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探訪記録 秋田  10  稲川町


◎所在地情報
 桑原リスト : 雄勝郡稲川町三梨  古四王野 〈2023/09/06 古四王原を古四王野に訂正しました〉
 佐藤リスト : なし
 大山リスト : なし
 川崎・及川 : なし

*湯沢市に三梨町があり、三梨町の多くの地区名のなかに古四王野は見当たらず、古四王野がどのあたりにあったか分かりません。
 明治22年に成立した三梨村は、昭和31年に稲庭町・川連町と合併して稲庭川連町になり、稲庭川連町は昭和41年に稲川町に改称しています。
 平成17年に、稲川町は湯沢市・雄勝町・皆瀬村と合併して、あらためて湯沢市が発足しています。


*2013/05/07に、ネット検索によりサイト『湯沢市川連漆器伝統工芸館』の「歴史資料館ー川連漆器歴史年表」を閲覧できました。
 その年表に、「西暦802 延暦21年 三梨古四王野に古四王神社建立される。」「西暦1528年 享保年中 大舘古四王社の御神体が大洪水で植田村に流される(植田古四王神社)。」の記載がありました。
 〈 当時のURL http://www.kawatsura.or.jp/history04.htm 〉
 サイトの構成・内容に変更があったようで、現在では、「川連漆器歴史年表」を見ることはできませんでした。

 802年から1528年までの間に古四王社が移動していなければ、「三梨古四王野」と「大舘」は同じ所のことになり、地名表示が変わったと考えられるのではないかと思います。
 あるいは、古四王社が「三梨古四王野」から「大舘」に遷座したか、その両方に古四王社が2社存在したという可能性もあるのではないかと思います。

 ただ、こちらも現在は表示できないようですが、『湯沢市観光物産協会ブログ』の2011/10/23付けの記事「小野氏の歴史 その2」に「道矩公が館を建てた古四王野尻はいつしか大舘と言われるようになりました。現在、川連町大舘〈カワツラチョウオオダテ〉と呼ばれている地区で、数多くの漆器やさんが店を連ねています。」の記述がありました。
 2013/09/12ーアクセス
〈 当時のURL http://comet.yutopia.jp/~kodatean/cgi-local/diary.cgi?page=10 〉

 「古四王野尻」は「大舘」と言われるようになったそうですので、「古四王野」も「大舘」と言われる地域の範囲に入る可能性があると思います。
 そうであれば、三梨古四王野も現在は川連町大舘地区になっていると思われます。

 ネット検索を続けると、「古四王中学校」が湯沢市川連町〈カワツラチョウ〉大舘中野にかつてあったことや、「古四王コヨンオウ」という飲食店があることが分かりました。

*ネットの地図で川連町の範囲と三梨町の範囲を見ると、川連町の西側と南側は三梨町と接し、それぞれの凸凹が組み合わされて、両地区はつながっています。

*『城郭放浪記』ー「出羽 大館〈ママ〉」:所在地・湯沢市川連町字大館下山王、の記事に「大館は皆瀬川東岸の大館集落の地に築かれていたと云われる。かつて集落内には隅櫓と称する小高い所が二箇所あったという。現在は住宅地となっており所在は不明だが『秋田の中世城館』では、現在古四王神社のある辺りを比定地としている。集落内にある日吉神社は小野道則が氏神として祀ったものだと伝えられる。」がありました。
 記事の巻頭にある写真に写っている神社が古四王神社のようです。
〈 2020/05/28-アクセス : 出羽 大館-城郭放浪記   https://www.hb.pei.jp/shiro/dewa/kawatsura-oh-date/ 〉 
 『城郭放浪記』には、所在地・能代市田床内字大館の「出羽 大館」もありますのでご注意下さい。

*グーグルマップ・ストリートビューで見てみると、湯沢市川連漆器伝統工芸館(川連町字大舘中野142−1)の前の道路を西に行くと大舘橋に至る前に道路北側に、杉木立ちの参道の奥に大きくはないが社殿があり、その隣の奥まったところに古四王と表示のある建物がありました。
 この社殿が、現在の古四王神社ではないでしょうか。
 法人社ではないようです。
 この場所の住所表示は、川連町字大舘屋布前〈ヤシキマエ〉になるようです。

