ページ先頭へ 前へ 次へ ページ末尾へ

所在地情報  秋田  2  矢島町


◎所在地情報
 リスト外 : 大山・大山新リスト、桑原リスト、佐藤リスト、他、目を通すことができた文献に記載なし

*インターネットで古四王神社に関する検索をいろいろ行っていた時に、古四王神社を合祀した矢島の郷社神明社の記事に行き当たりました。
 その記事からたどってホームページのトップに行くと「秋田県 矢島の神明社八朔祭」のタイトルがあり、ブラウザのタブに「帽しめに矢島町教育委員会・・」とありました。
 2005/09/11 閲覧  〈 https://www.city.yurihonjo.lg.jp/yashima/hassaku/guide%20book/gb01.htm 〉
 検索窓に「矢島の神明社八朔祭 矢島町教育委員会」と入れる「帽しめに矢島町教育委員会 教育長〈以下略〉」が表示されました。

 目次の項目の「第一章 第三節 1神明社誌」の記事中に以下のように秋田県神社明細帳からの記載がありました。
 「(1)秋田県神社明細帳 ※皇学書院発行『現行神社法規類集』附録より
  ○ 矢島町城内字水上5 郷社 神明社
  一 祭神 〈略〉
  一 由緒 「往古ヨリ当村内鎮座尊崇アリシヲ、〈略〉」

 この由緒のなかに合祀の記事があり、その最後の大正三年の記事に「大正三年三月五日字荒沢無格社八幡神社、字箸ノ王子同箸之王子神社、根城同古四王神社ヲ合併シタル字根城舘村社八幡神社ヲ合併ス。」がありました。
 郷社神明社には、明治43年から大正3年までに実に33社が合併されていて、この中には村社が5社含まれていて、そのうちの村社3社に合併された3社があり、総数36社の神社が合併されていることになります。
 皇学書院発行『現行神社法規類集』がどのような書籍なのか探せませんでした。 

○『平成の祭』
 神明社
 鎮座地:由利郡矢島町城内字水上5
 祭神:《主》天照皇大神、少彦名命、大国主神  
○『秋田県神社庁HP』
 神明社
 鎮座地:由利本荘市矢島町城内字水上5
 御祭神:天照皇大神、少彦名命、大国主神、外 十五柱
 境内神社:稲荷神社、山神社、御嶽神社
 由緒:「往古より当町内に鎮座し尊崇篤かった。 / 寛永17年生駒氏所領以来崇敬あり。 / 〈略〉」
 「当時の社地は城内福王寺と寿慶寺番神堂の間にあった。 / 慶応4年の兵火に罹り社殿神輿等皆灰燼となる。 / 明治2年生駒氏封土を奉還後矢島県において明治4年11月向上(現在地)に社地を撰び仮殿を建立して奉遷す。 / 明治6年郷社に列入。 / 社殿が新築されたのは明治33年、現神輿が竣工新調したのは明治35年10月と記録されている。 / 現社殿は昭和3年9月17日上棟によるものである。」

*字根城の古四王神社、字根城舘の村社八幡神社はどこにあったのでしょう。
 ホームページ「秋田県:歴史・観光・見所」―「由利本荘市」―「由利本荘市:矢島町・歴史・観光」とたどって、矢島町(やしままち)の観光・見所案内のサムネイルに「八幡神社 根城館」がありました。
 サムネイルをクリックすると、「矢越八幡神社・根城館」のタイトルで記事がありました。
 この八幡神社は、秋田県重要文化財に指定されているそうです。境内は「根城館」の城郭跡地ということです。
 2013/09/13 閲覧
 〈 https://www.kensoudan.com/firu-minami-e/yasima/hatiman.html

 現在の住所表示では字根城館が見られず、地図で矢島町荒沢矢越を表示させると、「県重要文化財八幡神社」がありました。
 この八幡神社については、『平成の祭』『秋田県神社庁HP』に記載がありませんので、法人社ではないでしょう。
 この社は、郷社神明社に合併された「字根城舘村社八幡神社」で、「根城同古四王神社ヲ合併」した八幡神社ではないかと思います。
 合併とされていても、元の場所に社殿があり地元で祀られていたり、合併を解消していたるする例もあります。
 なお、矢島町元町字新町73に法人社の八幡神社が鎮座しており、「古老の言い伝えによると、代々根井氏の根城となっていた。」(『秋田県神社庁HP』による)がありました。

