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探訪記録  秋田  1  象潟町


◎所在地情報
 大山リスト : 由利郡象潟町
 桑原リスト : 由利郡象潟町塩越 古四王神社
 佐藤リスト : 由利郡象潟町塩越 古四王社
 (参考)川崎浩良 : 由利郡象潟町塩越 古四王神 『美人反別帳』〈「古志族の検討」に記載なし〉
     及川大渓 : 羽後国ー象潟町 「古四王神(昭47・改稿)」=『みちのくの庶民信仰』所収

○『平成の祭』
 古四王神社 祭神:《主》経津主神、武甕槌命、甕速日神、■速日神
       由利郡象潟町字五丁目塩越14
○『秋田県神社庁』のホームページの「県内神社のご紹介」によると
 〈  http://akita-jinjacho.sakura.ne.jp/ 〉
 古四王神社 御祭神:経津主神、武甕槌命、甕速日神、■速日神(ひはやひのかみ)
       にかほ市象潟町字五丁目塩越14
 由緒に「産土神古四王神社は、亀山天皇の弘長3年〈1263〉南秋田郡寺内村(現秋田市)古四王神社の御分霊を勧請し塩越村横山新田に一宇創建し守護神としたのを創始とする。」
 「後醍醐天皇正中2年〈1325〉冠石道西山に遷宮」「後陽成天皇文禄3壬辰〈ママ1594〉8月朔日現在の聖地古四山に再建遷宮して今日に至る。」
 「社紋三ツ亀甲星」

*勧請年についての文献・資料はどうなのでしょうか。
 またこの頃の寺内の古四王神社はどういう状況だったのでしょう。
 例祭は5月15日とされていますが、象潟神社祭として5月の第3土曜日に象潟町の統一祭典行事が行われるようです。祭の中心となるのは一丁目塩越5の熊野神社の祭礼ということです。

*『秋田県の地名』(日本歴史地名大系5 平凡社 1980)の象潟町ー塩越村に熊野神社の記載はありますが古四王神社についての記載はありません。

*webサイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」で、にかほ市の古四王神社を見ることができました。
〈 http://www.komainu.org/akita/nikahosi/koshiou/koshiou.html    2013/09/10 閲覧 〉

 記事中に案内版と思える写真があり、その文面によると現在地に遷座後に象潟大地震など二度にわたり消失して、「現在の社殿は嘉永元年(1848)に竣工したものである。」、拝殿に「亀の甲羅に社名が書かれた額が奉納されていました。」があり、その額の写真が載せられていました。

*象潟町は、明治29年に塩越村が町制施行し改称して成立したのち、昭和30年に象潟町と上浜村と上郷村が合併してあたらしい象潟町になっています。
 平成17年の大合併で、象潟町と仁賀保町と金浦町が合併してにかほ市になっています。

 神社の場所は、地図で確認できました。

*秋田市寺内の古四王神社の御分霊を勧請とのことで、祭神構成を見ますと、大山宏が「古四王神社の源流を尋ねて」中の「二、諸伝の祭神」の項目で「進藤重記の出羽国風土略記には、甕速日、■速日、経津主、武甕槌命となっている。」と記している祭神と同じです。
 大山の同書の同項目に「また由利郡象潟町鎮座古四王神社の、安政二年平田鐵胤の撰文に係る碑には、祭神を風土略記と同じく四神としてゐる。」とあります。
 また、山形県飽海郡八幡町市条(酒田市市条水上)の古四王神社の祭神と同じになります。
 〈■速日 : 大山論文では■には「漢」のサンズイを火に替えてクサカンムリを廿に替えたような文字が印刷されています。
 「Unicode U+71AF」。 神名表示を、樋速日神や火速日神としている例を見ます。〉

                                                                                          《 ここまで 2021−06 記 》


《 探訪の準備 》
*『秋田県神社庁HP』による由緒にあった鎮座地・遷座地の地名の「横山新田」も「冠石道西山」も現在のにかほ市象潟町の地名には見当たらないのですが、「象潟町横山」「象潟町冠石下〈カンムリイシシタ〉」はありました。
 勧請・創建の地及び最初の遷座の地は、「象潟町横山」「象潟町冠石下」の近くなのでしょうか。
 また、現在の鎮座地を「古四山」と言うのでしょうか。

*国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧した『由利郡地誌』(由利郡教育会 明27・1894)の「第十四章 塩越村(割書:古名蚶方)」の神社の項目にあるのは「郷社熊野神社」「八津島神社」「八幡神社」で古四王神社の記載はありませんでした。

*『羽後国由利郡村誌 2』(みしま書房 昭51・1976)は、謄写版印刷で「羽後国由利郡村誌 巻之四、巻之五」が収録されています。
 「塩越村」の項目を見ると、「社」には「熊野神社」「八津嶋神社」「古四王神社」が記載されていました。
 そこに「古四王神社 雑社 社地東西十間南北四十二間面積四百二十坪 本村字冠石町ニアリ 甕速日神■速日神経津主神武甕槌神ヲ合祭ス 祭日旧暦四月八日 此社往古字冠石下ニ在リ文禄三壬辰〈ママ〉年今ノ地ニ迂ル」とあって、続いて「恩ョ碑」と題された「平銕胤謹識并書」の(日本)漢文が記載されています。
 〈 ■速日神:■-ヒ・樋・火 「漢」のサンズイを火に替えてクサカンムリを廿に替える 〉
 この寛文が、大山宏の記した「安政二年平田鐵胤の撰文に係る碑」の文面になるのかと思います。 
 「此社往古字冠石下ニ在リ文禄三壬辰年今ノ地ニ迂ル」とありますから、「冠石道西山」という場所は「字冠石下」ということでよいのではないかと思います。
 古四王神社の現在地から冠石下地域の中央付近までは、直線距離で北西に460メートル程になるようです。
 「冠石町」は、五丁目塩越になったということなのだと思います。
 文禄三年は甲午で壬辰であれば文禄元年ではないでしょうか。
 「恩ョ碑」の文面は「此乃出羽国由利郡象滷塩越郷乃古里山尓鎮座■此冠石町袁総守給布産土神古四王大神斗奉称留波〈略〉」と続いていきますが、「古里山」とありますので、鎮座地は「古四山」ではなく「古里山」なのかもしれません。
 〈 鎮座■此:テイ 底のマダレを外した文字、氏の下に一 〉

                                           《 2021年12月 記 》

《 探訪の記録 》
※2024年3月16日
○象潟町の古四王神社を訪ねました。
*国道7号線を北上し、右折すれば市役所象潟庁舎や象潟郷土資料館になる交差点(市役所入口)を越えてすぐに左折して、古四王神社へ向う道に進みました。
 この道は、国道7号に対しては旧道のようで砂丘の内陸側を通っているようです。商店の看板なども見受けられます。
 この道沿いには、道から砂丘の方に入っていく参道の神社がいくつかあります。
 そのひとつの古四王神社の前に到着しましたが、センターラインの無い広くない道路でしたので、付近に駐車できそうな場所がないか見渡して見ましたが見つけられずに、なるべく神社の石の玉垣に寄せて交通の妨げにならないように駐車させてもらいました。

 道路から奥まで参道が続いており、向って右側の玉垣の内側に「郷社 古四王神社」と刻まれた「大正九年四月八日建立〈以下・略〉」の社号標があり、「古四王神社」についての案内看板と「船絵馬」の看板があります。
 看板「古四王神社」の案内文は、四祭神と「古四王神社縁起写」による記載がありますが、内容についてはあらためて記します。
 この神社境内に設置された神社の案内文を、以下『神社案内』と記します。
 「船絵馬」の案内文に、由利地区には200程の船絵馬が現存していてその半分以上が象潟町にあり、象潟町の中でも古四王神社に一番多い37点が現存しているとのことです。
 かつての信仰の一端がうかがわれるようです。
 左側の玉垣の内側には、神社の境内定書が、周囲を柵で囲った、切妻屋根の左右の柱の間にあげられています。
 道路と境内の間にU字溝がありますが、道路から参道に入る所は橋になっています。


*境内
 境内に入ると、狛犬があり、注連縄があげられた石鳥居があります。
 参道の奥に数段の石階段があり、その先に社殿が見えています。
 石段までの参道の左右に石灯籠が三基づつあり、最初の灯籠は三段の石積み台座に基壇が置かれ、さらに二段石材を重ねた上に設置された高灯籠の対で、二つめは地面に置かれた灯籠の対で、三つめは右側は二つめと似た灯籠で左側は基礎竿中台に当たる部分がでこぼこした自然石で、丸い火袋があり、自然石をのせているような変わった灯籠です。
 灯籠と灯籠の間に竿立てのような物が左右に三本ずつ立っています。
 その奥に狛犬が居て、数段の石段で境内が高くなり、石段の左右に玉垣が見え、玉垣の内側に対の高灯籠があり、石の二の鳥居があって、この鳥居には注連縄が無く、参道の奥に社殿が見えます。参道の左右に狛犬と灯籠が見えます。
 石段までの参道の右側には手水舎と社務所と思われる建物があり、左側には社道敷石奉(以下不明)の石柱、寄付者の碑、庚申碑、猿田彦尊碑、風神碑、出羽三山碑、鳥海山碑が配置されています。
 上の境内に進むと、右側に「御神輿庫」の扁額があがる建物があり、その横に「荒屋橋風会記念碑」というものが建っています。
 少し離れた場所でこの碑が目に入った時は、碑に文面が刻まれているので、平田鐵胤の「恩ョ碑」かなと思って近づいたのですが、違っていました。ここまでに「恩ョ碑」が無かったので、見落としたのかと思いました。
 拝殿に近づきますと、右側に手水石鉢があり、自然石の灯籠の石と似た石材のようにも思われます。火山由来の石なのでしょうか。
 拝殿には、海亀の甲羅に古四王神社とある社額が揚がっています。「神」の文字のある部分の甲羅が白くなっていて、文字が読みにくくなっていました。
 参拝して、社殿の左側を見てみると、奥の方に石祠があるようです、右側を見ると石碑がありました。
 神社の本殿の様子は、白いサイディングの覆屋と思われる建物のために、見えません。
 社殿の左側の奥には、狛狐と石祠がありますので、祀られているのは稲荷社のようです。
 古四王神社の境内は、奥に行くほど高くなっていて、本殿の背後はさらに高く盛り上がっています。
 稲荷社の石祠は一段高い場所にありますが、社殿の右側の石碑の建つ地面の盛り上がりはさほどでもありません。 
 この境内のある砂丘のことを古里山と言うのかと思います。
 社殿の向く方角は 北東ですが、道路とほぼ直角に参道があり、道路から素直に入っていく参道なので、自然に北東を向く社殿になったのではないでしょうか。

