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探訪記録 山形  32 : 村山  7


佐藤リスト 位置番号 27 : 東村山郡山辺町北山・湯舟 古志王神社 
                      備考)もと北向き、明治38年に西南向き、オコショ様
                     〈桑原リスト:なし

《探訪の準備》
*山辺町ヤマノベマチに古志王神社が存在する情報は、佐藤リストによって知りました。
 桑原リストにはありませんが、リスト発表の2年後の桑原文献リストには武田泰造 の『古志王神社』『山辺町郷土概史』が記載されています。

*『古志王神社』(武田泰造 昭41-5-25・1966、『山辺夜話』所収 昭48・1970)から引用すると〔「北山の湯舟に古志王神社という神様がある。北山では『おこしょさま』といっているが、どういう訳でここに祭られているかはっきりしない。」〈略〉「湯舟の古志王神社も元は北向きであったが、その由来を知らない部落の人々は、明治三十八年の建てかえの際西南向きになおしたのであった。」〕の記載があり、茅葺きの社殿の写真が載せられています。
 写真を見ると、社殿は向拝柱を持ち三段の階段のうえに床があり左右に縁があるようです。縁廻りに高欄はありません。屋根は方形にも見えます。社殿の背後に1本の杉の木が真っ直ぐ伸びて立っています。
 写真の下部に「蝦夷地の開拓を語る古志王神社(北山・湯舟)」と記されています。
*『山辺町郷土概史』(昭45・1970)−『第三章 郷土の開発と地方制度・その一 郷土の開発』に「我等が郷土北山字湯舟の古志王神社についてであるが、その来歴はわからない。…御多聞にもれず北面していたのであるが、明治三十八年の建てかえのときに、…西南向きに変更してしまったのである。」の記載があり、杉木立の中に立つ社殿の写真と箱状の物に入った三尊像のような神像を社殿の扉の前に置いて写したような写真が載せられています。
 これらの写真を見ると、社殿の前側に根元が斜めになって伸びた杉が2本見えます。杉の傾きかたからすると社殿に向って右側は斜面で高くなっているようです。
 三尊像のようなというのは、ごつごつとした台座の上に三体の神像が立っており、大きい中央の像に小さめの左右の像が組合わされているように見えるためです。中央の像は大きい両袖を垂らしているようにも見えます。写真を撮るために社殿の前に持ってきたのではないでしょうか。
 写真の下に「湯舟の古志王神社(御神体は今、山神である)」と入れられています。
 そうすると、この三神像は「山神」ということでしょうか。
 両書には古志王神社に関する解説や見解が記されており、ここでは引用をいたしておりませんが、社殿の北向きに関する征夷の観点ではない見解に注目をしたいと思います。

*『山辺町史 上巻』(山辺町史編纂委員会 平16・2004)=『第十二章・第一節 信仰と寺・ 二神社』の「中地区の主な神社」の項目で湯舟には葉山神社(山神神社)・腰王神社・子安明神の三社が記されています。
 腰王神社の記載から引用すると「E湯舟・腰王神社 腰王神社は新潟・山形・秋田・岩手・青森などにのみ分布する特別なものである。祭神は崇神天皇十年(…)四道将軍の一人として北陸に赴いた大彦命(…)であろう。古代、北陸地方に勢力のあった阿倍臣(…)一族が祖神大彦命を『越王神』として祀ったことが考えられる。社殿は北を向いているのが通例で、これは蝦夷追伏のためであるという。その他に『山の神』も合祀されている。〈(…)はカッコ内省略〉」とあります。執筆者未確認です。
 武田泰造の著作から征夷の観点ではない見解などを引用せずに、町史の記述を引用するのもいかがなものかと思いますが、普通にある説明はこういったものなのでしょう。
 「中地区」というのは、山辺町は昭和29年に山辺町・大寺村・中村・作谷沢村・相模村が合併して発足したので、その旧・中村の地区を言うのでしょう。
 その中村は、明治22年に東村山郡大蕨村・北山村・が合併したものとのことですので、湯舟は旧・北山村に属していたのでしょう。

 さて、北山湯舟のコシオウ社は「オコショサマ」と呼ばれ北向きの社殿であったのでコシオウ神であろうとされたのでしょうが、神名・社名は文字としては伝わってこなかったのでしょうか。
 文献の表記が「古志王」と「腰王」に分かれていることを見てそう思います。

*湯舟に三神社あるとのことですので、コシオウ社の場所を地図で探してみます。
 『平成の祭』には、山神神社が鎮座地を「東村山郡山辺町大字北山54−3(字湯舟)」として載っていますので、ネットの有料地図で住所を検索するとその示した場所に山神神社と記されていました。山神神社の場所が確認できましたので、この場所にある1社は除外できます。
 現在の住所の表示では、北山地区に湯舟の地名はありません。
 国土地理院の地図には湯舟の文字が記されており、そこに鳥居の記号がありますが、コシオウ社でしょうか。
 住宅地図〈山形県立図書館でコピー、年代未確認、古い住宅地図を出していただいた〉では、古峰神社とされていました。
 おそらくここではないかと思います。

《探訪の記録》
*2018年11月10日
 東村山郡山辺町北山地区にコシオウ神社と思われる場所を訪ねます。
 国土地理院の地図で湯舟の地名と鳥居記号のある場所、住宅地図に古峰神社とされている神社を目指します。
 西村山郡朝日町から県道18号線経由で向いました。18号線から北山地区方面に北上する道に入るとセンターラインの無い道になり、片方が山で片方が谷のカーブの多い道になりました。
 目的地周辺で車を停めて見渡すと、舗装道路から左に入る未舗装路の先に朱色の鳥居が見えました。
 舗装道路も狭く、車を駐車しておく場所が見当たりませんので、農道のような道に車を進めて、鳥居の近くに車を停めました。
 鳥居は道路からいくらも離れていない場所にあるのですが、道路との高低差がある崖の上のような土手の上のような所に鳥居が立っています。高低差は2メートルあるかないかくらいですが、角度が急なので、道路から鳥居へ真っ直ぐにあがりにくい状態です。
 どうしてこのような状態になっているのか分かりません。
 迂回して、鳥居に対して横から進み、鳥居を通らずに、鳥居の先の坂の上に見える建物に向いました。
 その建物には、社殿に向う通路が設けられていて、通路を通る際に建物には集会所のような部屋が設けられているのが見え、通路をぬけると石段がありました。
 石段を登ると、一間社流造り状の小社殿があります。
 写真で見た茅葺きの社殿は建て替えられたようです。
 社殿の扉の前に賽銭箱があり「奉納村社 明治◯◯年 □□△△」とあります。年号等を正しく判読することは難しい状態です。
 社殿は方位磁石によると南西方向を向いているようです。
 社殿の左右に、象頭山・太神宮・古峰神社・湯殿山・湯殿山供養塔の石碑・石塔があり、石祠等があります。 