 「箸ノ王子」という印象的な名前をインターネットで調べていくと、「由利本荘市:矢島町・歴史・観光」の矢島町の観光・見所案内のサムネイルの「道者道」をクリックするとタイトル「登拝道(鳥海山修験矢島口)」の記事があり「鳥海山修験の矢島口は一合目『箸の王子』から」とあり、修験道からきた名前であり、今の矢島町針ケ岡地内にあたるようです。
 現在の住所表示で、矢島町荒沢に上中下の針ケ岡があり、矢島町荒沢に荒沢・上荒沢・中荒沢があり、検索したそれらの住所を地図表示させると、矢越の西に荒沢、その西に針ケ岡が位置していました。

 根城の古四王神社も矢越の八幡神社からそう遠くない場所にあったのではないでしょうか。

                                      《 ここまで 2021−06 記》 

《探訪の準備》
*図書館間相互貸借によって『矢島町史 上巻、下巻』『続 矢島町史 上巻、下巻』(編纂-矢島町史編纂委員会/矢島町教育委員会、発行-矢島町)の4冊をお借りして拝見させていただきました。2021年10月

*『続 矢島町史 下巻』(昭58・1983)ー「第二十七章 矢島住民の信仰小考〈目次章題〉」(第二十七章 ふる里の信仰をたずねて〈本文章題〉)の中に「古四王神社」の項目がありましたので、引用させていただきます。
 そこに「本町では、荒沢の相庭家が氏神として古四王神社をまつっている。昔は根城館の西方山林中に鎮座していたのであったが、それは旧生駒藩の家老小助川家の崇敬社として創建されたもので、当時この根城に居住していた三戸の内の相庭家は、古四王神社の堂守番を勤めていたという。その後三戸の農家はつぎつぎに根城を去ることになり、最後までふみとどまった相庭家も、お堂を解体して現在地に持ち運び、新たに氏神としての根城古四王神社を再建奉斎することにした。専五郎代のことである。」とあり、続いて「改築の御札」が載せられています。
 それによると「奉再興古四王大権現御堂一宇  /  正重九代利山叟 社主相庭新左衛門  /  享保十四季五月八日 導師  金剛院  鍛冶(不明)   大工 滝沢尾留川市之丞 /   小工 本庄古雪本間与兵衛 〈 / 改行。大工と小工は並べて記載。享保十四年は1729年。〉」とあります。
 続いて「現在は眼病に利益ありとて参詣する人多く、奉納された鏡を借りて平癒を祈り、与願果しに新鏡を納める由。」とあります。
 さらに行を改めて「川辺須郷の古四王社、 旧記に『古四王社、須郷、権兵衛』とある。須郷堤のほとりには、別記した水神宮もまつられていて、江戸の守護神札も奉納されている位であるところから、この古四王堂も、あるいは根城のように小助川家の創建であったのかも知れない。要は須郷一帯の開発にかかわるものであろう。」とあって、古四王神社の項目が終わります。

*根城館に鎮座していた古四王神社の経緯が記され、現在の信仰の有り様も記されております。
 「現在」以降の文面からすると、この「現在」が町史編纂段階の事なのか、どうなのでしょう。
 「現在地に持ち運び」「再建奉斎」したとあります。
 古四王神社は村社八幡神社に合併となり、村社八幡神社は郷社神明社に合併となっているとありましたので、古四王神社の社殿は今は無いと思っていましたが、今の現在も存在しているのでしょうか。
 「現在地」とはどこなのでしょうか。
 また、川辺須郷というところに、もう一社古四王社があったようです。

 川辺須郷とはどこで、古四王堂は現在はどうなっているのでしょうか。

※先ず、根城の古四王神社についてみます。
 根城館の西側に旧生駒藩の家老小助川家が創建したとのことですので、鎮座の場所と小助川の姓からすると、大井氏ないしはこの城跡の場所に縁があっての創建ということなのだろうと思います。
 根城館の東側には大井氏の創建と言われる八幡神社が鎮座しています。

