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追加記事  秋田6-1  湊三カ寺と「古四王社縁起」


《 湊三カ寺と「古四王社縁起」 ー古四王神社論へのアプローチに向けてー 》
序:
 秋田市には寺内の古四王神社だけではなく、寺町にも古四王神社を祀っている大悲寺・妙覚寺・光明寺というお寺があって、それらはかつて湊三カ寺と呼ばれていて寺内地区にあった、というような事を承知していました。
 何時何によってそのような情報を得たのかはっきりしないのですが、おそらくは『菅江真澄随筆集 内田武志編』(東洋文庫143 平凡社 昭44-7初版1刷、昭52-2初版2刷)収録の「水の面影」や『秋田市史 第二巻 中世 通史編』(平11-3)の古四王神社関連の論述から、そのように受取ったのではないかと思います。
 秋田市の古四王神社に行ったら、それらのお寺も訪ねてみたいと思い、ネットで調べて所在地を確認しておりました。
 例えば、秋田商工会議所のHPで寺町観光研究会の秋田市寺町観光マップ〈 https://www.akitacci.or.jp/local/teramachi/ 〉を見たり 、妙覚寺のSNSを見たり、寺院名で検索したり・・はいたしましたが、それ以上にお寺に関連する資料を読み込んだりはしないままでした。
 関連資料に目を通す事になるのは実際にお寺を訪ねてからになりましたので、お寺への訪問のようすから記していきたいと思います。


T: 湊三カ寺
1 )お寺を訪ねる : ※2023年7月14日午後
◎大悲寺
 古四王神社とその周辺を訪ねてから土崎を訪ねました。
 土崎を訪ねた後に、まだ時間があるのでこの機会に「湊三ケ寺」を訪ねようと思い、秋田市旭北寺町の南側に向い、少し離れた場所にレンタカーを駐車して、先ず大悲寺様に古四王様拝観について電話させていただきました。
 その時には雨が降り始めていて、折りたたみ傘をさして暫く歩いて向いました。
 庫裏にお声掛けさせていただき、本堂の手前左側の古四王堂をご案内いただきました。
 堂内にあげていただいて参拝することができました。
 古四王堂の扁額があがる御堂の手前右側に「当山鎮守 古四王大権現」石標などがあり、左側には天保時代の庚申碑があり、「古四王講員碑」があります。
 向拝の手前に狛犬が置かれ、階段を上がって堂内となります。
 堂内には「古四王権現」の扁額があげられていました。
 確かに、古四王権現を祀っておられる事が確認できました。
 雨が強くなりはじめていたこともあり、しっかり拝見させていただくことやお話をうかがわせて頂く事をしないで、先を急いでしまいました。

左上:古四王権現堂 左角柱は本堂の唐破風の向拝柱    右上:向拝前から堂内を見る
左下:古四王堂手前左側                 右下:古四王堂手前右側


◎妙覚寺
 妙覚寺様に古四王様拝観のお電話をしてうかがいました。
 大悲寺様と隣接したお寺ですが、そこに歩いて向う間に折りたたみ傘で防げない強い雨になり、靴も足許もずぶ濡れになってお訪ねすることになってしまいました。
 にもかかわらず、妙覚寺様は堂内にあがって古四王様の拝観をお勧めくださいました。
 大変恐縮でしたが、靴下を脱いで足を拭いてズボンの濡れた部分をまくりあげて、あがらせていただき、古四王権現を祀っておられる場所にご案内いただきました。
 そこは、本堂外陣の前の板敷を進んで左側に入った所にある格天井絵で飾られている御堂で、堂の長い壁面いっぱいに三十三観音が二段に祀られていて、その中央に左右に丸柱を配した三尺程の区画の檀があり、そこに古四王権現が祀られているとのことです。
 壇には御簾がおりておりました。御簾の内側にも幕がおろされているようです。
 三十三観音の中央に古四王権現の壇が設けられているようにも受取れるようです。
 この御堂には本堂建物の手前の左側に入口が設けられているので、そこから堂内に入ることができ、また入口から堂内を拝見させていただくこともできたのではないかと思いますが、大雨のためにわざわざ本堂の方からご案内いただいたようです。
 また、妙覚寺様の小冊子を頂戴いたしました。
 こちらも早々においとまいたしました。

妙覚寺の御堂


◎光明寺
 雨は強いままですが、車に戻る方向に光明寺様が位置していますので、古四王様についてお聞きしたいと思いお電話いたしますと、電話の先の女性の方がおっしゃるには光明寺様では古四王様を祀っていないとのことでした。
 湊三ケ寺といっても、古四王様を祀っていないお寺もあるのだということを知りました。

*秋田市に2023年7月14日午後3時前頃から降りはじめた雨は、14日から16日にかけての記録的な大雨となり令和5年7月豪雨と称される災害をもたらしました。
 7月13日から15日の予定で、秋田市を訪ねていました。
 秋田市までは車で来るよりは列車の方が移動時間が短く疲労も少ないだろうと思って、羽越本線の特急列車を選択していました。
 列車運休と運転再開の目途が立たない旨の情報があり、15日朝の2本の新幹線だけは運行するとのことでしたので、帰宅を優先しました。
 15日2本目の新幹線に座席を求めることができましたので、秋田新幹線・東北新幹線・上越新幹線と大回りをして帰宅しました。


2 )湊三ケ寺について
◇菅江真澄「水の面影」(『菅江真澄全集 第十巻』)の後半となる「おなじとしの、やよひのはじめつかた、鎌田ノ正安のもとを、あるじ正家とともに、つとめていでたつ」で始まる寺内周辺の古跡めぐりの二日目の記述中に「〈諸環路オダマキノミチといふ処あり〉古ムカシその路挟ミチモセに、楼斗菜ヲダマキといふ草〔括弧内・略〕のいや生ひ繁りし処にてやありけむ。道の南に寺ノ跡あり。こは、亀尾山光明寺といふ天台たりしが、久保田に遷りて今は禅林となりぬ(p348)」、「〈五輪峠の〉南の畑中に古跡あり。亀頭山明覚寺の古寺のありし地トコロといふ。古モトは、天台にて、今は禅林となりて、久保田に遷せり。大悲寺も、妙覚寺も、久保田に隣近うおしならびて、鎮守マモリの御神とて、古四王ノ社を斎イツクこそ、いにしへをわすれぬしりしならめ。今道に出て、両津の坂を下りて(p350)」、「焼山ヤケヤマといふあり。又、乾ニシキタの方に、普門山大悲寺といふ天台ありし、そは前サキにも云ひし寺にて、今臨済宗にて、久保田にうつりぬ。畑中の径に入れば、城といふ処あり(p350)〈漢字に続くカナは原文ではフリガナ〉」と三箇所の寺跡について記されています。
 光明寺様では古四王様を祀っていないことをお聞きして、「水の面影」の三カ寺のところをあらためて見てみますと、大悲寺と妙覚寺の二寺が鎮守として古四王社を祀っているとありますが、光明寺が祀っているとは記されていませんでした。
 光明寺では、少なくとも江戸後期頃には古四王社を祀っていないのかもしれません。
 亀尾山光明寺とあり妙覚寺は亀頭山とありますが、大悲寺は普門山とあります。

*三カ寺の山門の写真(2024年5月撮影)を載せます。
 大悲寺の山門の扁額は「普門山」で寺標柱は「秋田/最古 臨済宗妙心寺派 大悲寺」です。 
 妙覚寺の山門扁額は「亀頭山」で寺標柱は「曹洞宗 妙覚禅寺」です。
 光明寺は門柱に「曹洞宗 光明寺」とあります。山号は記されていません。 
 大悲寺と妙覚寺の山号は「水の面影」の通りですが、光明寺は亀尾山とはしていないようです。

 大悲寺

 妙覚寺

 光明寺


◇佐藤宗久「寺内にあった湊三カ寺」〈『史談 第四十三号』土崎史談会 平15-5〉の「はじめに」に「秋田市旭北寺町にある普門山大悲寺(臨済宗)、亀頭山妙覚寺(曹洞宗)、安養山光明寺(曹洞宗)は、江戸時代以前は秋田市寺内の高清水の岡にあった寺で、羽州湊三カ寺と呼ばれた古刹である。三カ寺は共に鎌倉時代中期、鎌倉幕府7代将軍惟康親王の命によって、2回目蒙古襲来の『弘安の役』(弘安4年・一二八一)の戦勝祈願で建立されたものである。」としています。
 湊三カ寺が、後で見るように弘安五年か六年かに建立されたのであれば、「弘安の役」(弘安4年)の「戦勝祈願で建立」とするのはどうなのでしょうか。
 項目「大悲寺」に「丸に立ち葵」の寺紋が配されていて、「建立時、山号を亀足山と称した、天台宗といわれるが『古四王神社縁起』の記述から禅寺とする説が有力である。南北朝時代に臨済宗普門山と改めた。秋田藩主初代佐竹義宣が入部後、元和年中(一六一五〜一六二四)に久保田城下町に移った」〈略〉「本堂脇に、『古四王大権現』を祀る社がある」とあります。
 建立時の山号が「亀足山」とあります。
 「妙覚寺」は「左旋三巴檜扇紋」で、「山号は建立時以来亀頭山であり、天台宗であった。戦国期の弘治2年(一五五六)湊二郎に焼かれて30年間余り廃寺となっていたが、天正19年(一五九一)亀像山補陀寺十一世天室宗龍によって再興されて曹洞宗となった。後述する光明寺と同年の再興経過である。現在地に移るのは、元和8年(一六二二)である。湊二郎に古四王寺も同じく焼かれ、同じ運命をたどるのである」〈略〉「堂舎の一角に『古四王大権現』を祀っている」とあります。
 こちらには禅寺説が有力とは記されていません。「湊二郎に古四王寺も同じく焼かれ、同じ運命をたどるのである」は、何を言いたいのでしょうか。
 「光明寺」は「五曜檜扇紋」で、「建立時の山号を亀尾山と称し天台宗であった。天正19年〈略〉亀像山補陀寺十一世天室宗龍によって再興されて曹洞宗に改宗した。前述した妙覚寺と同年の再興経過である。秋田藩主初代佐竹義宣の久保田城下寺町づくりによって現在地に移ったのが慶長9年(一六〇四)であり妙覚寺より18年早い。明治19年(一八八六)の俵屋の火事で消失した。〈略〉大正13年(一九二四)に再建されたのが現在の本堂である。堂舎の中に『古四王大権現』を祀っている」とあります。
 そして、「関連点」として「三カ寺共に『古四王大権現』を鎮守として祀っている」「湊三カ寺が高清水の岡にあった当時は山号に『亀』の文字が用いられている」ことなどを列記しています。
 ここには、光明寺に古四王大権現が祀られており、三カ寺とも古四王大権現を鎮守としていると記されています。
 創建時は、亀足山大悲寺・亀頭山妙覚寺・亀尾山光明寺と称したようです。

※俵屋火事について
◇『秋田市歴史地図』(無明舎出版 2009二刷)に「32 市街焼亡略図(明治十九年)」があり、解説篇に「本図は、俵屋火事とよばれる大火の焼失区域図で、秋田日々新聞明治十九年五月八日号附録として、発行されたものである」として、四月三十日の深夜に秋田町川反四丁目から出た「火は瞬時に四方に飛散し、たちまち外町と寺町に燃え広がり、一方は保戸野愛宕町まで延焼し、一方は八橋村と寺内村に飛火して、全良寺や古四王神社を焼き、さらに西方に延焼した」〈略〉「こうして、わずか三時間ほどで、外町と寺町の大部分を焼いた。図でみると、外町で残ったのは四十間堀以南だけである。寺町で残ったものは、誓願時と応供寺の二寺である」とあります。
 光明寺も妙覚寺も大悲寺も焼失し、寺内の古四王神社もこの時の火事で焼失しています。

◇佐藤久治『秋田の密教寺院』(昭51)の「第二章 秋田の密教寺院各論−五河辺郡および秋田市の通史と寺院各記」を見ます。
 先ず「寺院一覧」表があり、真言宗に54寺院が記され、天台宗に9寺院が記されていて、天台宗の一覧表は、順に「亀足山大悲寺」「亀頭山妙覚寺」「亀尾山光明寺」と続きます。
 寺院各記では所在地と沿革が記されていますが、所在地などは省略して引用します。
○「天台宗 亀足山 大悲寺」は「沿革 ○鎌倉時代の弘安5(1282)惟康親王によって秋田城近くに創建された羽州湊三カ寺の一つ。(古四王神社縁起)/〈略〉/○南北朝時代(1336〜92)に五山派の僧東院が下向して臨済宗とする。(近世秋田の臨済禅)」、「○境内鎮守社は古四王神社である」とあります。
○「天台宗 亀頭山 妙覚寺」は「沿革 ○鎌倉時代の弘安5(1282)惟康親王によって秋田城近くに創建された羽州湊の三カ寺の一。(古四王神社縁起)/○戦国時代末の弘治2(1556)湊二郎のため破却され廃寺となっているところを天正19(1591)補陀寺11代天室宗竜が曹洞宗として再興、開山となる。天室は湊城主秋田実季の叔父といわれ、秋田実季の庇護をうける。〈略〉(秋田県曹洞宗教団史)」、「境内鎮守社 鎮守として古四王神社を祭る。/田村将軍がエゾ征伐の折、古四王神社に勝利立願する。勝利の礼として仏像を献す。堂を建てて妙覚寺とし真言宗となる。慶長前後衰微する。/こうした関係書類を近代の古四王神社神職小野崎通亮が焼却する」とあります。
 「堂を建てて妙覚寺とし真言宗となる」というような伝えもあるということでしょうか。
 〈小野崎通亮に関連する記載は後記 《Z:-5)「古四王神社考」と「古四王社縁起」》をご覧下さい〉
○「天台宗 亀尾山 光明寺」は「沿革 妙覚寺と全く同じである。現在は曹洞宗」とあります。鎮守についての記載はありません。

*創建時の湊三カ寺は、亀足山大悲寺・亀頭山妙覚寺・ 亀尾山光明寺と称し、天台宗としています。
 「沿革」に弘安5年創建とあります。この記述は古四王社縁起によるもののようです。

◇『秋田市史 第二巻 中世 通史編』(平11)〈以後『市史二・中世』〉−「第二章 南北朝内乱と秋田・第三節 神仏と祈り・三 秋田城周辺の寺社」(p.137-)の項目「古四王社縁起と湊三カ寺」に「現在、秋田市旭北寺町に所在する曹洞宗光明寺と妙覚寺、及び臨済宗大悲寺は、かつて湊三カ寺と呼ばれていた。その呼称は江戸時代になって久保田城下に移転する以前、古代秋田城のある寺内に所在していたことによる」〈略〉「妙覚寺・大悲寺はともに現在も古四王権現を鎮守として祀っているから、湊三カ寺が四天王寺や古四王神社と関係をもっていたことは間違いないところである。なお古四王神社は江戸時代、亀甲山古四王堂と称し、秋田藩内三十三番札所の二十四番に位置づけられると同時に、中世以来の古社のなかから由緒あるものを選んで設定した『秋田藩十二社』の一つにも指定されていた」とあります。
 ここでも、妙覚寺・大悲寺の二寺院では古四王権現を祀っているとあり光明寺については古四王権現を祀るという記載がないので、湊三ケ寺とはいえ光明寺では祀っていないという事かと思います。
 項目「古四王社縁起と湊三カ寺」はこの後、湊三カ寺の創建についても記されている「古四王社縁起」を中心にした論述となります。
 この項目は南北朝時代を扱っている「第二章・第三節」の中のものですので、この項目の「古四王社縁起」について見ていく〈W:古四王社縁起と湊三カ寺〉前に、鎌倉時代を扱う「第一章」から見ていきたいと思います。
 なお、秋田藩内三十三観音霊場の二十四番札所に関しては、別稿としたいと思います。

U: 鎌倉期と古四王社縁起
◇先ず、『市史二・中世』の「第一章 鎌倉期の秋田・第四節 北条得宗領の拡大と秋田郡・一 寺社縁起に見る地域の動向(p.70-)」の三項目「幕府の赤神神社保護」「光明寺に伝わる廻国伝説」「蒙古来襲と古四王神社」を見ていきます。

◎項目一「幕府の赤神神社保護」に「天和元年(一六八一)梅津忠利が編集した男鹿の赤神山に関する縁起(括弧内略)は、鎌倉期の当地方を見るうえで欠かせない内容を含んでいる。すでに、平安後期には赤神神社は自らの資産をまとめた流記資材帳を所有していたようである。応徳元年(一〇八四)の安倍貞任の榲蔵の三町歩寄進に始まり、清原・藤原三代にも冷水(相川)、井森(富永)、箱井、北浦、金河、小鱒河、大鱒河などの田地が神社に寄進されたと記している。その真偽は別としても、赤神山は天台宗の総本山である延暦寺の慈覚大師を始祖に仰ぎ、薬師如来をまつる壮大なスケールの縁起を作成していったらしい。もとより、この縁起の集大成は明徳二年(一三九一)ごろとみられるが、その実質的なまとめは鎌倉中期〈貞応〜弘安:1222〜1298〉ごろになされていると考えられる」があります。
 赤神山への建久四年(一一九三)・建暦元年(一二一一)の寄進、建保二年(一二一四)の薬師堂の造営を記述して、「さらに、同四年〈建保四・1216〉、別当圓轉は鎌倉まで出向き、将軍実朝の内命を受けたと称して比叡山に模した堂社の構築をおこなうに至った。三王七社(のちの五社堂)がそれである」があります。
 「古四王社縁起」に赤神山が出てきますので、見ておきました。

◎項目二「光明寺に伝わる廻国伝説」は、湊三カ寺の光明寺のことではなく、現在の浄土宗の光明寺に関連する記載になり、「建治元年(一二七五)の紀年のある『羽州秋田郡土崎湊納坂二七日山光明寺御本尊釈迦如来並寺之縁起』」を「北条得宗家との関係を示す一つの素材と考えられる」として取上げています。
 北条時頼の廻国と唐糸御前の伝説をもとに、弘長二年(一二六二)として「時頼はその〈唐糸御前〉死を悼み、手づから釈迦如来像を刻んで、比内郡の釈迦内に七日山釈迦堂を建立した。次に納坂に二七山光明寺、さらに仙北の西明寺(西木村)に一寺を建立したと伝えられている」とあります。
 現在の秋田市旭北寺町の浄土宗の二七日山釈迦堂光明寺は、弘長二年に土崎に建立された二七山光明寺を始まりとして、浄土宗となり佐竹氏の元和年中に久保田に移されたお寺ということです。
 湊三ケ寺が創建されたとされる弘安六年〈1283〉よりも二十年ほど早いことになります。

