ページ先頭へ 前へ 次へ ページ末尾へ

所在地情報 秋田  7  男鹿市本山


◎所在地情報
 ※佐藤リスト : 男鹿市本山 古四王神 (備考)主峰本山に近世初頭まで所在、古文書
  その他のリストに記載なし

 ※吉田東伍 : 『大日本地名辞書』ー「羽後国 南秋田郡(附男鹿島)」の「五社堂、赤上神社」、他の項目。
 吉田東伍は「赤上神社」と記しています。
 項目「赤上神社」の説明文に「又、赤神といひ、本地薬師佛、本山の頂上に在りて、即ち一山の主神と仰がる、由来不詳。〈以下略〉」
 項目「五社堂」は、「今、之を以て赤上神社と云ひ、本山の主廟とす。〈以下略〉」
 〈明治40年10月17日第二版によります。国立国会図書館デジタルコレクション〉

*佐藤リストに男鹿市本山に近世初頭まで古四王を祀っていたという情報が記されています。
 「男鹿市本山」というのは、備考に主峰本山とありますので、信仰の山の本山のことでよいのだろうと思います。
 本山のどこにあったのでしょうか。山頂でしょうか、中腹、麓なのでしょうか。
 「古文書」がいかなるものか分からず、情報をたどれません。
 「近世初頭」とは、安土桃山時代頃、ないしは江戸時代の始め頃のことでしょうか。


*佐藤リストによって、男鹿のコシオウ社の情報を扱いますので、男鹿関連の所在地情報として吉田東伍の『大日本地名辞書』に記載の「五社堂、赤上神社」、他の項目も加えました。 
 吉田東伍のコシオウに関する記述については、本ホームページの「探訪記録 山形36・村山11」の尾花沢の御所神社についての記事でも触れています。

 喜田貞吉は、「越の國及び越人の研究(下)」に、大山のリストと喜田の2社の所在地情報を載せたあとに真澄遊覧記の二つの情報を記し、次いで「吉田東伍君の地名辞書には、男鹿半島南磯分村門前の五社堂赤上神社も、亦胡四王だと云って居られる。」と記し、風土略記の大内目村の情報を記してから、古四王社についての見解に論を進めています。

 大山宏「古四王神社の源流を尋ねて」には、「吉田氏は雄鹿の五社堂も越王堂の訛としてをらるゝが、我が輩には八王子、十禅師、客人宮、祇園、赤山の五社であるやうに思はるゝ。」とあります。

 先ず、基礎的な情報を確認しておきたいと思います。
*赤神神社及び真山神社について、神社情報を見てみます。
○『平成の祭』
 ・赤神神社 あかがみじんじゃ  通称:赤神山 あかがみさん
 鎮座地:男鹿市船川港本山門前28
  祭神:《主》天津彦火瓊瓊杵之命、天手力男命、大山祇命、天照皇大神

・真山神社 しんざんじんじゃ  通称:赤神さま あかがみさま
 鎮座地:男鹿市北浦真山字水喰沢97
 祭神:《合》天照皇大神、豊受姫命 《主》天津彦火瓊瓊芸命、豊玉毘女命、少彦名命、武甕槌命、伊邪那岐命、大山咋命、塞神三柱大神、大名持命
 境内社:歓喜天社、宇賀神社、宇賀神社、安全寺神社、八幡神社


○『秋田県神社庁HP』
 ・赤神神社  
  鎮座地:男鹿市船川港本山門前28
  御祭神:天津彦火瓊々杵之命、天手力男命、大山祇命、天照皇大神、外 二柱
  境内神社:国狹土神社、五社神社
  由緒:「赤神権現を信仰する修験道場として開け、貞観2年慈覚大師により堂塔が建立され赤神山日積寺と伝承されている。 /  日積寺はその後、この地方の豪族安倍、安東、秋田氏や平泉の藤原氏によって寺領の寄進や堂宇の再興が行われるなど、中世を通じて栄えていた。 /  慶長7年佐竹氏の秋田入部後も篤い保護を受けていたが、明治初年の神仏分離令により赤神神社として創立された。」