 左上: 参道入口                      右上: 一段高い奥の境内に二の鳥居と社殿
 左下: 拝殿                         右下: 亀甲に社名の神額

*「恩ョ碑」 
 社殿の右側を進んでいくと長方形の石碑があり、上部に横に右から左に「恩ョ碑」と篆書体で記され、碑面にはびっしりと文字が刻まれています。試みに数えてみると、32文字の16行ですが、最後の1行は年月日と名前なので数文字少なくなっています。
 碑は、表面に多数の穴がある火山由来かと思われる石を土台として建てられていて、社殿右の通路の社殿が尽きた所にあって、碑の手前の左右に、まるで碑への通を狭くするように自然石が立てられています。
 この碑が、かように奥まった、ある意味目立たない場所に建てられているのは、何故なのか不思議に思います。
 本殿の後方の傍らで、そこは良い位置ということなのでしょうか。
 この碑の建立の時からこの場所に据えられたのでしょうか。元の位置はここではないのでしょうか。

 左上: 社殿右側の奥に石碑                右上: 石碑前
 左下: 社殿左側奥の高台に稲荷祠             右下: 稲荷祠


○熊野神社を訪ねる。
*古四王神社をあとにして、「象潟郷土資料館」を訪ねてから、熊野神社に向うことにしました。
 「塩越村」で神社といえば、熊野神社のようですので、行っておきたいと思います。
 地図によると「象潟橋」の近くですので、国道7号線から川沿いの道に入ろうと思って運転していたのですが、川を通り越してから川に気付いたので、先に「坩満寺」を訪ねることにしました。
 坩満寺へは、ナビの地図画面を見て判断して、7号線から右折して行こうとしたのですが、集落内の狭路に難渋し、坩満寺への入口も見つけられず、行き着けませんでした。
 7号線から坩満寺の山門近くの駐車場に向う道路から行くのがよいようですが、その道のだいぶ手前で右折していました。
 坩満寺を参拝し庭園などを早足で見て回って、「道の駅象潟ねむの丘」にあった展望施設で九十九島を眺望しました。

*熊野神社を訪ねましたが、こちらも早足での参拝となりました。
 「塩越城跡」に車を駐めさせてもらいました。  
 象潟橋の方に戻って参道入口に立つと、四段ほどの石段をあがった少し先に注連縄のあげられた石鳥居があります。
 石段をあがったすぐ右側には、大正九年四月八日建立の郷社熊野神社の社号標柱がありました。
 古四王神社の社号標と同日の建立で奉納者も同じ方です。
 その右やや後方の、入口近くの目立つ場所に、石組みの台座の上に大きな石碑があります。
 右から左への横書きの篆書四文字の碑銘がありますが、読めませんでした。〈紀元二千五百四十四年とありましたので、明治17年に建立の碑で、撰文者が従五位 六郷政鑑、とありますので本荘藩の最後の藩主でしょう。碑文を読むことを意図して写真を撮らなかったので、写真から文面を読み取れませんでした。〉
 鳥居の左側に、「熊野神社」の案内看板(古四王神社と同じ様式)があり、祭神に熊野三神が記され「文治二年(1186)」「神明森(現境内)に祠を建てて祀ったのが始まりといいます」「さまざまな変遷を経て今日に至っております」などの記載がありました。
 象潟古四王神社の勧請よりも早い年号になります。
 その隣に「荒川決死隊の祈願所」の案内文があります。

 鳥居をくぐると平らな参道はすぐに二十段程の石段となり、さらにコンクリート舗装のなだらかな坂の参道が続きます。
 参道の左側は山の様相です。
 参道の脇には石灯籠や木製の灯籠が並び、左側に「頌徳碑」とあるお二人のお名前と碑文が刻まれた石碑があります。
 刻されたお名前の先の方は社号標の建立者のお名前のようです。碑文の年月は昭和三十六年とありましたが、文面は読んでいません。
 その先に、参道左側へ入る十段程の石段があって、その上に鳥居があり、鳥居の先に「須賀神社」と刻された石碑があります。
 その一段高い一画は、雰囲気のある場所に感じられ、あれこれ見てまわらなかったのですが、周囲を石組みで囲っているように思われ、小祠がいくつか安置されていました。背後の方は林になった高台のようです。林はタブノキのように見受けられました。

 その先の参道の左側には、戦没者の慰霊の石碑があります。
 あれっというように感じたのですが、参道は低くなって、その先に熊野神社の社殿があります。
 参道には灯籠などがあって、参道の右側には社務所のような建物や手水舎があり、左側には石段の上にある建物や参道のすぐ脇の場所の建物がありますが、何の建物であるか確認できていません。
 拝殿の向拝柱に石鳥居のものと同じような茶色の合成繊維製の注連縄があげられています。
 参拝し、社殿の後方に行ってみますと、弊殿と思われる建物が続き、本殿は石垣が積まれ玉垣がめぐる一段と高い場所にあって、背後だけ木材の風よけのような物が設置されていました。
 海が見渡せました。

 社殿の左側の奥の方に石段があったので行ってみると、古峰神社碑があり、そこを回り込むと境内左側の高台に向うような道がありましたが、行ってみませんでした。
 熊野神社の境内は、あちこちに岩石が目立ちますので、いわゆる「流れ山」による地形なのでしょうか。

 道路まで戻って、「塩越城跡」方面に歩き始めると、境内の左側の高台に向う階段があって、「避難場所」の案内版がありました。
 境内の奥に向って左側に、境内周辺では一番高く、避難場所になるほどの空間があるのだと思います。
 その場所には神社施設が無いのでしょうが、元から何も無いのでしょうか。
 神明森というのはどこからきている名称でしょうか。
 車に戻って象潟をあとにしました。

《 探訪の整理 》
*「古四王神社」の案内看板(『神社案内』)は、「きさかたさんぽみち」と題されていますので象潟の名所旧跡等に設置されている案内板の一つのようです。
 案内文を見ますと、先ず祭神が「経主神フツヌシノカミ 武甕槌神タケミカツチノカミ 甕速日神ミカハヤヒノカミ ■速日神ヒハヤヒノカミ 〈■:火偏+莫〉」と表記しています。〈注: ■の表記では、「漢の旧字」の水偏を火偏にした形=U+71AFを見受けます。地の文で表記する場合は、古事記での表記という「樋」或は「ヒ」と表わすこともあるかと思います。〉
 文面の前半は、「『古四王神社縁起写』(年月未詳)によると、弘長三年(1263)佐藤左織・佐々木典膳・泉孫治郎らが南秋田郡寺内村(現秋田市)の古四王神社の分霊を勧請して汐越村横山新田(現象潟町内)に一宇を建立して守護神としたのが始まりと伝えられる。」となっていて、創建年代・勧請事情・創建の場所が記され、後半部分で正中二年(1325)の冠石道西山への遷座と文禄三年(1594)の現在地への遷座のこと、象潟大地震などで二度の消失があり、現社殿は嘉永元年(1848)に竣工したものであること、十一代本庄藩主藤原政鑑筆の社号額が奉納されていること、祭礼日時などが記されています。
 「古四王神社縁起写」というものは、どういったものであるのか不明ですが、勧請年とどこからの勧請であるかと勧請した人物の名前が記録されている事がうかがえます。
 弘長三年という鎌倉幕府の樹立から80年ほど経た時代の象潟地域はどのような状況にあって、横山新田という新開の地と思われる所に南秋田郡寺内村の「古四王神社」からの勧請を行える佐藤左織・佐々木典膳・泉孫治郎らという姓名の伝わる人達はどういった立場にいる人達だったのでしょうか。
*『象潟町史 2版』(象潟町郷土誌編纂委員会編 象潟町教育委員会 昭48・1973)を国会図書館デジタルコレクションで閲覧したところ、各神社に関する記載は祭神・所在・由緒について数行記されているだけでした。
 『象潟町史 通史編 下』(象潟町 平13・2001)では、「文化編 第二章 象潟町の神社と寺院」の神社に関する記載はいくらか詳しくなっています。
 同書の「古四王神社」の記載を見ますと、祭神は『神社案内』と同じ表記の四神です。以下、この祭神を表わす場合は「四祭神」と記します。宮司は佐藤姓の方になっています。
 『神社案内』との重複を避けて本文から引用すると、現在地への遷座は「文禄二年(1593)に遷座再建したと伝え、」とあり、「寛政五年(1793)に社殿並びに社家も類焼して、これまで伝えられてきた宝物、縁起、古書など全て焼失したとされる。」、「文化元年(1804)の象潟大地震に遭遇し、その後二十年間を仮宮で奉祀となる。」、「本殿は嘉永元年に竣工し、細かな彫刻の施された一間社である。」、「御神体は斎藤○○○が田圃耕作のときに、たまたま池の底より妖しい光の発するものを不思議と見つけて、網ですくい上げたのが武将の像であった。これを奇異として御神体として奉祀してきたと伝えられる。」、「近世の社家は佐藤美濃守で、神社創祀にあたる佐藤左織藤原朝臣広守はその先祖という。」、「境内には平田鐵胤ヒラタカネタネ撰文の恩ョ碑ミタマノフユノヒが建立されて、神社の由来がわかる。」がありました。
 宮司の佐藤姓の方は、近世の社家から続いている方なのでしょうか。
 webサイト「絵馬ブログ」の「古四王神社(象潟)の絵馬 2022-04-30」に、古四王神社の拝殿内の写真が掲載されており、「古四王神社由緒」額の写真もあり、内容が読み取れますので引用させていただきます。 〈 https://emaema.hatenablog.jp/entry/2022/04/30/140001 
 この「由緒」には、明治百年記念とあり昭和四十四年五月の日付があり、謹識并謹書者と奉納者の名前があります。
 文中に「三百年の家系正しき斎藤○○○家の古文書により相傳へられるところに拠れば延享元年〈1744〉斎藤家主人或日作男同伴し横山四角池附近の所有畑地耕作中池の水中深く光り輝く物有るを発見し不思議に思い早速漁師金澤○○○に依頼し味子縄網を造り水中より洩き揚げたるところ光明の金神像なり自宅に安置し御初穂を献じ社家佐藤美濃守を招き家運長久の御祈祷を奏し後古四王神社へ御神体として安置奉祀せるものと傅へらる」があります。〈○○は当方による伏字〉
 この御神体はどうなっているのでしょうか。社殿の類焼から免れたのでしょうか。
 「四祭神」とこの武将像ないし金神像の祀られ方はどうなのでしょうか。
 延享年間頃に古四王神社の祭神を「四祭神」とするという認識が無ければ、出現した光り輝く像を御神体として祀るのはごく自然な事に思われます。古四王神社の祭神が「四祭神」であるという認識が共有されていれば、光り輝く像を古四王神社の御神体としようという事にはならないのではないでしょうか。
 同一の出来事の枝葉が異なる伝承なのか、話の真実らしさの細部の具体性なのか、分かりませんが、あちこちで聞く御神体出現話のようにも思えます。
 記載されている情報のままに記しておきます。


