知れました。
 頂上の羽黒神社の存在は『山形市史・上巻』にも示されておりますが、合祀されている越王神社については記されていません。
 合祀の経緯などは、どうなのでしょうか。
 越王山の山頂部に神社があり、登山口の案内版のような説明がされておりますので、現在は羽黒神社と越王神社の合祀された祠が越王山山頂部に存在しているということになります。

*川崎が「越王山があり、山上に北向きの石祠からなる越王神がある。」と記していること、丸山が「今はその社のあとかたもわからないが、その昔には越王神社が祀られていた山」と記していることの不思議が解明できません。
 丸山は、干布村を我が郷土と言い、川崎は天童町の出身ということですのに。
 『天童市史・上巻』の「越王神社が廃されて地名にだけ残っているものが多いが、奈良沢のもその一例であろう」の記述。
 また、川崎利夫『天童の歴史散歩ー史跡と文化財を訪ねて−』(昭59・1984)の「一、山ぎわの道を歩く」中の「越王山」に「御苦楽園の北にそびえる山で、もとは山頂に越王神がまつられていたらしい。〈略〉」とあり、この記事によってもこの頃に越王神が祀られてはいないようです。
 越王山という名称の山がありますが、コシオウが祀られていたかどうかは不明であり、越王山の名称がコシオウ神に由来するものかどうかも不明とするしかないのではないかと思います。 

 これ以上の文献史料を見つけ出していませんので、かつてどのようになっていたのか、疑問のままです。

 現在の山頂に越王神社が祀られている経緯も不明ですが、今は無いがかつてはあったであろうといわれる越王神社を、そのままにしておかずに、祀った方々がいらっしゃるということは、まことにまれなことと思います。

*国土地理院の旧版地図の謄本で「天童温泉」(二万五千分の一、昭和6年測量、昭和23年印刷・発行)の地図を見ると、越王山の山頂(226.2)より北東に水平距離で70〜80メートルの標高200メートル程の所に鳥居の記号がしるされており、奈良沢から通ずる道があるように見えます。
 2009年頃のパソコンの有料地図には、奈良沢の干布郵便局の西側150メートル程の標高160メートル程の場所に古峯神社としるされています。2015年の表示のある同有料地図には建物はありますが名前は記されていません。
 この山頂付近の神社と麓付近の神社は関係があるのかどうか分かりません。

 この山頂付近の神社と川崎の言う「越王山があり、山上に北向きの石祠からなる越王神」が関係があるのかどうかも分かりません。


*これまでの記事に以下を追記いたします。

《再訪の記録》
*2019年5月3日
 越王山に再度登って神社の様子を見てみたいとの思いから、やってきました。
 今回も天澤山長龍寺(曹洞宗)様の駐車場に車を置かせていただきました。
 お寺に挨拶に伺いますと、御住職様にお目にかかれましたので、昨年の越王山訪問の顛末と今回の訪問に期していることなどをお話しさせていただきました。
 御住職様から、お祭りが5月8日(現在は第2日曜日に実施)なので、もうじき山道の整備がされるのではないかとお聞きしました。
 山道の整備前ということで、ひょっとすると、まだ雪囲いが外れていないかもしれないと心配になり、神社を維持管理している「横宿」とはどこなのですかと伺いますと、お寺の前の通りの事とのことでした。

*「横宿」がどこなのかおよその場所が分かりました。明確な範囲は分かりませんが、県道111号と県道279号の間の御苦楽園の前を通っている東西の道路の両側の事のようですので、奈良沢〈ナラザワ〉地域に属するのでしょうか。
 地元の方にとっては、説明を要しないことなのでしょうが、書き残されていないことは遠方の者には調べようがなく、出かけて聞くことの大事さを思いました。