 ・真山神社
  鎮座地:男鹿市北浦真山字水喰沢97
  御祭神:〈主祭神〉天津彦火瓊瓊杵命、武甕槌命 〈合殿神〉天照大御神、豊受大神、豊玉毘女神、少彦名神、大山咋神、大名持神、塞神三柱神
  由緒:「人皇第12代景行天皇の御代、武内宿祢が北陸東方諸国を巡察の際、男鹿嶋へ下向し湧出山(今の真山の旧名)へ登り瓊々芸命を勧請したのに始まる。 /  その後裔真唯当地へ下向の砌り、祖先の由緒を尋ね、湧出山に立籠り、万草を引結びて幣帛とす。 /  古来真山赤神神社と称す。 /  中世以降男鹿を支配した安東氏佐竹氏の崇敬を受ける。 /  安元年間安倍季治朝臣より、社領130石を寄付せらる。 /  明治3年真山神社と社号を改め明治14年7月5日県社に列す。」

*所在地名についてみてみます。
 南磯分村〈ミナミイソワケムラ〉は、明治22年の南秋田郡増川村・女川村・椿村・台島村・双六村・小浜村・本山門前村・南平沢村が合併して発足し、明治24年に南磯村に名称を変更して、昭和17年に南秋田郡船川港町に編入となっています。
 北浦についてみると、明治35年に南秋田郡北磯村が町制施行し名称変更して北浦町になっています。
 北磯村は明治24年に南秋田郡北磯分村が名称変更したもので、北磯分村は明治22年に北浦村・真山村・相川村・安全寺村・野村・西水口村・湯本村・西黒沢村・畠村が合併してできた村ということです。
 船川港町は明治27年に船川港村が町制施行して発足し、昭和29年に南秋田郡脇本村・五里合村・男鹿中村・戸賀村と合併して男鹿市が発足して、昭和30年に北浦町・船越町が男鹿市に編入となり、両神社の現住所につながっていったことになります。