 小助川家はなぜ古四王神社を祀ったのでしょう。

*『続 矢島町史 上巻』(昭58・1983)−「第十三章 神仏等、縁起の端録ー第七節 宝暦期に見る社祠信仰」によると、前郷の城内村には「御祈願所 福王寺 / 鳥海山衆徒二の宿役院 金剛院 / ○愛染別当 / 同三の宿役院御岳別当 千手院 / 同 天神別当 徳性院 / 同 稲荷別当 南光院 / 同 神名別当 実相院 / 根城古四王堂 堂守与惣右衛門 / 田中町後神明宮 同小左衛門 / 同 稲荷 同 人 / 〈以下略〉 」のように記されていました。
 また、荒沢村には「鳥海山衆徒 矢越村 光明院 / 同 衆徒 針ケ岡 長学坊 / 社家、八幡内山社司 民部大夫 / 神子 諏訪の社司 宮鶴 / ○八幡宮 根城八幡という / 十社の内 別当 光明院 / (八幡寺) / 白山大明神 社司 民部大夫 / 〈以下略〉 」とあります。
 向郷の杉沢村には「祈願 鳥海山 衆徒 明学院 / 田中観音堂 別当 同 院 / 〈一字空〉鳥海山下居堂、明学山正福寺願 / 主也、本尊聖観音 / 須郷水神宮 別当 同 院 / 〈一字空〉江戸表より水神御守奉納 / 金那保陀羅 上原 同 院 /〈略〉 / 山神 須郷 堂主 清三郎 / 古四王社 同 同 権兵衛 / 〈以下略〉 」がありました。
 〈 / 斜線は改行を表していますが、「鳥海山衆徒二の宿役院 金剛院 / ○愛染別当」は続いているのではないかと思います。また「田中観音堂 別当 同 院 / 〈一字空〉鳥海山下居堂、明学山正福寺願 / 主也、本尊聖観音」「須郷水神宮 別当 同 院 / 〈一字空〉江戸表より水神御守奉納」も続いている文と思います。〉

 ホームページ「秋田県 矢島の神明社八朔祭」の「第一章-第一節-3文化的環境・信仰的基盤」のなかに「宝暦年間にまとめられた『御領分中覚書』に、各村々毎に、一、御菩提所○○寺、一、御祈願所○○院ー修験ー、一、○○堂・○○宮など、その主名などが記録されている。」がありましたので、町史の記載の資料はこの「御領分中覚書」によるのではないかと思います。

 宝暦期は1751年から1764年ですから、「改築の御札」の享保十四年からは22年以上あとになります。
 享保十四年に再興された古四王大権現の御堂は、根城古四王堂として城内村に鎮座しているということでしょうか。

*『矢島町史 下巻』(昭54・1979)−「十一 宗教ー第二章ー第二節 神社合祀の実体」に「(二)村社八幡神社へ合祀」として荒沢の八幡神社・白山神社、根城の古四王神社、針ケ岡の箸の王子神社が記されていました。
 村社八幡神社の創始は応仁元年〈1467〉で所在地は根城で境内一八九坪とあり、荒沢の八幡神社と白山神社の創始に記載がなく境内は十六と三〇〇坪、所在地が根城とある古四王神社は祭神は大彦命で正徳二年〈1712〉創始で境内十坪と記されており、針ケ岡の箸の王子神社の祭神は真玉箸之王邑姫尊で創始に記載がなく境内は五五坪とありました。
 「小助川家の崇敬社として創建」されたのが正徳二年であれば、17年後の享保十四年には相庭家の氏神として再興されたというのは、どういうことなのでしょう。

