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探訪記録 山形  42 : 村山 17


佐藤リスト : リスト外
桑原リスト : 山形市小姓町

《探訪の準備》
*川崎『美人反別帳』に「山形市の小姓町の地名(米沢市にも小姓町あり)、下宝沢の小塩沢、風間の古志王山と小姓原を残している。」があり、「山形の小姓町は最上時代小姓を置いた土地であると言う人もあるが、小姓は部屋住みのもので、どこの大名でも城内に置くを例とし、特定の離れた場所に置く必要は無いのである。であるから山形の小姓町も元は古志王堂のあったことから起こった地名で、後に市区整理の際町に編入したものと思う。」と見解を述べています。

 桑原はリストに入れ、佐藤は地名リストにも入れていません。

*山形市観光協会の公式ウエブサイト内に「景観/ストーリー」に小姓町の記事があり,,「歴史を逆のぼると、最上義光公の時代は小姓衆の屋敷がある町であった。武家のなかで、小姓衆とは殿様に直接仕えるガードマン・市中の警備にあたる役割を持っているので、小姓町東南部に住む武家屋敷は『同心町』と称されていた。小姓町の南四辻あたりのことを『御蔵町』と呼んだ事もあった。小姓衆は若年寄の下で城下の巡回見張り役をつとめる事例も多い。小姓町の大門を行くと広い道路になり、クランク型に曲るが道幅が広い。この裏門通りのことを馬上町と言うが、小姓衆が乗馬訓練をしていた。(「松木枕」参照)〈略〉」の記載があります。記事の末尾に《山形町細見:山形商工会議所発行より》とありますので、その本が出典なのかと思います。
 これは、川崎の小姓町に対する見解への回答になるのではないでしょうか。

 山形駅の東へ直線距離で約1キロメートル強で小姓町に至ります。
 霞城公園の中央付近からは東南東方面に直線距離で約1.3キロメートル程となります。

《探訪の記録》
*2013年7月15日
 山形県立図書館に行き、小姓町も訪ねました。
 山形市郷土館の展示資料の中の「最上時代の町割」に「小姓町」が記されていました。
 山形城跡二ノ丸東大手門の中に「城下町山形 400年の移り変わり」と題された最上・保科・松平・松平・堀田・松平・秋元・水野の歴代城主の時代の城下町絵図が展示されていました。時代を越えていくつかの絵図に小姓町が記されていました。
 町の名前は、命名されたときから状況に変化があっても、引き継がれて残っていくことがあるものなのでしょうか。

 小姓町公園(道路の右側)


《探訪の整理》
*『山形県の地名』(平凡社 平2・1990)の山形城下の「小姓町」の項目に、「現〈◯の中に現〉山形市小姓町・十日町二ー三丁目・本町二丁目・諏訪町一ー二丁目・七日町五丁目」とあり、現在の範囲を示しています。
 本文は「明治五年七日町・蝋燭町・銀町・塗師町・桶町・檜物町・諏訪町の一部から成立した町で、七日町の南、ほか五町の東の地域にあたる。最上義光の時代には町立てされていたらしく、最上氏時代城下絵図ではほぼ前述の位置に『今小姓町』と記され、『此町氏家家中町南末迄三百九拾間 屋敷両方六拾七軒』とある。最上義光分限帳(色川文書)には十石から九十石までの知行をもつ歩行小姓の家臣団がみられ、元和九年(1697)小立村検地帳(山形県史)に名請人として小姓町在住の二人が載る。寛永十三年(1636)の保科氏領地目録では三筆に分けて当町の高が記されるが、保科氏時代城下絵図(県立図書館蔵)では町域付近に『諸奉公人 氏家町通』『同 故小姓町』とある。元禄十年(1697)の屋敷家数等覚(山形故実録)に当町はみえない。嘉永二年(1849)の山形社寺調町々高明細帳写(長井政太カ氏旧蔵文書)では、桶町のうち小姓町に新山寺・明善寺、七日町のうち小姓町に本久寺、同じく塗師町のうち小姓町に浄土宗西念寺・専念寺をあげ、各町に小字として残っていたと考えられる。〈略〉」とあります。

 『角川 日本地名大辞典 6 山形県』(角川書店 昭56・1981)の「小姓町(山形市)」の項目には、「〔近世〕江戸期の町名。胡姓とも書く。山形城下のうち。寛永13年の領地目録(家世実記)には『百六拾壱石四斗五升弐合同銀子町・小姓町浦間共』『拾六石八斗九合同小姓町、弐拾壱石五斗壱升五合同小姓町、壱石四斗弐升壱合同小姓町』とあり、『寛文印知集』では胡姓村と見える。『松の木枕』には『爰は小姓町とて昔は義光公小姓衆の屋敷と承る』として、町内の明善寺を紹介している(山形経済志料)。〈略〉」とあります。
 胡姓村という文字記載が元々のものであれば、小姓衆との関係が怪しくなります。
 胡姓は小姓の当て字なのでしょうか。
 『山形県の地名』で「寛永十三年の保科氏領地目録では三筆に分けて当町の高が記される」というのは、『角川 日本地名大辞典 6 山形県』で「寛永13年の領地目録」として記されていることを言うのだと思います。