*平凡社『秋田県の地名』の男鹿市の項目を見てみます。
・「本山」の項目中に、「男鹿半島西端、日本海に臨んでそそり立ち、南に毛無山、北に真山が連なる。」 「平安時代末期から山岳信仰の場となり、天台宗の本山派山伏が熊野信仰を伝播した。薬師岳と称したが、熊野三山の一、本宮になぞらえ、本山または大峰と呼ばれるようになった。真山と合せて赤神山ともいう。 /  南麓の小浜村支郷門前村に日積ニッシャク寺があり、伝記(絹篩)によれば建保(1213-19)の頃には『寺院四十八坊』を数えたという。明徳二年(1391)天台宗から真言宗へ改宗したと伝えられる。頂上に薬師堂、中腹に赤神を祭祀する五社堂があり」 「赤神は漢の武帝であると広く信じられているが、一説に『日本書紀』斉明天皇四年四月の記事の齶田の浦の神が赤神であるという。その後征服者の越の王の神つまり古四王が加わり古四王・五社王子と呼ばれる。近世初期にも『小鹿之内加茂村・あをさ村百姓申来分ハ、こしのわう(古四王神)ぢんうかい水山ニ而木をきり』(『梅津政景日記』寛永八年三月四日条)と古四王神の名が生きている。また一説に赤神大明神は円仁が唐より帰朝する際航海の安全を守った神であるという。円仁は本山赤神大権現の開祖ともされる(赤神山大権現縁起)」「嘉永期(1848ー54)の記録には、前記の諸堂のほかに阿吽門・山門・薬師堂・弁天堂・神輿堂・食堂・鐘楼閣・柴燈堂などがみえ、門前村には別当永禅ヨウゼン院とその塔頭吉祥院・長楽寺があった(絹篩)。」
・「真山」の項目中に、「湧出ワキデ山ともよばれ、平安末期以降熊野信仰が持ち込まれて、真山、または新山とよばれた。本山とともに赤神山と称され、赤神を祀る。信仰の性格は本山と同じである。 /  北麓の真山村には真山赤神神社(現真山神社)の別当遍照院光飯コウボウ寺(現在廃寺)があり、嘉永期の『絹篩』は『赤神山大権現、薬師堂、庚申堂、柴燈堂、八幡堂、五重石塔、般若堂、弁天堂、御輿堂、五社堂、虚空蔵堂』などの堂宇を記す。また山頂には薬師堂があり、〈略〉」
・「赤神神社」の項目中に、「本山の南麓に位置し、南に日本海を望む。祭神は天津彦火甕甕杵尊・誉田別命など。旧村社。 /  古来本山赤神神社と称され、本山中腹の五社堂を本縁とする。開基年代は明らかではないが、当社に残る木造十一面観音菩薩立像などの推定年代から、信仰の上限は平安末期を下らないものと考えられる。別当を勤めた本山日積寺の本坊永禅院は貞観二年(860)円仁の開創とも伝え、明コ二年天台宗から真言宗に改宗したという。五社堂の中央堂には赤神を祭祀する。堂の内厨子は鎌倉期のものと推定され、国指定の重要文化財。」
 以下の説明文を省略しますが、説明文はこのあと菅江真澄、絹篩、等を引き経緯を記述していき、そのなかに文化七年(1810)に菅江真澄が訪れたときは四十八坊のうち永禅院・長楽寺・吉祥院がわずかに残るという記述を引用しています。
 説明文の最後に、「赤神神社には平安末期の木造十一面観音菩薩立像・木造観音立像、室町時代の石造狛犬一対が残り、いずれも県有形文化財。永禅院は明治に至り廃寺となり、絹本着色金剛胎蔵両界曼荼羅などが門前の長楽寺に引き継がれた。」
・「真山神社」の項目中に、「真山の北麓、真山集落の南に位置し、周囲には杉の古木が林立する。祭神は真山大神・天津彦火甕々杵尊・伊邪那岐尊など。旧県社。 /  古来真山赤神神社と称され、偏照院光飯寺が別当を勤めた。開基年代は明らかではないが、門前の本山赤神神社の信仰の上限は平安末期を下らないとされており、ほぼ同時期と考えられる。所伝によれば貞観二年円仁の中興ともいう。」 「真山の山頂付近に五社堂があり、外陣の至る所に参詣者の落書きが残されている。郷関の明かなものに秋田・越後・能登などがあり、松前・津軽・南部・羽前・佐渡・越中・阿波・但馬・大阪・石見・長門と日本海沿岸地方を中心に広がる。船乗りと思われるもののほかに武士らしき者の筆もある。 /  明治に至り真山神社と改称。室町期の作と推定される木造薬師如来坐像があり、県有形文化財。」

 ここには「真山の山頂付近に五社堂」とありますが、真山神社のホームページの      
 〈 http://www.namahage.ne.jp/~shinzanjinja/entry4.html 〉
 項目「境内および周辺散策」の「五社殿」によれば、「お山かけの入り口でもある、社殿と薬師堂の間に続く石段を踏みのぼり、鬱蒼とした老杉並木を通り抜けると五社殿が見えてきます。古くは、その名の通り五つのお社がありましたが、江戸時代後期に焼失してしまいました。そのため、残った1社に合祀し、現在の場所に遷されました。 / この殿内には、文化年間以降の参詣者の落書きが所狭しと記されており〈略〉」とありますので、五社あった頃はどこにあったか不明ですが、落書きの残された五社殿は山頂付近とは言えないように思います。

 男鹿市のホームページで「真山神社五社殿・宮殿」を見ると、
〈 https://www.city.oga.akita.jp/soshik/bunkasportska/bunkazai/1/1500.html  〉
 更新日・2021年3月31日の記事で、「五社殿は、かつて五社堂と呼ばれ5つの社がありましたが、火災で焼失したため1社にまとめられたと伝えられています。」とあります。

・「星辻神社」の項目中に、「湯本の小丘陵上にあり、杉木立に囲まれて社殿が建つ。祭神は天御中主神・宇迦之御魂神など。旧村社。かつては妙見大菩薩を安置し、妙見堂と称され村の鎮守であった。坂上田村麻呂の建立という伝説がある。」 「漁労や船頭を業とする男鹿の村人は北辰を神化した妙見信仰に厚く、別当の修験常楽院は湯本はじめ東西十数カ村の漁村を掠カスミとしていた。常楽院当時は火渡の法もあったといわれるが、現在は湯立ての行が伝えられ、湯の舞の神楽歌の詞章から本山・真山と村里の深い関係がうかがわれる。明治45年西黒沢村・畠村の数社を合祀し星辻神社となる。」
 気になったので引用いたしました。