 左上: 手前の舗装道路から中央に鳥居が見える           右上: 鳥居と手前の未舗装路
 左下: 鳥居の先の建物と樹木                        右下: 建物に設けられた通路  
 左上: 通路の先の石段と社殿                         右上: 社殿
 左下: 賽銭箱                                  右下: 石祠など


《探訪の整理》
 *湯舟の神社から戻り、朝日町の道の駅に立寄って休息していた時に、湯舟の神社の賽銭箱に「奉納村社」と書かれていたことが意識に浮かびました。
 村社ならばコシオウ社ではないかもしれないので、もう一度戻ろうかと迷いましたが、戻っても村社の確認をするだけになるでしょうから、次の予定に向いました。

*何故その時に重要なことに気が付かないのかと、我ながら情けない思いは、他の神社を訪問したときにもありました。
 気付かないことがあるので写真を撮っておこうと思うのですが、一通り写しても後で見ると必要なものが写っていないこともあります。
 賽銭箱の写真を撮っている時には、文字が書いてあるから撮っておこうと思っていて、村社とあるが年号は何だろうとは思っても、村社という賽銭箱のある神社の意味するものに思いをめぐらす余裕や客観性は無かったようです。
*思うに、初めて訪ねている神社で、誰もいない道を、あとどれくらいで神社なのか、どんな神社なのか、分からないまま歩を進めていますので、神社に到着しただけで、ほっとして、おおかたの目的を達成したかのような安堵感で、確認したい事や調べたい事などが抜け落ちてしまうのかもしれません。
 または、神社のたたずまいの持つ力というか、神社の放つ存在感とか、周囲の雰囲気とかに、気圧されるのかもしれません。
 人里の奥にある神社であれば、道は細く手入れが行き届かず、木々が繁り薄暗く湿気を含む、という場合もあり、心細さで冷静ではなくなっているのかもしれません。

*帰宅してから資料をあらためて見てみました。
 『山辺町史 上巻』に記されている湯舟の3社の「湯舟・葉山神社(山神神社)」には、山神神社の祭神は大山祗命で明治8年に村社になっているとあり、社殿の写真が載っています。その写真は、コシオウ社と思って訪ねた住宅地図では古峰神社と記されている神社の社殿とそっくりでした。
 『平成の祭』で確認していた「山神神社ヤマノカミジンジャ」の記述には祭神が大山祗命で鎮座地は東村山郡山辺町大字北山54−3(字湯舟)とあり境内社に稲荷神社があるとあります。
 この住所をネットの有料地図で検索すると、古峰神社の北西方向に1450メートル程離れた位置を示し、そこには山神神社と記されています。
 このことは確認していましたので、古峰神社の方をコシオウ社の候補とした訳です。
 『山形縣神社誌』を見ると、山辺町に9社記されていて、葉山神社の名はなく、北山では唯一「山神神社」が記載されています。
 同誌によると「山神神社」の鎮座地は山辺町北山字湯舟54−3、祭神-大山祗命、本殿-5.3坪、拝殿-8坪とあり、由緒に「正応年間、湯舟地内の半四郎という富者が白岩村羽山大権現を勧請したとされる(境内古石に献納銘がある)。慶安年間〈1648〜1652〉に半四郎の子孫相次郎その他で、現社殿に建替える(棟札が現存する)。宝永年間〈略〉拝殿を建てて〈略〉。五十間余の石段は〈略〉。明治八年八月、村社に列格する。」とありますので、この社が『山辺町史 上巻』の「湯舟・葉山神社(山神神社)」に相違ないと思います。同誌には、社殿を斜めに見た写真が載っており、この写真も地図で古峰神社とされていた社殿とそっくりです。

 いろいろ疑問はあります。
 もしかすると、古峰神社の茅葺きの社殿が古くなったので、山神神社の社殿を移したという可能性はどうでしょうか。
 山神神社の社殿によく似た社殿に建替えたということはどうでしょうか。
 神社名・所在地住所についての勘違いが、おこったのでしょうか。
 ネットの有料地図の示す「山辺町北山54−3」の住所が誤っているのでしょうか。

 いずれにせよ、地図で山神神社とされている神社を訪ねて社殿を見てみないとなんとも言えない、と思います。

《再訪の記録》
*2019年5月3日
 もう一度、山辺町北山の湯舟地区を訪ねました。
 『山辺町史 上巻』によれば、葉山神社(山神神社)と腰王神社と子安明神は湯舟にあるとのことですので、湯舟地区をもう一度よく探してみようと思ってのことです。
 湯舟周辺を地図を見ると、県道18号から湯舟地区に入ってきて軽井沢地区に抜ける道が湯舟を東西〈北東から南西〉に通っていて、その道に何本かの道がつながっています。
 古峯神社と記されていた年代不明の住宅地図を見ると、その古峯神社方面に向う道と北山集会所・公園と記された方面に向う道、等があり、それらの道は枝分かれしています。先ずこれらの道を一本一本探して、小路等があれば入って探してみようと思います。