◇弘長三年の寺内村「古四王神社」
*勧請年の弘長三年は、文永十一年(1274)十月の第一次の元寇・文永の役の11年前にあたります。
 この頃に関係すると思われる南秋田郡寺内村の「古四王神社」に関する資料を見てみます。
 『秋田市史 第八巻 中世 史料編』(平8・1996)の「一 記録・文書」の項目番号「129」に「延文元年(1356)六月/秋田城古四天王寺別当の恒智法印、内海三郎・三浦弥六らによる寺領妨害の停止を幕府に訴える。」とされる文書(新渡戸文書)があります。この文書を以下「恒智法印文書」と記します。
 この文書についての「解説」に「鎌倉時代に入り秋田城介の任命をみたが、その実態は明白でない。しかしその地に古四天王寺があり、別当が寺務、寺領を管理していたことは、この史料によって明らかである。この時点での別当は恒智法印であったが、彼は成遍僧都以来六代目に当たるという。従って代々鎌倉幕府の安泰を祈祷するのが寺務であったといえる。南北朝時代に入ると当地も混乱を極め、尾張からの流れ武士団内海三郎・三浦弥六らに侵害されることになった。この史料はそれを訴えた内容になっている。」とあります。
 弘長三年から93年後の延文元年には、古四天王寺の存在があり、当代の別当は六代目であること、代々祈祷忠勤してきたこと、鎌倉幕府の代々の御下文並び当御代の安堵証文等があること、鎌倉幕府からの御祈祷御教書等があると「恒智法印文書」に記されています。
 成遍僧都が古四天王寺の初代であった年代は、成遍僧都を開基として古四天王寺が建立された年代ではないかと思いますが、一代を二十年とすると、弘長三年よりも前と考えて良いと思います。

○鎌倉時代の秋田城介
*先の「解説」中に「鎌倉時代に入り秋田城介の任命をみた」とあります。
 遠藤巌「秋田城介の復活」(『東北古代史の研究』高橋富雄編 吉川弘文館 昭61・1986)の「四 秋田城介安達氏」に「建保六年(1218)三月六日臨時除目で鎌倉御家人安達右衛門尉景盛(括弧内略)が出羽城介に任官され(括弧内略)、秋田城介を通称とし(括弧内略)、以後「秋田城介」が前述〈「一 有職書の規定から」〉のように有職書の正式名称ともなる。」があります。
 建保六年は、三代将軍源実朝が暗殺される前年で、三年後の承久三年(1221)年には承久の乱が起きています。
 出羽城介は、永承五年(1050)九月に平重成(繁成)の補任後は、安達景盛の補任まで行なわれなくなります。
 平重成の補任年から安達景盛の補任年までは、168年となります。
*『秋田市史 第一巻』(平16・2004)ー「第八章 前九年・後三年合戦と秋田」-「第三節-2 前九年合戦の勃発」の項目「出羽城介の廃絶」に、「ひとたび廃絶〈長元元年(1028)〉された鎮守府将軍であったが、それが復活したのが天喜元年(1053)のこと、永承六年に陸奥守に任じられ現地に赴任していた〈源〉頼義が、自らが兼任するかたちでこれを再生させたのである。頼義の将軍兼任が、安倍氏を討つための準備の一環であったことはいうまでもない。そして頼義が鎮守府将軍を復活させた後、今度は出羽城介が廃絶した。それは頼義が、鎮守府将軍と職掌において競合する城介の重成を追い落とし、ついには出羽城介という官じたいを廃絶に追い込んだことを意味するものと見られる。」を記しています。
*鎌倉時代になって、160年程も補任の無かった出羽城介の補任があり、秋田城介と称されるようになったことは、鎌倉幕府の秋田に対する関与が強まった事を意味するのではないかと思います。
 建保六年(1218)安達景盛の補任があって、古四天王寺は「聖徳太子御建立之地天下無双霊場也」(「恒智法印文書」)という伝承のもと、いにしえ(古)の四天王寺にあやかった寺院として建立されたのではないでしょうか。

○古代秋田城と四天王寺
*古代の秋田城に付随する四天王寺のあった場所は、「鵜ノ木地区」とされています。
 その発掘調査の報告書『秋田城跡U ー鵜ノ木地区−』(2008年3月 秋田市教育委員会/秋田城跡調査事務所)の「第Y章 考察ー第3節鵜ノ木地区の変遷」によれば、「鵜ノ木地区は、前述したように古代以降おおよそ6時期の変遷が把握される。各期の年代についても、前述し、示したとおり、紀年銘資料や年代比定資料により把握が可能である。」とあります。
 同書によれば、T期の創建期については、「天平5年(733)の秋田「出羽柵」の創建時〈出羽柵の秋田村高清水岡への移遷〉まで遡ることが把握される。」とのことです。
 U期・V期を経て、W期は「鵜ノ木地区における宗教的性格がもっとも強まる時期」とされ、W期の開始は9世紀第2四半期に位置付けられ、天長7年(830)の「天長大地震(括弧内略)に伴う被害の復興によるものであり、政庁第W期の開始に対応すると考えられる。」、そして、終りは9世紀第4四半期に位置付けられ、「元慶の乱に際する秋田城主要施設の焼失によるものと考えられ(括弧内略)、政庁W期・外郭V期の終末に対応すると考えられる。」とあります。
 X期は、「地区中央では、建物や区画施設が確認されなくなるが、削平により不明となっている前期建物群の南半部または周辺に寺院建物が存続した可能性を残す。地区全体でも遺構数が減少し、地区北部と中央の一部を除き利用されなくなる。地区中央を中心とした鵜ノ木地区の利用状況が大きく変化する。」とあります。
 X期の開始は「元慶の乱に伴う被害の復興によるものと考えられる。」とし、終りについては「明確ではないが」「10世紀前半代、政庁Y期のうちに収まるものと考えられる。」としています。
 Y期は、「鵜ノ木地区では、10世紀後半以降に明確な遺構は検出されなくなり、平安時代後半の実態や利用状況は不明確となる。これは、古代の秋田城全域に共通している。その後、中世前期の12世紀末頃から沼地周辺に大規模な埋め立て整地を行い、再び利用が活発化する。」とあり、「中世段階を通じ地区全体として、居住域および生産域や宗教域からなる複合的な利用状況を示している。」とあります。
 また、「〈地区西部に〉近接する溝から13世紀代に位置付けられる懸仏が出土しており、周辺を含め何らかの宗教施設の存在が推定される。鵜ノ木地区と寺内一帯については、史料上に、鎌倉時代に妙覚寺・光明寺・大悲寺の湊3ケ寺が建立された記録、南北朝時代における秋田城古四天王寺の記録があり、墓壙群と懸仏はそれら史料上に認められる寺院の存在に結びつくものといえる。」と文献史料との関連の記載があります。
 湊三ケ寺建立に関する文献は、後で見る「古四王社縁起」かと思えますし、古四天王寺に関するものは、先に見た延文元年の古四天王寺別当の恒智法印の文書であろうと思います。
 Y期の開始は「12世紀末頃に位置付けられる。」とし、「終りは明確ではないが、建物や井戸からなる居住域については、14世紀代と考えられる。墓域の終末はそれより下ると考えられる。」とあり、この期の開始については「秋田地方における鎌倉幕府による新たな支配体制拡大期に対応すると考えられる。」、その終りについては「南北朝時代における地域支配体制の変化が関係している可能性がある。」としています。
 こう見てくると、X期は9世紀第4四半期に始まって「10世紀前半代」に終わるとされますが、Y期の開始とされるのが「12世紀末頃」とありますので、この終りから始まりまでの間の「明確な遺構は検出されなくなり、平安時代後半の実態や利用状況は不明確となる。これは、古代の秋田城全域に共通している。」という時期が200年もあることになります。
*報告書『秋田城跡−政庁跡−』(2002年3月 秋田市教育委員会/秋田城跡調査事務所)で「第Y章 考察ー第3節 政庁の変遷」を見ます。
 政庁地域のW期の終りは「元慶2年(878)の俘囚の反乱による焼失によるものであることが想定できる。」とあり、続くX期は「元慶の乱で受けた被害を復興した時期と考えられる。」とされ、X期の終りは「10世紀第1四半期頃と考えられる。」とあり、政庁W期の終りとX期の始まりは鵜ノ木地区のW期の終りとX期の始まりと同じです。
 鵜ノ木地区のX期の終りは「10世紀前半代」とされ、政庁X期の終りより後になるようですが、「政庁Y期のうちに収まるものと考えられる。」とのことです。
 政庁のY期は「最上層検出の遺構であり、政庁の最終末期となる。そのため後世の削平も多く、建物や区画施設等政庁内の様相は不明な点が多い。」とあります。
 Y期の始まりは「10世紀第1四半期」以降と考えられ、終末については「明確ではないが」「10世紀中葉頃に収まると考えられる。本期が古代における政庁域の連続した使用としては最終期となると推察される。本期以後、中世にかけての政庁周辺の利用状況については同様に不明確であり、前述した遺構と遺物の状況から、本格的施設を伴う大規模な利用はないものと推察される。」とあります。
 鵜ノ木地区のX期は、政庁地区のX期からY期にまたがっていて、政庁地区のY期の終わった後の12世紀末頃から鵜ノ木地区のY期とされる時期がおとずれるもようです。
 大雑把に言えば、いわゆる、平安時代の律令国家体制から王朝国家体制への変遷、征夷政策の転換などで、中央集権体制下での秋田城及び付属施設として存続し続けることはできなくなっていったのではないでしょうか。
 秋田城の付属寺院は10世紀前半には城柵付属寺院として維持されることはなくなったのではないかと思います。
 そして鎌倉時代になって、歴史的な知名度もあったのでしょうが、幕府の施策の一環として再興されたのではないでしょうか。