*『秋田県の地名』の「男鹿市」の項目の執筆者は松渕真州雄氏のようです。
 記述中に、「越の王の神つまり古四王が加わり古四王・五社王子と呼ばれる」がありましたが、赤神に関して「古四王・五社王子」と呼ばれたことがあったのでしょうか。
 同書の「文献解題」によると、「絹篩キヌブルイ」は「三巻 鈴木重孝著 成立 嘉永年間 解説 男鹿半島五五カ村の沿革・風俗・名所旧跡・産物を網羅する。 活字本 新秋田叢書」。
 新秋田叢書の第四巻に所収されているようです。秋田叢書の第2巻にも「絹篩 巻之一〜三」が収録されていました。
 同じく「梅津政景日記」は「九冊 東京大学史料編纂所編 昭和29−41年刊 解説 慶長十七年から寛永十年に至る秋田藩重臣梅津政景の日記。近世初頭の秋田藩政を知る基本史料。大日本古記録に所収。」とのことです。
 「本山」の項目に引用のある「梅津政景日記」の「こしのわう」を含む部分は、項目「加茂村」にもう少し長く引用されていますが、「こしのわう」ないし「こしのわうぢん」が、どこにあったのか、どこの「こしのわう」なのか分かりません。
 この「梅津政景日記」は、佐藤禎宏の言う「古文書」なのでしょうか。
 この文献は、秋田を訪ねた際に図書館で見たいと思います。

*『角川日本地名大辞典 5 秋田県』(昭55・)で「赤神神社」を見ると、「赤神とは古代中国で南方の神のことであるが、ここでは天台宗との関係で、比叡山鎮守赤山明神の信仰を本山派修験がもたらしたものの転化らしい。」 「建保4年〈1216〉源実朝のもとで叡山七社にならい五社堂を造ったと伝える。」があります。

*『近代文化遺産見学案内所』というサイト 〈2020/05/29アクセス〉 
 〈 【重要文化財】 赤神神社 五社堂 (秋田県 男鹿市) 行き方・参拝のしかた : 近代文化遺産見学案内所 (exblog.jp) 〉
 〈  https://bunkaisan.exblog.jp/27146306/ 〉
 の分類項目「秋田」で、「【重要文化財】赤神神社五社堂(秋田市男鹿市) 行き方・参拝のしかた」2017/09/25、の記事があり、その最後の方の「神社の説明」に「叡山山麓の山王上七社を勧請したもので、二社廃れたので五社に配祀されたとされています。」がありました。
 文末に「←赤神神社五社堂公式HP」とあります。
 現在はこの赤神神社五社堂公式HPは〈Not Found〉で接続できませんでした。
 七社のまま残れば五社堂ではなく七社堂であったかも。

*吉田東伍の「五社堂・赤上神社・等」についてのコシオウに関する記述については、寺内の古四王神社等についての記述を含めて、じっくり取り組んでみたいと思います。
 時間がかかると思いますので、先ずはここまでにしたいと思います。