 県道18号線の山辺町役場中支所の敷地内のトイレを使わせていただき、湯舟に向いました。 
 湯舟に通じる道路を進み、道路右側の『「楯の峯三十三観音」入口』の表示柱を過ぎて、西側から湯舟地区に入り、湯舟地区を南西側から北東側に横切っている道路のカーブを曲がって左側の家屋を越えると左側は道より低く少し空地があります。もう少し進むと、北山集会所・公園と記された場所に行ける北側に入る道があります。
 そこを通りすぎてさらに行けば、古峯神社と記された場所に向う道があります。
 車を停められる場所を探して駐車して、湯舟を探し始めました。
 ほどなくすると、社殿のような小さな建物が見えましたので、行ってみました。
 そこへ向うとご老人がいらっしゃいましたので、まずご老人に挨拶の声を掛けさせていただきました。
 そして、古志王神社・おこしょ様を訪ねてきたのですがご存じでしょうかと、『山辺夜話』の古志王神社の写真のコピーを見ていただいて、お尋ねいたしました。また、そこにある神社はどういうものですかとお尋ねいたし、お詣りさせて下さいと言いますと、一緒に来てくれました。
 見えたものは、間違いなく神社で、石材を二段に積んだ基壇の上にこったつくりの一間社流造状のりっぱな社殿が鎮座していました。
 ご老人のお話によると、お話しの半分くらいしか分からなかったのですが、以前は山中にあって人が入れる社殿であったが、山からおろしてここに遷座し社殿を建立して祀ったものとのことで、かつてはくず屋根だったようです。
 お話しからするとどうやらこの社殿はコシオウ神社のようです。
 昨年11月に訪ねた神社については、葉山神社とおっしゃっていました。

 この神社のかつての鎮座地は、湯舟を東西に通る道路の南側の山のなかにあったとのことです。
 山に入れば神社跡が分かるでしょうかとお聞きしましたところ、分かるのではないかとのことでした。
 行ってみますと言いましたら、その山のことかと思いますが、大きな木があったとお話しされていました。
 山のほうに向おうとすると、軽トラックが細い道をやってきましたので、手を挙げて車に止まっていただいて、乗っていたご夫婦にご老人にお聞きしたようなことをお尋ねいたしました。
 ご老人もご夫婦とお話しされ、この神社のことを確認されておられるようでした。
 ご夫婦によってご老人のお話の内容を裏付けていただいたと思いました。
 また、ご夫婦から、神社の遷座と社殿建立は山辺在住の方によるもので、その方がこの神社をお祀りされているとのことをお聞きしました。 

 道路の少し広くなっている場所の脇から山に登れるように坂道になっているところがあるとのことでしたので、ゴム長に履き替えてから、その坂を木の切り株や草や枝をよけて登って山に入りました。
 山のなかは起伏のある杉の林で、地面は杉の葉がびっしりと覆い、そこにシダがはえている状態で、道も無く、奥の方へ行ってみたのですが、神社跡を探すことはできませんでした。

 ご老人のお話によると、かつては湯舟には三十余世帯が暮らしており学校もあったとのですが、今では三世帯だけになったとのことでした。
 遠からずさらに厳しい状況になっていくのでしょう。
 思ってもいなかった事で、衝撃的な内容でした。
 昨年に訪ねたときには、お話しを聞ける方にであうことができなかったこと、訪ねた神社の参道のあれたようすもありましたが、このような状況に思いを馳せることはできませんでした。
 あまりにのんきに神社探しに来ていました。

 神社の向いている方角も神社の大きさも確認しないまま、北山学校跡を訪ねました。
 住宅地図で、北山集会所・公園と記されていたところです。
 かつてのグランドと思える場所に、幾つかの遊具がありました。
 湯舟地内をさらに歩き回ることをせず、地図に載っていた山神神社ヘ湯舟から北方面に向いました。

 左上: 山中から遷座し新たに建立された社殿               右上: 旧鎮座地の山への登り口
 左下: 山のなかの様子                           右下: 北山学校跡の石碑


*山神神社 
 ネット有料地図の住所検索で、湯舟の村社と思っていた山神神社の前に来ました。
 道路の広くなったところに車を駐めて、神社に向かうと1台の車がやってきて山神神社のそばに止まり、運転していた方がおりてこられました。
 その方は、山神神社の氏子の方で、今日が祭礼でその準備のために早く来たとのことで、これから氏子さんが集まってくるので、他の車も駐められるように私の車を道路に対して縦に駐めてくれるようにとのお話しでした。
 当方が、山神神社を訪ねてきたところで、祭礼の日に行き会わせたのは、いい日に来たと喜びましたところ、神社を案内して下さいました。
 山神神社の社殿は数年前の豪雪でつぶされてしまい、今は石宮になっているとのことでした。

 「山神神社」と刻まれた標柱が建っていてその脇の石段を登っていった境内に、新しい石の社殿が三段積の石の基壇の上に鎮座していました。
 基壇の背面には「山ノ神々社の由来」と題された石版に刻まれた神社誌が設置されていました。
 それによると「山ノ神々社は大山祗命を祀った神社で弘化四年三月十二日に建立されました。◯◯◯◯◯家の氏神であったが、事情により□□□□氏が敷地を提供し、以後遅根松山部落の村社として今日まで祭典を行ない、部落活動の中心として御堂では集会等を行ない しかし時代の流れにより昭和五十年頃より離村者が増え過疎の村となりました。村を離れても愛郷と信仰心により平成四年に山ノ神々社維持会を発足し、敷地のキャラの木の売却代金百万円を原資として修理等を行なってまいりました。しかしながら、平成二十三年の豪雪により社殿が損傷 全員協議の結果、由来ある御堂を解体して、石堂を建立する事としました。今後も愛郷と信仰の念が神社との結び付きによってこの御堂と共に続く事を念じます。 平成二十四年五月三日 旧遅根松山部落 山ノ神々社維持会 代表 ◯◯△△△ 副代表 □□□□ 施工 ・・・」〈お名前を伏せました〉
 朽ちない形で神社(ないしは鎮座地)と経緯を残していただければ、あとになって訪ね来る者も知る事が出来ると思います。

 氏子さんにお聞きしたところでは、境内に稲荷神社は無かったとのことです。
 また、このような石宮のことを万年堂と言うのでしょうかとお聞きしましたところ、万年堂と言うとのことでしたので、万年堂とは何かについて確認できた思いです。

 左: 山神神社の標柱と参道の石段                    右: 山神神社


《再訪の整理》
*先ず、ネットの有料地図の住所検索で「山辺町北山54−3」とされた場所にある「山神神社」は、「遅根松山」集落の神社であり、「湯舟」の神社ではないことがはっきりしました。
 『山辺町史 上巻』の「中地区の主な神社」に「G下松山・山神神社」として「下松山道路西側の『山神神社』という大きい石柱を右手にして階段を上がると、松山・遅根地区の氏神・山神神社が鎮座している。」と記載されている神社がこの社でしょう。
 住所検索のできる地図作成の為に情報を収集した担当者が、「山神神社」の立派な神社標柱に惑わされたか、この社の所在地と湯舟の山神神社(葉山神社)の住所を結び付けてしまったのではないでしょうか。
 有料地図の誤りということかと思います。
 湯舟の山神神社を古峰神社としたのは、そういった誤解があってのことかもしれません。

