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探訪記録 山形  35  : 村山 10   経過報告


佐藤リスト 位置番号 30 : 上山市中生居 小姓堂 
        位置番号 31 : 上山市上生居 腰王大権現
                  備考)自然石3個、腰王大権現、北向き石祠
佐藤地名リスト位置番号61 : 上山市上生居 腰王山

                    〈桑原リスト: 上ノ山市中生居・小姓堂  
                           : 上ノ山市上生居・腰王大権現

                 〈桑原リスト:上ノ山市(旧中川村)権現堂森合・五所神社

《探訪の準備》
 上山市の上生居生と中生居についての探訪記録をそれぞれの探訪記録とはせずに、合せてひとつの探訪記録として記載します。
 桑原リストに、上山市域に権現堂森合の五所神社の情報がありますので、あわせてここに載せておきます。

*川崎浩良『美人反別帳』に「上の山市上生居の山上に北向きの石祠あり(武田好吉氏調査)中に自然石三箇を本尊とし、神職奈良崎氏の文書に『奉勧請腰王大権現』とあって、越王は此処では前記長谷堂と同様修験の取扱いに入つて大権現となっているが、中生居にも小姓堂、中川村権現堂森合に五所神社がある。」の記述があります。
 『古志族の検討』には「上生居 腰王社」はありますが「中生居」も「中川村権現堂森合」についても記載がありません。

*市町村の変遷を見てみると、明治22年に南村山郡宮脇村・金生村・上生居村・中生居村・下生居村が合併して宮生村が発足し、昭和29年に南村山郡上山町・西郷村・本庄村・東村・中川村と合併して上山市として発足しています。

*『山形県地名録』の南村山郡宮生村の上生居〈カミナマイ〉に「腰王山」地名があり「コシヲ」と振仮名が振られています。
 宮生村の中生居〈ナカナマイ〉に小姓堂もコシオウに関する地名も見当たりません。
*『角川 日本地名大辞典 山形県』の地名編の「かみなまい 上生居〈上山市〉」の項目中に「江戸期〜明治22年の村名。…生居郷に属す。…神社は腰王神社がある。」の記載があります。
 「なかなまい 中生居〈上山市〉」の項目にはコシオウに関する記載は見当たりません。

*川崎『美人反別帳』に「武田好吉氏調査」とありましたので、武田好吉著『上山の石造文化財』(昭35・1960)を拝見させていただきましたが、ここには上生居の山上の北向石祠の記載を見出せませんでした。

*『上山市史 別巻下 民俗資料編』(上山市史編さん委員会 昭50・1975)の「第十章 宗教と生活・一 神と社と祭り」の上生居の腰王神社の記載に「腰王神社は『おこしょうさま』と通称され、腰を癒す神として信仰されている。祭神は聖徳太子で、自然石三個を御神体としており、現社殿は東北向きに建てられているが、元宮の石祠は北向きに建てられている。古文書には腰王権現とあり、その由来については『上山見聞随筆』に、〈改行〉上生居村のかしらに九条壇という塚有り、古老云う、むかし康平の頃にか九条大納言といふ人あり、いか成故なるか落ち来り、此所にて腰をやみて遂に死す。よってここに葬る時に誓って云う、末世腰を病むもの我を祈らば腰の病ひあらせじと、是によって腰王権現と崇め祭る〈改行〉と記載されている。〈略〉上山市には外にも越王神社があったと思われる(例えば金瓶地区のこしょう山など)が、まだ確証ができないので省略する。」とあります。
 『上山見聞随筆 下《資料篇第十九集》』(上山市史編さん委員会 昭52・1977)の「上生居村の九条壇」の項目に上記の文章があります。そこに「腰王権現と崇め祭る」に続いて「しかれともまた腰王権現の草創の由縁詳かにしる人なし」とあります。