○寺内村の「古四王社縁起」
*『秋田市史 第八巻 中世 史料編』で「古四王社縁起」を見ます。
 その「解説」に「この縁起は元禄年間に、東門院から藩に納められたものである。成立年代・筆者ともに不詳とされているが」「ほぼ慶長年間に作られたものと察せられる。」とあり、「古四王神社は東門院が別当として管理してきたのでこの縁起は東門院に伝わった。元寇と古四王神社の関係、現禅宗大悲・妙覚・光明三寺建立のいきさつ」やその後の修造・修復・炎上・再興などについての記載があります。
 この縁起に、「四天王寺荒敗而伽藍及傾破良久」とあって、聖徳太子建立四十六院とされる秋田城四天王寺は荒廃し伽藍も傾き破れとありますので、四天王寺はいったんは廃れた事を記述しています。その再興は坂上田村麻呂による征夷の成果に結びつけられています。
 また、元寇、とりわけ弘安の役(弘安四年)での「将軍家課諸国之地頭。於大小之神社仏閣。可抽精祈之旨下知日本国。」と幕府が地方官を通じて諸国の寺社による祈祷を命じた事を記して、「就中当社者上宮太子。運夷賊征罸之聖慮。依為御草創之伽藍。勵種々懇祈。」(読み下し:なかんずく、当社は上宮太子、夷賊征罸の聖慮を(運)めぐらし、御草創の伽藍たるにより、種々の懇祈に励む)を記しています。
 (読み下し)は、『能代市史 資料編 中世二』(平10・1998)の縁起の読み下しにより、縁起文の句点は、秋田市史によります。以下同様です。
 聖徳太子の夷賊征罸のおぼしめしによる御草創の伽藍を(由緒とする)当社と自己を規定していることは、古四天王寺についての延文元年の「恒智法印文書」の認識と重なります。
 弘安六年の大悲禅寺・妙覚禅寺・光明禅寺の建立は、弘安の役における「大風夥吹」により元寇を退けたことに「帝叡感之餘。日本国中大小之神祇仏閣。或被挙品。或御建立之時。就中当社依為太子之御願所。」(読み下し:帝叡感の余り、日本国中大小の神祇仏閣、あるいは品をあげられ、あるいは建立の時、なかんずく当社太子の御願所たるにより」なされた建立であるとしています。
 この三寺の草創時の宗派は天台宗とされているようですので、それぞれの寺を禅寺としていますので、そこにこの縁起の時代背景などが反映しているんかも知れません。
 さらには「惟康将軍〈鎌倉幕府七代将軍〉以武命。弘安六年癸未修造以来年記当七十八年。観応二辛卯年二月女河寂蔵修復。」があります。
 これら修造修復の記載に続いて、文明四年の炎上・同八年の再興、天文三年の炎上・同十三年の湊尼崎洪廓による再興、弘治二年の湊二郎による炎上などが記載され、天正十八年の再興までが縁起に記されています。
 古四王社縁起のうちで、年代の示されている事柄は、鎌倉時代以降の事柄であり、古四天王寺以降の事柄になります。

*「古四王社」は鎌倉時代に幕府によって修造されているようです。
 その七十八年後の観応二年(1351)に「女河寂蔵」による修復が記されています。
 「古四王社」の弘安の修造も湊三ケ寺の創建も蒙古退散の祈祷も鎌倉時代の「古四天王寺」の時代の事柄ということにならざるを得ないと思います。
 南北朝時代の観応二年の修復も「古四天王寺」の時代の事柄ということになると思います。
 「延文元年恒智法印文書」の記載に「去々年文和三八月以来非分濫妨」とありますので、延文元年の二年前の文和三年(1354)八月から内海等による寺領侵犯が始まったようですので、その三年前の観応二年は修復が行なわれる状況にあったのでしょう。
*「女河寂蔵」については、『能代市史 資料編 中世二』の「第四章 第一節 系図」に載せられている幾つかの系図の中の「491 安倍姓湊氏系図〔市川 湊文書〕」を見ます。
 この系図は、同市史の項目の「解説」によると「江戸時代に湊金左衛門が作成したもの」で「湊安東氏の系譜であるだけに、秋田湊家の草創から、この秋田の地における湊氏の動向に主眼をおいた記述である。」とのことです。
 系図は、「○盛季 建武二年ヨリ康永三年間十余年」から「○兼季」「(貼り紙)」の次に「○寂蔵 貞和六年ヨリ応安五年迄此間廿二年」とあって「此世貞和六年六月六日、雄鹿嶋本山修造。大檀那寂蔵、願主沙門道勝焉。其事在棟札。」の記載があります。
 また、同系図の「●鹿季」「貼り紙」に続いて、「私ニ本山棟札ニ鹿季ハ不見、」に始まる筆者の註があって、その中に「実季ノ覚書ニハ湊ノ先祖鹿季、此人ノ先、秋田ノ主人ハ女川ト申人也。」が記されていました。
 系図の「寂蔵」の年代も、観応二年の修復に合致しますし、本山修造の大檀那でもありますので、縁起の「女河寂蔵」はこの湊安東家の盛季から三代目の当主ということになると思います。

◇祭神について
*象潟の「古四王神社縁起写」によるの弘長三年の勧請の記載は、秋田の古四天王寺の時代に含まれると思えますので、勧請の年代についてはあり得る事と思います。
 縁起に、勧請に携わった人物名が明記されており、勧請年と人物名に関する資料が勧請の実際を正しく反映したものであり、そこに四座の祭神が明記されているのであれば、弘長三年当時の古四天王寺は神仏習合しており四祭神を祀る社堂があったと言える事になると思いますので、そうした場合は象潟の「古四王神社縁起写」はかけがえのない資料となります。
 しかしながら、私が不明なだけかも知れませんが、鎌倉時代の古四天王寺については、不分明としか言いようがないと思いますし、象潟の「古四王神社縁起写」についてもいまのところ資料を見つけられておりませんので、勧請年に四座の祭神が明記されているのかどうか分からない状態です。
 古四天王寺に古四王神が位置を占めていたかは分かりませんし、古四王神の社があったとしても、祭神が四祭神かどうか分かりません。
 古四天王寺は四天王を祀っていたと思われますので、古四天王寺からの勧請であれば、象潟に勧請されたのも四天王ではないかと仮定するのが今のところは無理がないと思います。
 現在の古四王神社の勧請当初から、祭神として現在の四祭神を祀っていたとは考え難いと思います。

○進藤重記と『出羽国風土略記』
*本記事の「◎所在地情報」のところで、大山宏の「古四王神社の源流を尋ねて」(『秋田郷土叢話』秋田県図書館協会編 昭9・1934)に簡単に触れています。
 同論文は、副題を「祭神紛々聚訟の如き」としており、「所伝の祭神」を様々取上げていますが、秋田市寺内の古四王神社の祭神については、「宝暦年中に成った、進藤重記の出羽国風土略記には、甕速日ミカノハヤヒ・■速日ヒノハヤヒ・経津主フツヌシ・武甕槌命タケミカツチノミコトとなっている。〈■:「漢の旧字」の水偏を火偏にした形〉」があります。
 また、「久保田領郡邑記に(寛政十二年の著作か)社地古四王右〈ママ〉〈古〉社鹿嶋香取聖徳太子建立と云甕速日命・■速日命・武甕槌命・経津主命・四神勧請外に一社神秘とす、大同年中田村将軍再建七間四面賊徒退治の祈願と云。」があり、それに続いて象潟町の古四王神社の「安政二年平田鐵胤の撰文に係る碑には、祭神を風土略記と同じく四神としている。」の記載があります。
 祭神を「甕速日・■速日・武甕槌・経津主」の四神とする説〈以下「四神説」〉についてはここまでで、次いで「大彦命とする説」、「釈迦・薬師・毘沙門・文殊の四仏体」、「四天王説」を取上げています。
 「四神説」に関して大山宏が取上げている一番古い資料は「進藤重記の出羽国風土略記」になりますので、先ずこれを見ます。