※宗派の変更に関して
◇『市史二・中世』-「第三章・第二節・二-3仏教諸宗派の再編」を見ます。
 「戦国・織豊期の宗教界は大きな変動に見舞われた」として、その三つの特質を記しています。
 特質の第一は「中世国家の権威が下降を続ける中で、天台系の密教寺院の多くが次々と新宗教に改編されていったことである。安東氏の領内をみても、この改宗が行なわれたと記録にあるのが十一寺院もある。(表8参照)/そのうち、曹洞宗への改宗が七寺院(乗福寺・歓喜寺・妙覚寺・光明寺・源正寺・陽澤院・鷲林寺)ともっとも多い」とあります。なお、「表8」で「陽澤院・鷲林寺」については「天台系修験改め」とあり、「天台宗改め」と異なる表記になっています。
 「残りは臨済宗(大悲寺・昌東院)、及び浄土宗(光明寺=釈迦堂、當福寺)の四寺院である」とあり、釈迦堂光明寺も天台宗から浄土宗になっていることが記されています。その改宗の年代は「表8」に「永享期(1429〜40)」とあります。
*◇『心のふるさと 秋田のお寺』(秋田魁新報社 平9)の「浄土宗/二七日山釈迦堂/光明寺」のところに「弘長元(一二六一)年の創建で、開山は岌念(建治元、一二七五寂)で天台宗であった。三世成誉(永享九、一四三七年寂)の永享年間(一四二九ー四〇)に浄土宗に改宗したといわれる」とあります。
 特質の第二は「成長著しい国人衆が菩提寺の建立やその壇越となることを通じて、各宗派寺院に積極的に関与するようになったことである。〈略〉しかも福城寺(臨済宗)を除けば、すべて曹洞宗であることがわかる。ここにも曹洞宗が地域の国人を信者にとりこみ発展をとげてゆく傾向をはっきりと読みとることが出来る」とあります。
 特質の第三は「都市型仏教ともいうべき浄土真宗と日蓮宗が、秋田湊や飯嶋といった人と物が頻繁に交流し合う場所で集中的に信者を獲得し、寺院を建立してゆくことである。表にある浄土真宗は本敬寺と専念寺を除く八寺院が湊に集中しており、日蓮宗は五か寺全部湊に建立されていることがこれを証明している」とあります。

◎項目三「蒙古来襲と古四王神社」に「『古四王社縁起』で注目されるのは鎌倉期の元寇に関する記事である。この蒙古の大軍侵攻に対して、幕府は諸国の地頭を通じて大小の神社仏閣を選んで一心に祈祷するよう命じた。これを受けて、古四王社は将軍家に上申し、釈迦尊像を造り『二事比合之神道』の法によって外敵を一蹴したと説いている。この法は圓仁大師以来の『当山・赤神山・羽黒山三神一法之秘伝也』という。そして、この功績によって大悲禅寺、妙覚禅寺、光明禅寺の建立が認められたと記述をすすめている」があります。
 改行して「ところで、古代における秋田城四天王寺と古四王堂の関係について」として、新野直吉の『古代史上の秋田』によるとする見解を記したうえで、「いずれこの由緒ある寺院と神社は、平安末期頃に合体し、古四天王寺と称されるようになる。そうした神仏習合の過程において、この縁起も聖徳太子信仰を大幅に取り入れ、『二事比合之神道』もこうして形成されたものであろう。また、縁起は、主体である東門院を天台宗と結びつけるために、圓仁大師まで引き出している。一方蒙古退散の修法を行なった功績としての禅宗寺院の建立という縁起内容も、時代が幕府の帰依する臨済・曹洞両宗派を受容とする方向になっており、この潮流に従ったものとみられないこともない」を記して、続けてこの項目の最後に「延文元年(一三五六)秋田城古四天王寺別当恒智は内海三郎らの寺領押領に対して、『当寺は聖徳太子御建立の地たり、天下無双の霊場なり』という由緒を織りまぜて幕府に訴えているが、これは右のような実態を踏まえてのものと考えられるのである」を記しています。
 古四天王寺別当恒智による「当寺は聖徳太子御建立の地たり、天下無双の霊場なり」の由緒が「右のような実態を踏まえてのもの」というのは、あまりはっきりしない言及に思えますが、古四天王寺も「神仏習合の過程において」「聖徳太子信仰を大幅に取り入れ」ていると述べているのでしょうか。
 この「ところで」以下の記述については、いろいろの疑問符が付きますが、まずはそのまま引用しておきます。

V:古四天王寺
○「秋田城古四天王寺別当恒智」の延文元年の文書
 この文書は、岩手大学リポジトリの検索に「出羽国秋田城古四天王寺別当法師恒智訴状」として出てくる文書になります。
 〈岩手大学リポジトリ 「出羽国秋田城古四天王寺別当法印恒智訴状」  file:///D:/MYBOX/Downloads/nitobe24.pdf   〉

 ここには、「本文」と「翻刻文」があり、「本文」には別当文書本文とは別に「岩手大学付属図書館」の分類用と思われる票があり、その題名として「秋田城古四天王別当請文」とあります。
◇『能代市史 資料編 古代・中世一』〈以下、『能代資料一』〉の「第二章中世一」の番号「81」の「延文元年(一三五六)六月/秋田城古四天王寺、尾張の没落武士内海三郎・三浦弥六らに寺領を妨害される。〔新渡戸 岩大文書〕」によって、この文書の解説と読み下し文を見ます。
 この文書を、以下「古四天王寺別当恒智文書」又は「別当恒智文書」と記します。
○解説に、「南北朝時代の中期、秋田城の古四天王寺別当が足利政権に対し寺領の保護を求めて訴えた文書である。訴えるにあたって、同寺に伝えられた相伝の系図、および今まで鎌倉幕府から代々下付されてきた下知状、および所領安堵にかかわる証文、ご祈祷についての幕府の御教書を付している」とあります。
○読み下し文
 「出羽国秋田城古四天王寺別当助法印恒智代、[ 欠字 ]
   早く、かつは都鄙多年御祈祷の忠勤により、かつは関東代々御下文、
   ならびに当御代安堵御外題手継証文等に任せ、厳密の御沙汰を経られ、
   内海三郎[割書・欠字]ならびに三浦弥六以下の輩等
   去々年文和/三八月以来の非分濫防を停止され、下地を寺家に沙汰付けられ、
   全く専ら仏神事を所務し、いよいよ御祈祷忠勤を
   寺領当所に抽んぜんと欲するあいだのこと。
  副え進める。
   一通 相伝の系図。
   一巻 関東代々の御下知、当御代安堵御外題手継証文等。
   一巻 御祈祷の御教書、同御巻数の御返事、繁によりこれを略す。
  右当寺は、聖徳太子御建立の地にして、天下無双の霊場なり。
  しかして成遍僧都以来、当寺務恒智法印に至り六代相伝
  当知行に相違なき者なり。よって都鄙多年御祈祷忠勤を致すのところ、
  彼の内海三郎、尾張国内海羽津城より没落せしめ、御敵として
  身濫防の条、希代の所行なり。これにより仏神事等を退転せし
  めるの上、争い御誡なきや、冥顕につき恐れ有る者や、所詮
  厳密の御沙汰を経られ、御使を仰ぎ当時違乱を止められ、下地
  を寺家に沙汰付けられ、その身を重科に処せられ、全く、専ら 
 仏神事を所務し、弥々御祈祷を抽んぜんと欲す。よってあらあら言上件の如し。」

◇『市史二・中世』-「第二章 南北朝内乱と秋田・第二節 北奥羽の抗争・二」の項目「秋田城古四天王寺」にも「秋田城古四天王寺別当の恒智法印が幕府に提出した訴状」に関する記述があります。
 ここに「古四天王寺や寺領が右のように、北朝の安堵を受け、一応安定した性格をもっていながら」〈略〉「侵害されたことは、侵害した三浦・内海氏が何らかの権限に基づいて入部したことを意味している。」〈略〉「遠い尾張の武士団が地盤のない秋田郡に入部し、伝統のある古四天王寺の寺領を〈文和三年から〉三カ年にわたって支配し続けたのは、やはり南朝方の権限なり権威を背景にしなければ無理であろう。前述のように北畠顕信が陸奥から出羽に逃れたのは文和二年(一三五三)である。顕信は南出羽を拠点に、北出羽の由利地方にも影響力をもったから、当時、秋田郡に南朝方の力が及んだことは十分考えてよい。男鹿半島における安東ら諸勢力の対立を考慮に入れると、この秋田城周辺における古四天王寺対三浦・内海の対立も、南北朝時代中期における秋田地方の実態を語るものと考えてよい」とあります。
 このあとに古四天王寺と内海等武士団がどうなったかは、「史料にみえない。秋田地方も東北地方の他の地域と同様に北朝方に包摂されるから、三浦・内海氏らは消滅していったと思われる」とのことです。
 「古四天王寺の跡とされる秋田城鵜ノ木地区の発掘調査によると」、同地区で確認される建物跡が「古代の四天王寺跡と重なるか、あるいはその周辺に集中している。そのため中世の古四天王寺もその付近に所在したであろうと判断されている」とのことですが、出土の中世陶器は編年によると十四世紀を中心とする年代が与えられていて、「結局、出土遺物が十四世紀でおわるため、考古学の面からも古四天王寺はほぼ南朝方の終末と時期を同じくし、その後は後城に中心が移ると判断されているのである。この点は文献史料とも一致している」とのことです。
 「古四天王寺」は、鎌倉から南北朝時代に、鵜ノ木地区にあったと思われますが、その後は同地区では廃れた可能性が高いようです。

◇『市史二・中世 』-「第二章 南北朝内乱と秋田・第三節 神仏と祈り・三 秋田城周辺の社寺」に項目「古四天王寺」があります。
 「古四天王寺には、鎌倉・南北朝時代を通じ寺務を執り行う別当がおかれていたが、延文元年(正平十一=一三五六)六月、時の別当である恒智法印は足利幕府に対し、南朝方から派遣されてきたと思われる内海三郎・三浦弥六らが寺の土地を侵害しているとして、その停止を訴えた」、「成遍僧都を初代別当として恒智法印は六代目であるから、もしその間の五代を一代三十年とすると百五十年〈1356-150=1206〉になり、初代は鎌倉時代に始まる。一代二十年〈1356-100=1256〉とすると安達氏の秋田城介補任〈建保六年1218〉の頃になる」とあります。

W:古四王社縁起と湊三カ寺
 先に、現在の湊三カ寺と江戸時代の古四王神社について、『市史二・中世 』-「第二章・第三節・三」の項目「古四王社縁起と湊三カ寺」の初めの部分によって記しました。
 ここでは、項目「古四王社縁起と湊三カ寺」の「古四王社縁起」を中心にした部分の記述にそって、「古四王社縁起」とはどういったものかを見ておきたいと思います。
 項目の「四天王寺・古四王神社に関する傍系資料として『古四王社縁起』が今日まで伝えられ、それに湊三カ寺のことも載っているので、以下、この縁起を中心に話をすすめることにする」以降の部分を見ていきます。
◎古四王社縁起について「この縁起は元禄年間(一六八八〜一七〇四)に、当時古四王神社の別当であった東門院から藩に納められたもので、創建にかかわる伝説に始まり、天正十八年(一五九〇)安倍愛季によって再建されたというところで終結している。愛季の死亡は天正十五年であるからこの点は間違っているが、天正十八年からあまり時を経過していない頃の成立と考えられる。但し縁起の成立にかかわった筆者などは明らかでない」と記しています。
 この縁起の筆者などに関しては後で記したいと思います。《Z: 5)「古四王神社考」と「古四王社縁起」》
◎縁起の内容は、大体三つに分けられるとし、前段・中段・後段として縁起内容を概観しています。
○前段は「秋田城亀甲山四天王寺東門院古四王権現は聖徳太子が草創したという建立の由緒に始まり、それに続いて、太子が摂津(大阪)珠造岸上に四天王寺を創建したいきさつを、物部と蘇我両氏の争いを織り混ぜながら綴っている。右の冒頭にあるように、もともと別個であった秋田城四天王寺と古四王権現がいつかの時代に一体化されていたことがわかる」としています。
 縁起のその後は、東門院の建立に関して「四天王寺東門院と太子が創建した四天王寺を結びつけた構成になっている」と記しています。
○中段は「古四王権現の別当である東門院と、湊三カ寺創立についての記述」で、桓武天皇の征夷の時代から始めて、坂上田村麻呂による再興の事を記し、元寇の状況とそれにかかわる事柄を「例えば、征夷大将軍惟康親王は宇都宮藤原貞綱に大将の号を賜わり、数万の兵を率いて九州へ発向させた。京都で天皇が神祇官に行幸になった。将軍家が諸国の地頭に大小の神社・仏閣に祈祷することを命じた。当社に対しては、聖徳太子が夷賊征伐のため草創した社であるから、特に懇に祈祷するよう指示があった」と並べています。
 その上で、「それに加え、四天王寺の寺務は東門院がなすべきものであり、この寺務は円仁大師以来代々伝えてきたもので、当山・赤神山・羽黒山三神一法の秘伝であることや、これによって弘安の役で勝利を得たことなどを記している。このように円仁や羽黒山が縁起に編みこまれているのは、古四王神社が天台宗や羽黒修験の影響を受けたことを立証するものである。縁起はこのあと、天皇は元寇の勝利叡感のあまり、日本国中の大小の神祇・仏閣に品を挙げられたが、当社は聖徳太子の御願所であるため、弘安六年壬午(壬午は弘安五年=一二八二)、大悲禅寺を建て、二月五日に円通護摩法を修めること、同時に妙覚禅寺を建立し、四月八日に伽取茶湯を献じ、灌仏の秘法(釈迦生誕の法会)を修めること、更に光明禅寺を建て、二月十五日に涅槃の法(釈迦入滅の法会)を勤めることにしたとし、湊三カ寺創建の模様を説明している。すなわちこの縁起によると湊三カ寺は、元寇の勝利を契機に四天王寺に付属する寺として、天皇によって建立され、その時点から禅寺であったということになる。他方、妙覚・光明・大悲の三禅寺に伝わる由緒では、共通して征夷大将軍惟康親王の命による創建であり、当初は天台宗寺院であったとしている」と記しています。
 湊三カ寺の記述までが縁起の中段となります。
 湊三カ寺が天台宗として創建されたのであれば、古四天王寺が天台宗であったということになると思います。
 なお、「古四王社縁起」中段には「故以神仏比合之神道。可勤當社之祭礼。故訴将軍家歴奏聞。造立釈迦尊像。而四天王寺之寺務東門院主。以二事比合之神道勤祭礼」の記載がありますので付け加えます。
 〈「古四王社縁起」の引用は『秋田市史 第八巻 中世 資料編』の「古四王社縁起」による。以下『秋田市史 第○巻』は『市史○』と略記します。 この縁起は『秋田叢書 第三巻』所収小野崎通亮撰「古四王神社考」に記載の「古四王社縁起」を収録したもの。引用にあたり、旧漢字を改め、返り点を省略。句点は原文に従う。以後「古四王社縁起」の引用はこれに同じ〉
 この部分を◇『能代市史 資料編 中世二』〈以下『能代資料二』〉収録の「古四王社縁起」の「読み下し」は「故に将軍家に訴え、奏聞を経て、釈迦の尊像を造立して、四天王寺の寺務を東門院主は、二事混合の神道をもって祭礼を勤む」としています。 
○後段は、「縁起はこのあとまったく内容を変え」とあり、観応二年の女河寂蔵の古四王社修造、文明四年の炎上と八年の再興、天文三年の炎上と十二年の安東洪廓再興、弘治二年の湊二郎と東門院主の対立と堂舎炎上、永禄元年湊兵庫頭兄弟三人子四人生害と当社の神罰、湊氏断絶、愛季の湊家相続、天正十八年愛季再興、という出来事の記述になります。
 前段・中段・後段と縁起を見てきて、湊三カ寺の縁起について記述しています。
◎湊三カ寺についての縁起は、「元寇の時、古四天王寺に付属する寺として時の天皇の命により創建されたことになっている。その点は三カ寺に伝わる創建の由緒が、やはり元寇の時、惟康親王の命によって創建されたという伝承になっているから大きく異なっていない。ところで大悲寺に今に伝えられている仏像〈銅造十一面観音像〉によると、湊三カ寺の鎌倉時代創建は必ずしも無理ではないことがわかる」としています。
 続いて、大悲寺の木造十一面観音像について記して「湊三カ寺が湊安東氏の保護のもとに、室町・戦国期を通じ繁栄してきたことは右の仏像によく象徴されているが、鎌倉時代の後期末、古四天王寺との関連で創立されたことも否定できない。そして古四天王寺は鎌倉幕府安泰を祈願する使命を帯びていたから、元寇に際し征夷大将軍や天皇によって創建されたということもありうる事である」としています。
 項目「古四王社縁起と湊三カ寺」の記載はここまでです。
 「古四王社縁起」についてはてもう少し検討したいと思いますが、その前に「古四天王寺」に関して、古代の四天王寺の経緯から見ておきたいと思います。

X:「古四天王寺」
1)「古四天王寺」建立以前
@古代の四天王寺
 天平五年〈733〉とされる「出羽柵」の移遷にともなう秋田「出羽柵」の創建に合せて政庁地区に隣接する鵜ノ木地区に付属寺院として建立された寺院が、四天王寺の始まりと思われます。
 四天王寺は、天長七年の大地震による倒壊からの復興、元慶の乱による焼失からの復興を経たと思われます。
 『類聚国史 巻百七十一 災異部五 地震』の「〈天長〉七年正月」に収録されている「出羽国駅伝奏云。鎮秋田城國司正六位上行介藤原朝臣行則。今月三日酉時〈18時頃〉牒■〈ショウ U+5041 称〉。」から始まる天長大地震の報告「今日辰刻〈8時頃〉。大地震動。響如雷霆。登時城郭官舎。并四天王寺。丈六仏像。四王堂舎等。、悉皆■〈テン U+985A 眞頁〉倒。城内屋仆。撃死百姓十五人。支體折損之類一百餘人也。歴代以来。未曾有聞。〈以下略〉」に記される「四天王寺」が、秋田城の付属寺院を四天王寺とする根拠となる文献史料になるのだろうと思います。
 〈引用は、「国立国会図書館デジタルコレクション;『六国史:国史大系』類聚国史 経済雑誌社、大正5」526コマ。句点は同書の通り。赤色句読点は『市史七 古代資料編』〉
 この史料以外に、付属寺院の寺号を記した文献はあるのでしょうか。
 なお、「四王寺印」とされる古印の存在からすると、四天王寺がこのような復興などの機会に四王寺として再興された可能性、寺号は四天王寺ではなく四王寺であった可能性、があるかもしれないと思います。
 〈「四王寺印」については、当ホームページの「探訪記録以外の記事-外編2」の「四王寺印と古四王寺の印鑰祭」をご参照ください〉