*『宮生史話「いろりばた」』(宮生史話「いろりばた」編集委員会 平1・1989)に「腰王神社」の項目があり「上生居には氏神として腰王神社がある。昔、八幡太郎義家が、勅命によって阿部貞任を追って来た。その時貞任は、蔵王の中腹磐城山に籠り、術をもって紫の雲を降ろし身を護った。その時義家は、上生居で俄かに腰が痛み歩行さえ出来ず、傍にあった岩に『腰王大権現』と記し『何とぞ救え給え』と一心に祈願した。ところが忽ち快復し直ぐに出陣したと口碑に伝えられている。その後親方◯◯□□□、◇◇さんの先祖が話し合い、神殿と籠り堂を建立〈略〉。」の記載があります。
 「上生居 腰王神社」と「昭和55年当時の上生居ほうき松(昭和61年伐採)」の写真二葉があります。
 木立を背に木造藁葺きと思える社殿があります。この社殿が現社殿なのでしょう。ほうき松の所には腰王神社の一の鳥居があったようですが、松伐採後はどうなっているのでしょうか。
 源義家と阿部(安倍)氏との伝説は、鶴岡市五十川(旧・温海町)にもあり、そこでも義家側に立った伝説でした。古四王に関する伝承ならば、逆の 立場でもよくはないかと思います。探訪記録 庄内 23に五十川の記事があります。
 いろいろな伝説・伝承ができているようです。

 上生居の腰王神社の鎮座する場所はどこになるのかは分かりません。
 中生居の小姓堂等に関する記載は見出せていません。

 『山形県地名録』に中川村の権現堂に森合地名はありました。
 権現堂に五社ノ宮という五つの石祠を祭った所があります。
 川崎の五所神社という情報はこの場所のことを言っているのでしょうか。
 上生居に源義家に関する伝説がありましたが、この地にも源義家が石に腰を掛けて休んだ場所というような伝説があるようです。

 また、金瓶カナカメ地区のこしょう山については、今のところ確認できません。

《探訪の記録》その1
*2019年10月26日
 2018年10月7日に上山市立図書館を訪ねて資料を探して以来、およそ1年ぶりの上山市です。
 この時に探した資料で腰王神社の写真は見ていますが、資料に所在地の具体的な情報が無く、ネット検索でも探すことが出来ず、鎮座する場所が分かりません。
 上生居周辺のネットの有料地図を見ると、上生居の南側の山地に鳥居のマークがあり「山王大権見〈ママ〉」とありますが、腰王神社は表示されていません。
 『山形縣神社誌』に上生居の「山王大権見」に相当する神社が記載されておらず、情報がない状態です。
 『山形縣神社誌』では、上山市は山形支部に含まれており、上山市で40神社が記載されていますが、上中下の生居地区の神社は見当たりません。同書の南陽東置賜支部に上山市の一部地域の神社が含まれていますが、ここにも見当たりません。
 『平成の祭』では、上山市に44神社の記載がありますが、こちらにも見当たりません。
 生居地区に法人社はないようです。

*上生居に行き、地元の方にお尋ねするしかないと、上山市にやってきました。
 先ず、下生居の重要文化財-旧尾形家住宅を訪ねました。
 拝見させていただいて、管理者の方に上生居の腰王神社を訪ねてきたことをお話しいたし、場所をご存知かどうかお伺いいたしました。
 管理者様から、越の国と関係のある神社だそうで、昔はいろんな方が訪ねてきたが最近ではめずらしいこと、穴あき石の奉納はみられないこと、中生居に腰王神社は無いことなどを聞かせていただきました。場所については上生居の公会堂のあたりから山に登っていくとのことで、そのあたりでまた聞きなさい、とのことでした。 

*上生居構造改善センター付近に車を止めて、庭の手入れをなさっていたご婦人にお伺いいたしましたところ、この辺の人は三ヶ所の神社にお詣り行くとのことで、山にある神社が腰王神社ではないかとのことでしたので、その神社は地図では山王さんになっていますがと話しますと、通りかかった近所の方の車を止めて、その男の方に神社の事を聞いてくれました。
 私も用意してきた腰王神社の資料の写真を見てもらいますと、間違いなく山にある神社、地図で「山王大権見」とあった神社が腰王神社でした。
 車の方には、わざわざ神社の登り口の付近まで案内をしていただきました。

