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探訪記録 山形  28 : 村山  3


佐藤リスト 位置番号 23 : 西村山郡大江町所部  腰王神社  
                                 備考)自然石、北向き社殿、耳の病気の神、宝暦9年の縁起

佐藤地名リスト位置番号 45 : 大江町沢口(旧・西村山郡七軒村沢口) 小姓(性)戸
              46 : 大江町小清(旧・ 同   七軒村小清)  小清コセイ  
               47 : 大江町顔好(旧・ 同   本郷村顔好) 小塩下   
                 48 : 大江町本郷(旧・ 同   本郷村本郷)  腰王原    
                  49 : 大江町所部(旧・ 同   本郷村所部)  腰王原   
                 50 : 大江町塩ノ平(旧・  同    本郷村塩ノ平)   腰王前  

                  〈桑原リスト:西村山郡本郷村所部・腰王神社、腰王原
                                                       同  本郷村顔好・小塩下(腰王下) 
                            同  本郷村塩の平・腰王前     
                         西村山郡七軒村沢口・小姓戸

〈始めに〉
 大江町所部の腰王神社の探訪記録にあたって、神社所在地情報の所部に関してだけではなく大江町地域の地名所在地情報も含めて記事にしました。

*川崎『美人反別帳』に「西村山郡本郷村所部高登屋山の麓に腰王神がある。堂宇は三間三面、廻廊及び向拝附で、中に秘仏として高さ一尺六寸(48.58糎)の自然石があり、建物は越王神特有の北向きである。」があります。
 また「左沢盆地は石器時代、越族が地歩を定めた処と見え、越文化が処々にほの見える。左沢町三郷滝の沢に条件通りの腰王堂あり、宮宿町に小塩山あり、本郷村顔好に小塩下(腰王下)、同塩の平に腰王前、本郷と所部に腰王原、七軒村沢口に小姓戸、東村山郡中山町長崎に小塩代、豊田に小塩、柳沢に小塩山、土橋に小塩天神、山元村狸森に腰王山等あるが、此の小塩天神も、元は腰王信仰に後世天神が合流したものと見られる。」という記述もあります。
なお、川崎『古志族の検討』では「西村山郡所部 古志王社」と記されています。

 これらの所在地と地名の情報を佐藤リストと桑原リストと並べて一覧にしてみます。

 佐藤リストの(太数字)は神社所在地の位置番号、(数字)は地名所在地の位置番号です。地名所在地の「旧」は旧地名、「現」は現地名です。
 川崎 美人反別帳  佐藤リスト 神社所在地及び地名所在地 〈郡名・略〉  桑原リスト 〈郡名・略〉
西村山郡
左沢町三郷滝の沢: 腰王堂
(24)大江町三郷・滝の沢: 腰王堂
(51)旧・左沢町三郷: 腰王堂   現・大江町三郷 
大江町左沢三郷滝の沢: 腰王堂
同郡 宮宿町: 小塩山 (52)旧・宮宿町宮宿: 小塩山  現・朝日町宮宿 朝日町宮宿:小塩山
同郡 本郷村顔好: 小塩下(腰王下) (47)旧・本郷村顔好: 小塩下  現・大江町顔好 本郷村顔好: 小塩下(腰王下)
同郡 本郷村塩の平: 腰王前 (50)旧・本郷村塩ノ平: 腰王前  現・大江町塩ノ平 本郷村塩の平: 腰王前
同郡 本郷村本郷: 腰王原 (48)旧・本郷村本郷: 腰王原  現・大江町本郷  ―
同郡 本郷村所部: 腰王神
             腰王原
(23)大江町所部: 腰王神社
(49)旧・本郷村所部: 腰王原  現・大江町所部
本郷村所部: 腰王神社
         腰王原
同郡 七軒村沢口: 小姓戸 (45)旧・七軒村沢口: 小姓(性)戸  現・大江町沢口 七軒村沢口: 小姓戸
 ― (46)旧・七軒村小清: 小清  現・大江町小清  ―
東村山郡 中山町長崎: 小塩代 (56)旧・長崎町長崎: 小塩代  現・中山町長崎 中山町長崎: 小塩代
同郡 中山町豊田: 小塩 (53)旧・豊田村小塩: 小塩  現・中山町小塩 中山町豊田: 小塩
同郡 中山町柳沢: 小塩山 (55)旧・豊田村柳沢: 小塩山  現・中山町柳沢 中山町柳沢: 小塩山
同郡 中山町土橋: 小塩天神 (54)旧・豊田村土橋: 小塩天神  現・中山町土橋 中山町土橋: 小塩天神
南村山郡 山元村狸森: 腰王山 (60)旧・山元村狸森: 腰王山  現・上ノ山市狸森 上ノ山市(旧山元村)狸森: 腰王山