*越王山に登って雪囲いの神社を再度見る事になっては何の為に来たのかわかりませんので、横宿の方に神社の雪囲いのことを聞いてから山に登ろうと思い、横宿の通りまで出て、古峯神社〈フルミネ〉の標柱付近の車のある家に2軒行ってみましたが留守でした。
 3軒目にお尋ねした家はご主人様がご在宅でした。
 お尋ねいたした趣旨をお話しさせていただき、私のホームページのタイトル・URL等の入っている名刺を出させていただきますと、ご主人様より天童郷土研究会や奈良沢地域づくり委員会や役職名の記された名刺を頂戴いたしました。ご主人様をK氏とさせていただきます。
 山頂の神社に行くこと関しては、雪囲いは外してあること、鳥居は危険になったので解体したこと、山道が荒れてるかもしれないが行くことに問題はないこと、また登り口の「越王山〈コシオウヤマ〉」の案内板はご主人様の手になるものとのことなど、いろいろお教えいただきました。
 案内板がご主人様の手になるのであれば、『奈良沢の歴史探訪』もご主人様によるものでしょう。 
 幸運にも、一番いい方を尋ね当てました。
 雪囲いの外れた社殿を是非見たいと申しますと、社殿には羽黒神社と越王神社の合祀の神札があるだけで特段のものはないようにおっしゃられました。
 せっかく郷土史に詳しい方に出会えましたので、古い地図に越王山山頂付近に鳥居記号があった事について、神社がかつてあったのかどうか、神社の跡を探すことについて、お聞きいたしました。
 神社は無いし、痕跡を探すのは無駄とのことで、なにかの誤りではないかとのことでした。
 干布郵便局〈県道279号沿〉の所から、越王山に入った所の古峯神社は麓の方にありますがかつては山上にあったというようなことはありますか、ともお聞きいたしましたが、そこに元からあるとのことでした。
 そして、長龍寺様のすぐ近くのように地図に記されている古峯神社は地図の場所とは違っているとのことで、確かにそうだという実感があり納得できました。
 また、川崎浩良は山上に石祠があると記し丸山茂はあとかたもないとするのはどういうことなのでしょうかと疑問を述べましたところ、ひとつの話を教えていただきました。
 話は、概ね「かつて越王山の山上に小石祠があったのだが、或る者がその石祠を自分の家に持ち帰った。不要になって石祠をお不動様に持っていった。奈良沢不動尊の稲荷社にあるのがその石祠とのこと」という内容で、そういう話も伝えられているが、根拠もなにもない話ということでした。

*山裾の案内板の所から、再び越王山に登りました。
 先ず古峯神社をお詣りし、越王山のどのあたりに位置しているのか見渡しますと、急斜面の下に長龍寺を見下ろす事が出来ました。
 解体されて石材が横に積まれている鳥居の脇を通り尾根道を進みます。
 山頂部に着いてブルーシートの外された祠をお詣りしました。
 注連縄〈右縄のようです〉があり、鈴と緒があり、床には大正六年と記されたロウソク立てがありその後に「羽黒山」と刻まれた石の社額が置かれています。
 奥の壁に平成十五年の紫の奉納幕があげられています。その背後にも幕があるようです。
 奥の壁の中央上部で、壁に開口して、開口部の奥に棚を設けてあり、その棚に神札が納められているようです。
 この神札が羽黒神社と越王神社の合祀を示す神札なのでしょう。
 穴あき石等は見当たりませんでした。

 念のため、神社の背後に続く道を進んでみて、昭和6年測量の地図の鳥居記号のあたりを見てみようと思いましたが、登山道を離れると当たり前ですが道はなくけっこう急斜面もあり、断念しました。