 2018年11月に古四王社ではないかと訪れた湯舟の神社は、明治8年に村社になった葉山神社と呼ばれている「山神神社」でした。
 境内に稲荷神社とわかる社殿はなかったのですが、社殿に向って左側の手前の石祠がそうかもしれません。

*今回の再訪問で、コシオウ神社を確認できたと思ったのですが、戻ってきてからはたしてコシオウ神社なのだろうかと不安になりました。
 湯舟をよく探そうと訪ねたのですが、隅々まで探したとは言えず、湯舟にある3社を確認していません。
 「葉山神社」は確認できていますので、「子安明神」が確認できれば、「腰王神社」が確定できると思うのですが。
 『山辺町史 上巻』での「F湯舟・子安明神」の項目に「…すぐ傍らに周囲を暗くするほどのケヤキの大木があり」の記載がありますので、ご老人が大きな木があったとおっしゃっていたことが気になりはじめました。

 コシオウ神社と思われる社殿のすぐ近くでお聞きした方々のお話しの流れと内容で、コシオウ神社と思ったのですが、ご老人からもご夫婦からも「この社はコシオウ神社です」というような明確な神社名の確認は得ていませんでした。だめ押しの聞き取りができていませんでした。
 また、調べてこなかったので印象ですが、社殿の向いている方向は西〜西南ではないかと思います。
 そして、社殿の大きさは、3尺の石材を組んで基壇が作られているのではないかと思います。

 どうしてだろうと思うほど、落ち度だらけです。


《腰王神社-管理責任者様御提供資料について》
*私の調査が不十分で、湯舟を2度訪ねながらコシオウ神社を確認しきれていません。
 その確認がいつ出来るかわかりませんので、コシオウ神社と思うが確実ではないというところまでの探訪記録を記事にしておきたいと考え、《再訪の整理》までの原稿を書きました。

 コシオウ神社と思われる神社は個人の方がお祀りされているそうですので、そうであればその方に記事内容の確認とホームページへの公開の承諾を求めておかなければと、湯舟でお聞きしていた事柄をもとにネット検索を試みましたところ、その方に関連があると思える情報が見出せました。
 関連情報のところに手紙をお送りすればその方の目に留まるかもしれません。そうすれば、湯舟の神社はコシオウ神社かどうか確かめる事が出来ると思いますが、私の個人的な都合で見ず知らずの方に一方的な手紙を送るというのは不躾な行為という躊躇もあったのですが、思い切って手紙を出させていただこうと思いました。
 湯舟の探訪記事の《再訪の整理》までの原稿とホームページの資料などを添えて、問い合せをさせていただきたい事をいくつか記して、差し支えなければご教示を賜りたいという手紙をお送りいたしました。
 幸いなことに、神社の管理責任者様の目に留まり、有り難いことにメールを頂戴いたしました。〈個人がお祀りする神社のお祀りする筆頭者の方をどのように表記したらよいか迷い、管理責任者とさせていただきました。〉
 メールの内容は、神社に関する資料を準備するのに多少時間が必要な状況にあること、ホームページに掲載するならば出来るだけ正確な情報での掲載をお願いしたいこと、掲載の了解はその資料の検討のあとのことに、というご趣旨と受取らせていただきました。
 そのメールで、神社の経緯についての概要のご説明をいただき、添付ファイルで資料を送っていただきました。
 私の勝手な問い合せに対して、ご多忙中にもかかわらず丁寧なご連絡をいただいた事に、本当に有難く感激いたしました。
 その後、別便で多くの資料をお送りいただき、資料についての説明や解説を添えたメール、お心遣いのメールを頂戴いたしました。
 さらにその後に、もう一度追加して資料をお送り頂きました。
 身に余るご厚意に、このようなこともあるのだなと、感謝しております。

 もし、2度目の湯舟訪問で尋ね当てた神社が「腰王神社」であると確認が取れていたら、神社の管理責任者様には記事内容の誤りの確認と掲載許可を求めただけだったと思います。
 どうして湯舟での探訪はうまく進まないのだろうと思っておりましたが、うまくいかなかったことが思いも掛けない出来事につながり、何が幸いするか分からないと感じ入っております。

《腰王神社について 1》
*お送りいただいた資料によって、湯舟の腰王神社について記していきたいと思います。
 記事内容は、私の理解するところによるもので、文責は私にあります。
 私は、コシオウ神社の所在地情報にもとづいて、そこに存在するかどうかの確認を探訪の主要な目的としておりますので、その範囲で必要な情報を記載したいと考えております。
 また、社殿内部や御神体の写真を撮影すること掲載することを通常は避けております。
 とりわけ、個人のお祀りする神社については、お名前や場所を伏せるようにし、写真も最小限にしたいと思っております。

*神社の管理責任者様をM氏とさせていただきます。
*M氏よりの最初のメールでお知らせいただいた神社の概要によりますと、湯舟の神社はまさに山中の旧社地から遷座した「腰王神社」でした。年1回のお祭りを旧暦の3月15日に行なっているとのことです。
 木造立像を腰王様としておられるそうです。
 腰王像他に汚れや虫食いがあり、平成28年から29年にかけて修理と燻蒸処置を行なったそうです。