 桑原リストも佐藤リストも、川崎のあげた小姓も小塩も含めた情報によるものと思います。
 地名位置番号46の小清は佐藤地名リスト以外では目にしていません。
・桑原リストでは、本郷:腰王原が本郷村所部:腰王原との重複と判断されたのでしょうか、リストにありません。
・佐藤リストでは、神社所在地リストに載せているものと地名所在地リストに載せているものがありますので、地名リストの地名についての記事を書く場合にあらためて触れたいと思いますが、大江町地域の地名〈佐藤地名リスト 位置番号 45〜50〉はこの記事中に取上げたいと思います。

《探訪の準備》
*佐藤リストの「コシオウ地名所在地」には旧地名の西村山郡本郷村について顔好・本郷・所部・塩ノ平の4個所が記されています。 現在の大江町の住所を見ると「大江町所部」も「大江町本郷」もあり、本郷は「大江町本郷甲・本郷乙・本郷丙・本郷丁〈テイ〉・本郷戊〈ボ〉・本郷己〈キ〉」となっています。また、「塩野平」と「顔好甲・顔好乙」があります。
 市町村の変遷を見ると、明治15年に小漆川村・市野沢村・上北山村・下北山村・滝野沢村・葛沢村が合併して本郷村になり、明治22年に、町村制の施行により、本郷村・堂屋敷村・荻野村・橋上村・所部村・塩野平村・材木村・顔好村・十八才村・小釿村・楢山村・月布村・大鉢村を合わせた本郷村が発足しています。
 昭和29年に本郷村と七軒村が合併し漆川村になり、昭和34年に左沢町と漆川村が合併して大江町が発足しています。
 したがって、桑原リストにある「西村山郡本郷村所部」というのは明治22年から昭和29年の間の表記になります。
 現在の本郷甲から本郷己の六区域が旧村名ではどこに当るのかは分かりませんが、地図上の位置関係からすると合併前の六村に対応しているのではないかと思います。そうであれば、本郷甲は葛沢村の地域にあたり、本郷乙は滝野沢村、本郷丙は上北山村、本郷丁は下北山村、本郷戊は市野沢村、本郷己は小漆川村にあたるのでしょうか。

*『山形県地名録』では「西村山郡」に「左沢町、本郷村、七軒村、等」がありますので明治29年以降の地名になると思いますが、このなかの本郷村には「〈大字〉顔好の地名の中に〈字〉小塩下があり、塩ノ平に腰王前があり、所部に腰王原があり、本郷に腰王原がまさにありました。
 これらの小字地区が現在のどの場所になるのか分からないのですが、所部と本郷の腰王原は同名ではありますが、区別されるものなのでしょう。そうすると確かにこの本郷村地域にコシオウ地名が多くあります。
 残されたコシオウ地名の由来は共通するひとつのものなのか、いくつかの異なる由来があるのか、どうなのでしょうか。

*丸山茂『腰王神社及び越王山の考察』(昭10?・1935?)の「六、所部腰王神社の神体」に「所部の腰王神社の社祠は、間口三間に奥行三間二尺の佛式建築で、三方に二尺五寸の廻廊が巡り、其の堂の中に又権現造の小祠が安置されている。同社の縁起によると、嵯峨天皇の御代僧空海が勅命を奉じて刻んだ秘仏だそうで、又未だ曾て開帳の記録のない、尺六の石の尊像であるそうだ。開帳の記録のない秘仏ー石像。筆者の頭には、それは道陸神ではないかといふ想像が浮かぶのである。川崎〈浩良〉氏の話によると、小白府街道長谷堂山中の越王神社の祭神も道陸神であつたそうである。所部の社に詣でて面白いと感じた事は、社殿内は勿論床下から境内到るところ墨々とした、拳大の孔明石が積まれ且つ散在している事であった。其の由来を訊したら、それは此の地方の信仰として、耳の病に罹った者が、此の社に祈願し全快すると礼参りに、前者の孔明石とか椀に孔を穿ちて紐を通し、それを奉納する風習であるとの事であつた。然し此の民間信仰は獨り所部ばかりでなく、飽海郡市條村の古四王神社にもあると報告〈「一條村の古四王神社に就て」(増村卯助 昭4・1929)であろうか〉されている。孔明石や椀は乃ち陰性の生殖器を表象するもので、男性の生殖器を表象する道陸神に奉賛する意味のものであろう。然し是を以て直ちに総ての越王神社の神体を、道陸神とするのは慎まねばならないのである。」があります。

