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探訪記録 山形  31 : 村山  6


佐藤リスト 位置番号 26 : 天童市高擶 古志王神      備考)高擶から渋江の立谷川川畔の路傍
                  〈桑原リスト:天童市高擶・古志王社

《探訪の準備》
*川崎浩良『美人反別帳』に「豊栄村高擶より渋江に通ずる路傍の立谷川々畔に古志王神を祀る小祠がある。」〈「高櫛」と印刷されています〉とあります。
 続いて「更に北に進んで、北村山郡東根町野川中向に古志王壇の地名があり、〈略〉今では同境内に北向きに立っていた板碑を古志王神として路傍に立ててある。」とあります。
 『古志族の検討』にも記載があります。

 佐藤リストは、これを受けたものでしょう。
 この情報は、月光リストにあります。
 丸山茂の著作には、いまのところ見ていません。

 川崎が、東根市野川の古志王神の場合ほどではないにしても、小祠の場所の説明を記していますので、これは自ら確認している情報ではないかと思いますので、立谷川々畔に古志王神を祀る小祠があるものと思います。
 その小祠を探すために、場所を絞り込んでいこうと地図のほうから探してみると、思ったようにはいきません。
 川崎の言う「高擶」とは、高擶城趾のある天童市高擶地区のことかと思うのですが、高擶駅周辺や国道13号の天童大橋近くの高擶立谷川原あたりまで「高擶」である可能性があるのかも知れません。
 また「渋江」ですが、東北中央自動車道の東西にまたがっています。
 「高擶より渋江に通ずる」道で「立谷川々畔」を通る道は、どれなのでしょう。
 高擶から渋江を結ぶのですから立谷川を渡ることになるのでしょうが、これに違いないと思える道が見当たりません。
 立谷川タチヤガワの川畔は右岸のことであろうと思うのですが、左岸なのでしょうか。
 先ずは、立谷川右岸を立谷川橋辺りから灰塚橋辺りまで探すことからでしょう。
 右岸には、サイクリングロードがあるようで、川崎の時代からは変っているのでしょうから、はたしていまも小祠はあるのでしょうか。

 文献資料のほうから探してみようと、地元の天童市立図書館で探してみました。
 図書館職員の方々のお力をお借りして資料を探しましたが、立谷川々畔の古志王の小祠についての記載を見出せていません。
 天童市に来ていても、図書館調査に時間が掛って、立谷川右岸付近を探すことも出来ませんでしたし、越王山にも行けませんでした。
 天童には、この時以前にも何度か立寄ったり、図書館に寄ったりしているのですが、探す時間が取れないでいます。

 高擶とあるので、古志王神の小祠の所在地は天童市と思い込んでいましたが、これほど資料が見当たらないのは、高擶の対岸の立谷川左岸は山形市ですし、渋江も山形市ですので、山形市のほうに資料があるか探す必要があるのかも知れません。

《探訪の記録》
*2018年11月11日
 立谷川の右岸を歩いてみようと思います。
 高擶のあたりで立谷川に掛る橋は、上流から天童大橋・天山橋・立谷川橋・高擶橋・明治橋・灰塚橋〈webサイト−山形新聞・やまがた橋物語−を参照しました。高速道・鉄道橋を除く〉があるようですが、現在の国土地理院の地図で見ると高擶の町並から出て立谷川を越える道は樋ノ口というところを通って高擶橋に通じる道しかないようです。
 他には、安楽寺の西側で西町のあたりから出て南西に伸びる灰塚方面に向う道があります。この道は、山形県総合交通安全センターの方へ向う道と県道20号で明治橋に向う道が分かれています。
 安楽寺の東側から南南西に向う道がありますが、その先に山形県総合交通安全センターがあり、途切れています。
 もしかすると、明治橋や山形県総合交通安全センターが出来る前は、渋江に向う古い道があったのかもしれません。
 高擶橋は高擶と山形市漆山地区を結んでおり渋江に向う橋ではないように思いますが、他に渋江に向うそれらしい橋もありませんので、高擶から渋江に向う道で、いまもっとも可能性のあるのは高擶橋の道になると思いますので、立谷川橋から灰塚橋の間を歩いてみるにしても、先ずは高擶橋周辺を探してみようと思います。
 高擶橋は、下流側で架け替え工事が行なわれていて、東日本大震災を受けて、通行止めになっているそうです。