*活字本の進藤重記著『出羽国風土略記』〈以下『風土略記』〉(歴史図書社 昭49・1974)を見ますが、この「序」「緒言」の日付が「昭和三年二月十一日紀元節」となっておりますので、歴史図書社版は復刻と思われます。
 同書の「自序」に、志を遂げられぬ自身の境遇にあって出羽国風土略記を著する思いを述べて、「宝暦十年の冬より草按をはじめ同十二年〈1762〉葉月二十四日に記終り侍る雲水に漂泊の身なれば定まれる居所もなく名乗るへき名もなし何某謹て識す。」を記しています。
 「自序」及び「序」「緒言」並びに巻末の「進藤重記翁傳」によると、吹浦の大物忌月山両所宮の社家進藤家は、曽大夫〈官大夫の嫡子〉が宝永四年〈1707〉に吹浦蕨岡の論争によって失った一の宮の称号を吹浦に許されるよう藩に祈願したところ「公儀御裁許破り」とされ、出羽一国を追放になっている。
 藤治郎〈官大夫の末子〉の代を経て養子の重記の代になり、社運の挽回を図り、享保十二年受領して和泉正になり、〈三家ある〉社家の代表になり、神宮寺に属する僧家と事毎の反目があって、宝暦二年〈1752〉に重記が家屋改築の際に宅後の崖地を崩して庭を造ろうとした事を社僧側に神地の横領であると寺社奉行に訴え出られ、陳弁かなわず宝暦三年七月に投獄されたが屈しなかったため、同年八月に社職を奪われ嫡子と共に田川郡に追放された。
 社職を重記二男に継がせることがかなったが、二男も神宮寺社僧と折り合うことをよしとしなかったため、寺社奉行は社職を奪いとり財産を没収し田川郡に追放したとのことで、進藤家の社家としての激しい闘いの様子がうかがえます。
*進藤『風土略記ー巻之六』の項目「大物忌神社」に「吹浦村の神主在職したる頃辛労したる趣意は大社の衰旧記の廃れたるを歎のみにて鳥海山を手に入参詣の道者の散銭を貪取るべき心にはあらず」「近代迄社家は大物忌の本社を守護して鳥海山薬師堂並吹浦村講堂に拘はらず又寺家衆徒は本社のに不拘事は元禄の古証文に詳也」などの記載を見ます。
 社家として求めるものと求めないものをあからさまに記し、かつては神宮寺は大物忌の本社に拘わらず、社家が大物忌の本社を守護していたので、社家としてそのような状態に復する事を目指したいとして、神宮寺を中心とするいわゆる吹浦の一山組織との対立を生じたものと思います。
 『風土略記ー巻之六』には「大物忌神社」以外にも「鳥海山」「神主社人」「神楽方四人」「神宮寺」「衆徒二十五家」などの項目があり、様々な経緯が記されているようですが、私には正しい読解が難しく触れることができません。 
 進藤重記に関しては、姉崎岩蔵著『鳥海山史』-「第八章 出羽国風土略記と鳥海山記事について」(昭27年刊 復刻:昭58・1983 国書刊行会)、阿部正巳著「鳥海山史」-「第四編第六章 吹浦神宮寺衆徒と社家進藤重記の衝突」(『名勝鳥海山』山形県 昭6年 山形郷土研究叢書7 国書刊行会 昭57・1982)を参照いたしました。
 阿部「鳥海山史ー第四編第六章」中に、神宮寺衆徒の社家への圧力が慶長三年〈1598〉にあったことが記されています。
 同書に「元禄十一年〈1698〉に至り進藤官大夫重矩〈曽大夫邦實の父〉が毎月の祭式を純神式を以て行ふを悪みて、社僧等は官大夫を以て当時厳禁の切支丹宗法を行ふものと風評せり、之が荘内藩に聞えしかば、同年七月同藩宗門方は双方を訊問して、互に他派の行事に関與せさることゝ為せり」の記載があります。
 この「互に他派の行事に関與せさること」が、『風土略記ー巻之六』の「大物忌神社」に記された「元禄の古証文」に当たるのでしょうか。
 それにしても、切支丹を持ち出すような宗教者としてあるまじきやり方をされていたわけで、神職としてある限りは神宮寺衆徒の統制に屈するわけにはいかなかったろうと思います。
 大物忌月山両所宮の社家として尽力し、別当神宮寺衆徒二十五坊に追い落とされた追放下での移動の自由の無いなかでの著作になる『出羽国風土略記』ですので、そのような背景を持つ著作と認識しておくことが必要と思います。

*この著作での古四王社の項目は、巻之九の秋田郡として記されている14項目中にある1項目のみであり、他の郡に古四王社の項目は見受けられません。
 姉崎岩蔵『鳥海山史』によると、全十巻の巻一は総説で、田川郡関係の記事が巻二・三・四で、全体の約三分の一を占め、その中心になっている記事は羽黒山に関するものであり、巻五・六・七は主として飽海郡の記事で、およそ約三分の一を占め、その中心は鳥海山大物忌神社に関する記事とのことです。
 次の巻八は、大部分由利郡の記事で最後に河辺郡があるが、各所に関する当時の伝聞を記載したものであろう、としています。
 秋田郡の記載される巻九は、秋田郡・雄勝郡・平鹿郡・仙北郡・山本郡を記していて、記事も秋田城を除くと頗る簡略である、としています。
 巻十は、最上郡・村山郡・置賜郡の三郡の記事だが、各所の記事は頗る簡略、としています。
*『出羽国風土略記』の「古四王社」の記載全文は「寺内村にあり日本逸史三十八巻天長七年の條下に四王堂舎とあるは是なるべし祭神四座甕速日■ヒ速日経津主武甕槌命也と神祇管領の御留帳にありとぞ神代巻曰時有天石窟所住神稜威雄走神之子甕速日神子■ヒ速日神之子武甕槌神此神進曰堂唯経津主神獨丈夫者哉其辞気慷慨故以即配経津主神令平葦原中国云々国を平げ給う神達なれば蝦夷降伏の為に城外に祭けるにや社領五十石社家二人(上社家高橋讃岐といふ下社家同姓にて支別也)社僧一員あり按ずるに当所を寺内村といふは四天王寺の境内といふ事を略したる村名にや前に引侍る日本逸史四王堂舎の上に置たる文に四天王寺丈六仏像とあり是古四王社の本地堂なるべし今の古四王の社僧は四天王寺を守護したる寺家なるべし。」です。
 同書の「秋田城」の記載中に「四天王寺といふは多門持国増長広目の四天王を安置したる寺なるべし、延喜式出羽国正税の條下に四天王修法僧供養■〈併の人偏なし〉法服料二千六百八十束とあり今其跡なるべし東夷を鎮め給はん御祈の為に建給ふにや」「逆徒討伐の祈に四天王を安置する事例ある事にこそ四王堂舎とは今の古四王権現の事にや」があります。
 思うに、古代に蝦夷降伏の為に建立された四天王寺・四王堂舎があったということから、そのような意図で設けられた四王堂舎を今の古四王社の始まりと捉えることで、蝦夷を鎮める神は葦原中国の平定に功のあった神である経津主神・武甕槌命の二座の神に武甕槌命の兄弟(あるいは祖先)神である二座の神を加えて四座とした祭神が古四王社の祭神として相応しいとなっていったのではないでしょうか。
 日本書紀が地方の神職の知識となるのは、どのくらいまで遡れるのでしょうか。
*また、この四座の祭神は「神祇管領の御留帳にありとぞ」ということです。
 この「神祇管領の御留帳」が、どこのどのようなものなのかは不明ですが、阿部「鳥海山史」ー「第四編第六章」中に吉田家からの「神道裁許状」の記載がありますので、吉田家に関連するものかも知れないと思います。
 該当箇所を引用します。
 地の文で「享保二十年春代官の内意を承けて冥加金募集の為め受助帳を出せり」があり、「同二十年四月京都に上り、神祇官より神階を受く。」を記して、改行して二字下げて以下の記載があります。 
 「同年四月上京御許状数通致頂戴並伝受十八神道等/出羽国飽海郡吹浦両所山大物忌月山両所大明神之祠官進藤和泉守藤原重記者風折烏帽子紗狩衣可専恒例之神役者神道裁許之状如件/〈二字下げ〉享保廿年五月三日 /〈用紙中段から〉神祇管領長上従三位行侍従 卜部朝臣兼雄 判  /〈二字下げ〉赤色千早四組木綿手繦萌黄色四組掛等之御許状頂戴」の記載があります。
 これに続く記載に「元文二年四月再ひ京に上る〈略〉神祇管領に随ひて〈略〉」があります。
 ここに出てくる「神祇管領」は吉田家の事を指しているのだと思いますし、「神祇官」も同様なのではないかと思います。
 そうすると「神祇管領の御留帳」は吉田家の記録帳のような書類のことでしょうか。
 阿部「鳥海山史」によれば、重記父子三人の追放後も吉田家は庄内藩酒井家に帰参を働きかけているとのことですので、重記の『風土略記』著述上の問い合せなどに協力したのかもしれません。
 もし、「御留帳」にさまざまな用途ごとの物があって、出羽国の「御留帳」があるというようなことであれば、寺内村の古四王神社の情報も容易に確認できるのではないでしょうか。 
 「御留帳」に古四王神社の祭神が記載されていて、上社家及び下社家の情報なども記載されていたのであれば、古四王神社の社家も吉田家の配下に属し、様々な影響を受けていたのではないでしょうか。
*古四王神社の祭神の資料が吉田家の書類であれば、その祭神情報の資料の遡れる上限はいつまででしょうか。
 古四王神社の社家が吉田家と関わりを持った最初がいつの年代か分かりませんが、江戸時代寛文年間以降に関わりを持ち始めた可能性が大きいのではないかと思います。
 そのように仮定し、さらに推測を重ねれば、古四王神社の祭神を『風土略記』の四座とする説は、江戸時代に吉田神道の影響で定められた可能性があるのではないかと思います。