*『大江町史』(大江町教育委員会 昭59・1984)の「第二章古代文化の展開」の項目「腰王信仰の痕跡」に「所部の西光寺は、近世以来腰王社の別当寺である。長文にわたるが、同寺所蔵の『所部村腰王縁起』を引用する。」として縁起を記載しています。この記事ではその縁起を引用いたしませんが、縁起の末尾に「宝暦九己卯〈1759〉五月吉辰」の日付が入っていて、文末に『寒河江市史編纂叢書第二四集(二)』と記されていますので、この叢書に掲載されているのでしょう。
 引用の後に「この縁起によると、腰王山の像高は…」と解説が続きますが、それについては『荻野・堂屋敷地区史』(荻野堂屋敷地区史編纂委員会 平11・1999)からの引用によって見ていくことにします。 
*『荻野・堂屋敷地区史』の「第二編・第一章・第六節 平安文化と郷土」に「慈恩寺、慈恩寺領、三山神社、朝日岳と諏訪神社、葉山神社、腰王神社」の各項目があり、その「腰王神社」の項目に〔「所部に祀られている腰王堂は、真言宗西光寺に属したお堂である。社殿は北を正面にしている。」「当地区では『おこしゅう様』と云い耳の神様である。」「所部の西光寺は、近世以来腰王社の別当寺である。同寺の所蔵する『所部村腰王縁起』によると腰王山の像高は一尺六寸で、伝説父母息災経と般若心経の秘鍵で『彼尊像を露わす』という。この意味について西光寺では、尊像を経典で包んでその尊崇なることを示していると言い、その経典に貞治三年(1364)の紀年銘が墨書されている。往古は中沢口にあった尊像が所部に移ったというが、その時期は定かでない。神社は北向に建っていて、拝むのは社前からでなく背面(社の裏側)から参拝する。当所の腰王尊像は心ない者の刀で頸を切り落とされ、その首級を前後をたがえて継いだとのこと。体は社前を向いているが頭は後ろ向きである。このことから社の裏側から参拝するのである。この神社には、耳の遠い人がよく聞えるように、或は耳病が直るようにと、穴のあいた石を持って行き神社の裏側に納めて参拝し、社にある石を借りてその石を悪い耳に当て快癒を祈願する。そして耳が治った時に、礼参りに穴のあいた石を持参して参拝するといった習俗がある。腰王様の社殿の縁の下には沢山の穴石が積まれているのを拝見される。昔は沢山の信仰者が参拝されたことが窺われる。尚、おこしゅう様は朝日修験のお行様が通る修験道に当ることから、〈略〉、腰王様に立寄る巡礼者の多かったことも想像される。当神社の参拝祈願者は広く、羽前地方に限らず遠隔地からも来訪したものであろう。」とあります。
 貞治三年の紀年銘が墨書された経典の現物は、『大江町史』によると今は無いそうです。

 穴あき石を持っていき納めること、社の石を借りて石を悪い所にあてて回復を祈ること、礼参りに穴あき石を持っていくことが記されていて、他の社にもこのような方法があることが思い浮かびます。

*「往古は中沢口にあった尊像が所部に移った」ということについては、『大江町史』の引用する『所部村腰王縁起』の記載を大胆に意訳すると、この神は所部に祀られる以前は中沢口の村里におわしたとのことで、その堂に一宿した修験の行者の夢中に腰王の神となのり所部という里に持って行くようにと告げたとのことで、修験の行者によって移され、腰王の神が告げたという事柄を霊験の縁起としているようです。
 『所部村腰王縁起』の記述に「石仏の尊像…壱尺六寸の御丈…其御姿妙にして、凡夫の及(ぶ)所にあらす」の記述があります。
 川崎は「自然石」と記していますが、他の文献の記載からは自然石ではなさそうです。
 川崎は、何によって自然石と記したのでしょうか。根拠のあることなのか誤りなのか、分かりませんので、川崎は自然石〈を祀っている〉としていることを、記しておくだけにしたいと思います。 

 古四王信仰は或る程度の広がりを持った信仰圏を持っていますので、信仰を広めた担い手がいたと思うのです。
 修験者の関わりはどうなのでしょうか。

*インターネットで『W.民間信仰に関する文化遺産の研究』(東北芸術工科大学 文化財保存修復研究センター)を見付けました。
 同書の「1 七軒・本郷地区第1次社寺調査」の調査報告のL腰王神社(所部)に「所部地区の石段を登った丘の上に立地する社殿。現在は近隣の寺院の住職によって管理されている。社内奥の内陣には大小3つの社殿型厨子が設置され、それぞれの厨子に幾重もの戸張が懸けられている。厨子周辺には腰王信仰に関係する穴のあいた石が複数奉納されている。」があります。
 この報告が、いちばん現在に近いものと思われます。

 地図情報では、西光寺の西隣に腰王神社があります。
 西光寺の御住職が腰王神社の管理をなされているのでしょうか。
 インターネットで西光寺を検索すると、所在地の現在の住所表示は西村山郡大江町所部316−3とあります。
 インターネットの検索で全国法人情報データベースの西光寺の情報を見つけました。それによると、西光寺の所在地は西村山郡大江町大字所部字腰王原316番地の3と記されています。
 これは、字の表示があるかつての住所表示でしょうから、西光寺のある辺りは所部の腰王原にあたる場所なのでしょう。
 そうすると、隣接する腰王神社があっての字地名の腰王原ということだと思います。
 では、本郷の腰王原はどうなのでしょうか、そしてその場所はどこなのでしょうか。