A発掘調査にみる鵜ノ木地区と政庁地区と復興と最終期
◇『秋田城跡U-鵜ノ木地区-』(秋田市教育委員会/秋田城跡調査事務所 2008年3月・平20)を見ます。
 〈 file:///D:/MYBOX/Downloads/14618_1_%E7%A7%8B%E7%94%B0%E5%9F%8E%E8%B7%A1.pdf 閲覧可能 〉
 先ず、「序」に「本報告書は秋田城外の最重要地区として、昭和47年度から延べ35年間にわたって実施してまいりました『鵜ノ木地区』の発掘調査の記録、また文字資料、文献史料を収録してまとめたもの」とあります。
 その鵜ノ木地区とは、昭和34年からの国営調査で秋田城の付属寺院の四天王寺跡と推定された建物跡群が発見されている地区で、「史跡秋田城跡における位置関係で見た場合」は「城外南東側一帯にあたり」、「高清水丘陵東側に位置して」いて、「地区中央南側小高い丘部分」を中心にして「秋田城跡に付属する古代の建物群等の施設が検出されて」いて、「居住域などの古代の遺構の広がりは、北側や東側を含めた地区全域に認められ、中世の遺構もほぼ全域で認められている」地区とのことです。
 そして「古代の建物群が存在する地区中央南側小高い丘部分は、〈略〉半ば独立した丘陵地形となっていたと考えられる。しかし、現状ではその丘陵地形の南側半分が近世以降の土取りにより、削平され失われている。旧地形を復元すれば、北側の沼地や南側に向け緩やかに下る斜面を有する独立した小丘陵が、地区中央に存在してたと考えられる」そうです。
 鵜ノ木地区は、「発掘調査開始以前は東側の旧沼地跡が水田として利用されていた以外は、畑地がほとんどを占めていた。一帯の畑地としての造成と利用は近世に遡る」、「前述した地区中央南側の丘陵部については、明治から昭和初期を中心に段階的に土取りが行なわれ、昭和34年の国営調査開始段階では既に宅地や畑地になっていた」とあります。

◇同書の「第Y章 考察―第3節 鵜ノ木地区の変遷」を見ます。
 鵜ノ木地区は「古代以降おおよそ6時期〈T期からY期〉の変遷が把握され」、各遺構期の年代からは「鵜ノ木地区中央建物群を中心とする遺構群の変遷と画期が、秋田城の外郭区画施設や政庁などの主要施設の変遷およびその画期に対応していることが把握される。またそれらの変遷と画期は、文献史料上の記事に示される事件、政治的・社会的背景や動向に関連するものとなっている」とのことです。
○T期は、「地区中央の丘陵上に建物群が造営される。地区北部には〈略〉外郭東門から伸びる城外東大路が存在したと考えられる。その他に地区中央東側の一画が居住域として利用される以外は、東部・西部は全く利用されていない」段階のようです。
 「地区中央では造営直前に存在したSI004・SI404竪穴住居跡を埋め立て丘陵部に整地を行い、規則的配置に基づく地区中央建物群を建設する。主要建物として大型の南北廂建物であるSB006・SB018掘立柱建物を南北堀立柱に列をなすよう配置し、その2棟の南北軸線を中心として、東西対称に総柱建物で西廂のSB485・東廂のSB021B総柱掘立柱建物を配置する。その主要建物周辺に付属建物として北にSB397、南西にSB962A・B掘立柱建物を配置する。区画施設として建物間にSA503・SD(A)970柱列塀跡を設置するが、独立した丘陵上に位置するためか、建物群全体を囲む区画施設は確認されない。また、建物群に付属する井戸としてSE406井戸がSB006建物の北東に設けられる」、「建物群はさらに南側に広がると判断されるが、SB018掘立柱建物跡より南側は土取りにより大きく削平されており、実態が不明となっている」とのことです。
 T期の開始の建物群の創建時期が「天平5年〈733〉の秋田『出羽柵』創建時まで遡ることが把握され」、建物群の性格については「建物配置が寺院の伽藍配置と解釈されることと、次段階における仏教祭祀に伴う木簡出土や仏教儀式に使用する憧竿支柱の存在から、寺院となる可能性が高い」事や平安期の史料から、「城外東側に隣接する鵜ノ木地区に秋田『出羽柵』創建当初より、付属寺院が存在した可能性が高い」としています。
 T期の終りは「8世紀の第3四半期頃となり、想定年代としては、秋田『出羽柵』から『阿支太城』として初見される『秋田城』への改修がなされた天平宝字年間の西暦760年頃が考えられる」とあります。T期は、およそ30年程の期間となるようです。

○U期は、開始年代はT期の終りの西暦760年頃が考えられ、「政庁・外郭U期の改修に対応すると考えられる」とのことで、「地区中央建物群については前期からの主要建物がほぼ同じ位置で建て替えられ、その配置と機能は維持される。一方でその周辺と中央東側に新たに多数の建物が配置され、全期を通じて最も建物群が拡大し充実する」とあります。
 建替えられた主要建物の変化の有無や周辺の新たな小型建物などについてと東側の新たな大型建物や水洗便所などについては引用記載を省略します。
 U期においては「従来の寺院としての機能に客館機能を付加した、寺院兼客館としての性格が指摘される」としています。
 その終りは、「『日本後記』延暦23年(804)条に見える秋田城停廃問題が起きた頃と考えられる」とありますので、U期の期間はおよそ50年程となるようです。
 また、「建て替えられた主要建物は、〈略〉火災により焼失したと判断され、東側建物などの新設建物の多くも同様に火災により焼失した可能性が高い」ことにより、「U期建物は火災により焼失し、廃絶していると判断される」、さらに「政庁調査や焼山地区建物群の調査では同時期の建物が火災により焼失しており、秋田城全体に火災が及んだ可能性が指摘される」とありますが、これに関する文献史料上の記録は見当らないとのことです。

○V期については、「地区中央建物群全体の基本プランが大きく変更され、建物の構成・配置・方位等が変わる。建物群の中心が地区中央西寄りから地区中央東寄りに移動し、四面庇堂風の仏堂と推定されるSB488掘立柱建物を中心とする配置に変わり、寺院としての機能に集約される」とあり、地区中央建物群は、四面庇堂風SB488建物を中心に、「その北側に南廂建物のSB258掘立柱建物やそれに並列するSB262建物を配置する」、そして「北東側にSB1968・SB1967掘立柱建物と、南東側にSB1130掘立柱建物が規則的に配置される」が、これら「主要建物が位置する中央部より南半は土取りにより削平されており、全体の建物配置等は不明となっている。建物群に付属する井戸として、建物群東端部に新たに井戸館を伴うSE1176井戸が設けられる。依然として建物群全体を囲む区画施設はないが、主要建物間を区画するSA502柱列塀や、主要建物とその東側の竪穴住居群を区画するSA1179・SA1182一本柱列塀が設置される」とあります。
 また「地区北西部のSG463沼地北西岸は、V期当初より水辺祭祀の場として使用されはじめる」そうです。
 SG463沼地は現・古代沼と思われます。
 そして「地区の中心施設である中央建物群V期段階における、東側建物群の消滅と堂風建物を中心とする建物群への集約は、秋田城の外交施設としての役割が変化したことにより、客館(迎賓館施設)を要しなくなり、一堂形態の寺院へ機能が変化、集約したためと考えられる」としています。
 また「中央建物群北側のW期造営に伴う地区中央第7層・古代整地V層より出土した『□玉寺』墨書土器は、天長七年条の出羽国大地震の記事に秋田城付属寺院として記録のある『四天王寺』の名称に一致するものであり、V期以前の建物群の寺院としての性格を裏付けるものといえる」とあります。
 V期の開始は「外郭区画施設や政庁など城内主要施設の大改修が行なわれた外郭・政庁第V期の開始、8世紀末から9世紀初頭の大改修に対応すると考えられ」、終りは「『類聚国史』天長7年(830)条に見える天長大地震によるものと考えられ(資料番号・略)、その地震により倒壊した『四天王寺』にV期建物が該当するものと考えられる」とあります。V期の期間は、およそ30年程のようです。
 これらによると、U期の焼失後のV期に行なわれた大改修で、寺院のありようが変化していることがうかがわれるようです。
 その新たな一堂形態とおもわれる寺院が、文献史料に見える「四天王寺」のようです。
 四王堂舎は確認されていないのでしょうか。
 このV期の寺院の段階で、さまざまな変更があった可能性もあるのではないかと思います。
 「□玉寺」墨書土器は、四王寺の名称に一致するものであるかも知れないと思います。

※◇三上喜孝「日本古代の境界意識と四天王信仰」(九州国立博物館「太宰府学研究」事業・特別史跡「大野城跡」史跡指定90年記念シンポジウム『太宰府四王院』−「西の都」に築かれた鎮護国家思想の寺―:基調講演 令4年/2022)
 〈 https://www.kyuhaku.jp/exhibition/img/dazaifu/p220904.pdf 〉
 この項目5「国土鎮護と観世音寺」中に「秋田城付属T・U期の寺院が、観世音寺式の伽藍配置をとっている可能性があることである(秋田市教育委員会・秋田城跡調査事務所2008)。とすれば、四天王寺の前身の寺院は、筑紫観世音寺と対応する寺院として創建された可能性も考えられよう。もっといえば、秋田城付属寺院は、観音寺から四天王寺へ、寺院の性格が複合的に変化した可能性も考えられよう」と記していることに留意したいと思います。
 三上の記す「(秋田市教育委員会・秋田城跡調査事務所2008)」は、『秋田城跡U-鵜ノ木地区-』(秋田市教育委員会/秋田城跡調査事務所 2008年3月)です。

○W期の開始は、「9世紀第4四半期に位置付けられ」、これは「天長大地震〈830〉に伴う復興によるものであり、政庁第W期の開始に対応すると考えられる」もので、「地区中央建物群は、仏堂である四面庇堂風建物を中心とするプランが踏襲され」、「一帯が柱列塀の区画施設により方形のプランで区画されるようになる。この段階になり、区画施設により寺域が明確化する」そうです。
 また、「地区北西部から西部、地区中央北部にはこの時期多数の土取り穴が堀り込まれ、地区中央東側を中心に周辺で大規模な造成が行なわれる。地区北西部のSG463沼地〈現・古代沼〉北西岸は、『祓所』として本格的に造成・整備される。また、外郭東門より北西岸に至る道路も整備される。鵜ノ木地区における宗教的性格がもっとも強まる時期となる。地区中央建物群は、仏堂である四面庇堂風のSB487掘立柱建物が、前段階のSB488掘立柱建物より、やや北に位置をずらして建て替えられる」とのことです。
 「建物群や居住域に付属する井戸であるSE1176に加え地区北西側に新たにSE463井戸が設けられ」、「SG463沼地北西岸は、水辺で『祓』の祭祀を執り行う『祓所』としてSX741張り出し部等が造成・整備され、人面墨書土器や人形、斎串等を用いて祭祀がおこなわれる」があります。
 また「地区中央建物群の東辺区画施設と思われるSA1973柱列塀と南辺区画溝と思われるSD162・SD163溝は、〈略〉、W期当初からの区画施設よりは新しく、W期後半以降またはX期以降に属する可能性が高い。その存在からは、寺院仏堂を維持しつつ区画施設の方位を変更した可能性と、新たな仏堂とプランの基に南半の削平部分を中心にX期以降寺院が存在した可能性が考えられる。削平により実態把握が困難となっているが、X期以降の年代に位置付けられる『寺』墨書土器の出土や、11世紀代や中世段階にも地区の宗教的性格が認められることから、X期以降にも周辺を含め鵜ノ木地区に寺院が存在した可能性は高いと考えられる」があります。
 W期の終りは「9世紀第4四半期に位置付けられ」、「『日本三代実録』元慶2年(878)条に記事のある元慶の乱に際する秋田城主要施設の焼失によるものと考えられ(資料番号・略)、政庁W期・外郭V期の終末に対応すると考えられる」とあります。
 W期は50年程の期間となるようです。

*秋田城跡史跡公園を訪ねた〈2023-07-14〉ときに、政庁外郭の復元された東門を出て、鵜ノ木地区の方に向うと、右側の低くくぼんだ所に古代沼がありました。この低地の沼を見て、この地形は砂丘ではないかと思い、新潟県の北部〈下越〉地方で「サンベ〈山辺?〉」と呼ばれている沼と同じようなものではないかと思いました。
 後で調べると、高清水の岡は砂丘地とのことでしたので、古代沼は砂丘湖ということと思います。

左上: 東門(鵜ノ木地区側から)                右上: 東門からの道路(外郭東大路)
左下: 古代沼(外郭東大路から)                右下: SE406井戸(天平の井戸)復元


○X期は、「地区中央では、建物や区画施設が確認されなくなるが、削平によって不明となっている前期建物群の南半分または周辺に寺院建物が存在した可能性を残す。地区全体でも遺構数が減少し、地区北部と中央の一部を除き利用されなくなる。地区中央を中心とした鵜ノ木地区の利用状況が大きく変化する」とあります。
 X期の開始は、「9世紀第4四半期に位置付けられ」、「元慶の乱に伴う被害の復興によるものと考えられ、政庁第X期・外郭W期の開始に対応すると考えられる」とし、X期の終りを「明確ではないが」、「10世紀前半代、政庁Y期のうちに収まるものと考えられる」としています。
 「それ以降古代の明確な遺構は検出されないが、SG1206沼地南西岸の第6層の土器一括廃棄が見られるように、宗教的性格を持ち続けながら、地区南半から西部にかけての削平による不明部分などが、利用されていた可能性がある」としています。
 このように見てくると、V期からX期に至る遺構期の画期に、天長七年大地震〈鵜ノ木地区・V期の終り 〉と復興〈鵜ノ木地区・W期の始まり〉、元慶の乱〈鵜ノ木地区・W期の終り〉と復興〈鵜ノ木地区・X期の始まり〉があるようです。

◇『秋田城跡T-政庁跡-』の「政庁の変遷」を見ます。
 〈 file:///D:/MYBOX/Downloads/14609_1_%E7%A7%8B%E7%94%B0%E5%9F%8E%E8%B7%A1.pdf 閲覧可能 〉
 政庁のX期について、「大規模な火災による焼失等、元慶の乱で受けた被害を復興した時期と考えられる」とし、「区画施設および門の構造や建物配置なども大きく変わり、変遷における大きな画期となっている」「正殿は、東西棟のSB744掘立柱建物で、前期(W期)より若干こぶりな建物となっている」などの記載があります。
 この期の年代は、「始まりが元慶2年(878)以降」「9世紀第4四半期」以降となり、終りについては「10世紀第1四半期と考えられる」としています。
 Y期については、「本期は、最上層検出の遺構であり、政庁の最終末期となる。そのため後世の削平も多く、建物や区画施設等政庁内の様相は不明な点が多い」、「正殿はSB743東西棟建物で、柱位置部分に根石状の河原石が認められることから、全期を通じて初めて礎石建物となると考えられ、また、規模は桁行が5間、梁間が2〜3間と考えられるが判然とせず廂は付かない」とあります。
 Y期の年代については、始まりを「10世紀第1四半期」以降と考えられるとし、「終末については明確ではないが、政庁域における最上層の遺物包含層出土遺物の年代が10世紀中葉であり、周辺および攪乱層を含めそれよりも新しい時期の古代の遺構および遺物がほとんど検出されず、出土しないことから、10世紀中葉頃に収まると考えられる」として、「本期が古代における政庁域の連続した使用としては最終期となると推察される」「本期以後、中世にかけての政庁周辺の利用状況については同様に不明確であり、前述した遺構と遺物の状況から、本格的施設を伴う大規模な利用はないものと推察される」とあります。

*大山宏が「秋田城阯に就いて」で、元慶の乱によって四天王寺並びに四王堂も火災にあったであろうが、「凡厥塁棚楼塹皆倍旧制」を引用して、乱の平定後間もなく復興されて「四天王寺並びに四王堂も輪奐の美を極めたに違ひない」(p.20)と記し、また「参議保則卿伝に平定後の事を記して曰く」と、「藤原保則伝」から「自津軽至渡嶋、雑種夷人、前代未曾帰附者、皆尽内属。於是公復立秋田城。凡厥塁棚〈ママ〉楼塹皆倍旧制」を引いて、「秋田城の全盛時代、黄金時代と謂うべきである」(p.45)と想定していますが、すべて旧制に倍する秋田城を再建したという、そ
の実態とはどんなものだったのでしょうか。

B鵜ノ木地区のその後
◇『秋田城跡U-鵜ノ木地区-』-「鵜ノ木地区の変遷」に戻り「Y期」を見ます。
 Y期について、「鵜ノ木地区では、10世紀後半以降に明確な遺構は検出されなくなり、平安時代後半の実態や利用状況は不明確となる。これは、古代の秋田城全域に共通している」とあります。
 鵜ノ木地区は「その後、中世前期の12世紀末頃から沼地周辺に大規模な埋め立て整地を行い、再び利用が活発化する」とあります。
 「地区中央東側のSG1206沼地南岸付近、地区中央北側から北西側にかけてのSG463沼地南岸付近、地区西部、地区北部のSG1206沼地北岸付近等で聖地事業が行われ、その付近を中心に複数棟の総柱式掘立柱建物と井戸のセットで構成される居住域が形成される。地区中央東側には焼土遺構もまとまって検出されており、工房等の生産施設としての機能も付加されていたと考えられる。地区中央北西側から地区西部にかけては、居住域より後に墓壙群よりなる墓域として利用される。中世段階を通じ地区全体として、居住域および生産域や宗教域からなる複合的な利用状況をしめしている」とあります。
 その利用状況について、発掘調査に基づいて建物分類記号番号を示して具体的な記述がありますが、「地区中央北側から北西側」と「地区中央」についての記述を引用し、他は省略します。
 「地区中央北側から北西側にかけてのSG463沼地跡南岸付近には、SB266、SB268、SB427総柱掘立柱建物にSE269・SE267・SE431井戸が伴い、〈北西側・略〉」、「地区中央には単独でSB264が位置している」とあります。
 これらの建物について、「鵜ノ木地区の変遷」項目では、これ以上の記載がありませんが、同書「第W章 検出遺構と出土遺物-第2節-1建物跡」の「鵜ノ木地区検出中世建物一覧表」(p70)を見ると、地区中央のSB264は「桁行4間(5.48) 梁間3間(7.76)ー南北棟総柱掘立柱建物」とあり、SB266「桁行2間(5.48) 梁間2間(4.84)ー東西棟総柱掘立柱建物」、SB268「桁行5間(13.14) 梁間4間(9.66)ー南北棟総柱掘立柱建物」、SB427「桁行3間(7.8) 梁間2間(5.0)ー東西棟総柱掘立柱建物」とありますが、建物の性格などについての記載は見出せませんでした。
 同書「鵜ノ木地区検出建物跡・区画施設位置図」(p47・48)を見ると、地区中央のSB264建物の位置する場所は、V期のSB258・SB262の場所にほぼ重なるように見えます。V期のSB258・SB262は東西棟ですが、SB264・SB268は南北棟です。
 Y期について続いて「中世の建物と井戸は、検出位置や建物方位にまとまりを持ち、建物ごとに井戸を持ち、井戸は短期間で作り替えられていたと考えられる」、「これらの各居住域の建物と井戸は、同時期に位置づけられる整地層面検出であり、大きな時期はないが、建物重複から、少なくとも3時期以上の小期変遷があると考えられる。なお、整地層内や井戸からは、珠洲系中世陶器、かわらけや貿易陶磁器等が出土している」とあります。
 そして、地区西部にある溝から「13世紀に位置づけられる懸仏が出土しており、周辺を含め何らかの宗教施設の存在が推定される。鵜ノ木地区と寺内一帯については、史料上に、鎌倉時代の妙覚寺・光明寺・大悲寺の湊3ケ寺が建立された記録、南北朝時代における秋田城古四天王寺の記録があり、墓壙群と懸仏はそれら史料上に認められる寺院の存在に結びつくものといえる」、「地区における、居住域及び生産域と宗教域からなる複合的な利用状況についても、寺院と関連を持つ、寺院周辺の居住及び生産区域であった可能性が指摘される」を記しています。
 年代については、「Y期の開始は」「秋田地方における鎌倉幕府による新たな支配体制拡大期に対応すると考えられ」「12世紀末頃に位置づけられる」としています。
 その終りについては、「南北朝時代における地域支配体制の変化が関係している可能性がある」として、「終りは明確ではないが」「14世紀代と考えられる。墓域の終末はそれより下がると考えられる」としています。
 「Y期」の記述はここまでで、「鵜ノ木地区の変遷」の記述はここまでになります。