*進藤重記が拝領した享保二十年五月三日付けの神道裁許状が載っています。
 ここに「祠官進藤和泉守藤原重記」とあり「可専恒例之神役者神道裁許之状如件」とありますので、『風土略記』の「進藤重記翁傳」の「享保十二年受領して和泉正になり」はどういうことなのでしょうか。
 また、松本勇介「江戸時代における神道裁許状の様式の変遷」(『國學院雑誌 第120巻第6号』2019年:web=國學院大學学術情報リポジトリにて閲覧)によれば、風折烏帽子狩衣のあとに「可専恒例之神役者」があり神道裁許之状如件とあるのは、「享保二十年から天明元年前後までの第二期様式」の記載様式とのことです。
 また「原則として、恒例裁許状はその神社の神職として初めて神道裁許状を受ける時に用いられるものであり、先例継目許状は前代以前に恒例裁許状を受け取った神職がいる場合に当代に対して用いられるものである。」とのことで、進藤重記は「大物忌月山両所大明神」の神職として初めて吉田家の裁許状を受けたということになるようです。
 また「赤色千早四組木綿手繦萌黄色四組掛等之御許状頂戴」は、神楽方についての裁許状も受けたということでしょうか。
 吉田家との関係を通して神職として権威の強化を図ろうとしたのでしょうか。

◇吉田神道と秋田の社家
*佐藤久治『秋田の社家と神子』(昭54・1979)〈以下佐藤『社家神子』〉を見ます。
 その「第二章 吉田神道と秋田の社家」- 「3 吉田家裁許状の取得状況」-「5 秋田市 12家」中に、寺内の「高橋因幡正」が記されており、「最初の裁許状の年号」と裁許状の「数」は空欄で、備考欄に「吉田家執奏記にあり」とあります。
 秋田市の12家の中で備考に「吉田家執奏記にあり」が記されているのは、秋田市川尻の千田左膳〈久保田 大八幡社〉と八橋の土崎大隅守〈土崎神明社・八橋山王八幡社〉と馬口労町の浅野数馬〈久保田蛭子社〉の合せて4家で、他の8家にはその備考はなく、その8家中6家に「最初の裁許状の年号」が記されています。
 その中で一番古いのは秋田市泉の斎藤丹波正で「正安年中(1299)」とあり裁許状の数も15となっています。
 次いで元禄4年(1691)で裁許状数6、正徳年中が3家、天保14年(1843)となっています。
 これについて同書は「裁許状交付の各社家の年代を考察してみると、1299(正安年中)泉の斎藤丹波正が一番早く、しかもずばぬけている。鎌倉時代で〈略〉しかし実物は所蔵されていない。」とあり、次いで「1625(寛永2年)象潟町の須田飛騨守/1654(承応3年)象潟町の佐藤権ノ守/共に江戸時代前期である。象潟町は早くしかも多く社家の出た処として注目に値する。」とあります。
 象潟町の神職は、徳川幕府による寛文五年〈1665〉の「諸社禰宜神主法度」の制定以前に吉田家から裁許状を受けている事になります。
 「3 吉田家裁許状の取得状況」-「10 由利郡・本荘市 9家」中の象潟町の社家には、先の須田飛騨守と佐藤権ノ守の他に、宮津伊賀守(最初の裁許状:延宝7年〈1676〉、数:5)と佐藤美濃守(最初の裁許状:享保元年〈1716〉、数:6、備考:吉田家執奏記にあり)が記されています。ここでは「守」と記されています。
 『象潟町史 通史編 下』に記されていた「近世の社家は佐藤美濃守」が、ここに確認できました。
*「神祇管領吉田家諸国社家執奏記を略して『吉田家執奏記』」と註があります。
 執奏記については「国学院大學所蔵で、黒川真道蔵書で長形朱印がある。昭和四十八年十月近藤喜博氏らによって再び印行された。この『執奏記』は、『白川家門人帳』に対抗して、吉田家が速水方門斎に作らせたもので、明和4年(1767)以前に原稿は作られ四十年後の文化4年(1807)に開版している。ちなみに『白川家門人帳』は文化5年に制作された。」とあります。
 「執奏記」は、ようは出版物であるということで、記載内容の元の資料は他にあって、「御留帳」は元になる資料の方ではないかと思います。
 同書同章の「8 神祇管領吉田家諸国社家執奏記」に「この『執奏記』にのる秋田の神社は次の如くである」として「@保呂羽山 波宇志別社、A秋田八橋 八幡、〈略〉E塩越 古四王社、F寺内 古四王社、G久保田 蛭子社、H久保田 大八幡社」の9社が記載されています。
 そして、「『執奏記』にのる神社に奉祀する社家は、次の如くである」として「〈略〉、E塩越古四王社 佐藤美濃守、F寺内古四王社 高橋因幡正・鎌田越前正・下社家高橋下野正・同斎藤丹後正、〈略〉」を記しています。
 『神道大系 論説編九 卜部神道(下)』(神道大系編纂会 平3・1991 : 国会図書館デジタルコレクション)に「神祇管領吉田家諸国社家執奏記」が収録されており、それを見ると出羽国に十五社記されていますが、所と社名のみの記載ですから、それらの神社に奉祀する社家名は佐藤久治によるものになります。
 また、同書の「神祇管領吉田家諸国社家執奏記」の「解題」に「本書が編輯されたと推測される宝暦・明和年間(兼雄の時)は、近世における吉田家(卜部神道)の第二次隆盛期にあたり、その当時の吉田家執奏の主要神社を列記したもの。」「全国の七百六十九の社名が記載されているが、その巻末に、〈引用文・略〉とあるように、大社でも載せられていない場合もあり、吉田家配下の全神社を収録したものではない。」として、例として越後国では五社が載せられているが「吉田殿配下 越後国神職連盟記」という文化十二年頃の記録では神社名と社家三百八十一が列記されているを記して、「七百六十九社は明和年間以前における特別の由縁ある神社を列記したものであり、その配下数は数万を数えたであろう。」を記しています。
*佐藤『社家神子』の「第二部県内近世の社家一覧」の「秋田市」中の項目「高橋因幡正」に「歴代ー高橋家墓石銘よりー寺内神道墓地」として「○藤原家英 享保20(1735)没。/○土作守家伯 安永2(1773)没。/城ノ助家義 寛政8(1796)没。/○ 神子朝日 文化10(1813)没。/  家政 弘化2(1845)没。が記されており、「古四王神社は『神祇管領吉田家諸国社家執奏記』にあり、高橋社家は左座一席と推察する。」があります。
 秋田市寺内の古四王社が『執奏記』に記されているのですから、社家が吉田家の神道裁許状を受けていたことに相違ないでしょうが、先に引用した佐藤『社家神子』中の「第二章- 3 吉田家裁許状の取得状況」-「5 秋田市 12家」中の「〈住所〉寺内、〈官名〉高橋因幡正、〈備考〉吉田家執奏記にあり」ですが、吉田家執奏記に高橋因幡正と記されている訳ではないとすれば、社家名の記載は佐藤久治の聞き取りを含む調査によるものなのでしょうが、「高橋因幡正」他についての文献資料はあるのでしょうか。
*『風土略記』の「進藤重記翁傳」に「受領して和泉正になり」とあり、阿部「鳥海山史」の引用に「進藤和泉守藤原重記」とありましたので、「守」を「正」と記することがあるのでしょうか。
 佐藤『社家神子』の項目「高橋因幡正」で、「藤原家英 享保20没」には官位記載がなく「土作守家伯 安永2没」は「土佐守」と記されております。
 神職の官位は代替わりで裁許状を受けるごとに変わるようです。当たり前の事かも知れませんが、神道や諸々のことに不案内の身には分からない事だらけです。
*大山論文の引用する「久保田領郡邑記」ですが、『校訂解題 久保田領群邑記』(柴田次雄編)の「秋田郡 寺内村」で見ると引用文に若干の違いがありますが、『風土略記』同様の四祭神が記され、「古四王十八古迹」について記した後に「右は神ヌシの語なり。高橋因幡正 社司。下祢宜二人あり。」が記されています。
 「久保田領群邑記」の成立年代は寛政十二年〈1800〉と思われますので、進藤重記『出羽国風土略記』の宝暦十二年〈1762〉より後になります。『風土略記』には「上社家高橋讃岐」とありました。
 文化十二年〈1815〉淀川盛品の編述とされる『秋田風土記』〔新秋田叢書(十五)歴史図書社 昭47〕で項目「寺内」を見ると、「古四王権現社」とあり『風土略記』同様の四座の祭神が記されていますが神職名はありません。
 「田村明神社」には「神職 鎌田越前守」と「守」表記での記載があり、「大日堂 神主古四王社高橋相模」とあります。
*佐々木榮孝『古四王神社と東門院』(平6)に、「出羽風土略記」にある社家二人とあるのは「古四王神社の神主高橋因幡正と鎌田越前正の二人であって、共に『吉田家諸国社家記』(吉田神道が許可した社家の名簿)に名を連ねる神主である。」とあって、この記述を中野みのるが「寺内のはなし 東門院跡」(「寺内社福協だより 第23号 平8-7-1 」で紹介していました。
 「寺内社福協だより 第23号」がインターネットで閲覧できたのですが、2024年6月18日現在はできないようです。 
 〈平成9年発行の中野みのる『史跡の里 寺内のはなし』ではありません〉
 「吉田家諸国社家記」を見たいと思いますが。