 2013年にインターネットで調べた大江町の住所一覧を印刷して残しています。そこに本郷甲字腰王原が見いだせますが、現在の地図検索では探せません。
 この住所一覧のプリントアウトには、塩野平腰王前も記されています。
 塩野平は所部の東に隣接しており、腰王神社から塩野平地区との境までの最短距離は130メートル程ですので、所部の腰王様に対応する腰王前である可能性もあるのではないかと思います。
 同プリントアウトに、顔好甲字小塩下があります。
 戸部の腰王神社の石段下の前の道路が顔好甲との境で道路北側が顔好甲になりますので、所部の腰王様に対応する小塩下かも知れません。

*所部に祀られる以前にあったという中沢口の村里とは、どこになるのでしょうか。
 現在の大江町沢口に中沢口という地名があります。
 所部からは直線距離で7キロメートル程でしょうか。月布川に沿うように県道27号を行くと約10キロメートル程のようです。
 ここは旧・七軒村に当ります。七軒村は、明治22年に貫見村・沢口村・柳川村・黒森村・小柳村・小清村・勝生村によって発足し、昭和29年に本郷村と合併して漆川村になり、昭和34年に漆川村と左沢町が合併して大江町になっています。
 七軒町沢口に小姓戸の地名情報〈佐藤地名リスト 位置番号 45〉があります。
 2013年の大江町住所一覧のプリントアウトに、地名情報にあった「沢口小姓戸」がありますが、「沢口中沢口」は見当たりません。
 この小姓戸は、小姓+戸なのでしょうか、どのような地名なのでしょうか。
 また、現在の西村山郡朝日町に中沢という地区があります。
 この中沢には腰王神社という石祠があるという情報があります。
 これについては、朝日町にかんする記事でふれたいと思います。
 中沢という地区名であり、中沢口という集落ではありませんが、記しておきました。
 また、この場所の最上川をはさんで対岸は大江町三郷乙の地区になります。
 2013年の大江町住所一覧のプリントアウトに、三郷乙字腰王堂があります。
 この場所は、古四王神社の所在地情報にある場所と思いますので、その記事でふれたいと思います。

 『山形県地名録』の七軒村の小清(現・大江町小清)に〈小字〉小清があります。この地名情報を佐藤地名リスト〈位置番号 46〉が載せていますが、他の資料では見ていません。
 小清がコシオウ地名かどうかは、資料がなく判断できません。

《探訪の記録》
*2018年11月10日
 大江町三郷乙から所部トコロブの腰王神社に向いました。
 地図情報に西光寺も腰王神社も示されていましたので、探すまでもなく行けそうです。
 腰王神社は西光寺の西隣の標高186メートルの、周辺とは標高差は20メートルもないような、小丘上にあるようです。
 腰王神社の丘の北側を東西に通っている道路に至り、西光寺付近の道路が広くなっている場所に車を停めました。
 見渡すと、樹木に覆われた丘の手前に小さな橋がかかっているのが見えましたので、そこが腰王神社の入り口だと思いますが、西光寺と腰王社とは地図で見て想像していたよりも離れているという印象を受けました。
 橋を渡ると、その先に数十段はあろうかという石段が続き、その上を見上げると社殿が見えます。
 石段の左右は杉木立で笹藪もありますが、石段にはあまり草が生えておらず、のぼりやすい状態です。
 社殿には、横型の社額があげられ右から左に「腰王山」としるされています。
 社殿の閉じられている正面扉の前の大床の上に、一つだけ茶色の小さな穴あき石が置かれていました。いつ置かれたのでしょうか。
 社殿の背面に向いますと、社殿の側や廻廊の下の地面に穴あき石がいくつも落ちているようにあって、社殿の床下の中央部付近に石が小山になって盛り上がっているのが見えました。
 床下の奥までははっきりとは見えないので石のすべてが穴あき石かどうかは分かりません。
 石の種類はいろいろで、穴の開き方もいろいろで、石の長い部分に穴の開いているものもありました。
 社殿は、向拝柱は二本、本柱が四本の三間社で、四方も三間で高欄のない縁が廻されていますが、背面の中央の一間が縁の幅だけ張り出しています。よって、背面の中央一間部分には縁がありません。
 社殿の背後の屋根の軒裏から、今年の巣かどうか分かりませんが、スズメバチの巣が下がっていました。

 神社の丘を降りて、道路脇の「真言宗智山派 所部山 西光寺」の立札の所から西光寺様の境内に向いました。通路を進むと本堂の向こうに神社の丘が見えますが、杉木立で社殿は見えませんでした。
 西光寺様が腰王神社の管理をなされているのではないかと思いますが、お声を掛けることはいたしませんでした。
 周辺の他の神社を訪ねていないので比較は出来ませんが、人が来ていない神社という印象はあまりありませんでした。


左上: 腰王神社ー入口の橋                              右上: 石段と社殿(赤丸部分)
左中: 社殿ー向拝柱、社額                               右中: 床に置かれた穴あき石
左下: 社殿ー背面                                    右下: 床下の石のもりあがり