*そうすると、政庁跡では10世紀中葉頃以降は大規模な政庁としての利用が確認できず、鵜ノ木地区では少し遅れて10世紀後半以降に明確な遺構が確認できなくなるので、政庁としての秋田城が廃れると、付属寺院も存在する事が出来なくなり10世紀後半頃には四天王寺(四王寺)は衰退した可能性が高いのではないでしょうか。
 「四王寺印」が伝来してきたことからすれば、付属寺院として存続できなくなっても、何らかの形の宗教施設として継続出来ていたのではないかと思います。
 鵜ノ木地区では、10世紀後半頃から12世紀末頃まで、明確な利用状況が確認できない期間が、200年以上あることになります。
 「古四天王寺」の建立は、この200余年の明確な利用状況が確認できない期間のあとのことだと思いますので、この200余年の間に、「古四天王寺」の建立に至るなにかがあるのではないかと思います。
 200余年をおいて12世紀末頃から「再び利用が活発化」した鵜ノ木地区のY期も南北朝時代の14世紀代には終末をむかえるとのことですので、鵜ノ木地区のY期は鎌倉時代に対応するようです。

C秋田城と古代城柵の廃絶
◇『市史一 先史・古代 通史篇』-「第八章前九年・後三年合戦と秋田・第一節・二秋田城の変質と廃絶」中に「秋田城は十世紀の中ごろ、払田柵も十世紀後半には終末を迎える。東北地方の古代城柵は、十世紀半ば以降にはあいついで廃絶してしまうのである。もちろん、康保四年(九六七)に出羽守となった藤原定忠は、秋田城司として数十棟の官舎を建造したことなどの功績が抜群の理由とされている〈『市史七 古代資料編』:226=秋田城介として功績のあった藤原定忠がさらに出羽守に任じられる〉し、秋田城の名も十一世紀初頭まで確認〈同前 古代資料編:242=長保二年(一〇〇〇)一月七日/秋田城の不動穀の使用に関する太政官符が出羽守におくられる〉できる。また、秋田城司(秋田城介)の任命も十一世紀半ばまで確認〈平繁成〉できるから、十世紀半ば以降の遺構は未確認であるものの、秋田城の施設・機能は消滅したわけではないはずである。しかしながら、天元三年(九八〇)に出羽介の平兼忠が秋田城務として命じられたのは秋田城の警固・防衛・鎮衛であった〈古代資料編:231=出羽介平兼忠を秋田城司に任じ、その警固を命じる〉」を記しています。
 『市史一』-「第八章・第二節・一・1秋田城と清原氏」の項目「出羽城介の登場」に「九世紀末頃から任国の政務に関する権限が国司の長官である守に集中していき、介以下の国司が守の属吏化していくいわゆる国司の受領化の動きがあったことは前節で見たが、出羽国の場合、以前から秋田城に常駐していた介が十世紀初頭頃に出羽城介として受領に準ずる扱いを受けるようになる。そして城介は出羽国北部に独自の支配体制を布き、出羽国府に対して多分に独立的な権力をもつようになる。そうした動きの中で、それまで秋田城などを拠点に行なわれていた蝦夷支配のありかたも次第に変容していった」と記します。
 さらに「また前節で見たように、東北地方の古代城柵はいずれも施設としては十世紀の後半頃までしか存在せず、秋田城もその例に漏れない。だが文献史料によれば、古代城柵の施設が廃絶する十世紀以後においても明らかに『秋田城』は存在していたことが知られる」と繰り返して記述しています。
 また、同書の項目「秋田城在庁清原氏」に「古代城柵廃絶後の辺境政治は、出羽城介や鎮守府将軍に任じられた受領層貴族の政治的実力を著しく強めていった。両官には都の受領層貴族の中でもとくに敏腕・武勇の人物が任じられるようになり、その下で現地豪族が登用され、城介・将軍が執政するための現地執行機関が編成されていった。これが秋田城在庁・鎮守府在庁である。なお在庁は受領=国守による現地支配のための執行機関として全国的に形成されており、秋田城などの在庁もその一類型として位置づけられる。かくして十世紀後半頃に『特別受領』出羽城介が秋田城在庁を率いて現地政治にあたる体制が成立したと見られる」としています。
 そして「『出羽山北の俘囚主』と称され、前九年・後三年の両合戦において重要な役回りを演じた清原氏も、本来は秋田城在庁を構成する有力な一員であったと見られている。〈略〉」としています。
 こういったことは、平安時代の律令国家体制の崩壊と王朝国家体制下での陸奥出羽の動向として概括できる事かも知れません。
 『秋田市史』から、秋田城の廃絶の前後の状況に関して引用させていただきましたが、秋田城の廃絶から鎌倉時代までの秋田のたどる経緯について跡づけることはとうていできません。

*秋田城が古代以来の役割を終えて廃絶された時に、付属寺院としての四天王寺(あるいは四王寺)の役割がなくなったのではないかと思います。
 『秋田城跡U-鵜ノ木地区-』等の文献を見てきて、天平5年〈733〉の秋田『出羽柵』創建時から秋田城が廃絶となる10世紀の中葉頃までの、城柵の創建から廃絶までの期間中にも付属寺院名とされる「四天王寺」にも様々な変遷や検討課題があると思われ、当たり前のように「四天王寺」と称してよいのかとも思いますので、この期間中の付属寺院を表わす名称として古代四天王寺と記することにしたいと思います。

2)「古四天王寺」の建立
@「古四天王寺」と「古四王社縁起」
 「古四王社縁起」に記される、元寇の頃に種々の懇ろな祈祷に励げみ〈「勵種々懇祈」〉釈迦の尊像の造立が認められた「四天王寺」というのは、延文元年〈1356〉の「古四天王寺別当恒智文書」の内容から、鎌倉幕府の庇護下で成遍僧都を初代として建立された「古四天王寺」であろうと考えます。
 古代城柵秋田城の廃絶を受けた古代四天王寺が十世紀中頃からどのような状況であったのか分かりませんが、十一世紀に入っても秋田城と呼ばれる施設と出羽城介の存在があるようですので、古代四天王寺としての維持は出来なくても、「四王寺印」が近世まで伝えられてきたことからしても、何らかの信仰施設は存在し続けて、鎌倉時代までの二百年程の間に「古代四天王寺」が忘れ去られてしまう事はなかったでしょうし、古代四天王寺についての伝承は伝えられてきたのではないでしょうか。
 そういったことがあって、「別当恒智文書」に「右当寺は聖徳太子御建立の地にして、天下無双の霊場なり〈右当寺者為聖徳太子御建立之地天下無双霊場也〉」の記述もあるのだろうと思います。
 この記述は、聖徳太子信仰により古代四天王寺跡をも神聖視し、そこに建っている当寺は、まさに天下無双の霊場であるという誇りの表われのようです。
 この聖地の寺院という認識は、「古四天王寺」を古代四天王寺と同一視せず、自らを古代四天王寺と直接結びつけていないことの表われと思いますし、この古代四天王寺との距離感は、「古四王社縁起」で「亀甲山四天王寺東門院」としていることとは大きく違います。
 同一視しないのは、古代四天王寺はまだ記憶に新しいものであったのかもしれませんし、古代四天王寺を尊んでのことかもしれません。
 また、自らの宗派に対する自負によるものかも知れません。
 この地にあった古代四天王寺は、聖徳太子信仰によって太子建立四十六箇寺院のひとつであるとされ、歴史上の古代四天王寺がその担った役割を含めて、聖徳太子の四天王寺であればこその護国・征夷・戦勝・等の寺院であるとの評価と認識に取って代わられたように思えます。

A「秋田城古四天王寺」表記について
 さて、延文元年の「別当恒智文書」に記された「出羽国秋田城古四天王寺別当助法印恒智代□□」で、古四天王寺の前に秋田城があるのは何故なのでしょう。
 この「古四天王寺」に「秋田城」がついた「秋田城古四天王寺」とする表記が、「岩手大学リポジトリ」内の「出羽国秋田城古四天王寺別当法印恒智訴状」の岩手大学付属図書館の分類用の票の題名に「秋田城古四天王別当請文」とあり、『市史八 中世史料編―史料番号129』に「秋田城古四天王寺別当の恒智法印〈以下略〉」とあり、『市史二―第二章・第二節・二』に項目名「秋田城古四天王寺」がありますし、『能代資料一』でも資料番号81「秋田城古四天王寺〈以下略〉」とあり、あたりまえのように「秋田城古四天王寺」と記されています。
 このように「秋田城古四天王寺」と表記する、意図あるいは根拠はなんでしょうか。
 古代の四天王寺を「秋田城四天王寺」と表記することがあるからでしょうか。
 「古四天王寺」が寺号だと思いますが、その寺号も気になりますし、その寺号に「秋田城」と付けているのも、気になります。
 「古四天王寺」の前には「出羽国秋田城」が付いているのだろうと思います。
 古四天王寺の所在地を示すために、古代の秋田城の四天王寺との由縁を想起させるために、「出羽国秋田城」が付けられたのだろうと思います。
 そういった意図が通じるのは、古代の秋田城に「四天王寺」があったことが文献的にも知られ、聖徳太子信仰の隆盛により「出羽国秋田城」の「四天王寺」が聖徳太子建立四十六箇寺院に結び付けられる事があって、聖徳太子信仰からも鎌倉幕府の関心を呼び、鎌倉幕府が出羽城介を百数十年ぶりに任命し秋田城介と称するようなった事があって、鎌倉幕府が秋田城介に「古四天王寺」建立を行なわせたというような事があってのことではないかと思います。
 聖徳太子信仰と出羽国秋田城の四天王寺については、後記します。
 こういったことがあって、「古四天王寺」に「出羽国秋田城」を付けた「別当文書」があるのではないでしょうか。
 「古四天王寺」の建立は、鎌倉幕府の後ろ盾があってのことで、その担い手は秋田城介であろうと思いますので、建立の年代は安達景盛が出羽城介(秋田城介)に任命された鎌倉時代の建保六年〈1218〉以降ではないかと思います。
 鎌倉幕府の御成敗式目の制定が、「古四天王寺」建立以降のことになるにしても、その第三条からの具体的な法規定の前に置かれた第一条「神社を修理し、祭祀を専らにすべき事(条文略)」、第二条「寺塔を修造し、仏事等を勤行すべき事(条文略)」(笠松宏至 校注「御成敗式目」による:『中世政治社会思想 上』日本思想体系21 岩波書店 1972)にあらわれる鎌倉幕府の社寺に対する態度が、「古四天王寺」建立につながっているのではないかと思います。
 よもやとは思いますが「秋田城古四天王寺」が寺号というようなことはあり得るでしょうか。
 「秋田城古四天王寺」が、「別当恒智文書」において寺号に出羽国秋田城を付けて所在地と秋田城と四天王寺との由縁を表わすための表記ではなく、「古代四天王寺」との由縁を重要視して、正式名称「秋田城古四天王寺」として建立された寺院であるということは、ありうるでしょうか。
 こういったことを問題視するのは、うがち過ぎで無意味なことかと思いますが、私としては「秋田城古四天王寺」と表記することには、慎重になりたいと思います。

B「古四天王寺」寺号について
 何故「古四天王寺」と称したのでしょうか。
 先に見た、「U:鎌倉期と古四王社縁起」の項目三「蒙古来襲と古四王神社」中に、『市史二・中世』から「いずれこの由緒ある寺院と神社は、平安末期頃に合体し、古四天王寺と称されるようになる」を引用しています。
 ここには、「古四天王寺」の名称は四天王寺と古四王堂が合体した名称であるように記されていると思います。
 合体が「平安末期頃」とすると、およそ11世紀第4四半期から12世紀末頃の期間になるのでしょうが、この頃は「鵜ノ木地区」では明確な遺構が検出されない期間にあたりますので、この期間に四天王寺があり古四王堂(神社)があり、さらに合体して、それが古四天王寺と称されることになるということでしょうか。
 鎌倉時代に建立された古四天王寺は、合体成立した宗教施設の古四天王寺を継承したもの、あるいは合体成立した宗教施設を継承してから古四天王寺と号した、と言いたいのでしょうか。
 四天王寺と古四王堂(神社)の合体説を論理的に導くのことは難しいと思いますし、合体説を採ると他の可能性の検討ができませんので、この合体名称説は封印しておきます。
 何故「四天王寺」の寺号を用いなかったのでしょうか。
 古代の秋田城付属寺院としての四天王寺が衰退しても、小さな規模であっても四天王寺という寺院が存続していれば、その寺院を引き継いで中興として復興させることはできると思います。
 そうした場合は、「古四天王寺」の初代成遍僧都ではなく、「四天王寺」の中興開山成遍僧都と記されることになったかも知れません。
 あるいは、末期の「古代四天王寺」の寺号が「四王寺」であった場合でも、四王寺が存続していれば、それを四王寺として中興することも、中興して寺号を変更することも可能ではないかと思いますが、そのような事でもないようです。
 四天王寺(四王寺)が存続しているのに、それとは別に「古四天王寺」を聖徳太子御建立の地に建立することは行なわれないと思いますし、四天王寺(四王寺)の中興も行なわれなかったようですので、四天王寺(四王寺)は廃寺となってしまった可能性が大きいのではないでしょうか。
 四天王寺(四王寺)が廃寺となっていても、四天王寺として復興することも可能ではないかと思いますが、そうはなっていません。
 寺号を「古四天王寺」とすることが重要だったということでしょうか。
 聖徳太子建立の出羽国秋田城の四天王寺は既に存在していないというのが普通の認識としてあれば、聖徳太子建立の四天王寺を復興させることは聖徳太子信仰が大きいほど恐れ多い事になりはしないでしょうか。
 古四天王寺の寺号は、臆面も無く新規に四天王寺という寺を建立するということではなく、建立寺院を四天王寺という寺号を用いることで太子建立四天王寺の復興として位置付けようとすることでもなく、古代の四天王寺が存在した地に、別の寺院としていにしえの四天王寺のような天下無双の霊場たろうとする寺号なのかも知れないと思います。
 鎌倉時代に聖徳太子御建立の地に建立される寺院は、太子建立のいにしえの四天王寺に由縁を持つ寺である事を示して、古四天王寺として建立されたのではないでしょうか。
 別の寺院として建立することを当然としているように受け取れることが、鎌倉時代という新時代の精神のあらわれのように思えます。

C「古四王堂」について
 「古四天王寺別当恒智文書」に「全所務専佛神事」〈読下し:全く専ら仏神事を所務し〉とありますので、古四天王寺は神仏習合の寺院であったと思われます。
 また「古四王社縁起」によると、元寇の時に建立された三寺院である、いわゆる湊三ケ寺に古四王権現堂が祀られていたとすると、これらの寺が創建以降のいずれかの時点で古四王権現堂を勧請したとするよりは、創建時から寺院の施設として古四王権現堂を設けていたとするほうが自然ではないかと思います。
 湊三ケ寺に古四王権現堂が祀られているのは、古四天王寺の寺院施設として古四王権現堂があったことによるのだろうと思います。
 古四天王寺の創建時に、古代四天王寺の四王堂に連なる古四王権現堂が存在したとすると、聖徳太子信仰の古代四天王寺を理念的に承継する寺院たる古四天王寺にとって古代の四王堂にかわるものとして古四王権現堂を組み込んで、古四天王寺を古代四天王寺により近づけようとしたのではないかと想像します。
 古四天王寺の建立以前に古四王堂が存在するための可能性を考えるとしたら、古代四天王寺が廃絶して時間が経つ間に、四天王寺の跡と四天王寺の中核施設であった四王堂跡を古四天王寺や古四王堂と呼び聖地視していたというようなことは、ありえないでしょうか。
 付属寺院の寺号が四王寺であっても、四王寺ないし四王堂の跡を古四王寺・古四王堂と呼ぶ、というようなことはありえないでしょうか。
 四天王寺(四王寺)ないし四王堂を存続させようとする者が維持した小規模の信仰施設が、小四天王寺(小四王寺)や小四王堂と称され、後に「小」が「古」にかわったというような可能性は、どうでしょう。
 四天王寺(四王寺)が廃寺になり、小規模の寺院としても存続できなかったとしても、四天王寺(四王寺)の僧侶が消滅するわけではないでしょうし、「四王寺印」が伝えられてきていますので、堂や庵まで一切が廃絶したということではないのではないかと思います。
 古代四天王寺にあった四天王を祀る四王堂が辛うじて残った場合、寺院施設としての四王堂ではなく単独の信仰施設として存在を維持するために変化して行かざるを得ず、各方面をそれぞれ守護する四体の天王から総体の四天王として守護・戦勝の武神としての信仰となり、その武神をいにしえの四王権現たる古四王権現と称し、祀る堂を古四王堂と称したというようなこと。
 あるいは、変化した信仰施設をいにしえの四王堂を引き継ぐ施設であるとして古四王堂と称し、祀る神を古四王権現と称したということ。
 あるいは、古代四天王寺の四王堂は各方面に四箇所あって、四箇所の四王堂の維持が困難になり、一箇所の四王堂に四天王を祀ることになり、その堂をかつての四王堂に代わるものとして古四王堂と称した、というようなこと。
 これらのことは、どうなのでしょうか。
 天部の四天王は、神化が容易のようにも思えます。
 古代四天王寺の廃絶から鎌倉時代の古四天王寺の建立までの間に、四天王を祀った四王堂が古四王堂となり古四王権現を祀るようになるという変化が起ったのではないかと思います。
 どのようにして四王堂が古四王堂になったのかは、いくつかの可能性を想定できても、分かりませんが。
 古四天王寺の建立以前に、古四王堂が成立していなかった場合は、新たに建立された「古四天王寺」が、古の四天王寺として「古四天王寺」と名乗ったのであれば、その「古四天王寺」はかつての四天王寺にあった四王堂を古の四王堂の「古四王堂」として再建し、古四王堂の天部の四天王を古四王権現と称していくようになった、というようなことはありえないでしょうか。