                                         《 ここまで 2020−07 記 》


《 追記 2022−09 》
*「梅津政景日記」は、当地の県立図書館に『大日本古記録 梅津政景日記 一〜九』(東京大学史料編纂所編纂 岩波書店刊行 昭28〜昭41)がありましたので、地元でも読むことが出来ました。
 『秋田県の地名』の男鹿市「本山」の項目に引用されていた「梅津政景日記ー寛永八年三月四日条」の「小鹿之内賀茂村・あをさ村百姓申来分ハ、こしのわうぢんうかい水山ニ而木をきり」は、『大日本古記録 梅津政景日記 八』(昭37・1962)に記載されています。
 政景日記・巻十九上が寛政八年正月から六月二十一日までの日記で、この年は51歳で久保田藩家老件久保田町奉行のようです。
 三月四日には幾つかの項目が記されていて、その三番目に当該の記載がありました。
 東京大学史料編纂所編纂による活字本では、縦書きの本文の左右に適宜に註が配されています。
 〔 亀甲括弧 〕は校訂註で、( 小括弧 )は参考註とのことです。
 また、頭註があり「欄外に、本文中の主要な事項、及び注意すべき用語等を標出した。」とあります。
 本文を引用します。
 「一、外記代官衆小鹿之内賀茂村・あおさ村百性申來分ハ、こしのわうぢんうかい水山ニテ木をきり、十ケ年以前ヨリ塩をたき、御役仕候處ニ、鮎川村ヨリ去年七月ヨリおさへられ申候由、鮎川村肝煎百性ニ尋候ヘハ、仁三ケ年以前ヨリ被切候間、去年七月以後おさへ候由申候、私申付分者、何も半右衛門代官所ニテ二三年以前ヨリ切候山を、代替ニテ抑候事不可然候、其上かも・あおさのものハ塩計焼〈旧字〉候テ御役致、新命つなき候間、如前(ゝ?)為切候へと、申付候」
 半角カタカナの「ハ ニ テ 」は変体仮名で、「而」のくずし字を「テ」と読んで引用しました。
 「ヨリ」はくずし字です〈 U+309F〉。
 本文の「こしのわうぢん」の右側に「(古四王神)」の註があり、「こしの」の左側に「(男鹿眞山)」註があります。続く「うかい」の「う」に「(嗽)」註があります。
 本文「小鹿之内賀茂村・あおさ村」の「賀」の右に「(加)」註、「あおさ」に「(青砂)」註があり、「賀茂村・あおさ村」の左に「(出羽秋田郡)(同上)」とあります。また「鮎川村」の右に「(相、下同ジ)」、左に「(出羽秋田郡)」とあります。
 「賀茂村・あおさ村」の両村名間の「・」や読点は校訂者によります。
 地名の表記に註がされています。『秋田県の地名』では「賀茂村」とありますし、男鹿を小鹿と表記している例も見うけますが、現在の地名表示との違いの経緯が気になりますが不明です。
 そうすると、『秋田県の地名』の引用した「こしのわうぢんうかい水山ニ而木をきり」は、《古四王神(の)嗽水(のため)、山にて木を切り(塩を焼く)》ということになると思います。
 頭註には「加茂青砂ノ百姓男鹿眞山嗽水山ノ木ヲ伐リ塩〈旧字〉ヲ焼く / 相川村ノ百姓コレヲ押フ / 政景加茂青砂ノ百姓ヲシテ従前ノ如ク木ヲ伐ラシム」とあります。 
 校訂者の註によれば、この古四王神は男鹿真山のことと受取れますが、はたしてどうなのでしょうか。

 『秋田県の地名』の男鹿市の項目で引用されている「絹篩」を『新秋田叢書 第四巻』(歴史図書社版 昭46・1971)によって一通り目を通してみました。
 男鹿真山や本山と古四王神を関連付ける記述は見当たらないと思います。
 古四王神を男鹿真山とする根拠は何なのでしょう。

 『大日本古記録 梅津政景日記 九』の索引によれば、「古四王神 出羽秋田郡男鹿眞山 八37」「古四王神社 越王権現堂、出羽秋田郡寺内 七180」とあり、古四王関係の記載は2箇所のみのようです。
 『梅津政景日記 七』の当該箇所を見てみます。
 寛永五年は政景四八歳で久保田藩家老格とのことで、その六月二十四日の最初の項目に「越王権現堂上葺之事申上候、御心得之由、 御意ニ候、秋中茅出来次第ニ為葺可申由、被仰出候」があり、「越王」に「(古四)」と「(出羽秋田郡寺内)」の註があり、頭註に「古四王権現社ノ上葺ヲ命ズ」とあります。
 こちらは、寺内の古四王社のこととされていますし、そうなのだと思います。
 本文に「越王権現堂」とあり、越王の表記がされていますので、原文にそのように書かれていたものでしょう。
 何故このように表記したのか、大変に気になります。

ページ先頭へ 前へ 次へ ページ末尾へ