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所在地情報 秋田  19  上小阿仁村  


◎所在地情報 
 リスト外 : 大山新リスト・桑原リスト・佐藤リスト・他 目を通すことができた文献に記載なし


*ネット検索をしていて、2019年3月14日に、ブログ『其処に神社あれかし』の「2016.07.29 七倉神社」という記事に「明治43年(1910)6月17日知事の許可を得、上小阿仁村小沢田無格社神明社、古四王神社、大山祇神社を合併している。古四王(こしおう)社、俗称古四王堂(コソド)。正保元年(1644)以前は小沢田村の鎮守社。」に行き会いました。
 〈 http://mizowochi.blog.fc2.com/blog-date-201607.html 〉

*上小阿仁村は、明治22年北秋田郡小沢田村沢田・堂川村・仏社村・杉花村・五反沢村・福館村・大林村・南沢村・沖田面村が合併して村制施行して発足。

○『平成の祭』
 七倉神社ナナクラジンジャ  通称:天神様 
 鎮座地:北秋田郡上小阿仁村小沢田字独活平〈ウドッピラ〉114
 祭神:《合》天照皇大神、越大彦神、《主》菅原道真
 境内社:山神社 稲荷神社

○『秋田県神社庁HP』
 七倉神社  通称:天神様 
 鎮座地:北秋田郡上小阿仁村小沢田字独活平114
 御祭神:菅原大神 天照皇大神 大山祇大神 越大彦神(えつだいひこがみ)
 境内神社:山神社 太平山社
 由緒:「創立応永2年4月25日。 / 応永2年城主神成三七山城国北野天満宮より城内に勧請す。 / 〈略〉 /
    明治43年6月17日知事の許可を得、小阿仁村小沢田無格社神明社、古四王神社、大山祇神社を合併する。」

 この「越大彦神(えつだいひこがみ)」が、古四王神社の祭神なのでしょうが、古四王社の祭神名としてはじめて目にしました。
 越の大彦命ということなのでしょうか。

*菅江真澄の「花の出羽路秋田郡」(菅江真澄全集 第8巻)の「七倉」の項目に、「七倉は荷上場の外、小阿仁にもありて天神を祭る。」があり、「ふでのまにまに」(同全集 第10巻)の「二の巻」中の「七倉の宮地」「七倉のせき」の項目に、「小阿仁の七倉山は小沢田村に在り。麓に寺あり、七倉山泉通寺と云ひまた山を七宝峯ともいふよし。三ノ七倉のゆゑをもて神成三七といふ古城の主の在りし跡あり。」「むかし七倉天神宮の杜のあたりに関すゑたりけるにや。」の項目にがありましたが、古四王に関する情報は記されていませんでした。

 今のところこれ以上の情報がありません。

                                 《 ここまで2021−07 記 》


《探訪の準備》
*図書館間相互貸借によって『上小阿仁村史 通史編』(上小阿仁村史編纂委員会 発行 上小阿仁村 平6・1994)『上小阿仁村史 資料編』(通史編に同じ 平5・1993)をお借りしました。

*『通史編』ー「第三章 中世の上小阿仁ー第三節 嘉成氏の消長と神仏ー三 神仏と祈り」があり、それは「七倉神社と泉湧寺」のタイトルから始まり、ここに〔真澄の残した記録は江戸時代後半のものであるが、文献資料の少ない当地方にいささかでも参考になるので、次に紹介することにする。それは『花の出羽路』の「小阿仁七倉山」の項であるが、内容を整理すると、〕〈 〔亀甲括弧〕内が引用文 〉として、「小阿仁七倉山」の項が@〜Cにまとめられています。
 それは〔@阿倍統の上祖は、梅の枯枝で天神の像を仏師に三体造らせ、胎内におさめた神像を秋田郡阿仁(小沢田)の七倉山麓の菅原神社に奉納した。A阿倍氏は連歌をよくしたため、学問の神として天神を崇敬した。B松前の下国氏は阿倍統で、上祖のまつった天神を蝦夷地茂辺地に創った。C小沢田の天神社がすたれたため、応永二年〈1395 乙亥〉、神成三七郎はこれを再興した。 / ほぼ以上のようになる。また「小阿仁小沢田村七宝ノ峯、七倉泉湧寺来由」の項でも、D神成三七は山城国北野の天神を応永乙亥年勧請した。E七倉から霊水が湧出るため、麓寺を泉湧寺という。 / と記している。右の文中、「阿倍統」は安倍氏、いわゆる安藤(東)氏であり、「下国氏」も十三湊から蝦夷地に逃れ、そこから桧山に本拠を移した桧山安藤(下国家)をさしている。したがって真澄のこの文章によると、小阿仁に天神を創建したのは安藤氏であり、それがすたれたため応永二年(1395)、嘉成三七が再興したことになる。すなわち安藤氏と阿仁が早くから結びついていたことになるし、〈略〉〕とあり、〔前述のように一等資料ではないから、そのまま史実とは考えられないが、歴史の側面が伝説化して伝えられたものと考えられる。〕とあります。
 安藤氏が小阿仁と関係があり天神を祀ったとすると、古四王社の創建が誰によっていつ頃なされたかが気になります。
 私がこの記事の「◎所在地情報」のところで引用した「七倉」の項目は、菅江真澄全集 第8巻の352ページに記載されており、「小阿仁七倉山」の項は379ページに記載になります。