 『続 矢島町史 下巻』−「第二十六章 集落今昔物語〈目次章題〉」(本文章題「ふる里紀行・居住の変遷」)の「荒沢・根城・矢越」によると、城跡の「北側の一段高味になって荒沢を眼下に見下ろす所が『字根城館』で、運動会場から八幡神社へかけての一帯は『字根城』となって地所が二つに区分されているが、後者はおそらく侍屋敷であったろうと想定される。」とありました。
 また、「文書にも『城内根城村』と書いたものも見える。」や「書き出しに『城内村の内根城村より訴え出候は〈略〉』」の記載があり、根城村(あるいはその一部)は城内村に含まれていたようです。
 さらに、「根城には三軒の家があった。その内新左衛門は荒沢へ下りて相庭姓を名乗り〈略〉」があり、「根城の古四王社は、その社守をうけ継いできた相庭家が、矢越部落に下りてきて一社を建立している。そのあらましは別項信仰にゆずる。」がありました。
 その別項信仰になるであろうところに記されていた「奉再興古四王大権現御堂一宇  /  正重九代利山叟 社主相庭新左衛門 」とつながるようです。
 「荒沢へ下りて」と「矢越部落に下りて」は、同じ事と理解していいのだろうと思います。
 「相庭」という姓の謂われはなんでしょうか。
 重要文化財・土田家住宅の近くに、相庭館(あいばだて)という館跡遺跡があり、所在地名も矢島町元町字相庭館となっています。
 根城に住み、根城古四王堂の社守とされ、根城をあとにしても自ら再興してお祀りしたのですから、その相庭館に関連のある家なのではないでしょうか。
 再興した古四王大権現の御堂が、城内村の内の根城村にあった場合も宝暦の調べでは城内村の項目に「根城古四王堂 堂守与惣右衛門」として記載されたかもしれません。
 荒沢村の項目に「八幡宮 根城八幡という」がありますが、根城古四王堂は記されていませんので荒沢村に再興されたのではなく、相庭家の敷地内やその近くに建立したのではないと思われます。
 再興の際の導師は金剛院とありますので、そこからも荒沢村ではなく城内村の範囲に建立されたと思われます。
 ふさわしい場所を選んで建立されたのでしょうか。

 それがどこかは今のところ不明ですが。

 なお、「根城について書き添えたい一事は、古文書に『根城は、水堀、から堀三・四重あり、この堀に半眼の鮒ありてこれを食えば祟りありと云えリ』とあることで、山城特有の切堀の構え十分であったことが立証される。」があり、「半眼の鮒」が気になります。

※「川辺須郷の古四王社」というのは何処にあるのでしょうか。
 『続 矢島町史 下巻』−「第二十六章 」の「杉沢・沢内」の項目中に「沢内と須郷、沢内の集落は、小さいながらも谷合集落の典型的な立地形態で、沢内川の左右両岸の谷壁にすがりついているように見える。」、「須郷の家と呼ばれた金子家は、須郷大〈ママ〉付近の開発者であったが、溜池の拡張に遭って、一枚田の松田家同様転住を余儀なくされたのである。須郷大堤は、この地域にとっては宝の水源である。」とありました。

 地図を見ると、川辺駅の北で、沢内川が子吉川に合流しており、沢内川の左岸側に杉沢や沢内の地名があります。
 現在の地名では、沢内の集落は沢内川の左岸になるようで、右岸側は次郷尻という地名になるようで、須郷という地名は見当たりません。
 沢内又は次郷尻から南に直線距離で1キロメートル程に須郷大堤が見出せ、道が続いています。
 その道は地名では次郷尻を通って須郷大堤に至るのですが、須郷大堤のある場所の地名は矢島町城内小杉沢になるようです。
 「第二十六章 」の「川原 松田家記録と古絵図」の中に「寛永十七年(1640)より矢島御領分に成られ、御地頭小助川治郎右衛門様天明年中(1781〜)に至るまで大川分水揚げ候えども、〈略〉(寛永十七年は、まだ向郷は本庄領であった)」とあり、「御地頭小助川治郎右衛門」という記載がありました。
 現在の地図を見ると、矢島町に川辺川原、川辺杉沢、川辺沢内、等があり、川辺川原は川辺駅から南東へ国道108号沿いに500メートル程のところの南側にあたります。

 『続 矢島町史 下巻』ー「第二十七章」中に「水天宮」の項目があり、その最後の2行に「須郷大堤の水神宮は、『江戸表より下し置かれ候水神御守奉納有り、別当明学院』と、旧記に見える。これは、灌漑用水池に対する藩政の一面を知らせてくれる、たいせつな史料と考えられる。」がありましたので、「須郷水神宮」は須郷大堤に対するもので、大堤の付近に祀られていたのではないかと思います。

 須郷の古四王社の現在については不明ですが、沢内・次郷尻・須郷大堤付近を探してみるしかないかも知れません。

                                        《 2021年11月 記 》


ページ先頭へ 前へ 次へ ページ末尾へ