左: 西光寺への通路                                  右: 西光寺本堂横から神社の丘をのぞむ


《探訪の整理》
◎『大江町史 地誌編』(昭60・1985 大江町教育委員会)の『第二編 第二章・月布川の恵みをうける集落ー本郷』には24の地域が項目にあげられています。24の項目に本郷がありません。
 同書・同章の「所部」の項目から引用させていただくと〔〈所部は〉「東は塩ノ平、北は原と三合田、西は材木に接し、南は朝日町大谷と接して所部川が境界となっている。所部の領域は南北に長く、中央部に高登屋山がある。平地は北東部の前田だけで、…、標高は高くないが丘陵状山地の占める部分が多い。」「前田の一体は地すべり地帯で、田が南東方にすべって漏水があり、…、昭和三十二年六月から県によって工事が行なわれ、…、現在では面目を一新した。腰王神社のある丘もすべっているし、…、」「村の入り口腰王原に腰王神社がある。貞治三年にここに祀られたものと伝えられ、本尊は高さ五〇センチメートルで、旧三月十五日が祭礼である。腰王社は北を向いて建ち、耳が治るといって、穴をあけた石を持って参拝にいった。『裏参り』といって神社の裏側の板戸を叩いて回るのが慣わしだが、これは腰王社と塩ノ平の三宝社が争ったとき、腰王が負けて首を切られたのを、あわてて前後逆さまに取り付けたので、裏参りをするのだと言われる。…。所部と塩ノ平は隣り合っているのに、神社の争いから仲が悪く縁組みもない。…」「西光寺はもと高登屋山にあり、高寺と称していたがその後木戸口におりて来て、さらに腰王神社東の現在地鶴巻に移った。…。西光寺は惣持寺の末寺で腰王縁起一幅を所持し、腰王林をも所有していて、朝日信仰と関連をもつ寺のようである。…」「腰王社のある高台の周辺は腰王原と呼ばれ、ここにも庚申塔・巳待塔・一八夜塔・湯殿山塔などの石塔があり、宝暦二年の廿三夜塔もある。腰王原の南、村の入り口は『木戸口』と呼ばれ、…。集落の名『所部』は、三月節句にトコロを供える風習があったところからきたという。」〕の記載があります。
 所部の環境に関して、腰王神社・西光寺に関して、地名に関して、引用いたしました。

*腰王神社は、かつて神仏習合の時代には何と呼ばれていたのでしょう。
 おこしゅう様と呼ばれていたとのことですが、どのような文字を記していたのでしょうか。
 現在の神社の社額に「腰王山」とあり、『大江町史』に「この縁起によると、腰王山の像高は一尺六寸で」とあります。
 腰王山とは神社の丘のことでしょうか。コシオウヤマでしょうか。あるいは、山号なのでしょうか。
 「羽黒山-羽黒神社」の例がありますが、そのようなものでしょうか。腰王山の腰王堂とか腰王宮が腰王神社になったのでしょうか。

*腰王の尊像については、『所部村腰王縁起』中に「其御姿妙にして、凡夫の及(ぶ)所にあらす」とあり、想像を超えた形の石の仏様のようですが、どのようなお姿なのでしょうか。
 秘仏とされているとありますが、「御姿妙」は尊像の首は前後を違えてついているという事を指しているのでしょうか。あるいは、首の前後を間違える程の、思いもよらない姿形であったのでしょうか。
 首が落とされたことについては、心ない者の刀で切り落とされたとの記載と神様どうしの争いによるものとの記載がありましたが、人の仕業を神様の争いとした配慮による対応なのでしょうか。神事を業とする者達の間の争いのことなのでしょうか。首の前後が違うと思われるような異形が、首が落とされた話となったのでしょうか。
 このような謂れをもつ例は、他にはあるのでしょうか。

*社殿の床下に穴あき石が山状に積まれてありましたが、社殿の床下に山のように積まれることになった何らかのものが穴あき石の山できた場所にあるのでしょうか。何も謂れもない床下なのでしょうか。

*『裏参り』で神社の裏側の板戸を叩いて回るとありましたが、神社の背面の中央一間が張り出しているので、その部分の板張の外壁は簡単に叩くことが出来ますので、ここを叩くことをいうのではないでしょうか。板戸とありますが、開口できる建具としての戸のことではなく、板の外壁のことではないかと思います。

*地名に関しては、この引用によると、所部村の入り口に腰王原があり、腰王原に腰王神社があり、腰王社のある高台の周辺は腰王原と呼ばれるとのことで、丘があり原と呼ばれるのは何故なのでしょう。丘を含めて腰王原の地域なのか、丘のまわりを腰王原というのでしょうか。
 また、西光寺の場所が、腰王神社東の現在地鶴巻とありますので、字地名は腰王原ではないわけです。
 腰王原の範囲はどうなっているのでしょうか。
 西光寺の法人登録データの所在地の字腰王原をどう考えればよいのでしょうか。
 字地名が生まれて変遷することはあるでしょうし、住所表示の変遷もあるとは思いますが。

