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所在地情報 秋田  6  秋田市寺内


◎所在地情報
 大山リスト : 南秋田郡寺内町
 桑原リスト : 秋田市寺内高清水岡  古四王神社
 佐藤リスト : 秋田市寺内・児桜  古四王神社
 (参考)川崎 : 南秋田郡寺内町高清水  古四王神 (『美人反別町』)
      及川 : 秋田市高清水 (「古四王神」)
      丸山茂 : 南秋田郡寺内村 (「腰王神社及び越王山の考察」)

○『平成の祭』
 古四王神社 こしおうじんじゃ
  鎮座地:秋田市寺内字児桜81
  祭神:《主》武甕槌神、大彦命
  由緒:「往古のことは詳かならねど、我が北門の鎮護として大毘古命先ず武甕槌神を奉祀し、齶田浦神と称し次いで阿倍比羅夫将軍下向の砌り、大毘古命を合祀して、古四王と崇めたりと、斎明天皇紀に齶田浦神見え、又彼地の神を祭るなどあり。三代實録に出羽国正六位上高泉神並從五位下とあるは当社のことなりと。真澄遊覧記に云へり。蓋しこの地古へ齶田村と称し、鎮座の地を高清水岡と云ふ。聖武天皇天平5年出羽柵を遷してこの高清水岡に置かれ後秋田城となりて、北辺防備の根據地となり、坂上田村麿将軍これに據られたれば其の守護神となり給ひ、中世秋田城鎮守、古四王大權現と申して、武人並に地方民の崇敬篤く、秋田城之助しばしば社殿を造営し、佐竹藩主特に崇敬ありて、社領六拾石を寄るせられ、明治九年縣社、同15年4月29日國幣小社に列せらる。」

○『秋田県神社庁HP』
 古四王神社 
 鎮座地:秋田市寺内児桜1丁目5−55
 御祭神:武甕槌命、大彦命  境内神社:田村神社 岩戸神社 神明社
 由緒:「往古のことは明らかではないが、大彦命が北陸巡撫の際、我が北門の鎮護として武甕槌命を奉祀し、齶田浦神(あぎたのうらのかみ)と称した。 /  次いで阿倍比羅夫下向のおり大彦命を合祀し古四王と称してあがめたという。 /  この地は往古齶田村と称し、鎮座の地を高清水岡という。 /  聖武天皇天平5年出羽柵を移し、この高清水岡に置かれ、のち秋田城となって北辺防備の根拠地なり、坂上田村麻呂もこれに拠り従ってその守護神となった。 /  中世秋田城鎮守古四王大権現と称し、武人並びに地方民の崇敬篤く、佐竹藩主は社領60石を寄せた。/  明治15年4月国幣小社に昇格した。」

*この神社は、古四王神社のなかで最もよく知られた神社と思います。
 由緒のなかに、古四王神社とは何かということに関しても述べられています。

 この神社は、探すまでもなく訪ねられますので、訪ねることに問題はありません。
 関連する文献が多数ありますので、記事としてどのようにするか、難しいと思っています。
 少しずつ進めていきたいと思います。

*『平成の祭』の古四王神社の由緒のなかに、「三代實録に出羽国正六位上高泉神並從五位下とあるは当社のことなりと。真澄遊覧記に云へり。」とありますし、寺内の古四王神社を扱っている様々なサイトで、菅江真澄が高泉神を寺内の古四王神社のこととしている、というように記されていますが、浅学の故ですが菅江真澄のどの著作にそのことが記されているのかはっきりしません。

 『秋田叢書 第3巻』所収の「増補 雪の出羽路 雄勝郡」の「三巻」の「○杉ノ宮村」の記事中に「三代実録十巻十二丁に貞観六年出羽國の件に、授城輪神高泉神並從五位下と見えたり。」がありその6行あとに「ならびありし高泉は、おのれ考えて『水の面景』にしるして古四王ノ神の事也。高泉は高清水と同かるべしとつばらかに其處にしるしおきたり。」とありますが、この記述を指して「真澄遊覧記に云へり。」なのでしょうか。
 杉ノ宮村の論述に際して記されたこの部分を、菅江眞澄が言っている事として由緒に書くのだろうかと、疑問です。

 ここに引かれた三代実録の十巻十二丁の記事内容は、国立国会図書館デジタルコレクションで国史大系第四巻(発行者ー経済雑誌社 明治三十年)所収の日本三大実録の第十巻は貞観七年正月から五月の記事とあり、二月の廿七日己卯のところの最後にある「出羽国正六位上城輪神。高泉神。並従五位下。」を指すと思います。
 菅江真澄が「貞観六年出羽國の件」と記したのは、誤りということでしょうか。〈この4行分は、以前の記事1行を削除して追加しました。〉

 『菅江眞澄随筆集』所収(東洋文庫143 平凡社 昭52初版第2刷)の「水の面影」並びに『菅江眞澄全集 第十巻』(未来社 1984 第三刷)所収の「水ノ面影」を見てみましたが、高泉神は古四王神のことであるというような記述は見当たりませんでした。
 全集十巻の「解題」によれば「《みずのおもかげ》の草稿は上下二巻から成っているが、未発見の下巻は、」とありますので、未発見の下巻部分に高泉神のことが記されていたのかもしれません。

*秋田市寺内児桜 あきたしてらうちこざくら
 平凡社『秋田県の地名』、『全訂 全国市町村名変遷総覧』『市町村名変遷辞典』を参照して、地名の変遷をざっと見ておくと、江戸時代の出羽国が明治元年に二分割されて北側の飽海郡・秋田郡・河辺郡・仙北郡・雄勝郡・山本郡・平鹿郡・由利郡の八郡が羽後国になったが、明治四年の廃藩置県で羽後国が廃止された。飽海郡を除く七郡と陸中国鹿角郡をあわせて秋田県が成立した。
 秋田郡は明治11年に秋田郡の北東部にあたる北秋田郡と現在の秋田市や男鹿市・他の南秋田郡に分割された。
 明治22年に、秋田町が秋田市になり、寺内村と八橋村が合併して寺内村が発足。
 明治38年に寺内村の大字八橋が秋田市に分離・編入。
 昭和8年に寺内村が町制施行し寺内町になり、昭和16年に秋田市に編入。
 HP「秋田市市民生活部生活総務課」の「地名小辞典(最終更新日:平成28年5月2日)」の「住居表示旧新対照一覧」に旧町名・寺内字児桜(テラウチアザコザクラ)が平成15年に新町名・寺内鵜ノ木/寺内神屋敷/寺内児桜一丁目/寺内児桜二丁目/寺内児桜三丁目とありました。

                                         《 ここまで 2021−06 記 》


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