*先ず高擶の町のほうに行ってみようとして、公民館にいったん車を停め地図を確かめて、そこから高擶郵便局の所で左折して、その道を立谷川方面に向いました。
 立谷川に近づくと、道路の工事が行なわれていて、道が入り組んでおり、車で高擶橋に近づける状況ではないようなので、引き返して立谷川橋に行ってみることにしました。
 立谷川橋の架かる道は旧国道13号線で、もともとは羽州街道に由来する主要道とのことですが、新しい道路が出来ていき、現在は主要地方道山形天童線・県道22号とのことです。
 立谷川の右岸の橋詰めから右岸側の道路に進む道がありましたので、そこに車を進め、広くなっている場所の端に停めました。
 立谷川沿いを歩く前に、近くの熊野神社に行ってみました。もしかすると、古志王神の小祠が移されているかも知れませんし、何かヒントがあるかも知れないと思ったのですが、それらしいものはないようでした。
 右岸を下流に向って歩き始めました。
 土堤の上の道と川沿いの道の平行する上下二本の道があり、高擶橋まで続いていました。
 高擶橋までの間に、散歩・ウオーキングをしている2名の方にコシオウの小祠についてお尋ねしましたがご存じではありませんでしたし、小祠らしきものも見つけていません。
 高擶橋に近づくと土手下にいくつかの家がありましたが、その辺りにも小祠のようなものは見られません。

 高擶橋は、撤去作業中で下流側に新しい橋の姿が見えました。
 先に高擶の町の方から車で来た時の道の高擶橋の手前には集落があります。
 その高擶の街から続く道は、かつての地図では集落の所から左45度程角度を変えて高擶橋につながっています。
 現在は、道路工事によって、新しい道路が集落と高擶橋の間を通り、かつての高擶橋につながる道路は新しい道路の下になり、分断されていま
す。
 新しい道路は、高擶橋の下流の新しい橋につながり、続いていくようです。
 高擶橋と集落の周辺を念入りに見て回りましたが、何も見つけられませんでした。
 もし道路工事の範囲内に小祠があったとしたら、どこかに移されたかもしれませんが、撤去されたかもしれません。
 道路・橋工事のためでしょうが、高擶橋から下流には土手道・川沿いの道が通行できませんでしたので、迂回して新しい橋の下流側に行きました。
 迂回する道は、集落の先から土手の坂を斜めに登って新しい橋から少し離れた下流側に出ます。
 そのため、高擶橋から新しい橋の少し下流までの間は歩いて見る事が出来ていません。
 迂回する道を登りきると、その先は土手道と川沿いの道〈自転車道でしょうか〉があります。
 暫く歩いて行くと〈300mまでは進まないうちに〉、土手道から土手下の畑地につながる道がありました。注意をして見てみましたが、小祠は無いようです。
 そこから先は、川沿いの道になり、土手のあたりは草が繁り木もあり、川の右岸の農地の方を見渡せなくなり、川しか見えなくなりました。
 少し歩くと、川音が大きくなり、川面にブロック〈護床用でしょうか〉が何列にも並べられ魚道が設けられている場所があらわれました。
 さらに歩き、山形県総合交通安全センターの南に当ると思われる所まで来て、川しか見えない道を歩いていて無駄なことをしていると思われて、引き返しました。

 車まで戻って、交通安全センターの南側を土手に向って行ってみようと思って、車で向いました。
 交通安全センターの南側から川の土手に向う道は農道で、軽トラックは走っていましたが、小型車とはいえ乗用車で農道に進むと困難なことになると判断し、行くのを止めました。
 高速道路に並行する県道20号から土手道に入れないか行ってみましたが、車の流れるスピードのなかで土手道に入るのは止めました。
 灰塚に行き、灰塚から高擶の町に続く道を車でゆっくり走ってみましたが、歩いて探すことはしませんでした。

 立谷川周辺の探索はここまでとしました。
 探しきれてはいないという思いもありますが、これ以上時間を費やすと他の予定に差支えますので、切り上げました。
 無駄だったなと思わずにいられませんでした。