 また、同じく「第三章 ー第三節 ー三 」に〔江戸後期の実態を語るとされる『秋田風土記』は、当時、村に鎮座した寺社として天満宮・神明社・古四王・山神、それに修験源竜院を記すだけで泉湧寺は見えない。他方、真澄は前掲「小阿仁七倉山」の項で、「此七宝山の峯に霊水湧出ていと清く、麓、古寺あり、泉湧寺といふ」と記し、寺の所在を断言している。また修験矢旗家に伝えられた七倉山泉湧寺縁起も、「七倉山泉湧寺」と記載し、山号が七倉山であったことを記している。したがって神仏が習合されていた当時、寺は天満宮と一体となって鎮座していたと考えられよう。」がありました。

*「秋田風土記」(『新秋田叢書 第十五巻』所収 歴史図書社 昭47・1972)で、秋田郡の小沢田村の項目を見てみますと「○小沢田村 沖田面より北半里小山越 / ▽高百五拾弐石九斗、免五ツ五歩、田水沢川、家四十五戸 / ▽天満宮 ▽神明社 ▽古四王社 ▽山神社 ▽源竜院 山伏 ▽明王院 山伏 /  ▽ 古城あり。村より西の山にあり。沖田面より移りて加ママ成三七居、落城して後天満宮を本丸に移ス。 三七亡ビタル年未詳無双の景地也。」がありました。
 こちらでは、古四王ではなく古四王社と記されていました。

*『通史編』ー「第四章 近世の上小阿仁ー第三節 地誌・紀行文に見る上小阿仁の村々」の「三 『郡邑記』に見る上小阿仁村」の記述に〔有名な岡見知愛の「六郡郡邑記」(享保十五年〈1730〉)は、岡見知愛の踏査したものではなく、「六郡総村付」なるものに基づいて編集したものであることはすでに指摘されていた(『秋田大百科事典』鷲尾厚筆分)。しかし、その「六郡総村付」なるものの正体については全く不明のままであった。したがってここで明白になったことは、岡見知愛の「六郡郡邑記」(享保十五年)は、実はそれより八年前の享保八年〈1723〉に、家老・今宮大学(義透)の命令で各郡担当の代官(石井八左衛門など)が調査・報告した「秋田郡・郡村本村・支村御高共ニ調帳」等を抄録したものである、ということである。以上、上小阿仁の歴史を調べる過程で、長年不明であった「六郡郡邑記」」の資料原本を検証できたことは、上小阿仁村の歴史に止まらず、秋田の地方史研究上の一つの大きな宿題の解決であったと言えよう。〕がありました。