 左: 山頂ー三角点〈右の〉と祠                      右: 祠の正面〈露出補正〉


*予定にはなかった奈良沢不動尊を訪ねることにしました。 
 道を誤って、じゃがらもがら森林ふれあい広場に行ってしまったり、ようやくたどり着きました。
 奥深い窪地のような印象の場所に下りていき車を駐めるました。
 石段を登ると屋根が掛けられた参拝施設があり、背後の滝の脇に不動尊が祀られていました。
 石段を登った右手の小祠が稲荷社で、祠の中を拝見させていただくと、ロウソク立ての後に賽銭箱があり、その奥には左に瀧見稲荷大明神と流麗な文字で黒光りする石に刻まれた碑と右側に素朴な石の小祠がありました。
 四角い石の中央部を四角く彫り込んだ、石の升のような本体部分に、屋根として幾分か前側の厚みを薄くした石板がのっている石祠です。
 彫り込み部分には何もなく空ですが、御札や御本尊を祀るためのものなのでしょう。
 この石祠が、話にあった石祠かと思うと、稲荷祠の中に祀られていることなども、なにやらいわくありげに見えます。
 しかし、稲荷の祠の中に祀られているのですから、稲荷社なのだろうとも思います。
 石祠の横の床に、何やら穴の開いた丸い物体が数個ありましたので、もしかすると穴あき石かと思いましたが、よく見るとクルミのような木の実に穴が開いた物のようですが、近くで見ることも手に取ることも出来かねますので、確認できていません。
 これは動物等の仕業なのでしょうか。もし人為的なものであれば、どのような意図によるのでしょう。

 左: 奈良沢不動尊 石段上の参拝施設の右に稲荷祠        右: 稲荷祠〈露出補正〉


*奈良沢不動尊から干布郵便局に向いました。
 干布郵便局と隣の家屋の間が道のようになっていて、舗装された道状の場所の先は越王山まで農道が続いていて、山裾に鳥居がたっていました。
 農作業中の中年の男性にお話しを伺うことが出来ました。
 それによると、神社は山に入ってかなり奥にあって、道も無い。鳥居は県道の端にあったが、じゃまになるので山裾に移したもので、〈神社には〉こちらから行くのではなく、〈南の方を指さして〉そっちから行くとのことで、そっちで聞いた方がいいとのことでした。
 その方は、神社に行ったことがないとおっしゃっていました。 
 神社について詳しくはないようで、お話しの内容も曖昧と思ったのですが、行けないというところをあえて神社に向うのもどうかと思い、車に戻りそのまま立ち去りました。

《再訪の整理》
*今回の訪問では、いろいろなお話しをお聞きすることができ、やはりその場所に行ってその土地の方々にお話を聞かせていただくことが一番の調査方法とあらためて思いました。
 越王山の頂の羽黒神社と越王神社の合祀された祠を実際に見る事ができ、越王神社として祀られていることと祀っている方々の存在を、現在の事実として確認させていただきました。
 越王山は、かつて越王神社が祀られていたことを想起させる地名であり、越王神社の存在が分からなくなった時代を経て、現在に至っているということと思います。
 現在の時点で越王神社として祀られているということは、越王神社が存在しているということになります。
 このことを尊重し敬意を払いたいと思います。

*『天童市史 上巻』に「種々調査されてきたが…越王神社はない」とあるのですから、一個人がちょっと訪ねて来て、かつて越王神社があった痕跡につながる何かを目にすることができるはずが無いのですが、気になることは調べておきたいと思うのです。また、自分の目で見ておきたいという思いもあります。