 あるいはまた、『秋田六郡三十三観音巡礼記』の「第廿一番 秋田郡太平庄太平山元正寺」〈現在:太平山源正寺ー秋田市太平目長崎〉の記載中に「古書に、太平山四天王寺、本尊、正観音、大仏師定長の作」「中尊阿弥陀、釈迦、薬師、観音、慈覚大師の御作安置し給ふ。之に依て四天王寺と云ふ」がありますので、この「太平山四天王寺」が鎌倉時代の前期に知られていたならば、その阿弥陀・釈迦・薬師・観音の四天王寺と同名を名乗るのを避けた可能性もあるのではないかと思います。
 『秋田六郡三十三観音巡礼記』については、、二十四番札所の「亀甲山古四王堂」についてを含めて別稿としたいと思います。

Y:聖徳太子建立四十六箇寺院と出羽国秋田城四天王寺
1)「四十六箇寺院」とは
◇荻野三七彦考定『聖徳太子傳古今目録抄』〈以下、荻野『太子傳』〉
 〈 国立国会図書館デジタルコレクション:送信サービスで閲覧可能 『聖徳太子傳古今目録抄』〔本編〕 法隆寺 昭12 〉
 この「下巻」の「内容要目〈荻野による「検索の便に資せんがために、新たに編みたるものなり」〉」で「太子建立四十六箇寺院」とされる「四十六箇寺院者 二種様」に列記される寺院名の最後に出羽国の四天王寺が記されています。
 摂津国の四天王寺は「四十六箇寺院者 二種様」に列記される三番目に置かれており「四天王寺/御□院 摂津國玉造岸上立之本天王寺□/(者)合/戦願寺也此所被移立新天王寺也/金堂名也」〈四天王寺の右横に御□院。□の右横に(者)。王寺也の左横に金堂名也〉と記されています。
 列記される寺院数は、私の数えでは「施鹿薗院/寺 法隆寺北山在之」までに五十の寺院名が記されていて、四十六を越えています。
 「施鹿薗院/寺」の後には「玉造四天王寺者依被移■[荒]陵上不入四十六[个]数〈割書〉云/ゝ」〈■[荒]:判読不明文字の横に荒。[个]:ケ?、原文縦線ノ〉とあります。
 列記の寺院には、寺院名に続いて注釈・備考文がありますが、寺院と寺院の間に文章の置かれている例はありませんので、「施鹿薗院/寺」までで四十六寺院の記載は一旦終えたのではないかと思います。
 この「玉造四天王寺者〈略〉」の後に「野中寺 河内國蘇我大臣造」があり、次いで「四天王寺 〈割書〉出羽國秋田城在之御印半令/置給残半者津國天王寺在之〉」があります。
 これ以後に寺院の記載はありません。
 四十六箇寺院に五十寺院と二寺院が記載されていて、追加記載されたと思える野中寺に「蘇我大臣造」があり、山田寺に「山田大臣造」・當麻寺に「太子舎弟建立」・他があったり、「或本不入」が記されていたりしますので、この時代に既に太子建立寺院についての多数の情報が流布していて、この「四十六箇寺院者 二種様」にはそれらを残らず収録しているということかも知れません。
 情報のあるものは収録するという方針のもとに、蘇我大臣造とある野中寺も四天王寺も追記されたのかも知れません。
 なお、列記の寺院名の中で、摂津國の四天王寺と出羽國の四天王寺の二寺だけが同名寺院であり、他の寺院は総て異なる名称です。

◇荻野三七彦『聖徳太子傳古今目録抄の基礎的研究』〈以下、荻野『研究』〉
 〈 国立国会図書館デジタルコレクション:送信サービスで閲覧可能 『聖徳太子傳古今目録抄』別冊 法隆寺 昭12 〉
 この「序説」に「本書は、鎌倉時代中期に法隆寺の僧顕眞によって編まれたものであって、當時に於ける法隆寺竝に聖徳太子傳に関する記録である」とあります。
 そして「第一章 著者顕眞に就いて」の項目「鎌倉時代の太子信仰一般」に「著書を考察するに先立ち、便宜、其思想的背景をなしたる當時の太子信仰を概観するに、當時は僧俗貴賤の別なく普く社会に太子信仰が旺盛であった」と記し、「先ずこれを鎌倉幕府に於て観るならば、源実朝、北条時頼の如き、相当熾烈な太子の崇信者であったと思はれる」とし、そのありようを記述しています。
 次いで、公家社会の太子信仰、僧侶の太子信仰について東大寺・天台宗・真言宗・禅宗・善光寺などを記し、一般世俗的社会への浸潤について記しています。
 続いて、項目「顕眞の事蹟」を記述して、項目「顕眞と調子丸」の記述に「調子丸の事は既に平安時代以降長く社会に最も広く行なわれ、最も多くの影響を及ぼした聖徳太子傳暦に於て見る事が出来る」として黒駒伝説と舎人調子丸の事について記述しています。
 そして顕眞は「調子丸子孫相伝の本尊」の「小像を私に相伝していた」「調子丸廿八代の孫」であるとして「誠に顕眞は調子丸子孫といふ一事に於て、自他共にこれを信じ、其地位を特色づけている」と記しています。
 私がざっと眺めたところでは、荻野『太子傳』に黒駒と調子丸についての伝説としての記載はないようです。
 上巻の「内容要目」の「太子傳雑録」中の「黒駒廟」に文面「此黒駒者帝尺化身也云々/太子黒駒者中宮寺前埋塚,名駒廟,今藤福寺也」があります。下巻の「内容要目」の「調子丸子孫」に文面「桃尾覚乗房云京都聞之調子丸百済國聖明王之宰相/子也此奉于太子給即法隆寺三経其末流也故康仁寺/主御廟入(本文右横挿入文:一條天皇御時也)云々其時宣旨云佛康仁可有別座云々此昔/宰相(挿入:子)故也云々」があり、下巻の「内容要目」の最後から二番目に「調子丸」があり三行ちょっとの文面〈文面省略〉があります。
 用箋裏面部分の記載に「調使丸事種ゝ也/調使麿者從百済國進調使也云ゝ〈以下略〉」と調子丸の出自と役割と調子丸と称する謂れについての記載があり、また裏面別頁に「調子丸住宅鵤宮西北角法隆寺東北角云々」があります。
 「第二章 稿本の考察」中に「上巻は嘉禎四年即ち暦仁元年〈1238〉に、下巻は延応〈1239〜1240〉より寛元〈1243〜1247〉に至る数年間に一応は編著された事となる」とあり、顕眞自筆原本の考察により本書を未定稿の稿本として伝わったとし「彼は晩年に於て、この書を推敲し、整頓して面目を一新する余裕もなく、本書を稿本のまゝに遺して入滅したのであらう」としています。
 そして「両巻は太子傳の抄に他ならず、それは主として當時の一般太子信仰の鬱勃たる時代思潮に帰因し聚録されたものであった」とあります。
 また「太子建立の四十六箇寺院を記した條に於て、熊凝寺の次の金剛寺に至るまでの間一紙が白紙である、その裏も亦同じく白紙であり、且其料紙は他の部分の料紙と相違し、室町時代のものである、故にこの部分の補修は室町時代と推定される」があります。
 以降の章は、「写本の考察」・「類本の考察」・「本書利用の史的考察」・「稿本の伝来」とあります。

◇田中重久『聖徳太子御聖蹟の研究』〈以下、田中『御聖蹟』〉
 〈 国立国会図書館デジタルコレクション:送信サービスで閲覧可能 『聖徳太子御聖蹟の研究』 全国書房 昭和19 〉
 「第三編」の項目「聖徳太子建立四十六院の研究」で、論証の結語に「太子建立四十六院の傳は恐らく法隆寺内或は四天王寺内で、天喜〈1053〜1058〉の頃或はその少し前から言ひ出したものと見られる」としています。
 また「法隆寺僧顕眞によって書かれた聖徳太子傳私記(下巻表)に、此の頃既に太子によって創立されたと傅へた寺々を列挙して」として「四十六箇寺院者 二種様」として、私の数えでは61寺院目となる「施鹿薗院/寺」までを記して、「施鹿薗院/寺」の記述の後に「と記し、又其の直後に〈改行し〉 野中寺 河内國,蘇我大臣造  四天王寺 出羽國秋田城在之,御印半/令置給,今半者,津國天王寺在之 〈改行〉とも記してゐる」と記述しています。
 列記寺院が61寺院であるのは、「尤も今日御物となっている原本は、長淋寺から近江の阿弥陀寺まで四十糎餘りが闕になっていて白紙で修補されているので、訓海の太子傳玉林抄廿巻に引用されている、顕眞の甥俊厳の写して置いた私注抄で補った」ということです。
 このため、荻野『太子傳』では、五十の寺院と野中寺と四天王寺になっていたわけです。
 四十六箇寺院が61寺院記されていることについて、同書では「言わば彼は當時太子建立と傅へる寺々を手当り次第に列記しただけで責任は負わないのである。」というように記しています。
 顕眞は稿本には、情報があれば漏れなく記録しておく方針であったのだろうと思います。
 そういった「四十六箇寺院」にさらに追加されたのが、野中寺と出羽国の四天王寺となります。
 なお、「四十六箇寺院者 二種様」の二番目に「阿弥陀院」があり、「私注抄で補った」中に「阿弥陀寺」がありました。
 田中『御聖蹟』では、「鎌倉時代の四十六院三種様の対照表」として「御物太子傳私記下巻の表と裏、及び四天王寺本の太子傳古今目録抄に見ゆる」寺名を比較した表を示しています。
 この三種様をもって「鎌倉時代に太子建立寺院として四十六院の名に引き摺られ記し挙げられた寺々は約七十ケ寺であった」として、これを「大きく地方的に見ると近畿地方に六十五寺、中部地方に四寺、東北地方に一寺となり」〈略〉「信州や駿河、秋田に一寺を見ることが如何にも不審とされる」としています。
 このうちの「駿河」は四十六寺院列記の最初に記されている「符神寺 駿河國嶽上存之」で、「信州」は二番目に記載の「阿弥陀院 信乃國後名善光寺/本名亦云百済寺」でしょう。富士山上の寺と善光寺のことでしょうか。
 田中はこれについて、善光寺如来と太子の伝説と黒駒伝説によるものであろうとしています。
 黒駒伝説は顕眞の先祖となる調子丸伝説でもあると思います。善光寺も調子丸の関連かも知れないと思います。
 不審とされる秋田について「飛び離れた秋田で一寺を数へたのは、かかる鄙地に四天王寺といふ名の寺のあることに驚いての附会に相違なく、もとより顕眞の気まぐれであったらう」と記していますが、これだと、顕眞が秋田の四天王寺のことを知り、四天王寺であることから、四十六寺院に気まぐれに加えたというようにも読み取れ、顕眞によって秋田の四天王寺が四十六寺院とされたというようにも受取れますので、秋田の四天王寺が聖徳太子の建立寺院とする説は、畿内の知識人によって生じたと想定しているのでしょう。

2)古代四天王寺を太子建立寺院とする見解について
@古代の秋田城の四天王寺を聖徳太子建立の寺院とする見解は、どこで発生したのでしょうか。
 畿内ないしは鎌倉の知識人が、古代秋田城四天王寺を太子建立寺院と想定したことから広がった見解という可能性も否定はできないのだろうと思います。
 秋田が発生源ではない、そのような場合でも、顕眞による四十六箇寺院の記載が「(秋田城)古四天王寺」の建立以前であれば、秋田城の四天王寺を聖徳太子建立の寺院とする見解が「(秋田城)古四天王寺」の建立以前に広がりを見せて、畿内や鎌倉からその情報が秋田にもたらされて、もたらされた情報によって、「(秋田城)古四天王寺」の「右当寺者為聖徳太子御建立之地天下無双霊場也」の主張になると思います。
 しかし、顕眞によって「四十六箇寺院者 二種様」が記されたのが「(秋田城)古四天王寺」の建立以後であり、畿内ないしは鎌倉の知識人が秋田城の古代四天王寺を太子建立寺院と想定したのであれば、「(秋田城)古四天王寺」の「右当寺者為聖徳太子御建立之地天下無双霊場也」の主張をどう考えればよいでしょうか。
 畿内ないしは鎌倉の知識人が秋田城古代四天王寺を太子建立寺院と想定したのは「(秋田城)古四天王寺」の建立前であって、秋田にはその説は伝わっていたが、顕眞の記録が遅かっただけとするか、あるいは、「(秋田城)古四天王寺」が「右当寺者為聖徳太子御建立之地天下無双霊場也」の主張をするのは建立から年月が経過してからであるとすれば、なんとでもなるのかも知れませんが。
 それよりは、出羽国にも聖徳太子信仰と太子建立四十六箇寺院の信仰がもたらされて、古代の秋田城にあった四天王寺が、四天王寺であるがゆえに太子信仰による太子建立四十六箇寺院に結びつけられたのではないかと思います。
 聖徳太子信仰が旺盛でそれにあやかろうとするような動きがなければ、太子建立寺院であることに利益を見る者が太子建立寺院であると言い出すという事がなければ、太子建立四十六箇寺院が60箇所以上にもならないだろうと思います。
 いくら太子建立寺院に名乗りをあげたくても、古代秋田城の付属寺院名が四天王寺でなかったら、秋田の寺を太子建立四十六箇寺院に結びつけることはできないでしょう。
 秋田地方で秋田城古代四天王寺の聖徳太子建立説が言われ始めたのではないかと思います。
 それがあって、「古四天王寺」が、「為聖徳太子御建立之地天下無双霊場也」と四天王寺を聖徳太子建立の四十六箇寺院とし、その地に建つ天下無双の霊場であると誇って建立され、「古四天王寺」の建立を契機に出羽国の四天王寺を太子建立四十六箇寺院とみなす見解が広がりを持つようになり、顕眞にも届いて、四十六箇寺院に追加されることになったのではないでしょうか。

A顕眞によって、「四十六箇寺院者 二種様」を含む『聖徳太子傳古今目録抄・下巻』が記されたのが、「延応より寛元に至る数年間」であれば、「(秋田城)古四天王寺」の建立以前に記された可能性よりも建立後に記された可能性のほうが大きいように思います。
 また、顕眞の記した「四天王寺」に続く割書は、「出羽國秋田城在之御印半令/置給残半者津國天王寺在之」とあり、「御印」について記されていますし、それが「半令置給残半者津國天王寺在之」とあります。〈田中『御聖蹟』では「残」は「今」〉
 「御印」について、半分が秋田に残り半分が摂津の天王寺に存る、というような伝承は、知識人の書物などの知識からは出てこないもので、秋田の現地に伝わった事であるからこその記載事項だと思います。
 顕眞の記した「四天王寺」のこの注釈・備考文の存在によって、古代の秋田城の四天王寺についての聖徳太子建立四十六箇寺院の説は秋田に生じたものであろうと思いますし、それを知った鎌倉幕府の後ろ盾で「古四天王寺」が建立されたことを契機に畿内へ伝わったのではないかと思います。
 また、「御印」伝承を持つ印は「四王寺印」以外にはないのではないかと思いますので、この伝承は「四王寺」の時代に作られたものではないかと思います。
 「四王寺印」は伝承とともに「古四天王寺」に伝わったのではないかと思います。

Z:あらためて「古四王社縁起」について
 先に「W:古四王社縁起と湊三カ寺」で、市史の記述を通して見てきた「古四王社縁起」をあらためて見ていきます。
1)前段
@「古四王社縁起」は冒頭に「抑東山道出羽国秋田城亀甲山四天王寺東門院古四王権現。奉尋由来。用明天皇之皇子聖徳太子之草創。神仏比合之霊社也」とあります。
 『能代資料二』の「古四王社縁起ー読み下し」には「そもそも東山道出羽国秋田城亀甲山四天王寺東門院は、古四王権現なり」としています。
 〈漢文を読めない者の疑問として、「そもそも東山道出羽国秋田城亀甲山四天王寺東門院古四王権現というのは、由来を尋ね奉れば」というように、亀甲山四天王寺東門院と古四王権現を分けない読み方はできないのかと思います〉
 『市史二・中世』の項目「古四王社縁起と湊三カ寺」に「もともと別個であった秋田城四天王寺と古四王権現がいつかの時代に一体化されていたことがわかる」とありますように、この縁起において古四王権現という存在が記されていて、四天王寺・東門院と結びつけられています。
 亀甲山四天王寺東門院と古四王権現は結びつけられているばかりではなく、亀甲山四天王寺は東門院になっています。
 それに「聖徳太子之草創。神仏比合之霊社也」を結び付けています。「聖徳太子之草創」です。
 秋田城四天王寺と古四王権現がもともと別個であったのかどうかは検討課題です。

A縁起の前段は、このあと聖徳太子伝承の記述となりますが、先ず「太子之前身者南岳恵思大師之再誕而」と天台宗の太子信仰を置いてから、降誕のこと太子の号のこと太子の功績を記し物部守屋との争いの経緯を記して四天王像と護世四天王寺の建立を記します。
 四天王寺の難波荒陵への移転と「釈迦如来転法輪所弥陀当極楽土東門中心寺」と記し「対極楽界之東門故也」と浄土信仰の記述があり、其の外四十六院を建てて、是に從り仏法繁昌と記します。
 これを受けて、四十六寺院の三十四番に当たる亀甲山四天王寺東門院を建立したとして、亀甲山四天王寺東門院を直接に「聖徳太子之草創。神仏比合之霊社也」としています。
 そしてこの建立は、蝦夷蜂起での官軍敗北に、太子の守屋退治の嘉例による三寸の四天王像を造り瑠璃箱に納めて堂宇を営み摂州四天王寺を模したもので、その時に清泉湧き出して池中に霊亀が出現した、これはすなわち亀井の水で精霊遥かに現わる所であり、そこに一宇を建てて亀甲山四天王寺東門院と号した、とさえ記していて、秋田城の四天王寺建立の当初から亀甲山四天王寺東門院としています。
 冒頭に古四王権現と記しているだけで、ここまでに古四王権現についての記述はありません。 
 古四王社縁起とあるこの縁起は、東門院による東門院縁起としたほうがよいようです。
 延文元年の「古四天王寺別当恒智文書」に記された「右当寺者為聖徳太子御建立之地天下無双霊場也」と比べると、「古四王社縁起」の聖徳太子に附会する強引さが目立ちます。縁起を作った者の質がうかがえるようです。
 また、古代秋田城四天王寺の時代から遠くなり、また「古四天王寺」とのつながりも断ち切られているのか、この時に至る経緯などが知られなくなっているということでしょうか。