左上: 立谷川橋(右岸側)                           右上: 熊野神社
左中: 川沿いの道、右側の高い所に土堤の道                右中: 撤去工事中の高擶橋
左下: 高擶橋詰から新しい橋をのぞむ                     右下: 立谷川中のブロック構築物



《探訪の整理》
*「立谷川川畔に古志王神を祀る小祠」については、文献資料が見出せなかったので、実際に立谷川右岸の川畔を歩いて探してみましたが、見出せませんでしたし手掛かりらしきものも見当たりませんでした。
 道路・橋の工事のために川畔の様子が変わってしまって、見つからなくなったのかも知れませんし、工事のために歩いて見る事が出来なかった場所もあります。
 川崎が小祠の存在を記してから数十年を経ています。自転車専用道路も出来ていますし、いろいろな変化があったことでしょうから、この新道工事以前に小祠は既に存在しなくなっていたのかも知れません。

*『天童市史編集資料 第2号 村差出明細帳』(天童市史編さん委員会 昭50・1975)の「宝暦十一年三月〈1761〉 高擶村(南組)明細指出帳」によれば、高擶村(南組)には「大日堂、聖徳太子堂、薬師堂、八幡堂、廟所」の記載がありますが、古志王の小祠に当るようなものは記されていませんでした。
 この資料をあらためて読みましたら「橋 三ヵ所 御座候」とありました。
 この三ヵ所の橋が立谷川に架かっていたかどうかは分かりませんが、気になります。
*国土地理院の旧版地図の謄本で「山形北部」(二万五千分の一地形図、昭和6年測量、昭和9年印刷・発行)を見てみますと、撤去中の高擶橋を通る道の以前のものと思われる高擶村から漆山に向う道と高擶村から灰塚に向う道がありますが、それ以外の立谷川を渡る道は見当たりません。
 高擶から立谷川へ向う道の基本的な部分では、昭和6年から高擶橋の架け替えまでは、あまり変っていないようです。
 「高擶より渋江に通ずる路」ですが、高擶と渋江を直接的に結ぶ道は見当たらないようです。

 「渋江に通ずる」というのは正しいのか、疑問を感じてしまいます。

*立谷川の魚道とブロック護床のあった対岸の東よりの場所付近の漆山地内〈山形市〉に、清壽稲荷神社があるとのことです。
 ここに関連がある可能性はあるのでしょうか。

*残念ながら、私には探せませんでした。
 今のところ不明です。

 《  追記 》
*2019年5月3日
 高擶を訪ねました。
 旧高擶橋はすっかり無くなり、新しい橋の通行が開始されていました。
 新しい橋の近くの昨年の訪問では見れなかった部分を眺めることが出来ましたが、小祠のようなものはありません。
 旧高擶橋周辺の、高擶中心部からの道沿いの民家と土手沿いの民家の何軒かの方と農作業中の方にお訪ねして、コシオウについてご存じかどうかお聞きしました。
 どなたもご存じではありませんでした。
 お留守でお聞きすることの出来ていない民家が何軒かあります。

 旧高擶橋のあった場所


*立谷川の向こう岸側にわたって、清壽稲荷神社を訪ねてみました。
 朱の鳥居に「正一位清寿稲荷大神」の社額があげられ、戸が閉まった社殿があり、四つの紙垂〈シデ〉のさがった注連縄と鈴緒があり「正一位清寿稲荷大神」と書かれているようです。注連縄は、中央部が太くなり藁の〆の子も五つある、三束の藁で綯った左縄と思われます。
 社殿の後方にトタンで小屋がけした所に社殿と同様の注連縄が渡され、内側に石祠と板碑があります。
 鈴にさがっている何本かの緒のところに「正一位清寿稲荷大神」と書かれているようです。
 石祠は、中央部の御札と鏡状の丸い黒くなったもの入っている縦長の枡形の石が黒っぽく、屋根石と土台石は白っぽい比較的柔らかな石材で構成されています。御札には「正一位・・・」とあるようですが読み取れません。
 板碑は、東根市野川にあった廃社になったコシオウ社にあったと言われるものと材質と形式は同じようですが、より小さいもので、石祠より小さいものでした。
 前方の社殿は、拝殿ということでしょうか。覆屋・鞘堂でしょうか。
 コシオウの小祠に関連すると分かるようなものはありませんでした。
 どこか不思議な神社でした。