*里の鳥居を過ぎて民家の脇の道を行き、民家が途切れた先で道が二股になり、左の山に向う道は丈の高い草が道を覆い、一歩踏み込むと草の実が服に大量にくっつきます。
 引き返して、登り口の付近の民家のお婆さまにお伺いいたしましたところ、神社までは山道を数分登るとのことで、春のお祭りの前には消防団の方々が草刈をなさるとのことでしたので、他日を期して、今回の参拝は断念いたしました。

 この里の鳥居の側にほうき松があったのでしょうか。資料の写真を見ると鳥居の左右に写っているものが里の鳥居の左右にある石碑のようにも見えます。写真では、鳥居の先に民家は無いようです。
 大きい鳥居ではないのですが、写真のほうき松は鳥居の2倍以上の高さがありそうですが、多行松でしょうか。

 場所が分かり、参拝できる時期の目途もついたので、探訪にひとつ近づきました。

 左: 里の鳥居                                 右: 鳥居の先の道 民家を越えて左に進むと神社へ



*桑原リストに、権現堂の五所神社があります。 川崎浩良『美人反別帳』によるものでしょう。
 『山形県神社誌』には、権現堂には両所神社のみ記載があります。
 昭和18年発行の『山形県神社誌』(山形縣)の南村山郡の無格社の項目中に中川村大字に権現堂字森合に「五所神社」の記載があり、祭神「伊弉冉尊 他四柱」、由緒「安永十年勧請」とあります。

 権現堂公民館付近に車を停め、しだれ桜を見てから、県道14号を東に歩くと「恩賜郷倉」の手前に太神宮と刻まれた石柱と鳥居と石段がありました。
 この奥に五社ノ宮があるようですが、現在の地名表示には森合がないので、この場所が権現堂の森合にあたるのかどうか不明ですし、「五社」であって「五所」ではありませんので、この場所の他にもしかしたら五所神社があるのかもしれませんが、記事にしておきます。
 石段を登った上には空地があり、正面の奥に看板が立っていて燈籠があり石宮や石碑がありますが、太神宮らしき社殿はありません。
 看板には、先ず「五社ノ宮」とあって、続く説明文をそのまま載せますと「昔源義家が東征の時附近にあった石に腰をかけ当地の光景を眺め乍ら休憩した場所との伝説あり其の後延宝四年(一六七七)今から三一○年前上山城主土岐山城守が鬼門除けとして五社の万年堂を創立す」とあり、続いて五社の神社名と説明が記されていますが、読み取ることが出来ない部分があります。
 読んでみますが誤っているかもしれませんので、お含みください。
 「秋葉神社伊弉諾命 国土を立派に治めて下さる神/白峯神社受母智命 健康な子供を生ませて下さる神/祇園神社大名物命 米麦豆等の五穀を□す農業の神/熊野神社水波能当ス 旱魃の時水を配給して下さる神/稲荷神社少名彦名命 商売繁盛を守って下さる神〈/改行 □不明〉」 
 この看板の後方に三段の石段で高くなった壇があり、その後方にもう一段高くしたところに五つの石宮が横に並んで祀られています。

 延宝四年に鬼門除けに五社の万年堂を創立したようですが、何故五社だったのでしょうか。
 五社とすることに、何らかの伝承のような物、コシオウ(コショ・コシャ・ゴシャ)につながるような物、があったのでしょうか。
 源義家が腰をかけたという伝説があるそうですが、気になります。
 延宝四年以降の五社ノ宮はコシオウ神社ないしはその訛りとすることは出来ないと思います。

 五所神社とは、祭神や由緒に違いがありますので、五社ノ宮と五所神社は別のものかもしれません。
 そうだとしたら、五所神社はどこにあるのでしょうか。
 こちらについても、他日を期すことになりそうです。

 左上: 五社ノ宮への入口(右の黄楕円に恩賜郷倉がある)   右上: 正面の奥に五社ノ宮
 左下: 看板                               右下: 五社の石祠(万年堂)