 実際のところは、干布郵便局の西にあたる越王山の東側山中にある神社に行かなかったこととか、気になることで調べていないことも多く、不十分で行き届いていない状態です。

 昭和23年印刷発行の図名「天童温泉」の地図にある越王山の標高200メートル付近に記された鳥居記号が、越王神社とは関係ないのでしょうが、気になっています。
 この地図には「昭和六年測図〈旧字〉同二十三年資料修正(鉄道)」とあり「著作権所有印刷兼発行者 地理調査所」とあります。
 この「天童温泉」の地図には、八幡山には南東部の山裾の1ヵ所に鳥居記号があり、舞鶴山には愛宕神社と建勲神社の神社名が記された2社と愛宕神社の南方に1ヵ所と建勲神社の北方に2ヵ所の計3ヵ所の鳥居記号があります。
 鳥居記号の場所には現在、原町の八幡神社、天童神社、小路喜太郎稲荷神社と護国神社が、ちゃんとあります。
 この地図の天童の出羽三森〈ミツモリ〉にある鳥居記号には、記号の2本の柱の間の下〈南〉の位置に点状の記入があります。この点状の記入は神社の位置を表しているものと思いますし、統一された様式に則った記入であることがうかがわれます。
 図名「楯岡」の五万分一地形図は「明治三十四年測図昭和六年修正測図」で内務省地理調査所名で昭和二十二年印刷発行のものですが、この地図にも越王山の山頂の北東の標高200メートル付近に鳥居記号があります。
 そして、八幡山に1ヵ所の鳥居記号、舞鶴山には愛宕神社の神社名の記入と鳥居記号が4ヵ所あります。建勲神社が神社名ではなく、鳥居記号で記されています。
 国家事業の測図による地形図と思いますし、そこに記された鳥居記号の位置と思います。
 ですが、国土地理院の昭和47年2月発行の図名「天童」の二万五千分の1地図を見ると、「昭和6年測量」「昭和45年改測  1.使用した空中写真は昭和44年10月撮影 2.現地調査は昭和45年7月実施 3.境界は昭和45年7月現在」とあり、越王山の標高が225.8になっていて鳥居記号はなく「長竜寺〈ママ〉」と縦書きで記入されています。
 八幡山は標高212になっていますが鳥居記号は同じに見えます。
 舞鶴山は標高に変化はなく241.8で、愛宕神社の文字は左からの横書きに変わり、鳥居記号は愛宕神社の南に1ヵ所と縦書きで舞鶴宮と記された北側に2ヵ所あります。鳥居記号の場所は変わりが無いように見えますが、舞鶴宮と記された場所は図名「天童温泉」の地図に建勲神社と記されていた場所のようです。

 国土地理院の地図であっても、完全無欠ではないようです。
 越王山の鳥居記号の所には、神社は現在はないようですし、昭和47年発行の地図では消えています。
 これはどういうことなのでしょうか。どう考えたらいいのでしょう。 

 この地区の神社明細帳は閲覧する事は出来ないのでしょうか。残っていないのでしょうか。
 明治初期の神社についてわかれば、越王山の鳥居記号のことも何か分かるかもしれません。

*疑問がつきないので、今回の訪問でお話しを聞かせていただいたK氏に、あらためて教えを請いました。
・横宿に関しては、徳正寺や干布郵便局のある県道279号は奈良沢地区の中心的な街路になると思いますが、この地区のことを立宿〈タテジュク〉と言い、その街路の徳正寺前の交差点から横に入った奈良沢の地区を横宿と言うそうです。
 立宿と表記しましたが、文字として伝わっているものではないとのことです。
 立宿は上・中・下とあって、現町内会で言えば奈良沢第一町内会・第二町内会・第三町内会となり、横宿は奈良沢第四町内会のことだそうです。
・干布郵便局の西にあたる越王山の東側の山中にある神社は、古峯神社〈フルミネ〉で、◯◯家(江戸時代の名主家.。.名を伏せました〉の方によってに大正時代に建立された神社で、個人が祀る神社とのことです。
 神社ヘの道があり、荒れてはいても、行けるそうです。石垣もあるそうです。
・越王神社については、『天童市史編集資料第18号 干布地区資料1 佐藤兵蔵家文書 』(天童市史編さん委員会 昭55・1980)を教えていただきました。
 そこに「堂社書上帳(寛保二年二月〈1742〉)」があり「一 八幡宮 五尺四方  原町村 守 与平次 /  一 稲荷堂 三尺四方 同村 守 兵右衛門 /  一 越王堂跡 守なし /  〆三社  /  右之通堂社相改書上申所相違無御座候。 以上  /  寛保二年戌二月 /   山口組原町村 /  組頭善助 / 同 瀬平 / 庄屋兵蔵 /  (伊藤儀左衛門文書)」という記載がありました〈 原文縦書 / は改行〉。
 