2)中段
@縁起の中段は、その四天王寺が荒廃し伽藍が傾破したまましばらく経過していたから始まります。
 桓武天皇時代の征夷の経緯に触れて、坂上田村麻呂が、官軍が毎戦で利を失っているなか、聖徳太子の聖慮を感じ、秋田城四天王寺を再興するため、「祈請心中運謀於帷幄中得勝於千里外。故造営不替古昔〔読下し:心中を祈請し、謀を帷幄〈作戦本部〉の中にめぐら(運)し、勝を千里の外に得る。故に造営古昔に替わらず〕」と記しています。
 ここでも蝦夷に対する官軍の不利に対する聖徳太子です。
 田村麻呂が荒廃した秋田城四天王寺の地に居て、勝利を得れば秋田城四天王寺を再興すると祈願して、遠い陸奥での戦に勝利した、というようなことを言いたいのでしょうか。
 桓武天皇時代の征夷が陸奥国中心ということを承知していて、秋田四天王寺の再興を田村麻呂に結び付けたかったのでしょうか。
 桓武天皇時代の征夷は延暦二十四〈805〉年の徳政相論で終わり、田村麻呂の活躍もそれ以前のことになり、その時代以前に四天王寺が廃れていて田村麻呂が再建したとすると、再建年を延暦二十四年としても、あるいは田村麻呂の東北地方の寺社創建伝説では、大同二年〈807〉という年号をよく見るように思いますので、田村麻呂による再建年をそのあたりとしているのかもしれませんが、9世紀初頭以前に四天王寺は荒廃して年月が経っているということになります。
 そして、天長七年〈830〉の大地震の時の四天王寺は、田村麻呂再建の四天王寺ということになります。
 田村麻呂の征夷の終りと桓武天皇時代の終りの時期は、何故か発掘調査に見る「鵜ノ木地区 V期」の始まりの時期に対応するようにも見えますが、「鵜ノ木地区 V期」の開始は「外郭・政庁第V期の開始、8世紀末から9世紀初頭の大改修に対応する」とされており、鵜ノ木地区の「地区中央建物群全体の基本プランが大きく変更され」ていますので、言わずもがなですが田村麻呂が荒廃した四天王寺を以前と替わらず造営したというのは古代四天王寺の歴史的経緯に相違します。
 四天王寺の歴史に、田村麻呂の事績を関わらせようとするのは、四天王寺の歴史的経緯が知られていないということでしょうか。
 もっともそれは、四天王寺を聖徳太子草創とすることも同じで、その場合は四天王寺の草創は出羽柵の秋田村への移遷より百年は早くなり、出羽国の成立以前に四天王寺があったことになってしまいます。
 四天王寺の荒廃と田村麻呂の再興がなんらかの歴史的出来事を反映しているとすれば、官軍毎戦利を失うとか造営古昔に替わらずなどから、元慶の乱と藤原保則による復興が思い浮かびます。

A続いて、文永九年に蒙古大将二人及び兵船などが対馬に来た事、文永十一年の役、弘安四年の役の事を記して、『市史二・中世』にある「将軍家が諸国の地頭に大小の神社・仏閣に祈祷することを命じた。「当社」に対しては、聖徳太子が夷賊征伐のため草創の伽藍であるから、特に懇に祈祷するよう指示があった」の記載があります。
 このあと何故か「然太子託村里之少女而曰」と太子が村里の少女に託して言ったとして「謂神謂佛唯是如水波。神依敬増威。夷狄之滅亡不可回〈冂に巳〉踵」で始まる記述が始まります。
 太子が間接的に述べた事として、神といい佛といっても水と波のように本来同じものであり、神は人が敬うことにより威を増すものであり、夷狄の滅亡はたちまちのうちである〈当方の恣意訳〉、ということでしょうか。
 このようにして神仏習合の事を記し、鎌倉幕府の御成敗式目の一節を入れて、これが意図的であれば神社や寺塔を修理して祭祀や仏事に専念することを言いたいのでしょうが、そうして神を敬えば神の威も増して、夷狄もたちまち滅ぶ、としています。
 続いて「汝不知乎(汝知らずや)」を記して、摂州玉造の岸において仏法最初の四天王寺を創り、時に「釈迦牟尼転法輪所当極楽土東門中心寺」と号すを記し、「必可令造立供養釈迦之大像(必ず釈迦の大像を供養し造立せしむべし)」とあります。
 そして、「吾在衡山時挑達磨大師之法燈」と天台宗の太子伝説があって、聖徳太子としてこの地に現れて、仏敵の守屋を亡ぼし、四十六箇の精舎を建て、仏法繁昌の霊地とした、を記して「皆是非我功哉(皆これ我が功に非ずや)」として、「必建禅律之寺宇。而可奉供養佛(必ず禅律の寺宇を建てて、仏を供養し奉るべし)」と天台寺院ではなく禅寺建立の事を記しています。
 〈(カッコ)内は『能代資料二』による読み下し文〉
 この整合性のなさは何なのでしょうか。
 続いて「汝等當知(汝等まさに知るべし)」として、百済国の日羅と百済国の王阿佐太子が太子をたたえて事績を述べた事を記しているようです。
 さて、前段でも記されていた「釈迦如来転法輪所弥陀当極楽土東門中心寺」が、中段でもまた「釈迦牟尼転法輪所当極楽土東門中心寺」と、少し異なる文言ですが、記されています。
 そして「然太子託村里之少女而曰」から「汝等當知」以下「四十九歳傳燈演説、大慈大悲敬禮菩薩云々」までの部分の記載は、毛色の違う文章のように思います。 「汝不知乎」「汝等當知」と太子の事績を衆生に説いているようであり、太子についての説話のように思います。この部分を指し示す場合に「太子-説話部分」と記します。
 いろいろな材料を取り混ぜて構成した縁起のように思います。
 「古四王社縁起」の文脈は、文脈に沿って理解するのは困難な文章表記と文の続き方をしているように思います。

Bこういった記述があって、東門院の自己主張となります。先にも『市史二・中世』を引用して見たところです。
 それは「〈恣意訳〉故に神仏比合の神道を以て、當社の祭礼を勧(すす)むべし。故に将軍家に訴え奏聞を歴(へ)て、釈迦の尊像を造立した。而して四天王寺の寺務の東門院主は、二事比合の神道を以て祭礼を勤める。乃(すなわち)この法は圓仁大師從(より)以来歴代傳附(伝え届け)て来た、當山・赤神山・羽黒山三神一体の秘伝なり」と記します。
 ここに、「故に神仏比合の神道で當社の祭礼を勧むべし」とあるのですが、この文は「四十九歳傳燈演説、大慈大悲敬禮菩薩云々」に続いて記されていますので、「故に」が何の故なのか、私にはよく分かりません。
 東門院主は神仏比合の神道で當社の祭礼を勤めるとありますが、神仏比合の神道というのも、二事比合の神道というのも、どちらも私にはどうゆうことなのかよく分かりません。
 『能代資料二』の読下しでは「神仏混合、二事混合」と記しています。
 今なら神仏習合と言うことを、この縁起の時代や地方では神仏比合とか二事比合とか言ったのでしょうか。
 比合というのが、神仏のいいとこ取りのように感じられてしまいますが、この記事では神仏習合のこととして記すことにしたいと思います。 神仏習合がどういうことか分かっていないままですが。
 「當社の祭礼」と「當社」とあるのは「神仏比合之神道」であり、「四天王寺之寺務東門院主」は「以二事比合之神道勤祭礼」とあります。これは意図的な書き分けでしょうか。
 「古四王権現」という記載はありませんが、「當社」は古四王権現のことなのでしょうか。
 「當山・赤神山・羽黒山」と「當山」の記述があります。
 「當山」はここだけに使われていると思いますが、「赤神山・羽黒山」とそろえるためでしょうか。
 「古四王社縁起」の「當山・赤神山・羽黒山三神一法の秘伝」というのは、当山の古四王権現・赤神権現・羽黒権現の三神一法の秘伝という事でしょうか。
 「三神一法の秘伝」に因茲(よって)蒙古を退けたとあり、「神仏比合の神道」ないし「二事比合の神道」を「すなわちこの法は圓仁大師より以来歴代伝え届けて来た」ものとして「三神一法の秘伝」としていますので、これらの関係性が分かったようで分からないので、単に「圓仁大師より以来歴代伝え届けて来た」を主張したいだけかもしれないとも思います。
 圓仁大師以来伝えて来たという天台宗寺院での神仏習合の神道とは、なんでしょうか。
 また、ここに記される「故訴将軍家歴奏聞。造立釈迦之尊像」は、『太子-説話』にある「必可令造立供養釈迦之大像」と対応関係にある記述となるのでしょうが、元寇への「當社」の「勵(励)種々懇祈」をより強力にするためとして釈迦の大像の造立を将軍家に訴えたのではないかと思います。
 これは、天長七年の大地震の報告に「登時城郭并四天王寺丈六仏像、四王堂舎等、悉皆倒壊」とあるので、四天王寺には丈六の仏像があったことは後世にも知られていて、「古四天王寺」は建立時にかなわなかった丈六仏の造立を願っていたのではないかと想像します。
 「古四天王寺別当恒智文書」にある「副進」の添えた資料の「一巻 御祈祷御教書、同御巻数御返事」の中に「造立釈迦之尊像」の訴えの文書があったのではないかと想像します。

C元寇時に蒙古調伏・災変消却の祈祷をした寺院は天台宗の「古四天王寺」と思います。
 このような祈祷としては、鎌倉時代の天台宗寺院ではあっても、いわゆる「四天王修法」による祈祷になるのではないかと思います。
 元寇時には天台宗による四天王への祈祷でもって蒙古調伏の修法を行なったのか、四天王が権現となって習合がなされていたのか分かりませんが、縁起の作られた時代には四天王は古四王権現と習合していたと受け取る他ないのではと思います。
 四天王が権現となるようなことが、生じるのか、成立するのか、という疑問はありますが、四天王が古四王権現化したのであれば、古四天王寺建立にいたる過程でのことか、古四天王寺建立以降のいずれかしかないと思います。
 四天王を祀ったいにしえの四王堂が、四王堂という単立の宗教施設として時を経ていく中で、古四王権現と称されるようになって、天台宗寺院の施設に組み込まれたと仮定してみます。
 そこから、天台僧が古四王堂の古四王権現に対して最勝王経四天王護国品を読経し神咒を誦えることで「四天王修法」を勤めたのではないかとの想定も生じます。
 古四天王寺が古代四天王寺のように四王堂を建立していて、古四天王寺の四王堂が古四王堂・古四王権現となっていったと仮定する場合に、元寇の祈祷に対して弘安六年に古四王権現を祀る湊三カ寺が建立されたとすれば、古四天王寺の建立を13世紀の初頭とすると文永の役までの七十余年の間には古四王権現が確立していなければなりません。
 いずれにせよ、「當社」が「神仏比合之神道」で祭礼を勤めるためには「古四王権現」の存在が欠かせないのではないかと思います。

D『市史二・中世』では、「円仁や羽黒山が縁起に編みこまれているのは、古四王神社が天台宗や羽黒修験の影響を受けたことを立証するものである」とありますが、この文章は「二事比合の神道」を受けて「すなわちこの法は」に続く「圓仁大師より以来歴代伝え届けて来た、當山・赤神山・羽黒山三神一体の秘伝なり」に関しての文章であり、「三神一体の秘伝」を蒙古退散に結び付けているのですから、元寇時の事となります。
 この縁起が「古四王社縁起」であっても、この部分で述べられているのは東門院と思いますので、「円仁や羽黒山が縁起に編みこまれているのは」、東門院を圓仁に結び付け、当山を赤神山と羽黒山と伍する存在と位置付ける意図でしょうか。
 當山と赤神山は天台宗でよいとして、羽黒山は圓仁と結びつくのでしょうか。
 羽黒山が天台宗に転宗しようとする動きを見せたのは江戸時代の初期のことのようですので、この縁起(のこの部分)はそれ以降に作られたということかも知れません。
 また、この時代に、「古四王神社」と記述してよいのかどうかと思います。

3)湊三カ寺の建立
 『市史二・中世』では、「縁起はこのあと、天皇は元寇の勝利叡感のあまり、日本国中の大小の神祇・仏閣に品を挙げられたが、当社は聖徳太子の御願所であるため」として弘安六年の大悲禅寺・妙覚禅寺・光明禅寺の建立と各寺院の修法を記述しています。
 このあとに「惟康将軍武命、弘安六年癸未修造」の記述がありますので、弘安六年には四天王寺の伽藍も修理されているようです。
 大悲・妙覚・光明が禅寺とあるのは、『太子-説話部分』にある「必建禅律之寺宇」に対応するものでしょうが、創建時は天台宗であったと思われますし、圓仁大師を持出しておきながら禅寺とするのは何故なのでしょうか。
 また、何故三カ寺なのでしょうか。
 三カ寺の創建が「天皇は元寇の勝利叡感」によるものとありますが、元寇がこれで終わるとは誰も知らないわけですので、元寇の勝利叡感ではなく次の元寇へのさらなる備えのためではないでしょうか。
 鎮護国家・蒙古調伏の祈祷の力を増すための三カ寺の創建ではないでしょうか。
 古四天王寺が、四天王のそれぞれに対して僧侶が祈祷するという古代の四天王修法に照らして、古四王権現を四方の四体としてそれぞれに祈祷をおこなうことを将軍家に訴えて、各方面の古四王権現に仏法の祈祷する寺院として三カ寺の創建がなったのかもしれないと想像します。
 「古四天王寺」と「大悲寺」を北南の縦軸として、直交する東西の横軸の左右に「妙覚寺」と「光明寺」を置くというのが創建当初の寺院配置ではなかったかと想像します。
 この配置から、大悲寺を亀足山、妙覚寺が亀頭山、光明寺が亀尾山としたのであれば、「古四天王寺」の山号は亀甲山であったのかもしれません。
 三カ寺が古四王権現を祀るのが創建以来のことであれば、古四王権現は寺の鎮守ではなく、三カ寺は古四王権現の別当寺ではなかったでしょうか。
 元寇の時代に、四天王・四王は古四王権現として祀られていたのではないかと想像します。
 古四天王寺を含めた四箇寺体制が成立したのではないかと思いますが、それが「湊三ケ寺」と称されるようになったのは何故で何時なのでしょうか。
 南北朝の動乱に古四天王寺が巻き込まれ、「鵜ノ木地区Y期」が14世紀代に終りをむかえるなどの変化があったことが、古四天王寺と三カ寺に何をもたらしていくのでしょうか。

4)後段
 縁起後段では、弘治二年の湊二郎と東門院主の対立と堂舎炎上をどのように受け取るかということが問題になろうかと思います。
@◇妙覚寺様にいただいた冊子『曹洞宗 亀頭山 妙覚寺』〈フルカラー 15頁 B5版〉を見ます。
 項目「妙覚寺創建」に「文永九年(一二七二)高麗は元の使いとして、日本の服属を促す内容の書状を持って来日しました。朝廷は、後日の元の来襲を危惧し、諸国の神社仏閣に対し、戦勝祈願を命じました。秋田城四天王寺においても古四王権現の神託を受け、釈迦の大像を造立したとあり、弘安六年(一二八三)には、鎌倉七代将軍惟康親王が秋田城之介・安達泰盛に命じ、高清水の岡に三カ寺を創建したといわれています。その三カ寺とは、亀頭山妙覚寺、亀尾山光明寺(現在の山号は安養山)、亀足山大悲寺(現在の寺号は普門山)の天台宗寺院で、『土崎湊三カ寺』と呼ばれております。『秋田六郡寺院調書』には、『開基古四王権現任神託、依将軍惟康公武命、弘安五年壬午年建立、土崎三カ寺之内、勧請開山本寺十一世天室蒼龍和尚』とあり、前後の文面から安養山光明寺と亀頭山妙覚寺は開基・開山を同じくすると記されています。本寺四天王寺同様、古四王神社とは一体的役割を持っていたことから、妙覚寺は七百年に亘り今でも古四王権現を鎮守としてお祀りしています」の記載があります。
 項目「再興開山天室大和尚は秋田城主の叔父」中に「『古四王神社縁起』によれば『弘治二年、湊二郎、東門院と宗交密ならずより禅刹に及び、寺宝一時に滅し、又甍閣峻宇、卒に灰燼に化す』とあり、湊二郎(領主安東二郎宗季)により、弘治二年(一五五六)堂社・堂宇は焼き払われ、土崎湊三カ寺もまた礎石を残すのみとなり、天台宗妙覚寺はこれ以降廃寺となりました。しかし、天正十九年(一五九一)安東実季の叔父といわれる補陀寺十一世天室蒼龍大和尚の尽力により、三十年余廃寺となっていた妙覚寺は曹洞宗寺院として再興されました」とありました。
 また「開山の天室大和尚は、補陀寺歴代の中でもすぐれて傑出した名僧といわれています。〈略〉補陀寺十世の光室源瑞大和尚に嗣法してのち、安東家の菩提所である桧山の国清寺に住持して五世を継ぎました。その後、補陀寺に転住し、甥の秋田城之介・安東実季の外護を受けて妙覚寺や光明寺など多くの廃寺を再興するなど大いに禅風を宣揚し、教線を伸長させました」とあります。
 ここにある記述は、大変に重要と思います。
 『市史二・中世』の元禄年間に東門院から藩に納められたという「古四王社縁起」では、「湊二郎興東門院主矛盾之義。而率兵而責城内。院主楯籠本堂而雖争闘力盡而戦死。堂社悉炎上而残礎石」とあって、湊二郎と東門院との争いについて「矛盾之義」と記すのみですが、妙覚寺の「古四王神社縁起」では「湊二郎、東門院と宗交密ならずより禅刹に及び」と理由が記されています。
 湊二郎は東門院と信仰で相容れなかったようで、「禅刹に及び」というのは禅寺にしようとしたというようなことでしょうか。
 東門院が湊二郎の禅宗への改宗に反発したので、武力を持って強要したあげくに伽藍を焼いたとうことでしょうか。そうであれば、東門院は天台宗ということでしょうか。
 「而率兵而責城内」で責城内とあるのですが、東門院主は「楯籠本堂」ですので、防戦したのだと思いますが、「責城内」というのはなんでしょうか。

◇渋谷鉄五郎「秋田『安東氏』研究ノート」〈以下、渋谷『研究』〉には、「『湊安東二郎春季、東門院主と矛盾、院主戦死して堂舎は悉く炎上す』(『檜山郷土史稿』上巻)という記事がある。湊安東二郎春季とは、愛季の弟で湊堯季の養子となったが、十年前の天文十五年(一五四六)に十六歳で早世した。したがってこの場合の春季とは、茂季に相当する。愛季は湊家旧臣の反対を強引に押しきって、弟の茂季を湊家の後嗣とした。湊家派は愛季を怨嗟し、檜山系に対する強い反発思潮が潜在した。それは、後の湊合戦となって実証される。東門院主の戦死とは、律令制の秋田城以来連綿とした由緒を誇る東門院が、湊系の支援を得て檜山系と確執を生じ、武力抗争に転じた結果の敗亡でなかろうか」と記しています。
 湊家では、定季の養嗣子友季が早世し、定季が堯季と改め家を守ったが、定季の娘を妻とする檜山家の舜季の二男で愛季の弟の春季を養子とした。春季が早世し、堯季も死去した。
 その後の茂季の湊家後嗣については、同書に「こうしたことで湊家の後嗣者は、絶えてしまった。この後継者を定めるについて再び檜山家から舜季の三男茂季と、湊家の一族から継がせようとする者とで意見が別れた。しかし権力の強い檜山派におしきられ、茂季(春季の弟)が家督者となり湊城に入った」と記しています。