*別便でお送りいただいた資料は、M氏による解説と有限会社東北古典彫刻修復研究所作成の平成28年9月付けと平成29年4月付けの2種類の冊子、並びにM氏のご尊父の書籍、旧鎮座地を記入した地図、等です。
 有限会社東北古典彫刻修復研究所による2冊子は、M氏の先のメールにあった平成28年から29年にかけての修理と燻蒸処置に関する報告書で、平成28年9月付の報告書では木造立像と他の神像や木札などの所蔵資料並びに社殿についての検討がなされ、現況と損傷状態及び修理案について提案がなされています。平成29年4月付けの冊子は作業の報告書で、修理前の御像の状態の詳細と施工内容及び修理後の状態、並びに所見が記されています。
 各冊子に写真が添付されており、御像や木札などの写真を見る事が出来ました。
 〈この2冊子の写真を、以下「報告書写真」と表示します〉
 ご尊父の書籍は、ご尊父の急逝後(平成7年3月)に編まれた『莫大小人生』(平成11年3月発行)で、扉に続いて写真が数頁載せられており、目次前に置かれた「ごあいさつ」に「故人が生前に書き留めていた創業三十年の記録やメモ、さらには親しいかたがたとの会話の中から想起してくださった数多くのエピソードなどを整理しまとめました。」とあります。
 数頁の写真は、創業された会社に関連するものが主ですが、元北山小学校や葉山神社や腰王神社などの生まれ故郷に関する写真も載せられていました。
 〈この書籍の写真を、以下「書籍写真」と表示〉
*追加してご送付頂いた資料は、旧社殿の時の各神像と棟札などの24枚の写真のカラーコピーと住宅地図の1991版・1993・2002・2007・2011・2015版の年代毎の湯舟部分のコピーです。
 〈この24枚の写真を、以下「旧社殿時写真」と表示〉
 この資料によって、新社殿への遷座以前の旧社殿内の各神像のようすをうかがい知ることができます。
 また、平成3年から平成27年までの四半世紀の湯舟地区の移り変わりが住宅地図に記されています。
 貴重な資料をお送り頂きました。

*湯舟の世帯数は平成末には三世帯になっていたのですが、そのような状況が進行するなかにあって腰王神社は社殿を新たにして山腹から平地に遷座しお祀りされています。
 その事の経緯がM氏による解説とご尊父の書籍などによってうかがい知ることができました。

 事柄の流れとして記せば以下になると思います。
 腰王神社をもともとお祀りしていたのはM氏家の大本家にあたる湯舟のM大本家でした。
 M大本家は昭和40年代に山辺町の中心街に居を移されました。
 M氏のご尊父がM大本家の湯舟に在ったときのあとのものを引き継ぐことになりました。
 そこには、経緯もありご縁もあってのことでしょう。
 湯舟では、昭和45年に北山小学校が統合により廃校になっています。
 そうした湯舟の状況のなかでも、腰王神社の祭りは、地区の人達が集い合い供物を持ち寄り地域の安全・家人の健康を祈って、続いていたそうです。
 個人の祀る神社ですが、神社のお祭りへの集落の人々の係わりの様子から集落で信仰される神社であることがうかがえます。
 集落で続いていた腰王神社のお祭りは、集落の世話人とご尊父の奥様が一緒になって考え主催していくようになり、神社をお祀りすることがM氏家に引き継がれていきました。
 ご尊父が急逝され、M氏が腰王神社を含めて引き継がれました。
 山中の杉林のなかにある腰王神社は、雪害による損傷や茅葺屋根の補修の困難等から、社殿の新築と遷座(平成10年4月)となりました。
 平成28年から29年にかけて修理と燻蒸処置がおこなわれました。
 およそこのような流れで現在に至っているようです。

*もともとの祀り主の家が移転した後で、たとえ集落の信仰をあつめお祭りが行なわれていたとしても、過疎化の波の中では、腰王神社は顧みられなくなり忘れられ朽ちていく事になっていても不思議ではないと思います。
 M氏のご尊父が引き継がれ、奥様が祭りを支え、ご子息であるM氏がそれを引き継ぎ、社殿を新たにして遷座し、お祭りを続け、維持補修をしていればこそ、現在も腰王神社は祀られて存在しています。
 こういうことは、なかなかのぞめない希有な例と思います。
 その事を思いますと、そもそもM氏のご尊父はなぜ引き継いだのかということになるのですが、それはご尊父の生い立ちや生き方や故郷への思いなどに触れることからしか理由を導けないと思いますので、そのようなことは私にはおこがましいことで、控えたいと思います。

*M氏家に引き継がれた腰王神社ですが、元の状態での維持が難しくなり、ご尊父は神社の大改修を考えておられたようですが、ご尊父から引き継いだM氏は御母堂と御母堂の親戚筋の材木屋さんと相談して、神社の建築を依頼されたとのことです。
 M氏の解説から引用して記しますと、製作は寺社仏閣建築の経験が豊富な棟梁のもと、材木屋さんの施設内で「部品作りから始めて平成9年3月30日に神事を行なってから組立てに入り、11月8日には関係者で完成の祝宴を開きました。冬を越し、台座の完成を待って平成10年4月9日に搬送設置、4月11日(旧3月15日)に開眼となりました。」
 「遷座式は、昔から崇敬している山形市…天台宗…住職よりご祈祷、木札のお記しをいただきました。」〈住所・お名前などを伏せました〉
 神社の方角については、コシオウ様と言うことで北向きを勧められもしましたが、「昔はそうだったとしても先祖からお預かりした現在向いている方角で遷座したい」と、M大本家の屋敷の跡地にいままでの方角に合せて遷座するという結論を出されました。
 こうして、腰王神社は新社殿を建立し現在地に遷座しました。

*神社の向きについて、旧神社と鎮座地を実際に体感されておられるM氏は、私見として「〈明治三十八年の立替えで〉なぜ北向きにしなかったのかという事ですが、単純にスペースの問題では」として「従来の場所にあの大きさ〈の旧神社〉を建立するためには土地を広げるか向きを変えるかになります、結果的に北向きに出来ず土地に合せたために中途半端な向きになったのではないか」と記されています。
 旧神社の大きさは「書籍写真」を見ていただくと想像できるかと思います。
 旧社地付近の地図を見ると、等高線が南西の向きです。土地に合せて、傾斜の方向に合せて、社殿を造営したのでしょうか。
 写真と地図を載せます。

 左上: 「書籍写真」=旧腰王神社                       右上: 「書籍写真」=現腰王神社
 左下: 「書籍写真」=北山小学校−移築後                 右下: 「書籍写真」=葉山(山神)神社
               下は在りし日の写真                              《探訪の記録》の写真をご覧下さい

 *カシミール3D・解説本の地図 1/25000図にマーク記入: 
 旧村社・葉山(山神)神社、 その下方やや左の−腰王神社旧鎮座地、 −北山学校跡
 −山神神社〈ネット有料地図の住所検索で示された場所〉