*『上小阿仁村史 資料編』の「V 近世資料ー資料ナンバー64」に上小阿仁村についての享保八年の「秋田郡 郡村本村支村御高共ニ調帳」がありましたが、ここには寺社の調べは記されていませんでした。
 同じく「資料ナンバー65」に享保十五年の「六郡郡邑記」が載せられていますが、当然のことになるのでしょうが、寺社の調べは記されていませんでした。
 「資料ナンバー66」に、寛政十二年〈1800〉頃として「寛政の『久保田領郡邑記』にみる上小阿仁村々の記事」があり、ここに記された小沢田村の記事を引用しますと「○小沢田村、沖田面ヨリ半里北小山越 / 高百五十二石九斗、免五ツ五歩、田水沢川、家居四十五戸、人二百三十二口、馬五十頭、社地、天神・伊勢・古四王・山神四社・何レモ杉・松・雑木有リ、光竜院・明王院山伏除キ地、二ケ寺トモニ杉アリ / 古城アリ、村ヨリ西ノ山ニアリ、沖田面ヨリ移リテ加成三七居ス、落城シテ後、天神ヲ本丸ニ移スト云、三七カ亡ヒタル年月ヲ不知、無双ノ景地」とありました。
 文化十二年〈1815〉の「秋田風土記」にさきがけるもののようです。
 こちらでは、天神・伊勢・古四王・山神とされています。
 泉湧寺は記されていません。
 「資料ナンバー67」は「文化の『秋田風土記』にみる上小阿仁村々の記事」で、「資料ナンバー69」は「天保九年〈1838〉の『郡邑記』にみる上小阿仁村々の記事」で、この資料69には小沢田村の社寺を「天満宮、神明社、古四王宮、山神社 / 光龍院 修験 明王院 同上 」と記されていました。

 「久保田領郡邑記」について『通史編』ー「第四章ー第三節ー三 」で、〔この「久保田領郡邑記」は、「享保郡邑記」からおよそ百年後の寛政末年に、近藤補寛(院内の武士・院内郷校ー尚徳院教授)が秋田領内を巡回調査して編集したものである。内容が豊かで一〇〇年間の推移もわかり貴重である。〕とありました。

*『通史編』ー「第四章ー第三節ー四 紀行文・地誌に見る上小阿仁村 」に「菅江真澄の著書に見る上小阿仁村の伝承と伝説」が取上げられています。
 「花の出羽路 秋田郡」(菅江真澄全集 第8巻)には、「高泉、寺内ノ岡古四王殿の下なる」、「秋田ノ城」の項目に「今の古四王殿」、「神田郷」の項目に「古四王宮」が記されていますが、上小阿仁村には古四王社のことは記されていませんでしたので、この「◎所在地情報」では触れていません。
 菅江真澄全集 第8巻に収められた「花の出羽路 秋田郡」の七倉や上小阿仁村に関する記述が何時なされたのか分かりかねます。
 全集 第8巻の「解題」で、「花の出羽路 秋田郡」に関して「以上の内容をみても知られる如く、秋田郡の町村別に記した草稿を順序不同に綴ったものであるが、その用紙も不揃いで、半紙あり、罫紙ありで、書斎で書き溜めておいたものを一括しただけのもので、到底これをもって秋田郡の地誌ということはできない。文政六(一八二三)年から佐竹藩六郡の地誌編集を本格的に着手できるようになったので、久保田の書斎で書き抜き作業をおこなった成果であって、その天註、および余白の朱筆は、翌七年になって、所蔵の全文献資料の整理をしたときの記入と考えられる。装丁は文政七年に、他の、河辺郡、山本郡の各地誌の装丁と共におこなったと推測される。」とありました。
 「菅江真澄遊覧記 1」(平凡社 東洋文庫54 昭40,昭46ー9版)の「菅江真澄年表」によると、享和二年(1802)「二月 南秋田郡富津内の山越えして北秋田郡阿仁に行く。」、文化一年(1804)「二月末 阿仁鉱山をみる〔阿仁の沢水〕。」、文政三年(1820)「十二月 南秋田郡五城目を出発し、北秋田郡阿仁方面に向った〔雪の山越〕。」を見いだす事が出来ました。
 また、文化十年(1813)に「地誌を編む〔花の出羽路秋田郡〕〔勝地臨毫秋田郡〕〔勝地臨毫河辺郡〕。」があり、文化十一年に「五月 雄勝郡にいき、地誌の調査をする〔雪の出羽路雄勝郡〕〔勝地臨毫雄勝郡〕。」がありました。
 全集 第8巻の「解題」の記載と矛盾するようです。
 「菅江真澄遊覧記5」(平凡社 東洋文庫119 昭43,昭48ー6刷)の「菅江真澄著作目録」に「八二 花の出羽路 秋田郡」があり「地誌 文化十年春。/ このとしから出羽六郡の地誌を編むことになり、まず秋田郡から着手した。『此いではなる六の郡を月雪花になすらへてかき集るは、三河の国乙見の里人菅江の真澄なり。文化十とせといふとしの春」と序文にある。目次には先年の紀行日記『勝手の雄弓、月のおろちね、あさひ川、水の面影、おもの浦風」などをあげている。/ 大型本、全十四丁。目次のほかは断章で、このとしどこまでできたか不明。平野政吉氏蔵。秋田叢書第十二巻に『別本花の出羽路』として掲載。なお〔花の出羽路 秋田郡〕と題した一冊も別にあるが、それは後年の編集であろう。」とありました。
 全集 第8巻の「解題」の記載は、「後年の編集であろう」と記された別の一冊に当たるものと思われます。
 秋田叢書第十二巻は、国立国会図書館のデジタルコレクションには入っておりませんので、見ておりませんでした。