《 追記 》*上生居 再訪
 2020年の5月に上生居を訪ねようと、その日を待っておりましたが、コロナウイルスの事態となり出かけることを断念しました。
 2021年の5月の連休も、状況を見ていましたが、出かけないでいました。
 連休が明ければ、これからどんどん草が茂り神社を訪ねる条件が悪くなるばかりですし、訪問ができなければ他の予定もすべて遅れていくことになります。
 連休のあとも状況の改善はのぞめないようですが、山形県の状況であれば、今年行くなら今しかないと思い、道の駅・コンビニなどでの最小限の接触以外に人に会わないようにして、上生居の神社を訪ねることにしました。

《探訪の記録》その2
*2021年5月15日
 自家用車で、早めに出かけました。
 神社の鳥居の前の道路端に車を駐車させていただきました。
 念のため、人体に比較的安全なツキノワグマ用の熊よけスプレー、熊鈴、ラジオ、長靴で、神社を目指しました。
 2019年10月に草が塞いでいた道は、歩くのになんの支障もない状態で、道の先は森に続いています。
 スマホ版のカシミール3D「スーパー地形」による「トラック(軌跡)の記録」〈GPSログ〉を取りながら、緩やかに登る道を行きます。
 森に入ると、木立の中を通る道は狭くなり、人の行き来でできたものか中央部が若干へこんでおり、坂の勾配も少しきつくなり、さらに奥に続いています。
 程なく石段が見え、さらに行くと石段の上の右側に木立越しに社殿らしきものが見えてきました。
 神社は思ったより近いと感じました。
 石段の最後の数段は段差が大きく、手をついて登りましたが、あとで気付いたのですが回り込む坂道もついていました。
 石段を登ると左右に長い平坦な境内地で、右側に社殿があり、左端のほうに石祠が並んでいます。
 石段から正面の境内の奥の側は斜面で、斜面の上は山が続いており、石段から斜面までの境内の幅は広くはありません。
 お詣りをさせていただこうと社殿に向うと、向拝柱に細縄の注連縄が渡され、紙垂が四枚つけられています。古いものではなさそうですので、春の祭に用意されたのでしょうか。
 鈴緒を振ると、社殿の正面からは虹梁の影で見えませんでしたが、鰐口をならすための緒でした。中央に吊された鰐口の横に鈴も吊られていました。
 社殿には社額が見当たらず、神社名が確認できません。
 向拝付近に穴あき石も見当たりません。
 正面の扉の左右に格子窓がありましたので、見てみましたが社殿内の様子はよく分かりませんでしたので、格子の間から写真を取らせていただきました。
 社殿の周囲をまわってみましたが、社殿の縁の下の奥まではのぞき込みませんでしたが、特に目につくものはないように思いました。
 社殿の向く方角は、スマホのコンパスで見ると「73°東」でしたので、東北東より東向きといえるようです。
 そうすると、境内は東西に長く、西側に社殿が東を向いて鎮座し、東側の端のほうに石祠が並び、境内の北側はより高く山があることになります。
 集落は山の北側にあって、集落から南側の山に向って参道が続いていることになります。
 境内から山の上に登る道は見当たらず、参道の行き止まりがこの境内地になり、神社のために山を整地して境内を造ったようです。
 石祠は四社並び、向って右に割れた石碑があり地蔵のような像が浮彫りされています。
 石祠に穿たれた方形の室の中には御札なども何も無く、社名も分かりません。
 この石祠のなかに市史で「元宮」と記された石祠があるのでしょうか。そうだとしたら、川崎の記した「自然石三箇の本尊」はどうしたのでしょうか。
 境内の山側に灯籠が1基あり、そのそばに水のある窪みがあり、石段側にくずれた灯籠の部材がありました。
 戻る前に、スマホのコンパスの経緯度の画面をスクリーンショットに撮り、画像で保存しました。
 参道を戻る途中に、参道から分かれて山の奥に向う細い道がありました。草も多く、あまり人の行き来する道ではないようですが、山の南側を通る道路につながっている道ではないかと思います。
 山の南側を通る道路は、上生居集落を通る県道264号線と県道263号線及び県道13号線をつないでいる道路になります。
 2019年10月に、この南側の道路のほうから神社へ行けないかと思って、この道を確認しています。
 
 左上: 前回草で行けなかった左の道に進む            右上: 森の中の参道
 左中: 石段                                右中: 社殿
 左下: 社殿正面(露出補正)                      右下: 石祠など(露出補正)