 地図を拡大: M氏の情報によるとのあたりが旧鎮座地と思います。



 *『山辺町郷土概史』の写真: 《探訪の準備》のなかでふれている写真です。

*『山辺町郷土概史』の写真〈以下『概史-写真』〉は、箱状のものに納められた三神像が社殿の扉の前に置かれた状態で撮影された写真のようです。
 公表されているこの写真で、腰王神社の神像を承知していたわけです。
 M氏の資料によって、旧社殿には腰王様の木造立像と『概史-写真』の三神像が社殿に祀られていることが分かりました。
 何故この『概史-写真』に三神像が写され、腰王様は写されていないのでしょうか。
 腰王様の撮影をはばかったのでしょうか。
 『概史-写真』の下部に「湯舟の古志王神社(御神体は今、山神である)」と記されていることの意味は何でしょうか。
 「湯舟の古志王神社」とだけ記されていれば、三神像はコシオウ様ということでしょう。
 (御神体は今、山神である)と注記があれば、三神像が御神体の山神ということになると思いますが、なにか別の意図があるのでしょうか。
 このように書かれていると、御神体はコシオウ様から山神様に変わって、今はコシオウ様は無いのだろうと思ってもしかたがないのではないでしょうか。
 御神体が山神様に変わったのは、明治三十八年の建てかえと社殿の向きが変わったことと関連があるのだろうか、とまで想像がひろがるのではないでしょうか。

*M氏からお送り頂いた「旧社殿時写真」を見ますと、社殿内に紫の幕があり、その奥に段が設けられ、中央に腰王様の立像があり、向って左に三神像が祀られています。
 腰王様は、屋根をともなった簡易的な木製の宮に祀られていて、冠をいただき彩色があり、右手に剣を持ち、台座の上にお立ちです。
 観音様のお姿のようにも思えます。
 「旧社殿時写真」の三神像は、『概史-写真』と同じに見えます。
 上部が三角形の箱状の簡易的な宮の中に台座の上に祀られています。
 三神像の足元の左右に小さな大国様と光背をもつ小さな坐像があります。
 像を台座からおろして個々の像を一体ずつ写した写真があります。
 三神像はともに立体的な像で鎧をまとい頭髪が逆立っているように見えます。手の先が無く持物は不明です。袖の袂が長く振袖のようです。
 M氏は、「三神将」と記されています。
 三神像には共通するところも多く似ていると思いますが、大きさはそれぞれ違いますしお顔だちも肩の線なども異なっているように見受けられます。
 三神像を台座からおろして宮の内部を撮った写真があり、宮の奥の壁板の上部から棟札がさげられています。
 M氏の解説によると、この棟札は文化三年の棟札と思われます。
 棟札の文字を、この写真と平成29年4月付けの「報告書写真」とあわせて見てみますと、棟札は上部山型の縦型木札で、写真では文化三年の文字は薄くなっており判読できませんが「丙寅三月吉日」は読み取れます。
 「奉勧請山神大権現子孫繁昌悉地成就処」と読めるようです。
 右下に「北山村」、左下に「施主 ◯◯□□」とあるようです。施主の◯◯は姓、□□は名です。姓の記載がありM氏と同姓です。「奉」の文字より上に文字があるようにも見えますがはっきり分かりません。
 裏面は、中央に梵字三つの種子、右下に大工◯◯△△△とあります。大工の◯◯は施主と同じM姓です。 文化三年に山神大権現を勧請したという棟札のようです。
 これが山神の宮に取付けられていたのですから、三神像は山神ということになります。
 宮は文化三年の山神勧請の時からのものか、三体の神像が文化三年に祀られたかどうかは分かりませんが、そうではないとする伝えなどは無いようです。
 この山神は、どこに勧請されたのでしょうか。
 腰王像と山神像は同じ社殿内に祀られていますので、腰王神社に合祀する形で山神を勧請したのでしょうか。
 木札の裏面に大工名がありますので、腰王神社とは別の場所に山神様の社殿をあらたに建立して勧請したということもあり得るのではないでしょうか。
 山神の神像は何故三体で祀られているのでしょうか。
 かつて、他にも山神を祀る社があって、何らかのことで、例えば明治期の政策の影響で、合祀されたという可能性はないでしょうか。

*平成28年9月付の「報告書写真」によれば、現社殿では中央の腰王様に向って右側に三神像が立ち並んで祀られています。
 三神像の納められていた宮と台座は見受けられないようです。
 棟札は宮から外されたようです。
 腰王様は旧社殿の時のように、中央に置かれた宮に祀られています。

*木札類の写真は他にも横型の板に「記録」と題した木札があります。
 「記録 一〈イチ〉腰王大権現 御堂立替 明治参拾八年 旧拾月吉日 建築 別當 ◯◯□□」とあり、別當とあり、◯◯はM姓。裏面は「大工棟?」とあり「山辺町住人 ◯◯◇◇◇ 建之」とあり、◯◯はM姓です。
 腰王大権現の御堂立替を明治三十八年に建築という記録のようです。
 旧暦の拾月吉日とありますので、冬を迎える頃から建築を開始したとは考えにくいので、明治三十八年に御堂の立替えの建築が完了した記録でしょう。
 他にも、明治三十九年旧三月拾五日の上部山型の縦型木札があり「奉開眼腰王権現護摩供子孫長久祈攸」、開眼導士 和光院、社主 ◯◯□□殿」とあり、◯◯はM姓で前年の記録の木札に同じです。裏面は「東村山郡山邉町 大工◯◯◇◇◇、◯◯はM姓で前年の記録の木札と同名です。導師のお名前等の記載があります。〈当然ですが、すべて縦書きです〉
 腰王神社の例大祭に合せて開眼の護摩の儀式が執り行なわれたのではないでしょうか。

*現在の腰王神社の遷座式は、平成10年旧暦3月15日とのことですが、新社殿は平成9年11月に完成しており、翌年の春に台座が完成し社殿を搬送設置して、神社例大祭日に遷座の儀式が執り行なわれています。
 この時の木札は「奉 再建腰王大権現尊堂一宇願主家門興隆子孫長久・・・」とあります。
 木札には「開眼」の文字はありません。
 「開眼〈カイゲン〉」とは辞書的には、新しくできた仏像や仏画に魂を入れること、となるのでしょうが、神仏を遷す際にいったん魂を抜いて新しい所に安置して魂を入れることも開眼(供養)と言っているのではないでしょうか。
 M氏は、この3月15日の儀式を「遷座式」とも「開眼」とも記しておられます。