 『最上家在城諸家中町割図』(最上義光歴史館 平15・2003)を見ると、「今小姓町」と朱色で書いてある通りの両側には住人名が書いてあります。その西の通りには朱筆で「今銀町」とあり両側は朱線で空白で町人地を示しています。「今銀町」の北には朱筆の「桶町 ヌリシ町」がありますが「今」は付いていません。
 「今小姓町」の二本東の通りには朱筆で「今スワ町通」とあり住人名が書いてあります。城外ではありますが家臣が居住しています。
 最上義光公の山形城の拡張と新たな町割りで、「今小姓町」のように新たに成立していった町がいくつもあったのではないでしょうか。
 その後、城主が代わり町の名前も変遷していくのでしょうが、小姓町であった名残が残り続けていったのではないでしょうか。

*米沢の小姓町*
 『山形県の地名』の米沢城下の「小姓町」の項目に、「現〈◯の中に現〉米沢市門東町一丁目」とあり、本文に「門東町の南東に位置し、同町に接続するコの字形の道に沿う上級家臣屋敷町。東・南は三の丸堀に接する。藩主の小姓衆が配置されたことからの町名。慶長十四年(1609)城下改編時、直江兼続は小姓衆親子は一所に居住させること、城から遠いと出仕に辛労であることなどを考慮するよう工事責任者平林正恒に命じており(歴代古案)、本丸へ利便の地に配置された。〈略〉」とあります。
 「門東町」は、「現〈◯の中に現〉米沢市門東町1〜3丁目・中央1丁目・城南1〜2丁目」で「東堀端片町の東にある上級家臣屋敷町。米沢城二の丸東の大手門を出ると大手馬出しと称される広場で、これに接続して南北に延びる道の両側町。慶長六年(1601)上杉氏が米沢に入部した後、同十四年までに行なわれた城下再編成により形成された。当町は町人町の大町が三の丸外に移された跡地に成立したといわれる。大手門を固める重要な地であったので、侍組の重臣屋敷と藩の役所が配備された。〈略〉」とあります。

 『角川 日本地名大辞典 6 山形県』の「小姓町(米沢市)」には、「〔近世〜近代〕江戸期〜昭和30年頃の町名。…江戸期は米沢城下のうちで侍町の1つ。…米沢城下の南東、門東町の南端に位置する。享保10年の御城下屋敷数書上帳(県史16)によれば、長さ57間・道幅2間、家数3軒、横町2筋、横町分家数4軒。弘化3年の屋敷割帳では家数3軒とあり、うち1軒は『大小姓、仁居津虎之助』の屋敷で、町名の由来もこれによると思われる。〈略〉」とあります。

 『文化八年(1811)米沢御城下絵図』(米沢上杉博物館)で見ると、小姓町は本丸の東南に位置し三の丸の堀が東から南に曲る角の内側にあります。
 本丸の東南側という場所は、山形城も東南の側にありましたが、山形城では堀の外側でした。
 米沢の小姓町は、現在は南部小学校の辺りになるのでしょうか。そこだとすると、本丸中央部までは直線距離で730メートル程になると思います。

*鶴岡の御小姓町*
 『山形県の地名』の鶴岡市ー鶴ヶ岡城下の「御小姓町」に、「「現〈◯の中に現〉鶴岡市若葉町」、本文に「鷹匠町の東にある郭内の家中屋敷地で、三の丸北の七ツ蔵と北西の溜池の間を南北に通る町筋。町名はおもに御小姓衆が住んだことによる。酒井氏入部後の城郭拡張の際、当町付近にあった村が新潟(形)村と舞台村に分れ、一村は城下北方へ、一村は東〈略〉」とあります。

 『城下町鶴岡』(大瀬欽哉)の挟み込みの地図「江戸時代の鶴ケ岡城」「鶴ケ岡城下絵図」によると、「三の丸北」は「二の丸北」の誤りと思います。
 鶴岡では、御小姓町は本丸の北に位置しており、現在では鶴岡南高校敷地の東側を通り鶴岡北高校の西側を通る道路が御小姓町の通りにあたるのではないかと思います。鶴岡北高校敷地の西南の角から本丸中央部までは直線距離で460メートル程になるようです。

 『大泉叢誌 第5集』(致道博物館編集発行 平31・2018)に「巻百三十一」の「一、鶴ケ岡藩士屋敷沿革記」がありその中の「御小姓町」には屋敷番号31〜51のそれぞれについて住人の移り変わりが記されていました。

 『江戸中期 鶴ケ岡城下絵図』(致道博物館監修 鶴岡書店組合発行 平23・2011)には「小姓町」と記され「御」が付いていませんでした。

 三ヶ所の城下町を見てきましたが、三ヶ所共に小姓町(御小姓町)があり、米沢と鶴岡は三の丸にあり山形では三の丸の外にありますが、一定の領域と場所を定めて町割りがなされていました。

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