*「古四王社縁起」では、弘治二年〈1556〉の事態の記述に続いて、永禄元年〈1558〉に「湊兵庫頭兄弟三人子四人生害。是則當社之神罰也。湊氏断絶」とあって「松前下国九郎愛季令相続湊家任秋田城介」とあるので、神罰で湊氏が断絶して下国家の愛季が湊家を継承したということであれば、東門院主と矛盾の湊二郎を湊家の人間として見ているのだろうと思います。 
 この縁起の「湊兵庫頭兄弟三人子四人生害」は私には不明ですが、湊氏断絶、九郎茂季後継、愛季の両家統一などをごっちゃにして結びつけたようにも思えます。
 「古四王社縁起」に観応二年(1351)の「女河寂蔵修復」、天文十二年(1543)の「湊尼崎洪廓」による焼失の再建とありますので、東門院・古四王社は湊家(上国家)の庇護を受けていたと思われます。
 『能代資料二』に系図資料が七種あり、その中の「安倍姓湊氏系図〔市川 湊文書〕」に「寂蔵 貞和六年ヨリ/応安五年迄/此間廿二年」があり、「洪廓」があり、洪廓は大永五年〈1525〉に「小鹿嶋本山五社両年修造」とあるので「古四王社縁起」の修復関係の記載と合うと思われます。

*「湊二郎」が渋谷の記す茂季〈重季とも?〉であり檜山方とみなされる湊家の養嗣であって、東門院と檜山系湊二郎が武力抗争になるような確執を生じるのは、渋谷は「東門院が、湊系の支援を得て」と仮定していますが、湊系が東門院を湊二郎と争わせるような支援をするのは何故なのでしょう。湊系と檜山系の確執の代理抗争を東門院にさせようとしたのでしょうか。
 渋谷の説は、東門院と湊二郎とに何らかの確執があって、それがあったので湊系が支援したということでなければ、無理があると思います。
 そうすると、宗教上の対立を主要因として引き起こされたとするほうが、腑に落ちます。
 妙覚寺の冊子にある「湊二郎(領主安東二郎宗季)」は、不明です。
 弘治二年の「堂社悉炎上而残礎石」のあとについて、「天正十八年〈1590〉庚寅歳三月愛季再興而到干今」と記して「古四王社縁起」は終わります。
 「古四王社縁起」の「天正十八年庚寅三月愛季再興而到干今」は、安東実季による再興と思いますが、縁起の今に到る〈而到干今〉という最終記述でこのような誤りがあるとすると、年月・人名のはいった記録的な部分の信頼性が失われます。
 湊安東家を勢力下に置こうとしてきた安東愛季が天正十五年に死去し、湊安東家側と檜山安東家との緊張が高まり、湊安東家側が巻き返しをはかり天正十七年の湊合戦となったと思われます。
 この合戦は、『市史二・中世』〈p285〜)によると天正十七年二月に始まり、複雑な経緯を辿って、同年七月末までには安東愛季の後継の安東実季側の勝利で終了したもようです。
 この合戦の結果が、その後の秋田地方に何をもたらしたかについて、同市史は「実季は秋田湊、豊嶋、新城、太平などの領域を完全に掌中に収めたことになる。とくに湊の交易が実季によって一円支配されることの意味は大きかった。まず秋田平野の全体を掌握し、旧秋田郡が領国として形成されることを可能とした点である。さらに北羽内陸諸領主と安東氏の間に政治権力の面はもとより、経済力の面からも大きな格差が生じたことである」としています。
 安東実季は、本拠地を土崎湊において、街づくり城造りにあたったと思われ、この過程で弘治二年の抗争で焼失していた東門院の再興や妙覚寺・光明寺の再興に関わったのでしょう。 
 妙覚寺と光明寺は天正十九年に曹洞宗寺院として再興となります。

*渋谷『研究』の「U−七」に項目「実季が寺社領を寄進した寺社」があり、文禄元年〈1592〉の分限帳には東門院は見当たりませんが、土崎湊では湊福寺(三百三十四石)の記載があります。
 慶長六年〈1601〉のものには「東門院(七十石・寺内)」の記載があり、土崎湊では三光院(三十石)・叶坊(十五石)・湊福寺(五百四石)の記載があります。
 湊福寺については「岱雲山湊福寺は、湊安東家の菩提寺で、〈略〉、湊・檜山両安東家の間における確執の間に衰微していったのを、湊城の治府を構えた安東実季が、補陀寺十一世の天室宗龍和尚(実季の叔父という)を勧請開山に招き「■江山湊福寺〈■:チ U+87AD〉」と山号を改めて再興したという(蒼龍寺文書)」「慶長七年(一六〇二)、湊福寺は安東実季の国替に従い常陸宍戸に移り、同地において山号・寺号を安日山高乾院」と改めた」がありました。
 三光院は「修験寺で、湊安東家の祈願寺」で、叶坊は「三光院の修験僧のようである」とあります。
 国替え後の安東氏とこれらの寺院及び古四王権現に関しては、あらためて記したいと思います。 

 妙覚寺の冊子では、「古四王神社縁起」は湊二郎と東門院の部分を記すのみですが、東門院の「古四王社縁起」と違う形の「古四王神社縁起」全体が伝わっているのでしょうか。
 妙覚寺の「古四王神社縁起」に関連することを後記します。
 また、妙覚寺冊子の項目「本寺 補陀寺」中に、妙覚寺の本寺亀像山補陀寺は、〈略〉月泉良印禅師によって比内庄松原の地に貞和五年(一三四九)、県内最古の禅刹として開創されました。ちなみに岩手の正法寺は貞和四年〈略〉無底良韶禅師により開山されています」とあります。
 補陀寺の開創は湊三カ寺創建という弘安六年より六十六年後になるようです。

A◇『大悲寺七百年史』(笹尾哲雄 昭和五十一年)を見ます。
 「第一節 大悲寺の開創」-「(一)秋田城土崎湊三ケ寺」に、「大悲寺は古記によると弘安六年〈略〉」に「惟康親王の武命により創建された秋田城土崎湊三ケ寺の一と伝えられる」として、「秋田城土崎湊三ケ寺とは、亀頭山妙覚寺、亀尾山光明寺、亀足山大悲寺の三ケ寺のことであり秋田城亀甲山四天王寺の末寺であった」とあり、大悲寺の創建時の山号を「亀足山」としています。
 そして「秋田城土崎湊三ケ寺が創建された理由については『大悲寺縁起』に次のように記されている。
 〈改行、二文字下げて縁起文〉文永九年蒙古来朝之時於諸国御祈祷之節聖徳太子御祈願所秋田郡亀甲山四天王寺拠古四王権現之神託造立釈迦之大像建立三箇之禅律之寺之時仁王九十代後宇多院御宇依将軍惟康親王之武命弘安六年癸建普門山大悲寺而毎年二月七日修観音円通懺摩之法是秋田城土崎湊三ケ寺之其一ケ寺也〈縁起文終、改行〉
 これをみると文永九年(一二七二)蒙古来朝の節、朝廷は諸国の神社仏閣に祈祷を命じた。文永十一年(一二七四)弘安四年(一二八一)の蒙古襲来を予想して戦勝祈願をさせたのだが、秋田城四天王寺に於いても古四王権現の神託によって釈迦の大像を造立し、また土崎湊三ケ寺を創建したという。すなわち土崎湊三ケ寺は、鎌倉幕府の将軍、惟康親王(執権北条時宗)の命により秋田城介が幕府の祈願所として創建した官寺であった。〈略〉」と記しています。
 大悲寺縁起では、釈迦之大像の造立も三箇之禅律之寺の創建も古四王権現之神託によるとしています。
 この縁起においても「三箇之禅律之寺」としていますが、釈迦大像も三カ寺も古四王権現の神託としていることは、このふたつが蒙古調伏のための一連の対策との想定を裏付けるようにも思えます。
 元寇の時には古四王権現は霊威あるものとして存在していると仮定すれば、古四王権現は古四天王寺の建立の時から存在していたのではないかと思われます。
 その場合は、古四天王寺の建立にともなってまったく新たに古四王権現が祀られたとは考えにくいので、それ以前から古四王権現のもとになるものが存在していたと考える方が無理がないように思います。
 想定として、秋田城の廃絶により後ろ盾を失った付属寺院が四天王寺(四王寺)が、寺院としての維持が困難になったとしても僧侶は霧散するわけではないので、規模を縮小しても四天王寺(四王寺)の法統を残そうとすると思いますし、四天王寺(四王寺)の象徴であろう四王堂を守ろうとするのではないかと思います。
 想像を重ねると、寺院の維持ができず、僧侶が四王堂に拠ることになって、御印たる四王寺印を津国天王寺との半令の印として受け継ぎ、半令の御印から四王寺と四天王寺の双身の秘印信仰を生んでいくのではないかと想像します。
 四王寺秘印を権現のひとつの形象として、いにしえの四王の権現たる古四王権現信仰が生まれてきたのではないかと想像します。
 鎌倉時代の古四天王寺の建立以前の時代に、例えばこのような観念が用意されたとすれば、神仏習合思想の時代的な隆盛期に合っているように思います。
 古四天王寺の建立にあたって、古四王権現を取入れたので、古四天王寺と号したのかもしれないと思います。

*同書・同節の「(二)土崎湊三ケ寺と古四王堂」に「土崎湊三ケ寺は前述如く古四王権現の神託によって建立されたので本寺の四天王寺と同様に古四王権現とは密接な関係にあった。すなわち土崎湊三ケ寺は鎮守として古四王権現を勧請した。これが土崎湊三ケ寺の古四王堂である」「このことは、土崎湊三ケ寺の神仏混淆を意味し、また密教的な祈祷寺院であったことを示すものと考えられる」とあります。
 そして、「現在、土崎湊三ケ寺は、いずれも禅宗に改宗して詳しい記録がないので弘安六年開創当時の開祖の名さえ伝わっていない」とあります。
 大悲寺は「南北朝時代に東院和尚によって臨済宗に改宗されている。東院和尚については嗣承も詳らかではないが五山派の禅僧と考えられる。彼は大悲寺の開山とされているが応永元年(一三九四)六月六日に示寂したことしかわからない。また東院和尚示寂後の約二百年間は記録に見えない空白の時代である」とあります。
 〈ちなみに、室町時代の応永元年から二百年というと十六世紀末で、一五九四年は安土桃山時代で秀吉政権下の文禄三年です〉
 弘治二年の湊二郎と東門院主の闘争によって「土崎湊三ケ寺の妙覚寺と光明寺は、灰燼に帰しているから、この時、大悲寺もまた同様に烏有に帰したものと思われる」とし、この焼失から三十余年後の天正十九年〈1591〉に妙覚寺と光明寺は再興され曹洞宗補陀寺の末寺になったが、「これと相前後して大悲寺は、五山派から関山派(妙心寺派)に転派したものと思われる」とし、大悲寺八世蛮叔代の過去帳に記されている安土桃山時代に住した四人の名前を記して、その最初の名前の「雪山和尚は、諱を宗寒と称し、秋田市上新城小又の昌東院開祖、量外正寿和尚の法嗣であり、この法系は、妙心寺の東海派下玉浦門派であった。この雪山和尚の代に関山派(妙心寺派)になったものと思われるが、詳しいことはわからない」としています。次いで河北和尚・儀田和尚・丘室虎公首座に触れて、「以上の四師は、大悲寺が現在地に移転する前の住持で世代にはいっていない」とあります。
 元和年間に大悲寺が現在地に移転した時の「愚眼和尚は諱を宗質と称し、京都の妙心寺塔頭福寿庵の開祖、東源慧等の法嗣であった」「愚眼和尚は、大悲寺中興開天の祖であり第一世に仰がれている。彼は、大悲寺の法系を開山派下の亀年門派(霊雲派)に転派させたのであり、その功は大きい」とあります。
 南北朝時代以降には「古四天王寺」も消息が知れず、鎌倉幕府の後ろ盾もなくなり南朝方に寺領を侵犯され衰退した可能性があると思いますので、大悲寺も立ちゆかなくなって南北朝時代の改宗となったのでしょうか。
 また、同書にも「『古四王神社縁起』によると『弘治二年、湊二郎、東門院と宗交密ならざるより禅刹に及び、寺宝一時に滅し、又甍閣峻宇、卒に灰燼に化す』と記されている」とあります。
 「古四王神社縁起」として引用されているのはこの部分のみです。

 同書では「〈弘治二年に〉大悲寺もまた同様に烏有に帰したものと思われ」とありますが、再建についての記載もありませんので、焼失の記録がないということかもしれないと思います。
 大悲寺は禅宗であったので、焼かれなかったのかもしれないと想像します。
 そうであれば、湊二郎の東門院主への武力攻撃は宗教戦争と解する妥当性が増すかも知れません。
 さて、大悲寺は四世の「絶学是三和尚が住持の頃」に「破却されるという事件に遭遇している」そうです。
 これは「絶学は本末の争論によって藩主に訴え、寛文七年(一六六七)の秋、国を追放になったという」ことがあり、そして寛文八年に大悲寺は「破却され堂材、什物、道具類は全て藩主、佐竹義隆が先住の海善寺閑居、奇峰玄高に賜わったというのである」ということのようです。
 そして「大悲寺復興の偉業を成し遂げたのは、五世の山堂和尚であった」とあり、山堂の経歴と復興の経緯が記されています。
 山堂は、寛文十年九月に秋田に来て、「寺の旧境内の左辺に庵を構え」修行の生活を送り、講座を毎月設け、托鉢をして歩いたと伝えられており、山堂のこうしたことが世間に知られるようになり、「藩主、佐竹公より再興の命が下るに到った」ようです。
 「山堂は、ついに延宝四年(一六七六)五月に大悲寺を再興し堂塔伽藍を新築した」とのことです。破却から八年後になります。

5)『古四王神社考』と「古四王社縁起」
@『市史八 中世 資料編』に収録の「古四王社縁起」は縁起文の後に「〔古四王神社考『秋田叢書』〕とあります。
 『能代資料二』の「古四王社縁起」の「解説」によれば、この縁起文は『秋田叢書』第三巻所収の小野崎通亮の撰になる「古四王神社考」に記載されているものとのことですので、『市史八』収録の「古四王社縁起」も「古四王神社考」からとられたものとなります。
 「解説」によれば「この縁起は、元禄年間〈1688〜1704〉に、東門院から藩に納められたもので」「成立年代、筆者ともに不詳とされている」が、縁起文の最後の記述内容から「ほぼ慶長年間に作られた」と推測されるとしています。
 そして「その文〈古四王神社考〉によれば、この縁起の原本は弘治の兵乱で失われたものが、根田俊興が、河内国科長寺の史料をもとにして著し、寛永十六年〈1639〉に古四王社に献じたものという」とのことです。
 〈『秋田叢書』第三巻は、秋田叢書刊行会・代表者 深澤多市により、昭和四年七月に発行されています。所収の「古四王神社考」は、その「越王神社考自叙」の漢文の本文の後に「明治三稔庚午六月 秋田藩権大参事 小野崎通亮」とあります。
 自叙本文は読みこなせませんが、神仏混淆の様々な様子を断じ、神仏分離が神国日本の根元、とあるように思います。
 「古四王神社考」は、本文の前に「秋田藩 / 小野崎通亮 撰/ 片野磐村/須田茂穂/大山重威/井口糺 補校」とあります。また、本文の後に「昭和四年三月 深澤多市 校訂/岩本秀政 校訂/國本善治 校字」とあります。

  参考までに、「小野崎通亮」について、『秋田人名大事典』(秋田魁新報社 昭和49)から引用します。
   オノザキ ミチスケ 天保四年二月二九日〜明治三十六年七月二一日
  「秋田の維新革命で“武の吉川忠安、文の小野崎”と称してよいほどの行動力を持った」
  「父通孝は秋田勤王派の本拠雷風義塾創立者の一人で神道派」
  「通亮は吉川忠行の“和魂洋学”を学び、雷風義塾講師。慶応四年一月明徳館教授、砲術頭。戊辰戦にさいして若手で組織する遊撃隊参謀となり作戦立案と指揮
   に当たり自ら由利口で庄内軍と交戦、また八月には家老須田盛貞の参謀として南部軍と戦う。維新後は出世して評定奉 行、公議人となって東京で仕事に励む」
  「〈神仏判然令等の政府の国学神道第一政策〉この政策を秋田で推進した立て役者が小野崎で、この時に真宗弾圧事件も起こす。二年三月 神祇官判事試補、
   三年二月 藩権参事、三月には仏教離脱届を鱗勝院に出し、神道になる。四年廃藩置県でひとまず退官するが六年には太政官教部省に入り、次いで大教院神道
      事務本局勤務、さらに権大講義から神道触頭、招魂社祠官大講義、権少教正、教導職取締など神職の高 官を歴任する。以後神社仏閣の取り締まりをきびしくし、
      明治十五年十月、帰国して秋田市寺内の古四王神社宮司、県皇典講究所分所長を勤 め、その功労で二六年従七位、三十年には貴族院議員に列せられる。」

 ここから、小野崎通亮撰「古四王神社考」の「古四王社縁起」に関する部分を中心に見ます。
 最初に、古四王神社について「名垂たる古社なるが、その縁起に持國・増長・廣目・多門の四天王を祭れりと云ひ、あるいは釈迦・薬師・毘沙門・文殊の四佛なりとて、その真言とか称して■釈薬毘文薩■訶〈先■:オン U+5535 口に奄/後■:ハク、バの音写 U+56A9 口に縛〉〈薩婆訶ソワカ?〉と唱ふれと、此輩(コレラ)を古四王と云ひし例いまだ佛書に見當らず」と「その縁起」を記して縁起を否定したうえで、「此ころこの神社は崇神天皇の御宇大彦命の草創にて、武甕槌神を招き祭りて齶田浦ノ神と称し、その後阿部比羅夫将軍下向のとき大彦命を合祭ありしより古四王と改まり、其ののちまた阪ノ上田村麻呂将軍再興の時四道将軍を残らず合祭、神仏混淆四天王を本地となしたるものなるを考え得たり」と「考え得たり」とする由緒を記しています。
 この後に「東門院所伝の古四王社縁起に曰く」として縁起文を記載しています。
 「古四王神社考」がこの縁起を記載するのは批判のためであり、縁起の「其虚偽なる独笑もせらるゝ計の妄文にて歯牙にかくるにもたらされど」そのことをわきまえて置かないと「初学徒の迷種ともなるめれば、甚煩しき業ながら正史に徴して論破する」とあります。