*『通史編』ー「第七章 生活と民族」を見てみます。
 「第一節 社会伝承」に、上小阿仁村になった九カ村の字地名が記されていました。
 小沢田には、字中島・様ノ下・古川布・出川原・向川原・小沢田・釜渕・蟻沢・菅生沢・押切・独活平・上ノ山・林岱・上ノ岱・塚ノ岱、があったようです。
 現在の有料ネット地図で地名検索可能なのは、様ノ下・古川布・向川原・小沢田・釜渕・蟻沢・独活平・林岱・上ノ岱、でした。

 「第四節 信仰伝承」の「神社」の項目に23の神社が記載されており、その幾つかの社には末社・合祀社があります。
 七倉神社については、「(小沢田字独活平114)。祭神は菅原大神、天照大神、大山祇神、越大彦神、御神体は鏡、例祭日四月二十五日、氏子一二四戸。特筆は建立が応永二年(1395)で通称天神様と呼ばれている。」とありました。
 同節の「雑神」の項目に「水無の三体のイボ地蔵、福昌寺の延命地蔵、愛宕神社のお宮につけた耳の神と称する穴あき石、〈略〉」がありました。
 「水無」は、沖田面字水無でしょうか。「福昌寺」は、高嶽山福昌寺で沖田面字野中153でしょうし、「愛宕神社」の鎮座地は、「神社」の項目に、堂川字上ノ山40とありました。

 『資料編』ー「Wー十一 昭和初期の村の実態」の「神社」の項目の最初の七倉神社が記載されていました。
 七倉神社は、郷社で小沢田部落鎮守とあり、由緒が記されていました。

*『上小阿仁村史』に、寛政の郡邑記に小沢田村内に古四王社があったことが記されていました。
 ただ、村の何処に鎮座していたのかなどについては、不明です。
 小沢田村の神明社・古四王社・山神神社の三社とも天神宮である七倉神社に合祀された以上のことは不明です。

*『小沢田郷土誌コサワダ』(執筆編集 代表 小林實 発行委員会 小沢田部落委員会 平10・1998 )を見ることができました。
 「第一章 小沢田村の概要」の「位置・地勢」のところに「古四王社(俗称古四王堂コソド)は現在集落より北方約八百米、押切の隣村堂川村寄り脇街道添えにあって、正保元年(1644)以前は小沢田村の鎮守社でありました。なぜこのようにはなれた所に祭られたものかと不思議に思われます。」がありました。
 場所についての記述があるのですが、どのあたりになるのか絞り込めません。

 同書「第八章 信仰のことなど」に「正徳元年(1711)の寺社調(宮林調査帳写)」が記載されていました。それによると
 「一、古四王権現堂社地〈割書:東西拾八間/南北拾六間〉内〈割書:弐間/三間〉堂庭内
  但シ北ハ古畑際より南藤九郎畑根迄西ハ甚四郎畑きりより東ハ古畑根
  迄右ハ森ニ而杉大小拾壱本別当杉ケ花村宝正院」とあって、
 続いて「天神堂」「山神堂」「伊勢堂」の社地と範囲と樹木について記されており、三社とも「別当右同人」とありました。

 「社・祠・塔など」の写真が載せられていて、天神様・古四王神社・稲荷様・太平山様・山神様などの写真がありました。
 古四王神社は、平成10年には祀られていたのでしょうか。

                                《 2021年12月 記 》

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