◎『大江町史資料 第十四号』(平11・1999 大江町教育委員会)に「大江町字寄図」という字地名が記入された川と道路が記されただけの地図がありました。縮尺記載が分かりませんでしたが、五万分の一くらいなのでしょうか。
 字地名の場所と範囲が現在の地図のどの辺りになるのか、私には分かりにくいのですが、「字寄図」に腰王原も鶴巻も記されていて、それぞれの位置は腰王神社と西光寺がある場所にあたるようです。
 腰王原及び鶴巻の広がりがどこまでになるのか、境界がどこなのか判断出来ませんが、この「字寄図」を見ると腰王原の領域は大きな範囲ではないようですし鶴巻はさらに小さな範囲のようです。
 西光寺の所有となる腰王林も見当たりません。腰王林は字地名ではないのでしょうか。腰王神社の鎮座する杉木立の丘のことである可能性はどうでしょうか。
 腰王原の南に字地名前田があります。ここが「平地は北東部の前田」にあたるのでしょうか。

*佐藤地名リストにあり、かつての大江町の住所表示にも現われていた、塩ノ平の腰王前・本郷の腰王原・顔好の小塩下は、「字寄図」からは見つけられませんでした。
 それらの地名が見当たらないのは「字寄図」の時代によるものでしょうか、それらの字地の領域が小さすぎる等で、地図に記載されていないのでしょうか。
 それらの場所がどの辺りなのかは、分からないままです。

 沢口の小姓戸と小清の小清は、「字寄図」にありました。
 沢口の小姓戸の位置は、現在の地図で見ると、中沢口集会センターの北西にあたり、小清の小清は小清公民館の辺りになるのでしょうか。

 かつて字地名として存在した腰王原・小塩下・腰王前の位置のことなどは、現地で聞き取りなどをして調べていけば分かるのではないかと思いますが、それはなかなか出来そうもありませんので、あれこれと思うことを書いておきます。

◎『大江町史 地誌編=第二編 第二章』の「顔好」の項目に〔「顔好はかつて顔吉・好吉とも記され、明治以後顔好となった。江戸時代には川の右岸は本顔好村と呼ばれ、久保・三合田・腰王原が枝郷となっていた。」「それに対して川の東岸は新顔好村で寺社領入会の土地であった。」「本顔好は古くからの集落があり、開発に伴う枝郷の久保や原が含まれていたのに対し、新顔好は寺社領が多く、その住居は」「寺社領を耕作する百姓が主体になっていた。」〕の記述があります。
 本顔好村に「久保・三合田・腰王原が枝郷」とあり、本顔好に「開発に伴う枝郷の久保や原」とありますので、腰王原を単に原と呼ぶことがあったのでしょうか。
*同書・同章の「所部」の項目には「北は原と…に接し」とあり「顔好」の項目には「枝郷の…原」とありますので、その「原」の項目を見てみます。
 『大江町史 地誌編=第二編 第二章』の「原」の項目に「月布川の右岸の広い河岸段丘上にあるのが原で、標高が150−170メートル、南北の幅は500メートルあまりある。北に葛沢と顔好があり、西は三合田と複雑に境しており、南は所部・東は塩ノ平と接している。」「『原』の集落としてまとまりを持つようになるのは、明治後期からのことで、それより前は開発の地域毎にいくつかに分かれていた。」「原の開発の初期には、裏山からの小さな沢や、氏神である太神宮の脇から出る水などを利用して、水田を耕作していた。所部の北側にある腰王原は、水がかりが良いため古い水田であった。江戸時代の記録には『古四王原村』の名が見える。」があります。
 所部の北側にある腰王原は、江戸時代に「古四王原村」と呼ばれることがあったのでしょうか。
 コシオウを「古四王」と記した例があるようです。
 腰王原の領域はどうなっているのでしょうか。

*有料のネット地図で腰王神社付近の現在の行政界を見ますと、腰王神社と西光寺の北を東西に通っている道路から北側は顔好甲になります。その道路から南に腰王神社の石段があります。
 顔好甲の領域に本郷甲に属する領域が飛び出して入ってきていますし、その本郷甲の西に本郷乙に属する領域が顔好甲に囲まれた飛地状にあります。
 腰王神社の石段の前の道路から顔好甲に囲まれた本郷甲と本郷乙の接している南の境まで直線距離で240b程です。その辺りは、所部の北となる“原”の範囲でしょうか。
 「原」という領域は、現在の顔好甲と顔好甲に飛び出した部分の本郷甲及び飛地の本郷乙の範囲に含まれるのではないかと思います。
 本郷甲字腰王原がこの顔好甲に囲まれた所であったならば、腰王神社周辺の腰王原と地続きの場所であったかも知れません。
 そうであれば、顔好甲にも地続きの腰王原があってもよいことになりますが、山形県地名録には顔好甲に腰王原の字地名は見られません。
 ですが、江戸時代の本顔好村に腰王原という枝郷があったとありますので、顔好に含まれる腰王原があることになります。
 本顔好の枝郷の原は南が所部で、所部の北側の腰王原は古い水田であったとあり、古四王原村と記した記録があるとのことです。
 これらからすると、本郷甲字腰王原が顔好甲に囲まれた所であり、腰王神社周辺の腰王原と地続きの場所であったとの推測は正しいのではないかと思います。
 本郷と所部にある同名の腰王原は、別々の謂れをもつものではなく、もとはひとつの領域に属するものと思われます。