◇平田国学と象潟の社家 
*佐藤『社家神子』の「第一部 第四章 秋田国学と社家」-「3 平田国学」中の項目「平田篤胤門人と社家」に「平田篤胤門人(社家のみ)の一覧表があり9名記されています。
 入門年月は大友直枝を除いては篤胤が久保田に戻ってからの天保12年〈1841〉以降となり、天保12年に5人、死去の年の天保14年は3人記されています。入門者数は天保12年は29人、13年は14にん、14年は28人とのことです。
 続く項目「平田篤胤没後の門人と社家」に「平田篤胤没後の門人は拡大した。その理由は/@大友直枝の影響。A藩校明コ館の和学方の影響。B秋田藩内郷校の学習の影響。C平田篤胤秋田入りの影響。D倒幕尊皇思想の影響。/由利郡象潟町、古四王神社神主、佐藤美濃向載〈ママ〉、佐藤日向正広成、親子の熱中振りはたいしたもので、今に残る写本『日本書紀』でもそれを知ることができる。たんに写本が多いということだけではなく、その写し方の丁重なること驚くばかりである。資金面でも後援者がいたものと思う。」の記載があります。
 次いで「平田篤胤没後の門人(社家のみ)」とする一覧表があり18人記されています。
 弘化元年〈天保15年・1844〉に4人、嘉永3年〈1850〉に7人、安政6年〈1859〉1人、慶応3年〈1867〉1人、慶応4年〈9月8日明治に改元〉2人、明治3年2人、明治5年1人です。
 これらの一覧表は、「桐原善雄編『平田篤胤と秋田乃門人』による」ものとのことです。
 嘉永3年8月3日に象潟町の5人が入門しており、それが佐藤美濃正広載39歳古四王社神主・佐藤日向正広成21歳(広載の子)・須田河内正重成19歳(諏訪社神主)・宮津志摩正重頼(神明社神主)・佐々木清八清綱25歳(代々神子の家)です。(括弧内)は佐藤による註です。
 古四王神社の社家の佐藤家の最初の吉田家神道裁許状が享保元年とのことですから、その後の寛政五年に社殿等類焼し、本殿竣工の嘉永元年の二年後に平田篤胤没後の門人になったことになります。
 これらことによって、象潟の古四王神社に平田鐵胤による「恩ョ碑」が建立されていることが、結びつきます。
 また、古四王神社の案内板に記されていた『古四王神社縁起写』の「佐藤左織・佐々木典膳・泉孫治郎ら」のうちの佐藤姓と佐々木姓が社家神子として記されていることも驚きです。
 この佐々木家も、勧請に係わった佐藤家佐々木家と関係があるのでしょうか。
 佐々木家は、佐藤家と同様に弘長年間から嘉永年間までおよそ600年もの間存続した家系ということでしょうか。

*「恩ョ碑」の碑文については、私の読解力では分かりかねますが、古四王神社の祭神については、古四王大神と称え奉るはかけまくも伊邪那岐大神の御劔によって成りませる神の御子孫経津主神武甕槌神又その御祖甕速日神■ヒ速日神を配し祭り四柱大神が座すとあるようです。  また、息長帯姫命にからめた冠石地名伝承を記し、経津主武甕槌二柱の大神の神代の事蹟から武道の御祖と尊び奉る大神であり御神徳を仰ぎ奉り慕い奉って御祭していること、その御稜威による御利益について記されているようです。
 最後の行のところに「安政二年登云年迺八月朔日   應需 平鐵胤謹識并書」とあります。
 『羽後国由利郡村誌2』には「碑縦五尺七寸横二尺九寸厚サ一尺七寸趺石之レニ称ナフ」とありますので、縦約173センチ・横88センチで石材の厚さが約64センチのようです。「趺石之レニ称ナフ」は分かりません。
 この碑の建っている場所が、境内と社殿との位置関係からすると境内の奥の右端付近で、本殿より後方の右側です。
 目立たない場所に思えます。大事なものを奥の方にさりげなく置いたのでしょうか。
 別頁に碑文写真を載せます。
 《碑文写真》 
 象潟の古四王社のための碑ですが、国学者平田鐵胤による碑文に大彦命に関する言及はありません。


*拝殿の入口上に揚げられた神額(社額)は古四王神社と記された亀甲が収められているものです。
 かなりの年月を経た額と思われ、「神」文字の記された部分の亀甲の表面が劣化して、神文字が見えません。
 撮ってきた写真を拡大してみると、奉納者や年月の記載は見うけられませんが、「古」の文字の右横に小さな縦長方形の印影のようなものが見うけられます。
*このような亀甲の神額は、秋田市寺内の古四王神社の境内の田村神社で見たことがあります。
 古四王神社には外から眺めた限りでは、亀甲の神額はないのですが、田村神社には拝殿内に亀甲が額縁に納められているものが二つと額縁のない古四王神社の金色文字のある亀甲額(明治四十五年三月の年号あり)が一つありました。額付亀甲の二つの内の一つは古四王神社の文字はみえません。古四王神社と記された亀甲は金色で額の板部分に奉納と大正十年一月の年号と奉納者が記されています。
 拝殿の向って右側面に額に収められた二つの亀甲神額が左右に並んで揚げられています。こちらは外にあることにもよるのでしょうが、かなり劣化しており古四王神社の文字も鮮明ではありません。
 その左側の額は、横幅が広いのですが、亀甲は額の右側にあって左側は空いています。そこに文字が記されていたのかもしれませんが、文字跡は確認できません。もう一つの亀甲があったのかも知れないとも思います。
 田村神社に古四王神社と記された亀甲神額があるのは、田村神社の社殿が大正十三年に古四王神社の拝殿を移転したもの途のことですので、そのためではないかと思います。
 田村神社の写真を載せます。



◇象潟古四王神社の神社明細帳
*秋田県公文書館で由利郡神社明細帳を閲覧できました。
 「由利郡神社明細帳」は四分冊になっていて、一から三は地区による分冊で完成年度に大正12とあります。
 四冊目の表紙には横書きで「宗教法人関係書類」とあり、その下に「(由利郡神社明細帳)」とあり、「地方課」と記されていて、完成年度は昭和20となっています。一から三を、合併などを踏まえて後日まとめて書き改めたもののようです。
 「由利郡神社明細帳」の「共四冊ノ内」の「一」にあたる明細帳には本荘町と塩越村を含む13の村が記載されています。
○古四王神社を見ます。
※四分冊の一の明細帳に記載されている文面を記します。
 鎮座地は「秋田県管下羽後国由利郡塩越村冠石」とありますが、「塩越村冠石」が朱線で訂正され象潟町の住所が横に記されています。
 「雑社 古四王神社」で、「祭神 甕速日神 ■ヒ速日神 経津主神 武甕槌神」とあります。
 「由緒 從往昔傳来之由緒書往年為焼類」とあるのを「不詳」と訂正書きされています。
 「社殿 梁間八尺/行間八尺」/「境内 〈略〉」/「拝殿 梁間四間/行間四間半」とあります。
 「境内一社/ 稲荷神社/祭神 稲倉魂命/由緒不詳/建物梁間六尺/行間七尺五寸」
 「氏子 百八拾六戸」
 「秋田県庁迄距離里数 〈略〉」
 ここまでの記載があって「以上」とあります。
*由緒について、「古四王神社縁起写」による縁起を記さないで「焼類」と記してあるのは、四座の祭神を寺内古四王神社から勧請したという縁起は寺内の古四王神社の現在の「御祭神 武甕槌命 大毘古命」からすると整合性がないということがあったのだろうかという思いもわきます。なんらかの指導があって「焼類」としたが、問答無用の「不詳」にされたようにも思えます。
 境内社の稲荷神社に小さいながら社殿があったことが記されています。どこにあったのでしょうか。
※続いて、四冊目の「宗教法人関係書類」を見ます。
 鎮座地は「由利郡象潟町字五十目塩越」とあります。
 「無格社 古四王神社」が、村社とされ、さらに郷社となっています。
 「祭神」はそのままで、「由緒 不詳」で、「社殿 本殿拝殿兼用」の「拝殿兼用」に線が入れられ「本殿 拝殿」に訂正されています。建物の大きさは記されていません。
 「崇敬者 百八十六戸」が「氏子 四百二十五戸」になっています。
 「境内神社 稲荷神社」については「祭神 稲倉魂命/由緒不詳/社殿 本殿拝殿兼用」とあります。
 貼り紙があり、いくつかの変更事項が記されています。

*私は数多くの神社明細帳を見ている訳ではありませんが、新潟県の神社明細帳には、由利郡神社明細帳に記された項目の他に、「神官 祠掌」の項目があって、「管轄庁迄ノ距離」のあとに「以上」となってから、「右之通相違無之候也」があり、「日付」が入って、「氏子(信徒)総代」他の署名捺印があり、「社掌」の署名捺印があって、提出先の「新潟県令 永山盛輝殿」とある例がほとんどのように思います。新潟県の場合は見た範囲では、日付は明治十六年・十七年・十八年のものが多いと思います。
 新潟県の神社明細帳は、新潟県立文書館が「新潟県神社寺院仏堂明細帳検索」データーベースを公開しております。
 福島県の神社明細帳は、記載項目の多さは驚くべきものと思います。記載の項目は、祭神・由緒・勧請・社殿・社殿造営・社号改替・神位・祭日・什宝物・寄附物・境内地・持添地・境内樹木・永続方法・県庁距離・氏子信仰者・神官・境内摂社末社・境外摂社末社におよびます。ただ、詳細な記入もありますが、不詳や無之も多く見受けます。境内縮図も添えられています。提出年月は明治十一・十二年が主のようです。
 福島県の神社明細帳は、現在(2024年6月)は福島県立図書館で閲覧が可能になっています。図書館職員の方のお話では、数年前に他所から図書館に移管になったのだそうです。閲覧できるのは有り難いことです。
*秋田県公文書館の「由利郡神社明細帳」には、提出日付も提出責任者名も提出先名も記されていないのが、不思議に思いました。
 ただ、山形県の明治十三年調 西田川郡神社明細帳」(鶴岡市郷土資料館 所蔵)でも、「右之通相違無之候也」とか日付・提出責任者名・提出先は記されていませんでした。
 実際の提出書類を綴った「神社明細帳」と、役所の控えとして作られたもの、ないしは神社調べの書類を綴ったものを称した「神社明細帳」があるのではないでしょうか。