 市史資料の記載のように文字を配置して縦書きにすると右のようになります。

 越王堂は跡になっていて守る者も無いということのようです。
 〆三社とありますので、越王堂の跡が更地で堂跡をうかがわせるなにものも無いということではなく、三社と記述する歴然とした堂跡があるのではないでしょうか。
 越王堂を守る者がいなくなったことで堂跡になったのかもしれませんが、神様をほったらかしにするのではなく堂跡に小石祠を置いたのかもしれません。
 奈良沢不動尊の小石祠の話もありますし。

・現在の山頂部の神社にある「羽黒山」の社額は、解体した鳥居の前の鳥居にあげられていたものだそうです。
・神社の祭礼にあげる旗が四旗あるそうです。
 一旗は「奉納 羽黒山大権現 昭和六年旧四月八日 講中一同」とあり、一旗は「奉納 腰王大権現 昭和六年旧四月八日 講中一同」とあるそうです。
 旗を管理している家があり、その家が火災にあったことで、昭和六年に旗を作りなおしたものということです。
 少なくとも昭和六年には、地元の奈良沢の方により腰王大権現として表記され祀られていることが分かりました。
 これなどは『天童市史 上巻』等には、反映されていない事実ということになるでしょう。 
 現在は、越王山の南の登り口の案内板にあるように越王神社と表記しているようです。

 ああでもないこうでもないと右往左往いたしましたが、かつて越王堂が存在したのは間違いなく、寛保年代には堂跡になっていたのも間違いないようです。
 寛保年代には越王と表記されていて、越王山の地名も存在した越王堂に由来するということで間違いないようです。
 越王堂が何を祀りいかなる信仰であったかは不明です。
 K氏に伺うと、穴あき石の奉納及びその痕跡は見受けられないとのことです。

 なお、公開済みの記事の最初の方で「天童の越王山は、地図で見ると山頂は天童市原町に属するようです。」と記しましたが、検索サイトの大手会社が提供するマップで地区名〈奈良沢・原町・干布など〉で検索すると、私の参照した有料地図とは異なる領域を表示します。念のため、この事を記し、この一文を削除しました。また、フリガナの追加など一部修正をいたしました。
 佐藤リストでは、天童市原町とありましたが、K氏によれば山頂部の羽黒神社・越王神社は、神社の維持管理を奈良沢の横宿が行なっており、奈良沢に属するとのことです。

 追記の記事については、K氏のご教示によって成り立っておりますが、文責は私にあります。
 K氏には、天童市高擶の越王の石祠、山辺町北山の腰王神社、河北町谷地の夜泣き地蔵、などについてのご教示もいただきました。 

《追記:2020−5−17》
*鳥居再建情報
 探訪記事中に、山腹の古峯神社からすこし登ったところに、石鳥居の跡がある旨を記しておりました。
 石鳥居は100年程前に建てられたものですが、2011年の東日本大震災でヒビがはいったため危険性から解体せざるをえなかったとのことです。
 越王山の山頂に鎮座する羽黒神社・越王神社の合祀社は、奈良沢第四町内会(横宿)のおよそ45世帯が維持管理してお祀りしておられるとのことです。例祭は5月の第2日曜日です。
 町内会が住民に呼びかけ資金を捻出し、住民が協力して工事に取り組み、鳥居を再建し、令和2年4月26日に竣工式を迎えたとのことです。
 新しい鳥居は、山腹から山道入口に場所を移して建てられ、樹脂製で高さは約2.5メートルで、鳥居の神額には羽黒神社と越王神社がしるされているとのことです。

 今春は県をまたいだ移動がはばかられ、山裾に建てられた新しい鳥居を目にしてはおりませんが、再建に関する情報をいただきましたので、追記させていただきました。

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