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所在地情報  秋田  1  象潟町


◎所在地情報
 大山リスト : 由利郡象潟町
 桑原リスト : 由利郡象潟町塩越 古四王神社
 佐藤リスト : 由利郡象潟町塩越 古四王社
 (参考)川崎浩良 : 由利郡象潟町塩越 古四王神 『美人反別帳』〈「古志族の検討」に記載なし〉
     及川大渓 : 羽後国ー象潟町 「古四王神(昭47・改稿)」=『みちのくの庶民信仰』所収

○『平成の祭』
 古四王神社 祭神:《主》経津主神、武甕槌命、甕速日神、■速日神
       由利郡象潟町字五丁目塩越14
○『秋田県神社庁』のホームページの「県内神社のご紹介」によると
 〈  http://akita-jinjacho.sakura.ne.jp/ 〉
 古四王神社 御祭神:経津主神、武甕槌命、甕速日神、■速日神(ひはやひのかみ)
       にかほ市象潟町字五丁目塩越14
 由緒に「産土神古四王神社は、亀山天皇の弘長3年〈1263〉南秋田郡寺内村(現秋田市)古四王神社の御分霊を勧請し塩越村横山新田に一宇創建し守護神としたのを創始とする。」
 「後醍醐天皇正中2年〈1325〉冠石道西山に遷宮」「後陽成天皇文禄3壬申〈1594・?〉8月朔日現在の聖地古四山に再建遷宮して今日に至る。」
 「社紋三ツ亀甲星」

*勧請年についての文献・資料はどうなのでしょうか。
 またこの頃の寺内の古四王神社はどういう状況だったのでしょう。
 例祭は5月15日とされていますが、象潟神社祭として5月の第3土曜日に象潟町の統一祭典行事が行われるようです。祭の中心となるのは一丁目塩越5の熊野神社の祭礼ということです。

*『秋田県の地名』(日本歴史地名大系5 平凡社 1980)の象潟町ー塩越村に熊野神社の記載はありますが古四王神社についての記載はありません。

*webサイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」で、にかほ市の古四王神社を見ることができました。
〈 http://komainu.org/akita/index.html  2013/09/10 閲覧 〉

 記事中に案内版と思える写真があり、その文面によると現在地に遷座後に象潟大地震など二度にわたり消失して、「現在の社殿は嘉永元年(1848)に竣工したものである。」、拝殿に「亀の甲羅に社名が書かれた額が奉納されていました。」があり、その額の写真が載せられていました。

*象潟町は、明治29年に塩越村が町制施行し改称して成立したのち、昭和30年に象潟町と上浜村と上郷村が合併してあたらしい象潟町になっています。
 平成17年の大合併で、象潟町と仁賀保町と金浦町が合併してにかほ市になっています。

 神社の場所は、地図で確認できました。

*秋田市寺内の古四王神社の御分霊を勧請とのことで、祭神構成を見ますと、大山宏が「古四王神社の源流を尋ねて」中の「二、諸伝の祭神」の項目で「進藤重記の出羽国風土略記には、甕速日、□速日、経津主、武甕槌命となっている。」と記している祭神と同じです。
 大山の同書の同項目に「また由利郡象潟町鎮座古四王神社の、安政二年平田鐵胤の撰文に係る碑には、祭神を風土略記と同じく四神としてゐる。」とあります。
 また、山形県飽海郡八幡町市条(酒田市市条水上)の古四王神社の祭神と同じになります。
 〈□速日 : 大山論文では□には「漢」のサンズイを火に替えてクサカンムリを廿に替えたような文字が印刷されています。
 「Unicode U+71AF」。 神名表示を、樋速日神や火速日神としている例を見ます。〉

                                                                                          《 ここまで 2021−06 記 》


《 探訪の準備 》
*『秋田県神社庁HP』による由緒にあった鎮座地・遷座地の地名の「横山新田」も「冠石道西山」も現在のにかほ市象潟町の地名には見当たらないのですが、「象潟町横山」「象潟町冠石下〈カンムリイシシタ〉」はありました。
 勧請・創建の地及び最初の遷座の地は、「象潟町横山」「象潟町冠石下」の近くなのでしょうか。
 また、現在の鎮座地を「古四山」と言うのでしょうか。

*国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧した『由利郡地誌』(由利郡教育会 明27・1894)の「第十四章 塩越村(割書:古名蚶方)」の神社の項目にあるのは「郷社熊野神社」「八津島神社」「八幡神社」で古四王神社の記載はありませんでした。

*『羽後国由利郡村誌 2』(みしま書房 昭51・1976)は、謄写版印刷で「羽後国由利郡村誌 巻之四、巻之五」が収録されています。
 「塩越村」の項目を見ると、「社」には「熊野神社」「八津嶋神社」「古四王神社」が記載されていました。
 そこに「古四王神社 雑社 社地東西十間南北四十二間面積四百二十坪 本村字冠石町ニアリ 甕速日神□速日神経津主神武甕槌神ヲ合祭ス 祭日旧暦四月八日 此社往古字冠石下ニ在リ文禄三壬辰年今ノ地ニ迂ル」とあって、続いて「恩ョ碑」と題された「平銕胤謹識并書」の(日本)漢文が記載されています。
 〈 □速日神:□-ヒ・樋・火 「漢」のサンズイを火に替えてクサカンムリを廿に替える 〉
 これが、大山宏の記した「安政二年平田鐵胤の撰文に係る碑」の文面になるのかと思います。
 「此社往古字冠石下ニ在リ文禄三壬辰年今ノ地ニ迂ル」とありますから、「冠石道西山」という場所は「字冠石下」ということでよいのではないかと思います。
 古四王神社の現在地から冠石下地域の中央付近までは、直線距離で北西に460メートル程になるようです。
 「冠石町」は、五丁目塩越になったということなのだと思います。
 文禄三年は甲牛で壬辰であれば文禄元年ではないでしょうか。
 「恩ョ碑」の文面は「此乃出羽国由利郡象滷塩越郷乃古里山尓鎮座□此冠石町袁総守給布産土神古四王大神斗奉称留波〈略〉」と続いていきますが、「古里山」とありますので、鎮座地は「古四山」ではなく「古里山」なのかもしれません。
 〈 鎮座□此:テイ 底のマダレを外した文字、氏の下に一 〉

                                           《 2021年12月 記 》

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