 平成時代の2年にわたる社殿の建替えと遷座を事例とすると、明治三十八年の御堂立替の建築と明治三十九年の開眼法要は一連のことかもしれません。
 明治三十八年の建築についての木札は横型の長方形の板で、「記録」とあり、再建の儀式のものではないようです。
 明治三十九年の「奉開眼腰王権現護摩供…」の「開眼」は、「腰王権現」の御像をあらたに作って魂を迎え入れたことを示していると考えるのが普通のことに思います。
 社殿を立替えたことが、あらたに御像を作って祀るという契機となったのではないでしょうか。
 腰王像の製作を依頼し完成を待って、春の例大祭に開眼の儀式を行なったということは、あり得るのではないかと思います。
 そうであれば、依頼先から納められた御像が木造立像の腰王様の像ということでしょう。
 何故腰王様の像を新たに依頼したかということについては、自然石をコシオウ様の御神体としている例もあり腰王様の像がなかったか、像はあっても劣化していたか、何らかの理由があったのでしょうが、伝わってはいないようです。

*木札の文言をどのように受取るかによって、いろいろの仮説が思い浮かびます。
 もしも、「開眼」があらたな腰王像の開眼ではなく遷座に伴う開眼であったとしたら、明治三十九年の「奉開眼腰王権現護摩供…」の「開眼」は、腰王神社の立替えと遷座を示しているのではないかと思います。
 明治三十八年の立替え建築の新社殿は旧歴10月には完成しましたが、年のあらたまった春の例大祭日を待って、明治三十九年に「奉開眼腰王権現護摩供…」の儀式を執り行なったという可能性はないでしょうか。
 山中の旧社殿でともに祀られていた腰王様と山神様ですが、もともとは腰王様を祀る御堂と山神様を祀る御堂はそれぞれ別の場所にあって何時の時代かに合祀されたとすると、合祀が行なわれたのは明治三十八年の腰王様の御堂立替えの時ではないでしょうか。
 腰王神社は、「神社合祀」令の影響とか物理的な事由とか、何らかの理由で遷座となり、旧社殿の場所には湯舟M大本家の祀る山神神社が、旧村社の山神(葉山)神社と同じ南西向きで、存在していたので、そこを遷座先とした。
 そこに山神神社の向いていた方角を変えずに腰王様と山神様を合祀して祀る大きさの御堂を建立し山神様を合祀して遷座した。
 そういう可能性は皆無でしょうか。

 この仮説は、社殿の立替えを遷座によるものとしていますが、社殿の老朽化で社殿を立替えることになったのかもしれません。
 腰王様と山神様がもとは物別の御堂に祀られていて、その後に合祀されたとしても、腰王様の御堂のところに山神様が遷されるかたちもあり得ます。
 「開眼」を遷座にともなうものとすると、腰王様の立像はいつの時代に祀られたのかという疑問がでてきます。
 新たな御像の開眼と、御堂の立替え遷座との、どちらかが行なわれたのではなく、立替え遷座と新たな御像の開眼の両方とも行なわれたということも、可能性としてはあるかもしれません。

*平成12年(2000)10月に湯舟の腰王神社を訪問された天童の郷土史家K氏によると、地元の古老のお話として「前は〈古老の家から〉東側の山腹にあったが、道路拡幅によって〈神社に〉登りにくくなって下に移転した」「〈社殿中央の〉木造立像が腰王様」「〈腰王神社脇の石宮は〉三宝荒神とおさんのさま(産神)」とのことで屋根のある石宮が三宝荒神であろうとのことでした。
 また、穴あき石が段ボール箱に多くあって神社の基壇の中に納められていたそうです。
 M氏によると、「古老」は湯舟で腰王神社の管理を遷座前からしていただいていた方とのことですので、よい人のお話しを伝えていただいたと思います。

*この記事の《再訪の記録》のところに「湯舟地区を南西側から北東側に横切っている道路のカーブを曲って左側の家屋を越えると左側は道より低く空地があります。」「もう少し進むと」旧北山小学校方面に「行ける北側に入る道があります。」と記しています。

 *〔写真−道路〕

 上の〔写真―道路〕は「カーブを曲って左側の家屋を越え」た先の所で逆側から撮っていますが、家屋と道路の関係は分かると思います。「左側の家屋〈写真では右〉」が道路よりかなり低い土地に道路に接近して建っています。
 住宅の建つ地面に比べると道路の位置の高さが不自然と感じていました。
 カーブを曲って旧北山小学校へ向う北側に入る道の辺りまで、道路は宅地より高い所にあります。
 家屋と道路の関係をみると、このあたりの道路がもともとあったのか疑問に思います。

*道路拡幅があったそうですが、湯舟部分の住宅地図の2002年と2007年を比べると、あきらかに集落を横切る道路に変化がみられます。
 2007年には、集落を横切る道路が旧北山小学校へ向う北側に入る道と交差するところもなだらかになり、集落を横切る道路は西から東に一本の道としてつながっています。
 2002年までは、集落を横切る道路は西から来る道と東から来る道が、旧北山小学校へ向う北側に入る道の所でそれぞれの方向から接続して、この接続点で集落を横切る道路がへの字の形に折れてつながっています。
 集落を横切る道路は一本の道というよりは、それぞれの道が旧北山小学校へ向う北側に入る道の所で折れ曲がってつながったように見えます。
 2002年以降2007年までに、道路拡張が行なわれたようです。

*2018年11月に旧神社跡を探しに山に入った時に道路脇から登った道は、旧神社には背後側から近づくことになると思いますが、旧腰王神社の正面の右手に小石祠があったそうですので、旧神社に行くために通る本来の道として旧神社の正面にむかう道があったと思います。
 この改修工事ために、神社に登りにくくなったのでしょうから、神社へ正面から向う本来の道は姿を変えてしまったのではないでしょうか。


《腰王神社について 2》
*湯舟の腰王神社は、「腰王」と表記しています。
 山形県では、大江町所部・大江町三郷乙・朝日町中沢・山形市長谷堂・上ノ山市上生居に腰王神社ないし腰王堂・腰王山の地名があります。
 所部・三郷乙・中沢には、穴あき石が奉納されていました。
 湯舟の腰王神社にも、穴あき石の奉納があったそうです。
 長谷堂には、完全な穴あき石ではないのですが穴のある石が納めてありました。
 上生居の社は現時点で探せていません。