A縁起文に続く記述は、「此縁起は元禄年中東門院より奉る所にして今に官庫に顕在せるが、何年某人の筆記せしにや諦ならねど」と記して、「妙覚寺古四王社縁起の跋文に、當山旧志蓋失乎弘治乱火也。根田俊興信士某年遊於河州科長寺。写四十六精舎建志。來寄古四王山。故予亦拠之旃焉。寛永十六歳在己卯夏四月八日」とあることから「古の縁起は早亡失せたるを根田俊興か四十六精舎建志てふ妄書を河内より持ち帰りし後、そを根柢となしてこの本文を新撰せしものなること著明(イチジル)し」としています。
 「來寄古四王山」が意味的に「古四王社に献じた〈能代市史「解説」〉」ということなのでしょうが、直接的に「古四王社に献じた」とは記していないように思います。
 そうすると、妙覚寺も古四王社縁起を所持していて、それは根田俊興が古四王山に寄せて来た縁起によって記したもののようです。
 ここに、亀甲山でも四天王寺でも東門院でも古四王堂でもなく、「古四王山」とあるのが気になります。
 さて、「古四王神社考」のこれに続く記述は割書の補注で「思ふにこは俊興が偽撰にはあらざるが、この俊興ちふ人諸家系図あるは社寺の縁起なとを偽撰して愚を欺ける妄人なり」として、それは木村松軒の根田の書いた系図についての批判によっても知れると記しています。
 木村松軒は、秋田県公文書館の『研究紀要 第十九号』(平成25年3月)所収の佐藤隆「『岡本元朝日記』と秋田藩の修し史事業」によると、秋田藩の修史事業に招請された儒者のようです。
 〈 https://www.pref.akita.lg.jp/uploads/public/archive_0000000396_00/kiyou19.pdf 〉
 当該論文によると、秋田藩の修史事業は元禄十年〈1697〉に始まり、元禄十三年には文書所が拡大され、「系図の吟味や義宣以前の家譜編纂が本格化する。一方で、八月四日には町人百姓に対して、同月二十五日には諸寺諸社を含めて(のちには山伏まで)、証文や古き書付の提出の対象を拡大」しています。その同年「十二月六日には儒者の木村松軒が御文書所御用を仰せつけられ、義宣家譜の編纂にはいっていく」とあります。
 東門院が「古四王社縁起」を元禄年間に藩に納めたというのは、この修史事業の一環であったのではないかと思います。
◇秋田県立博物館の『研究報告 第24号』(1999年3月)所収の鈴木満「B系本赤神権現縁起をめぐって」に根田俊興に関する論及がありますので、その部分について見ます。 
 〈 https://www.akihaku.jp/cms/wp-content/uploads/2022/11/aktpmrep24_081-088.pdf 〉
 論文に、「B系本には、根田本・吉重本・公文書館本がある」として、吉重本は根田本を底本として部分的に改竄したもの」で「公文書館本は天和三年に根田本を写したものを宝永四年以降に転写したもの」で、根田本の原本の作者は、狩野徳蔵〈『出羽風土記』荒井太四郎著・狩野徳蔵校訂でも知られる〉『雄鹿名勝誌』などの記述内容を根拠として、「根田俊興」とされているとのことです。
 ところが、「元禄宝永期に秋田藩が作成した『諸士系図』(秋田県公文書館所蔵)に根田『俊興』という人物を見出すことはできない」が、「根田『俊與』という名を見出すことができる」とあり、文化二年に「俊與」の「子孫俊弘が藩に堤出した系図によれば、『俊與』は佐竹義隆の右筆」とあるとのことです。
 秋田藩では寛文年中に「戸村義国が中心となって幕紋改や、佐竹氏及び家中の系図編纂等を行なったが、その実務を行なったのが俊与であった」ので、このような経歴こそ「〈赤神権現〉縁起を作成した人物にふさわしいといえるのではないだろうか」とし、「文化二年に俊与の兄国俊の子孫俊重が作成した系図に『俊與』ではなく、『俊興』と記しており、『與』を誤って『興』とすることは実際にありうることであったとしても差し支えない」とあります。
 そして、「根田俊与が編纂した系図は、元禄宝永期の系図編纂では否定されている。具体例をあげると、俊与が作成した大山因幡・古内茂右衛門・前小屋市右衛門・塩谷民部の系図は『相違ノ系図ナリ』と断ぜられている」があり、また「俊与は『御系図一巻』や『御家中総系図一冊』を著し、戸村義国を通じて、藩に提出している。ところがこれらは元禄宝永期の修史事業では『偽作違却多シ』と断じられているのである」とあります。
 そのうえで、「寛文期の幕紋改において、義国はあえて史実を無視した強引な方法で家中の幕紋を決定しているのである。つまり寛文期の諸事業は正確な史料に基づき、史実を調査・決定してゆくようなものでは必ずしもなかったのである」と記しています。
 そうすると、小野崎通亮の「古四王社縁起」の作者に対する評価は不当ではないようです。

B妙覚寺古四王社縁起の跋文中の「河州科長寺。写四十六精舎建志」は、河内国科長寺で四十六精舎建志を写しということでしょうが、江戸前期に「科長寺」「四十六精舎建志」と記される寺院と文献が何であるか分かりません。
◇山口哲史「平安後期の聖徳太子墓と四天王寺 ー『太子御記文』の出現をめぐってー」(『史泉』 第109号 関西大学史学・地理学会 2009:関西大学リポジトリ)によって、「科長寺」は『聖徳太子伝古今目録抄』の「四十六箇寺院者」中に「御廟寺 〈割書〉同国名轉法輪寺/或科長寺或石河寺」があることを知りました。
 〈 file:///D:/MYBOX/Downloads/KU-1100SS-20090131-01-1.pdf 〉
 山口論文は、『太子伝私記』からの引用は「荻野三七彦考定『聖徳太子伝古今目録抄』によるとしています。
 そして「本書〈『太子伝私記』〉の成立した一二三八年〜一二四五年頃には、聖徳太子墓の墓前寺は御廟寺として知られ、転法輪寺、科長寺、石河寺とも呼ばれていたことがわかる」と記しています。
 「墓前寺」の成立については「聖徳太子墓における墓前寺の成立時期を平安後期の十一世紀中頃から十二世紀中頃と推定した」とあります。
 聖徳太子墓については、 「聖徳太子墓は『日本書紀』、『七代記』、『上宮聖コ法王帝説』、『上宮聖徳太子伝補闕記』、『聖徳太子伝暦』、『延喜諸陵寮式』に所在が記されている。『延喜諸陵寮式』を除く五点の史料では、聖徳太子薨去記事、墓所巡看記事、墓所造営記事に「磯長陵」、「墓川内志奈我岡」、「山西科長山本陵所」、「山西科長山下墓所」、「科長墓」、「科長者河内国石川郡・・・即聖徳太子御廟也」と伝えられている」、「聖徳太子墓は河内国石川郡磯長にあると伝承されていたことが確認される」があります。
 「磯長」「科長」はシナガと読み、地名表記の違いのようです。
 よって「科長寺」とは、シナガにある寺ということでしょう。
 ネットで「聖徳太子御廟」で検索すると、表示される中に「叡福寺」があります。
 「叡福寺」は、安藤希章『神殿大観』〈 https://shinden.boo.jp/wiki/%E5%8F%A1%E7%A6%8F%E5%AF%BA 〉に、現在、南河内郡太子町にある叡福寺は上之太子と呼ばれ、聖徳太子墓〈叡福寺北古墳〉があり、山号は磯長山、科長山とあります。
 江戸時代に河内国に訪ねるとしたら叡福寺であったろうと思いますが、何故そのように書かないのでしょうか。
 「四十六精舎建志」に、出羽国秋田城四天王寺が聖徳太子四十六箇寺院に含まれる記載があったとしても、それを書き写してきても「古四王社縁起」に反映されるのは聖徳太子の伝説的な部分と四天王寺が四十六箇寺院であるということぐらいではないかと思います。
 田村麻呂による四天王寺再興伝説や、元寇に関連する釈迦像造立や湊三カ寺の建立等及び観応から天正までの修復・炎上・再興・争乱・等の事柄は古四王堂及び別当寺に残る伝承があってのことだと思います。
 「古四王神社考」は「古四王社縁起」の作者について記した後、先ず聖徳太子建立に関して「この縁起の妄誕なる」ことを「第三證也」まで記述しています。
 秋田城四天王寺を聖徳太子建立の四十六寺院のひとつとする縁起を、ありえないとする論証を記述しておく必要性があるということなのでしょうが、江戸時代の人々は秋田城四天王寺は聖徳太子建立と思っていたのでしょうか。

C小野崎は、続いて、妙覚寺の古四王社縁起について論じていきます。
 「妙覚寺の古四王社縁起は全くこの縁起を一字も違えず写伝へたるものなるが、造営不替昔と有る下に『古故古四王堂崇時』と云う八字有り、然とも後條に考徴せるが如く古四王は神祇にして四天王ならざれば取るに足らず。〈割書別記〉」と記しています。
 別記とした割書を私の恣意的な訳で記せば、〔もしこの説のように昔と替わらない造営をしたので古四王堂と崇めたのであれば、古四王と称するのはこの社だけで他社は皆四王と称すべきだが、皆古四王としているのはどうしてだ。これは他社もこの古四王堂より勧請したためという逃げ口上もあるだろう。しかしそれも成立しない。それは仙北郡小貫高畑村の古四王は延暦元年の建立、また檜山のは田村麻呂(原文・阪上将軍)の造営で、皆この社の再興よりは前であり、また越後のも四王とは言わずに古四王と言うを以てである〕となるようです。
 この妙覚寺の縁起に「造営不替昔」の下に続いて有るという数文字は、田村将軍による秋田城四天王寺再興のところにあたります。
 従って、小野崎の割書は、田村将軍の四天王寺再興が荒廃前の四天王寺と替わらないものであったので古四王堂と崇めたということであれば、それはこの秋田の古四王堂だけのことだろうとして、小貫高畑〈大仙市大曲〉の古四王神社は延暦元年建立で檜山の古四王神社は田村将軍の造営で秋田古四王堂の再興より以前だし、越後でも古四王と称しているから、古四王堂の起こりが田村将軍の再興というのは通用しないと記しているようです。
 小貫高畑の古四王神社には、「古四王堂縁起という古い文書にある」という延暦元年〈728〉建立説の他に、白髯の気高い老翁が大彦命であった説、聖徳太子当国下向云々という説、元亀元年〈1570〉富樫氏による建立という由緒がありますので、延暦元年建立は伝承のひとつになります。
 檜山の田村将軍の造営の由緒は、神社明細帳にも「田村将軍東夷征伐ノ為メ下向ノ節勧請」とありますが、田村麻呂再興伝説を檜山の田村麻呂伝説で論じているだけです。
 いずれも、年代比較になりません。
 小野崎は、妙覚寺の縁起文にこの文言を見つけて、これを四天王から古四王説を論破するいい材料としたようにも、私には思えます。
 妙覚寺が田村麻呂再興によって四天王を古四王と称するようになった説を記しているとして、それを論破することで四天王から古四王説にフタをしようとしているだけではないでしょうか。
 小野崎が、このように取上げていることで、四天王から古四王となったという見解が存在したのだろうと思います。
 四天王から古四王にという説は、昔と替わらなく四天王寺が再興されたので古四王堂と崇めたことからおこったと矮小化できるようなことではないと思います。
 小野崎は「考え得たり」と言う由緒に「田村麻呂将軍再興」を記していますが、いわゆる「由緒」であって必ずしも真実ではないとしているのでしょうか、田村麻呂再興を史実としているのでしょうか。

 さらに「大悲寺の古四王社縁起〈割書:これも此縁起を一字も違へず写伝へたるものにて、予が見たるは文政五年九月中大悲寺より社寺方へ出せる縁起なり〉にも此八字見えす」とあります。
 妙覚寺のこの八字について、「此八字墨色書体全書と異にして、且つ『不替昔古故古四王堂崇時〈返り点・送り仮名:省略〉』とようにありて」と記して、この文面の疑問点・問題点をあげて、この部分を「故考ふるに、四天王を古四王と称するは如何にと人に詰られたる僧徒の遁辞の種にせむと後に妄加しし奸文なること疑ひ無し」としています。
 これに追加説明の割書が続き「猶考ふるに全書は本文の古字を写脱して不昔〈:返り点〉とありしが其儘にては古四王と移らず。昔四王と移るゆえに本文と■倒〈■:テン U+985A 眞に頁〉に昔古となりしものなり。そは昔ニ古ニと二字のニの點あるにて知られたり。〈以下、挿入文であることについての記述・略〉」とあります。
 小野崎は妙覚寺の縁起には「不故古四王堂メリ」〈ニ ニ ノ ト メリ ニ は縦書き文字の右下に付されている〉とあるとしています。
 小野崎は「ニの點」と記しているので、この「ニ」はフリガナではないようにも受け取れるのですが、「昔ニ古ニ」のニの点は、付された位置からすればフリガナで、漢文訓読用の二点ではないと思います。
 そうすると、昔にいにしえに替わらず 故に古四王堂と崇めり時に、と読むのでしょうか。
 崇めり時に、というのはどうゆうことでしょう。「時」は次の「人王八十九代亀山院御宇文永九年壬申」の方にかかるのでしょうか。

 また、ここにある「全書」というのは、東門院所伝の古四王社縁起の事と思います。
 その全書の本文の「不替昔」は「古」が抜けているとあるようです。
 そして妙覚寺の縁起文は全書本文と逆さまに「昔古」となったもので、昔にも古にもニの点があることで知れる、とあるようですので、東門院所伝の古四王社縁起の文面が気になります。
 小野崎「古四王神社考」の「古四王社縁起」には「故造営不替古昔」とあります。

 割書は、さらに「宝鏡院なる縁起を閲するに、これにも故古四王崇時と云う六字あり」として、その墨色書体本文とことなるので後人の所為なのは勿論だが、天保末弘化の頃にこの縁起を写置いたものにこの六文字が無いので嘉永元年以後の所為であること詳らかであるとして、妙覚寺の縁起の挿入文もその時代になぞらえて知るべし、としています。
◇宝鏡院に関しては、『寺内町誌』-「第四章 古四王神社-11亀井家文書」にある「明治三年古四王宮神仏混淆御引分ニ付神祇方江指出候当院世代書庚午八月」からの抜粋記載に「出羽国秋田郡寺内村高清水岡鎮座古四王宮別当亀甲山四天王寺東門院世代慶長年以前焼亡不詳」とあって「中興初代/宥哲 如意山台幡寺宝鏡院八世」の条に、慶長七年に佐竹義宣公の秋田封遷に従って来て、秋田郡一日市村一向堂村に寺領を給わった、同年十一月に「秋田郡寺内村東門院ニ閑居同院ヲ兼務古四王宮別当職ヲ命セラル」とあります。
 同町誌「第四章-10文献に表れたる古四王神社」の「(七)元禄三年御改秋田六郡寺院調」に「亀甲山四天王寺東門院、開基聖徳太子、開山不分明、再興開山宥哲法師、従是代々宝鏡院閑居所ト成ル。慶長十三年戊申歳建立。新義派。本寺宝鏡院。当寺、末寺、門徒無之」とあります。
 慶長十一年に東門院に閑居同院を兼務とあり、慶長十三年建立とありますので、東門院を建替えたのでしょうか、それとも慶長十一年の事項は指示命令で実際は命令を受けてから東門院を建立したのでしょうか。そうであれば、慶長十一年に安東時代の東門院は存在していないということでしょうか。
 なお、佐藤久治『秋田の密教寺院-p.190』に、慶長八年に寺院〈宝鏡院〉を建立、とあります。
 佐竹氏の移封にともなって、多くの真言宗寺院が移って来たことがあり、常陸時代には佐竹庶流の今宮常蓮院が本山派の関東一円の触頭であったのが佐竹氏が秋田に移って聖護院は触頭職を解除したことがあり、久保田藩初代佐竹義宣が自ら当山派三宝院の客分になり藩内修験を当山派三宝院の支配下にした〈『秋田の密教寺院』p30〉こともあって、安東実季の時代に古四王権現の別当であったと思われる東門院は、佐竹氏の移封によって従前通りに存続することはできなくなったようです。
 安東時代の東門院は「慶長年以前焼亡不詳」とされ、東門院は宝鏡院の閑居寺となって古四王宮の別当寺を命じられています。
 安東時代までの東門院は天台宗系の寺院ではなかったかと思います。
 慶長七年から十一年までの間に何がおこっていたのでしょう。
 宝鏡院の縁起は見ておりませんので、気になるところです。

 追加説明の割書は最後に「さるをこの一句にすがり古四王を四天王なりと思い居る徒もあるはあはれむべし。この一句なければ四天王を古四王と称すへき理天地間に有ることなし」と記しています。
 この一句を含めた部分を、秋田城四天王寺を昔のように再興したので古の四王堂と崇めた、と読むのが誤りではないとして、小野崎は「古の四王堂と崇めた」の「この一句なければ四天王を古四王と称すへき理天地間に有ることなし」とまで言っていますし、この一句を「四天王を古四王と称する」理由として僧侶〈妙覚寺の僧か?〉が言い逃れの根拠にしようとでっち上げて後で付け加えたものに違いないとしています。
 これを見ると、僧侶は古四王をいにしえの四天王に結び付けるということを行なっていたのでしょうし、その認識は通用していたので、小野崎が取り上げて強く反応しているのではないかと思います。
 この一句があろうと無かろうと、四天王を古四王と、四王堂を古四王堂と称するようになったのではないかと思うのは、極めて自然な成り行きと思います。
 私も、古四王権現と古四王堂は、いにしえの四天王と四王堂があったから生じてきたもので、四天王と四王堂が無ければ古四王権現と古四王堂は生じ得ないと思いますが、想像にとどまらざるを得ません。

 小野崎の論理はさておき、妙覚寺にも大悲寺にも「古四王社縁起」と基本的に同じものがあることが知れます。
 大悲寺所蔵の「古四王社縁起」が文政五年に社寺方に出されたのは、何によるものかは不明です。
 古四王社及び妙覚寺・大悲寺がこの「古四王社縁起」をどのように評価していたかは分かりかねますが、妙覚寺・大悲寺が古四王社縁起を書写していることからすれば、当時は縁起の著者の「根田俊興」を評価していたのかもしれません。 
 この後「古四王神社考」は「古四王社縁起」を離れます。

※湊三カ寺について知ろうと試みると、「古四王社縁起」のこと、「古四天王寺」のことを検討する事になりました。
 その検討は、秋田城古代四天王寺のことから近世の亀甲山四天王寺東門院のこと古四王権現・古四王神社のことにおよぶことになっていきました。検討を進める上で触れなければならない事として、延喜式巻第二十六-主税上の出羽国についての記載、太宰府の四王院及び伯耆他五国の四王寺のこと、仙北郡神岡町神宮寺〈現・大仙市〉の八幡神社の棟札の「筆書秋田城四天王寺無量寿院〈略〉」や「秋田城四天王寺心俊と天台宗談義所」(曽根原 理 『東北中世史の研究 下巻』2005 高志書院)の問題、安東実季の国替と古四王堂と「四天王権りに現はれ、我は古の天王也」などとある縁起草案のこと、京都市積善院に伝わった四王寺印に関することなどがあり、それらを古四王神社論へのアプローチという観点からあらためて見ておかなければならないと感じていますが、それらを扱うのは別稿にしたいと思います。
 この記事を、古四王神社論へのアプローチに向けた取り掛かりとしていければ、と思います。
 この記事は、まとまりの無いままですが、ここまでとします。

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