*顔好甲字小塩下の地名については、それが腰王神社の丘の下にあたる腰王神社の北側の顔好甲の場所にあれば、所部の腰王社又は腰王原と関連する地名とみることになると思います。
 所部に腰王社の存在があり、顔好に小塩下という地名があったということが、小塩をコシオウ関連の地名の候補にしたと思います。
 その事で東村山郡中山町の小塩地名、西村山郡朝日町宮宿の小塩地名、南村山郡東沢村(現・山形市)の小塩沢地名などをもコシオウ関連地名の情報として扱われたのではないかと思います。

*『大江町史 地誌編=第二編 第二章』の「塩ノ平」項目には〔〈抜粋〉「塩ノ平の北に滝ノ沢及び葛沢があり、東は堂屋敷、西は原・所部と接している。北半にはカウカ原と呼ばれる河岸段丘があり、所部川が西の境となり、東は小貝塩沢が境となり、地形的にみて領域はわかり易い。」「塩ノ平の地名は村のカミ手から塩が出たからと言われるが、東端の小貝塩は月布川に近い凹地で、シオとは凹地から来たとする説もある。」「塩ノ平の三宝社と所部の腰王社との間でかつて喧嘩があり、そのため隣の所部とはずっと以前から仲が悪かったという。」〕がありました。
 塩ノ平の塩も凹地のことであれば、凹地の平タイラとは、何だろうか。
 「字寄図」に、“カウカ原”の北に字地名“塩ノ平”が見え、“小貝塩”の北東で月布川の川向こうに字地名“上川原”がありその北に“塩ノ平”が見えます。東西にある両“塩ノ平”とも狭い範囲の字地です。
 有料ネット地図で現在の塩ノ平地区の行政界を確認してみますと、塩ノ平の領域に両“塩ノ平”と思える場所がありました。“カウカ原”の北の“塩ノ平”が西側の塩ノ平になり、地図上の簡易的な計測では滝ノ沢公民館から西に約360mの辺り周辺にあり、南北約160b・東西約60bで面積約9400u・2850坪くらいでしょうか。この部分が塩ノ平の領域から飛び出した形になっています。
 東側の塩ノ平は、滝ノ沢公民館から東南東に約370mの辺り周辺にあり、この部分は塩ノ平の飛地の状態です。東西に約200b・南北には30〜60b程で面積約9000u・2730坪くらいでしょうか。
 現状は、西側は樹木が茂り、東側は農地のようです。
 “小貝塩”にあたると思われる場所は、現在の行政域では堂屋敷地域に含まれ、月布川に沿った樹木帯と農地になっているようです。
 これらの場所が凹地かどうか等は、実地を見てはいません。
*『地名を探る(大江町の歴史探訪)』(小関昌一:著、大江町:発行 平11・1999)の「塩野平」の項目に「塩野の地名は、新庄市や米沢市にもある。ともに平地でややたわんだ地形をなす。長く原野の状態が続き、草刈場や馬の放牧場となっていた。塩野平の東は、小貝塩沢で堂屋敷と境され、月布川に近い凹地となる。集落のカミ手から塩が出たという伝承もあるが、シオノは撓野シオノであって、低くたわんだ原野のある土地だろう。月布川がつくるカウカ原の段丘を、所部川が削って流れている。その低く平らになった地形に立地したムラ、これが塩野平だった。」とあります。
 探訪記録・村山2に記しましたが、大江町に隣接する寒河江市に平塩という塩由来とされる地名がありますので、このことにも注意を払う必要があるのではないかと思います。

 塩野平腰王前も所部の腰王社との関連地名であれば、旧本郷村に多くの腰王地名が点在しているのではなく、所部の腰王社に由来した関連地名が周辺にあるということになると思います。
 裏付けるものは今のところありませんので、検討課題になります。
 塩野平の腰王前は、腰王神社の東側になると思いますが、その位置関係で腰王前となるでしょうか。
 腰王の社殿が東を向いていれば、腰王前でもおかしくはないと思いますが。

 2013年の大江町の住所一覧のプリントの塩野平に関する地名には、“小貝塩”も“塩ノ平”も見受けられませんが、塩野平カウカ原はありました。
 所部に関する地名では、所部腰王原も所部鶴巻もあり、所部カウカ原や所部顔好表などもあります。
 字地名は、一様に同時期に発生した訳ではないでしょうし、用いられ方も一様ではなく、変遷したこともあったのではないでしょうか。
*塩ノ平が、「塩」関連の地名であったとすれば、顔好の小塩下も「塩」地名なのかも知れません。
 そうすれば、腰王原も元々は小塩原であった可能性もあるかも知れません。
 腰王神社は小さい山の上に鎮座しています。腰王原という地名は、腰王社に由来すると考えるのが筋でしょうが、腰王神社の山に関する地名ではないとも言えそうですので、小塩原としてあった可能性もあるかも知れなと思います。