《探訪の整理》
*戻ってから、デジカメの写真をパソコンに取込み、見てみました。
 格子窓から社殿内を撮った写真に、社殿内の格子戸の上の長押と思えるところに「腰王大権現」と縦書きされた社額がありました。
 格子戸の奥が本殿になるのだろうと思いますが、その入口上に社額があげられていました。
 この神社は、間違いなく腰王神社ということが確認できました。
 神社が鎮座するこの山は、腰王山ということになります。
 地図の「山王大権見」は、地図側の問題ということになるでしょう。
*社殿を『宮生史話「いろりばた」』の腰王神社の写真と見比べますと、屋根がトタン葺に変わっていますが、建物正面の様子、周囲の様子から同じ場所で同じ社殿ではないかと思います。

*スマホアプリでのGPSでの軌跡の記録をパソコン上で見てみました。
 そうすると、地理院地図で神社の位置とされている場所の手前の場所を行ったり来たりしていました。
 スマホのコンパスの経緯度表示は、北緯38°6′56″・東経140°19′22″・高度340メートルでしたので、地図の神社の場所とはそれぞれ1秒程は異なりますので、この経緯度は訪ねた境内の場所にあたると思われますが、境内の標高は320程と思われますので、この点では疑問です。
 私が訪ねた社殿の場所と、地図で神社とされる場所が違うのは、どういうことなのでしょうか。
 地図上の神社は、さらに山の奥になり、山頂の等高線付近にありますので、標高差で20メートル以上・直線距離で50メートル程の違いがあるようです。
 地図の場所は「元宮」なのでしょうか。
 「元宮」とあったので、なんとなくその宮は既に無いものと思っていましたが、奥宮の意味合いだったのでしょうか。
 川崎が「山上に北向きの石祠」と記しておりましたが、地図の場所は山上と言って良い場所ですし、市史が「元宮の石祠は北向きに建てられている。」とあり過去形の建てられていたではありませんでしたので、まだ石祠はあるのかもしれません。
 GPSログを現場で確認していれば、地図の場所を探しに行ったでしょうから、残念なことをしました。
 スマホのGPSログの画面やコンパクトデジカメの画像は自宅に戻ってからパソコンに取り込んで大きい画面で見るつもりで、カメラの液晶画面やスマホの画面は小さいのでその場で見て確認しようとは思っていませんでした。以後注意しようと思います。
 山上の石祠が北向きであることは、集落と腰王山との位置関係からして、集落のほうを向いているということで、当然のことと思います。

 スマホ版のカシミール3D「スーパー地形」による「トラック(軌跡)」のスクリーンショットを載せます。

 地元の方のお話が聞けるようになったら、もう一度行ってみたいと思います。

 *権現堂の五社ノ宮への入口付近に建つ太神宮と刻まれた石柱を神社の社標かと思っておりましたが、明治16年建立の石碑で、太神宮とされる社殿がかつてあったということではないようです。

《 追記 》
*2022年5月4日
 前回の訪問によって、現在の社殿よりさらに上の山頂付近に「元宮」があるのかもしれないと思い、確かめたいと思っていました。
 何度か訪ねている上山市立図書館で、資料探しにご協力いただいた司書の方からご紹介いただいた上山市文化財専門員のA氏より、地元のK氏他の方にわざわざお尋ねいただいた腰王神社に関する事柄や上生居の字名が記された「上生居略図」などの諸資料を2021年の6月に送っていただきました。
 A氏にはご面倒とお手数をお掛けしてしまいました。有り難いことで感激いたしました。
 そのことがあって、地元の方、とりわけK氏にお話をお伺いしたいという思いが強くなりました。
 また「上生居略図」によると、『上山見聞随筆』にある「九条壇」の側に「腰王山」が位置していて、「腰王山」の東側に「袖山」があり、その東南側に神社(山王大権現)が記されています。
 この資料について分っていることが少ない状態ですが、これによれば神社のある里山の神社鎮座地付近は腰王山とは言わないのかもしれません。