 腰王と表記し穴あき石を奉納する神社との関連が考えられるのではないでしょうか。

*湯舟のコシオウ神社は、腰王神社と表記し、その表記は『山辺町史 上巻』の通りでした。
 武田泰造の著作では「古志王」としていました。
 『山辺町郷土概史』に「漢字で書くときには古志王の他に、越王・腰王・巨四王・古四王・小子王など多種多様」とし、『山辺夜話』に古代史の「越国・越族との関連を伺える」とあるような自身の見解として、そのような神社としてコシオウの神を祀る神社に越を古志と表記して「古志王」を採ったものと思われます。
 腰王と表記していることをご存じなかったとは思えませんが、何故湯舟の神社の固有の表記を示すこと無く、湯舟の神社に古志王という表記を用いたのでしょうか。
 『山辺町郷土概史』では「…所部の腰王神社の…」と記しているのです。
 固有の神社名はその表記を尊重すべきと思います。

 山形のコシオウ関連文献には、「古志王」表記を採るものが見受けられます。
 川崎浩良の『古志族の検討』(昭22・1947)にあげられている古志王表記の社は、大江町所部の古志王社・東根市野川・天童市高擶・温海町五十川・〈鶴岡市〉谷定があり、県外では新潟県古志郡・新発田市五十公野及び福島県耶麻郡慶徳村があります。『美人反別帳』では、鼠ヶ関についても古志王神としています。
 大江町所部の社の表記は腰王で、温海町五十川・〈鶴岡市〉谷定は古四王です。東根市野川は「こしほのやしろ」と表記された記録はありますが廃社により現存せず確認できません。天童市高擶・鼠ヶ関は存在が不明です。
 新潟県古志郡にコシオウ神社の存在は確認されていません。
 五十公野は明治以降は高志王に改めていますがそれ以前は古四王で、福島県耶麻郡慶徳村は古四王です。
 川崎が古志王と表記した社は、ひとつも現存が確認されていません。
 私が、コシオウ神社の所在地情報を一つ一つ実際に確認しようとしたのは、こういったことも一因です。
 ただ、川崎は情報の不明確な社名に古志王を用いている場合が多いようです。
 『古志族の検討』には、小四王・巨四王・古四王・腰王・等と神社の固有の表記で記載しているところが多く見受けられます。

 法人の神社には、『平成の祭』の検索に該当がありませんので、古志王神社も腰王神社も見受けられません。
 古志王神社という神社はないのかというと、新潟県の旧中蒲原郡村松町に3社と旧豊栄町笠柳に1社存在が認められます。
 旧豊栄町笠柳は新田村で神社の勧請は元文2年(1737)を遡ることはないと思います。

*湯舟に腰王神社が実在しました。
 個人の方がお祀りする神社ですが、集落の方々に信仰されていました。
 木造立像を腰王様としてお祀りしています。
 かつては、湯舟集落の南側の山中に鎮座していましたが、平成10年に社殿を新たにして平地に遷座しています。
 腰王神社を祀る管理責任者の方が替わるということがあり、集落に居住する方も少なくなりましたが、祭りは毎年執り行なわれております。

*「湯舟」の読み方は、『山形県の地名の読み方』(山形放送 昭40・1965)によると「湯舟第一、湯舟第二、湯舟第三」があり「ゆぶね…」と読ませています。

 多くの資料を拝見でき、時を超えた資料から、ああだろうかこうだろうかといろんな思いが浮かび、コシオウ神社の存在確認からは外れる想像や可能性でしかない事まで書いてしまい、長くなってしまいましたが、そのままにいたしました。



《 追記 》
*2022年04月10日(日)
 腰王神社の旧鎮座地を確認したいと思っていました。
 ようやくあまり心配せずに出かけられるようになってきましたので、山形へ出かける準備をいたしました。
 腰王神社の旧暦3月15日のお祭りの日には都合が付かずに行けませんので、天気が良ければお祭り前の日曜日に出かけようと予定しました。
 幸いに天気が良く、北山湯舟を訪ねることができました。

 集落のあちこちを見ておきたいと思い、北山学校跡に向うと、洗車をしていた集落居住のご婦人に出会い、お話をさせて頂きました。
 湯舟には、現在は2世帯がお暮らしとのことです。
 旧村社の葉山(山神)神社の近くの、山辺町の文化財になっている大モミを訪ねますと、モミの木の手前の住宅で雪囲いを外しているご老人がおられました。
 ご挨拶とお話をさせて頂き、残っている雪を踏んでモミに向いました。
 雪が残る畑の周囲に水芭蕉などが咲いていました。花はお手入れされているそうです。

 大モミ と 看板


 腰王神社の社殿に参りました。
 近くにあった建物が解体されていたり、変化が見受けられました。
 畑作業などに来ていた方が複数人いらっしゃいました。お一人に旧社地についてお伺いしました。
 道路脇まで来ていただいて、山のどの辺りに旧社殿があったか教えていただきました。
 山に神社があったときは、山に向って右手の方に登る道があったそうですが、今ではそこを行くのは大変だとのことでした。
 むろん旧社殿の下のあたりから直に登ることはできることではありませんので、前回に山に登った左側の方から斜面を登って、山に入ってから道路側の方へ回り込むように進んでいきました。
 そうすると、あまり広くはない平坦な場所があり、その端あたりに石が幾つかあって、ここが旧社地であろうと思える場所に行き着きました。
 旧社殿の背後側から旧社地に至ったということになると思います。
 旧社殿は、右側面を山の高い方に向け、左側面を集落側に向けていることになるようです。
 旧社地の広さからすれば、旧社殿の正面を集落に向けて建てることには無理があると思います。
 旧社地から集落の方を眺めると、杉木立が視界を邪魔しますが、木立の間から集落が見えました。
 旧社殿の正面に続いていたであろう参道は判然とせず、かつての参道をたどることはできませんでしたが、登ってきた道を通らずに、旧社殿正面を後ろにしていくらか進んでから、急な斜面を下りて、道路に戻りました。
 旧鎮座地の場所は、先の記事で地図にマークした場所を修正する必要はないと思います。


 左上: 社殿(露出補正) 右の白いものは残雪             右上: 旧社地の端に石() 
 左下: 旧社地                                右下: 樹間から集落を望む           


 湯舟から山辺町市街へ行き公民館に寄ったりして、帰路につきました。

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