◇塩越古四王神社縁起

*本記事を公開する前に、念のため『象潟町史資料編 T/U』(象潟町 平10/8・1998/96)を見てみました。通史編の神社に関する記載の感じから期待をしていませんでしたが、『資料編 T』ー「民俗編ー第四章ー第一節 神社縁起」に「小滝金峰神社縁起・稲荷神社縁起・塩越古四王神社縁起」の三項目が記されていました。
 古四王神社縁起についての解説記事は無く、文書の性質や出所も不明ですが、気になる記述がありましたので、追記的な扱いになりますが引用しておきたいと思います。
○「塩越古四王神社縁起」の項目には、「古四王神社縁起書」とある記述と「記録書」とある記述と「由緒書」とある記述が続けて記載されており、「古四王神社縁起書」の文末に「時者文化五丁卯年三月  藤原廣次 謹識」とあり、「記録書」の文末は「明治四十一戊申旧七月日 /社官 佐藤連續廣美謹識」で、「由緒書」の文末は「文化五丁卯年三月八日 佐藤津守廣次謹識」とあります。
 これからすれば、「古四王神社縁起書」と「由緒書」はともに文化五年〈1808〉三月に同一人物によって記されたもののようです。
 寛政五年の類焼による縁起・古書などの焼失があり、文化元年の象潟地震のあとで、仮宮で奉祀していた時期にあたります。
 吉田家の神道裁許状を最初に受けた享保元年からは90年以上たっている時期ですので、享保の方の三代か四代あとの時期にあたると思われます。
 この「古四王神社縁起書」と「由緒書」の内容の違いは何なのでしょうか。

※縦書きの文面を縁起書と記録書・由緒書の部分に分けて画像にして表示します。



*「町史資料編T」では最後に置かれた「由緒書」は、現在の古四王神社の『神社案内』看板に記されていることと、年月の違いと勧請の発願主に関する部分に相違がある以外は、同様の事柄が記されていると思います。
 ここには「文禄三壬辰年」とありますが「壬辰」は天正二十年(文禄元年は十二月の一ヶ月弱)にあたります。「文禄三年」は『神社案内』と同じで『町史通史編下』の「文禄二年」とは異なります。文禄三年は「甲午」、同二年は「癸巳」です。
 また、勧請年はここには「弘長元辛酉年」とありますが、『神社案内』『町史通史編下』の「弘長三年」であれば「癸亥」です。
 佐藤左織・佐々木典膳・泉孫治朗については、佐々木典膳と泉孫治朗は勧請の発願主で、佐藤左織は祭主を命ぜられた者とされています。
 これが「記録書」になると、「佐藤左織」が寺内村古四王社分霊を勧請したように取れる記述であり、さらに「佐藤左織」に神主として祭祀をまかせたというような記述となり、文禄三壬辰年の「常久に遷座」までを記しています。その本文の後に「発願主 佐々木典膳/泉孫治朗」とありますが、何を発願したのか明確ではないと思いますし、この発願は文禄三壬辰年の遷座の発願のように受取れると思います。
 これを明治四十一年に「社官 佐藤連績廣美謹書」として記録したのは神職佐藤家の先祖を記録したということでしょうか。

 問題となるのは「古四王神社縁起書」です。
 先ず、年月に関しては勧請年の「弘長元年」で古里山への遷座の「文禄三〈1594〉壬辰年」については「由緒書」と同じで、「永正二丙寅歳」は丙寅であれば永正三年〈1506〉ということになるでしょう。
 本文は、先ず弘長元年の勧請から文禄三年の遷座までを記し、点を打って文を区切っています。
 その後に、神を祭る事は神在るが如しだが実際は祭神の奥秘は綿密でなくそのきまりもまちまちで詳らかではないということで、(正中二年の遷座の冠石道西山に社殿がある)永正年間に佐藤家の「七代の祖」の「神主佐藤長雄藤原廣経」が寺内村古四王神社の神主の「高橋須賀良高久」の館に詣で、古四王神社の「廟神の深密」を問うたことを記して、古四王神社の祭神の由来経緯を記しています。
 永正年間は室町時代の後半というより、戦国時代と言った方がいいかもしれませんが、この頃の寺内村古四王社は文明八年〈1476〉に再興された時代で、天文三年の炎上と湊尼崎洪廓の再建以前の時代になります。湊安東氏(安倍姓湊氏)の庇護下にあったのではないでしょうか。
 その由来経緯の内容が「皇朝鎮護の四神にして神道四方に祭るべき神也猶由緒あて大彦命をも祭ることに成りたり即ち山号は亀甲山と呼べり〈略〉」で文を区切っています。皇朝鎮護の四神とか四方に祭るとかは、秋田城の四天王寺との関連をうかがわせるようにも思えます。亀甲山の山号が記されていますが、何が「即ち」なのか分かりません。
 続いて「畏くも四柱祭神の奥秘は秘中の秘にして吾櫻文庫に在りと聞けり」がありますが吾櫻文庫が何であるか分かりません。
 そして、崇神天皇の御代の大彦命の夷人御征伐以降の大社と記し、桓武天皇の御宇に坂上田村麿が陸奥出羽之夷賊征伐平定の為に「古四王神社並大彦命等へ則退壌の立願を乞せられ高橋十一代の祖神主喬載へ祈願の命令を得たり其れより古四王合殿に一社に大彦命をも併せ祭ることに成りたり」と記しています。
 そのため、「往古は甕速日命とヒ速日命を列ねて経津主命には武甕槌命を左右に添えありし」を改めて「中殿甕速日神左殿ヒ速日神経津主神右殿武甕槌神大彦命を併せ奉る」として「祭式も悉く改革せり」という内容になるようです。
 このように、大彦命の事蹟や坂上田村麿の征夷を由緒に取込んでいますが、大彦命の征夷以降の大社であるとし、阿倍比羅夫への言及は無く、坂上田村麿の古四王神への祈願と社殿再建という話でもありません。
 坂上田村麿が古四王神と大彦命等に祈願することを求めて、神職高橋家の先祖が坂上田村麿に祈願を命じられたことでそれまでの古四王四神に大彦命を併せ祭る事になったと、大彦命が祭神に加わる経緯を記しています。
 「往古」ということですから、大彦命の征夷以降の大社ということであれば、日本書紀の成立以前の古墳時代頃から、経津主命・武甕槌命と甕速日命・ヒ速日命を左殿右殿に合わせ祭っていたことになるようです。「往古」の記載では、「○○命」とあります。
 それを、坂上田村麿の征夷以降ですから、9世紀の初頭頃から大彦命を合祭する神社になったということのようです。
 ここでは四神は「○○神」と表記されています。意図のある書き分けでしょうか。
 そういった年代はともかく、永正という時代が信じられるのであれば、古四王社はその頃に「四祭神」と大彦命を祀っていたということになります。
 寺内の古四王神社にそのような祭神伝承は、私が現在知る限りでは、見受けられません。
 そのような祭神伝承があるのであれば、進藤重記も明治三年に「古四王神社考」を著した小野崎通亮も大山宏も伝承を知らなかったことになります。
 もしそのような伝承があれば、現在の由緒も違ったものになっているでしょう。
 現在の由緒では、「御祭神は武甕槌命と大毘古命」とあり、大毘古命と古事記での表記をしています。
 「由緒の古伝では」として、「北陸道に派遣された大彦命が、〈略〉神代の武神武甕槌命を奉齋創祀し、齶田浦神と称されていた」、「阿倍比羅夫が秋田地方を遠征した際に、祖先でもある大彦命を合祀して古四王神社と称し奉るようになった」とあります。
 戦前の「国幣小社 古四王神社由緒書」の「御由緒」には、上記の他に、出羽柵が遷されて「のち秋田城となりて北辺防備の根拠地となり坂上田村麿将軍もこれに拠られたれば其守護神となり給ひ中世秋田城鎮守古四王大権現と申して武人並地方民の崇敬篤く」と坂上田村麿がこのような形で出てきています。

 そして、「廟神の深密」を問うた象潟の古四王神社では寺内の古四王神社にならったということのようです。
 それがこの縁起書冒頭の左殿中殿右殿の祭神ということでしょう。大彦命は「大日古神」となっています。
 永正間の「佐藤廣経」が祭式を改め「四祭神」と大彦命を祀ったとすれば、文禄年間に現在の鎮座地に遷座し、延享年間に池からあがった御神体を受入れ、寛政五年の縁起焼失があって、文化元年に象潟地震に遭遇を経て、「廣経」から三百年程後の「文化五年三月」に記述したということになるようです。
 大彦命を祀るという事が現在の由緒に一切出てこないのはどうしてなのでしょうか。
 何故、現在の由緒につながらない「縁起書」と、当たり障りのない「由緒書」がつくられたのでしょうか。
 文化五年という年月は確かなのでしょうか。
 古四王神社の祭神について、大彦命のことを取上げている文献の古いものとして菅江真澄の編纂した地誌『雪の出羽路平鹿郡』が知られていると思います。
 菅江真澄が秋田・久保田藩の藩命を受けて編纂した最初の地誌『雪の出羽路平鹿郡』のための巡村調査を行なったとされるのは文政七年八月から同九年五月です。
 その地誌の平鹿郡植田村の古四王宮に関する記事に越後国蒲原郡五十公野の古四王宮の祭神に関して大彦命(大彦尊)を取上げています。
 また、菅江真澄は雑纂『高志栞』の冒頭部分で、本誓寺の是観上人の文政二年春の越後への旅の日記とされるものからの引用として、五十公野の古四王宮の祭神についての近隣の神主である日下部大和の述べた事柄、つまり大彦命を祭って古四王と申奉るのだが今は真言宗の寺ゆえに四天王を祭ると言っている、ということを記しています。
 菅江真澄とこれらの事については、詳しく検討することが必要ですので、ここではこれ以上触れません。
 いずれにせよ、この地誌も雑纂も文政以降のことですので、文化五年の「古四王神社縁起書」に大彦命が古四王神社の祭神として記されていることは、注目に値すると思います。
 今のところは、分からない事だらけですが。

 《 ここまでは、2024年6月18日までの記述です。 》


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