 連休中の天気をみて、5月4日に上山に向いました。
 上生居では、昨年と同じ所に車を駐めて神社のある里山に入りました。
 森に入って、神社へまっすぐ進む道から分かれて左に行く道に行ってみました。
 この左に行く道は、山頂部を回り込んで山の南側を通る道路につながる道と思います。
 左に進んでみると、道と思われるところは通る人もいないようで荒れて歩くに向かない状態でしたが、なんとか山頂の下あたりまで進みました。
 そこから山頂部に向う道もなく、山頂部も見えませんでしたので、斜面を登って山頂部に行ってみました。
 山頂部に、石材がありました。
 石材は杉の根元にあり、石材のある部分の広くはない空間の周囲の杉は周辺の杉より大きいようです。樅の木と思える大きな木が1本ありました。
 ここに元宮があり、元宮は遷され、残された石材がそこに置かれている、ような印象を持ちました。
 元宮は確かに山頂部にあったことを確かめられたと思います。

 山頂部から下る道は見受けられませんでしたので、ここに来る人はいないのかもしれません。
 社殿側に下りました。
 境内に行き、社殿、社殿のまわり、境内、石祠などを見てまわりました。
 石祠の四社のうち三社の屋根正面に社名を記した部分があり、向って左から二番目の石祠は水神宮と読めるようですが、他の二社は判読出来ません。
 左から三番目のもう一社は他の三社よりやや大きい石祠で、社名を記す部分がなく、造りも異なっています。

 車を駐めた所まで戻り、付近で畑仕事をしていたご婦人(60代以上とお見受け)にお声がけさせていただき、腰王神社に行ってきたことなどお話をさせていただきましたところ、ご自身は嫁に来て2回ぐらいしか登って行ったことはないとのことでしたが、コロナで祭りも役員さんだけで神事を執り行っていることなどのお話から別当のK氏のお名前が出てきましたので、お住まいの場所をお聞きして、K氏宅をお訪ねいたしました。

 昔からの格式のあるお宅と思える塀があり敷地の奥に新しい住宅が建てられていました。
 幸いなことにご主人様がご在宅で、お訪ねした経緯をお話しさせていただき、元宮を探してきたことと元宮は遷されたのでしょうかとお訊ねいたしますと、いろいろ想定外のことをお教えいただきました。
 帰宅してから、穴あき石や穴をあけた椀等の腰王神社への奉納の有無について聞き忘れたことで悔やまれましたが、K氏のお名前も住所も聞いてきませんでした。
 A氏からお知らせいただいていた文章と以前上山市立図書館でコピーした住宅地図とを見直してみて、K氏宅に手紙を送ることができそうでしたので、穴あき石のことばかりではなくあれこれと問合せをさせていただきました。

 有り難いことに後日お返事を頂戴いたしました。
 穴あき石はないそうです。
 K氏から直にお聞きしたことと問合せへのお返事とA氏からいただいていた情報を私のまとめによって以下に記します。
 『元宮は遷したのではなく、盗難に遭って石材が盗まれてあのようになった。境内の灯籠も被害に遭った。
 時期は全国的に盗難被害が多発していた頃なのですでに20年も前のことになる。
 境内の石祠の中に元宮は無い。
 御神体は盗難被害の前に神殿に遷されていた。
 三個の自然石とされているものの中の30センチ程はある大きい石は確かに御神体であろうが、他の二個の石は後から添えられたのかもしれない。
 自然石といわれているが、大きい石は大きさの割に重くなく、もしかすると普通の自然石ではないのかもしれない。』という、思いもよらないことをお聞きしました。
 確かに無人の仏堂や神社から仏像や宝物が盗まれているというニュースを聞いたことがありますが、石祠や灯籠の石材まで盗まれていたとは知りませんでした。
 前回の訪問の時に見ていた石段側のくずれた灯籠の部材と思ったものが盗難被害後の灯籠なのではないかと思います。 
 何でもする罰当たりな者がいるわけで、すさみに暗澹たる思いです。
 私も怪しい者ではないと示すために、加入した郷土史の会の会名を入れた名刺を作っています。
 情報の出し方にも注意をしてきたつもりですが、気をつけなければいけないと思います。
 さらに『上生居の腰王神社の勧請は、室町時代と聞いている。先祖が神殿や籠もり堂を建立した時代は不明です。籠もり堂は社殿の下側、境内地への急な石段の右脇あたりにあった。
 社殿正面に明治廿九年二月の銘がある鰐口が下げられている。
 社殿の茅葺屋根は平成元年にトタン葺きに替えた。
 神事は宮脇ミヤノワキ地区の八幡神主が執り行っている。等。』を知ることができました。