 左上: 鳥居                                  右上: 鳥居の奥に社殿
 左下: 左の社殿の後方にトタンで囲われた場所             右下: トタン小屋内の石祠、板碑


*地元の方が見つけていない小祠を、見つけられるはずもないのでしょうが、なかなかあきらめきれず、高擶の地図を見ていましたら、高擶北と高擶南という住所表示があって、その北と南が地図上の上下に位置しているわけではないことが分かりました。
 江戸時代の高擶南組と北組も南北に位置しているとは限らず、高擶南組が立谷川側に位置する村とはいえないのかもしれません。
 『天童市史編集資料 第2号』で「天保九年四月〈1838〉高擶村(北組)明細差出帳」と「清池村差出明細帳」も見てみました。
 コシオウの小祠についての記載はありませんでした。


*2019年6月20日
 天童の郷土史家K氏に高擶の古四王小祠を探しあぐねている事をお話しいたしたことがあり、わざわざお電話をいただきました。
 お電話は、K氏が『干布歴史探訪』を贈呈なされたことに対する、天童市長岡在住の元山形新聞社で記者をなさっていたT氏からのお礼状の中に記されていた事で、「高擶から漆山に行く道と清池八幡神社に行く道の交差点に越王の石祠が昭和初期まであった。ということを聞いている。今はあとかたもない」という情報でした。T氏は故人とのことです。

 この表われてきた情報は、川崎氏の記した情報よりも信じるに足るのでは無いかという思いが浮かびました。
 あとかたもなくとも、石祠のあった場所を見ておきたいと思いました。

 高擶から漆山へ行く道と清池八幡神社に行く道の交差点は、現在では高擶郵便局角の県道277号との交差点から南に進む道と県道24号との十字路交差点がそれにあたると思われます。
 昭和9年11月印刷の旧版地図〈図名・山形北部、二万五千分の一、大日本帝国陸地測量部〉を見ると、高擶から南に向う道は清池八幡神社に向って東向きにカーブしています。その道から漆山方面に通じる南に向う道がT字路の形で分岐しています。その交差点には100,5という標高が記されています。
 このT字路の交差点は、現在の「高一公民館」前あたりになるのではないでしょうか。

*2020年7月25日
 高擶を訪ねることが出来ました。
 高擶郵便局から片側一車線の道路を南に進み、県道24号との交差点付近に着きました。
 車を駐車し、現在の交差点付近を見てみましたが、それらしい石祠の影もありません。道路改修で遷した石祠であれば、もしかしたら新しい交差点付近に遷されているかもしれないと思ったのですが、やはりありませんでした。
 高一公民館に西側から向かい、公民館前から南側に向う道を、車をゆっくり走らせて見てみましたが、それらしいものは無いようでした。

 清池八幡神社に行ってみました。
 道路改修で遷すことになった石祠や石碑などがあれば、清池八幡神社に集められたかもしれないと思い、行ってみました。
 神社に隣接する清池公民館の前の部分に、いくつかの石碑などが置かれていましたが、石祠はありませんでした。
 清池八幡神社の境内に、石祠や石碑をあつめたようなものは見受けられませんでしたので、ここに越王の石祠は無いと思われます。

 高擶郵便局からの道を県道24号との交差点を越えて立谷川の旧高擶橋方面に向かいました。
 旧高擶橋に至る手前の道沿いの昨年お留守だったお宅をお訪ねいたしました。
 幸いにもご在宅で、お話をうかがうことが出来ましたが、コシオウの石祠はご存じないとのことでしたし、屋敷神もコシオウではないとのことでした。

 立谷川周辺ではこれ以上探しようがない現状と思います。

 左: カシミール3D・解説本の地図(1/25000)  右: 左図に書入れー郵便局、は清池八幡神社
  赤・黄線は昭和9年地図の道路、赤部分は現在に残っている、黄はかつてのT字路の様子、赤の曲がり角北側に高一公民館


 左: 右側に県道24号との交差点、角の緑地、手前が高擶    右: 県道24号(右)と平行する道路(左)、奥が清池方面


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