 所部の腰王神を「おこしゅう様」と言うとのこととありました。
 おこしゅう様はコシオウ・腰王の変化したものでしょうか。
 『山形県地名録』で東村山郡豊田村の小塩地区(現・東村山郡中山町小塩)に25の小字地名が記載されていて、そのうちの2つの地名にフリガナがあります。そのひとつである小塩にはコシュウとフリガナがされています。小塩をコシュウと呼ぶのはめずらしいことなので、わざわざフリガナがされているのだと思いますが、小塩をコシュウと呼ぶ例があることになると思います。
 なお、25の小字地名の中に塩ノ原という場所もありました。
 中山町小塩は寒河江市平塩に隣接しています。
 この記事の始めの方であげた一覧表のとおり、川崎浩良が『美人反別帳』に記している地名でもあります。

 『所部村腰王縁起』中に、「我所部という里に同縁有、彼村へ行(き)さいど(済渡)せん、汝我を持去ルへし」があります。我は腰王ノ神、汝は修験の行者某。
 この「同縁有」の「同」とは何でしょうか。
 根拠のないことですが、所部にコシオウという地があったので、腰王神は地名コシオウの場所で祀られたいという意味にはならないでしょうか。 

*腰王の尊像は往古は中沢口にあったとされること、及び七軒村沢口の小姓戸地名があることについて、資料にあたってみます。
 『大江町史 地誌編=第二編 第一章・朝日山地の懐に抱かれた集落-七軒』の「沢口」の項目に〔「沢口の枝郷に中沢口と道海があり、沢口は下沢口と呼ばれることもあった。」「西林寺はもと山伏の寺であって、『最上記』に泉善院(真言)とあるのがそれであったらしい。〈略〉正徳四年(1714)の水帳には沢口に山伏が四人、行人が一人いると記され、朝日信仰との関係があったのではないかと考えられる(寒河江市史編纂叢書二四-二)。」〕の記載がありました。
 同書・同章の「中沢口」の項目に〔「沢口から南に大瀬川に沿って、一キロメートルのところにあり、集落は川の両岸にまたがって分布する」。「江戸時代は沢口の支郷で、寺は沢口の西林寺である。村の中に春海という行者がいて、竹の筒と串柿をもって地中に生き埋めになったと言われ、その場所は春海壇と呼ばれる。…」「村シモに大きな松の木があり、地蔵尊が祀られている。この境内には多くの石塔が見られ、葉山大権現、湯殿山、象頭山、八日塔、太神宮などで、馬頭観音も二基みられる。〈略〉中沢口には石塔が多い。」〕とあります。
 上記の引用で〈略〉としたところに、葉山講・金華山講・観音講・庚申講があって、庚申塔二基、観音堂があり念仏供養塔があり、山ノ神を祀り、稲荷明神を祀り、十八夜・子待・廿三夜などの日待講にかかわる供養塔がみられ、己待塔があることの記載があって、「中沢口には石塔が多い」に続きます。
 「沢口」と「中沢口」の項目には、それぞれ図が載せられていて、その図に「小姓戸」の地名が記されていますが、小姓戸にかんする説明や記述はありません。
*『地名を探る』の「中沢口」の項目に〔「村の西で畑になっているところは、かつて住宅があり縄文晩期の土器・石器が出土した。また北の『トガリ山』には、標高四八〇メートルに楯が築かれている。曲輪とたて堀があり、その麓に『小姓戸コショウド』の名がある。小姓戸は腰王堂コシオウドウのことであり、古代に越族がこの地に来住したものであろう。…所部腰王神社の御神体はここから移された。今の集落は小姓戸の対岸『仁王木ニオウギ』にある。」「山神社は村に三つあるが、うち社殿をもつのが二つある。一つは小姓戸にあり堂宇は一間半四方、樹齢七〇〇年というネズコがあった。他は西の『滝ノ沢』にあり大きい杉が四本、堂宇は一間半に二間の大きさ、一八世紀はじめの建立という。稲荷明神が合祀される。中沢口は沢口より上流にあることからきた。沢口は下沢口とも呼ばれ、上沢口はなく渓谷に『道海ドウカイ』がある。」〕の記述があります。
 この小姓戸の地名は腰王堂によるものとのことですが、小塩との関連、凹地の地形によるシオなのか塩なのかを含めて、他の可能性の考慮を排除しないほうがよいのではないでしょうか。

所部の腰王神がもとは中沢口に鎮座していたとすれば、中沢口について小姓戸の地名情報地として取り扱うのではなく、所在地情報の所部に関しての旧社地伝承として中沢口を記するほうがよいと思います。

*小清については、
『地名を探る』の「小清」の項目の文末に「コセは山陰の道のあるところで、峠を越す意も含む。小清はここからきた地名と考えられる。」があります。

◎所部の腰王神社は、社殿床下の大量の穴あき石が耳の病の平癒を願う信仰が広く行なわれていた証しを示し、小高い丘の上に鎮座していました。
 腰王の文字が使用されている由縁については不明です。
 本郷地区の腰王関連地名についても確認できていません。

 中沢口についても未調査です。


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