 元宮と言うのは、神殿に御神体を遷して祀ったことによるのでしょう。
 社殿からの道も見当たりませんでしたので、元のお宮であって、奥の院と言うことではないのでしょう。
 私としては、元宮があってその場所を確認できましたので、自分の抱いた疑問が的外れではなかったことで、来た甲斐がありました。
 元宮の写真は載せないことにします。

 左: 駐車位置から里山を見る。が山頂と思う。           右: 山頂付近


*「探訪記録 村山7」や同4等で記しましたが、「腰王」と表記する神社は山形県内では村山地区に集中しており、村山地方には大江町所部に腰王神社・大江町三郷乙に腰王堂の地名・朝日町中沢に腰王神社・山形市長谷堂に腰王山地名と腰王神の祠・山辺町北山湯舟に腰王神社・上山市上生居に腰王神社があります。
 そして、大江町所部の腰王神社・朝日町中沢の腰王神社・山辺町北山湯舟の腰王神社に「穴あき石」の奉納があり、大江町三郷乙の不動尊の堂宇内に「穴あき石」が納められており、長谷堂の腰王神の祠に穴のある石が納められているもようですが、上山市上生居の腰王神社には「穴あき石」は見受けられないということです。
 上山市上生居の腰王神社には腰の病への御利益の伝承があり、耳の病についての伝承はないもようです。
 大江町・朝日町・山辺町の腰王神社等には共通の要素があるとすれば、上生居の腰王神社は、大江町・朝日町・山辺町の腰王神社等とは成り立ちの面か経緯のなかに異なるものがあるようです。
 また、村山地区では寒河江市谷沢の御小姓神社(「村山 2」)にも穴あき石の奉納が見受けられました。

*上生居から上山市街地に戻る際に、宮脇の八幡神主・金剛院を訪ねました。
 駐車場の入口にカモシカがいました。
 奥様にお目にかかることができ、お話を聞かせていただくことができました。
 生居地区には神社名等を刻んだ大きな石碑があちことにあり、上山三十三観音のいくつかの御堂もあり、それ以外にも御堂などがありました。
 その幾つかを写真におさめました。
 信仰心の濃厚な地域ということでしょうか。


*森合の場所を探してみたいと思い、権現堂を訪ねました。
 両所神社に参拝してから、集落の狭い道に入っていったり地図を見て気になった場所に行ってみたり集落の人に聞いてみたりしましたが何も分らず、五社ノ宮の前まで戻りました。
 帰る前に、五社ノ宮の道路向かいのS様宅を訪ねて森合の場所をお訊ねしてみました。
 こちらを訪ねたことで森合のおおよその場所が分りました。
 ご主人様のお話によると、森合は位置的には五所ノ宮の奥になり、家も何も無く果樹園と畑があるだけとのことで、大きなカーブ(県道14号)をまわっていくと左に入る農道があるとのことです。
 五所ノ宮のあるところは森合と言ってもよい場所でしょうかと問いますと、森合ではないと言うことでした。
 五所ノ宮は森合地区ではないと言うことになります。五所ノ宮のある場所の字地名は聞いていません。
 森合の範囲は不明です。
 森合に五社神社はあったのかどうか不明のままです。
 車で行くと、県道14号を五社ノ宮前から東に行くとすぐに大きく曲がるカーブになり、カーブを抜けて進行すると農道かどうか迷うほどのはっきりしない道らしきものがありました。
 行って見てみることはしませんでした。

*斎藤茂吉記念館を見学してから、金瓶周辺を車で走ってみました。
 この辺りは開発され大きく変わっているのでしょう。
 金瓶学校に立ち寄ったくらいで、なにもせずに帰宅しました。

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