*「大舘古四王社の御神体が大洪水で植田村に流される」事態の後、現在の古四王神社にどのような経緯で繋がるのでしょうか。

*菅江真澄『増補 雪の出羽路 雄勝郡ー巻二』の、「三梨ノ郷、稲庭ノ郷」に古四王社に関する記載は見当たらないようです。
 植田の古四王神社に関しては、植田についての記事で触れたいと思います。

                                           《 ここまで 2021−07記 》

《探訪の記録》
※2023−05−27
 ナビの目的地を湯沢市川連漆器伝統工芸館(川連町字大舘中野)にして向いました。〈川連=カワツラ〉
 地名の表記は「大舘」となっておりますので、「館」ではなく「舘」の文字を用いたいと思います。

*なんなく古四王神社と思われる神社を見つけました。
 道路から見ると、境内はそう大きくはなく、参道周辺の杉木立が奥にある社殿の一部を隠しています。
 社殿は道路側を正面にしており、道路はほぼ東西に通っているので、社殿は南面していることになります。
 近寄ってみると、向拝があり、屋根は入母屋で、床下は格子で塞がれていて、布基礎です。比較的に新しい建物のようです。
 撮ってきた写真を見ると、向拝部分にコンクリートの十数センチ高の基壇が設けられていて、向拝柱は基壇上の礎盤に据えられていますが、上部に組物は無く、虹梁及び海老虹梁には絵様・眉・袖切りがあり、木鼻はありません。数段の階段が社殿前方の縁に伸びて、縁に賽銭箱が置かれています。社殿の扉に窓は無く観音開きで閉じられています。社殿は、布基礎に置かれた土台と束柱の床下部分の束柱の間にも格子状に板が打たれています。屋根は、入母屋で金属板で葺かれていて緑系の色合いです。社殿の基礎の周囲にもコンクリートが打たれています。
 社殿に向って、社殿の左前方の部分にも、なんのためのものか分りませんが、コンクリートで地面を覆っている区画がありました。
 社殿の扉の上に扇型の社額があり、右側から縦に文字が四行あります。右側から、蔵王/大権現/金刀比/羅宮です。これは、蔵王大権現と金刀比羅宮と読むのでしょうか、蔵王と大権現と金刀比羅宮と読むのでしょうか。
 古四王は記されていませんでした。

*川連漆器伝統工芸館に行ってみました。
 2階の「歴史資料館」には、2013年にインターネットで見ていた「川連漆器歴史年表」〈以下、年表〉が掲示されていました。
 「(西暦)802 延暦21年 三科古四王野に古四王神社建立される」「1197 建久7年 小野寺重道弟道則(矩)古四王野尻に大舘城を築き、〈略〉」「1224 元仁元年 大舘小野寺城主が日吉神社を祀る」「1528 享保年中 大舘古四王社の御神体が大洪水で植田村に流される(植田古四王神社)」「1600 慶長5年 川連城主小野寺氏が最上氏に亡ぼされる」等々が記されていました。「1528 享保年中」も訂正されずそのままでした。
 1階の女性職員さんに、古四王神社を探しに来たことを告げると、すぐにそこにある神社ですね〈言葉は正確ではないが〉という反応があったので、今見てきた神社が古四王神社なのだと、安心しました。
 ただ、詳しいことは分らないとのことで、納品に来た業者さんなどにも聞いてくれたのですが、情報は得られませんでした。
 お土産を購入して、川連をあとにしました。

《探訪の整理》
 古四王神社と思われる神社について、資料に当たってみます。
 グーグルマップでは、古四王神社とされています。住宅地図には神社名が記されていません。

*『城郭放浪記』に記されていた『秋田県の中世城館』(「秋田県文化財調査報告書第86集」秋田県教育委員会 昭56・1981)の「第8章 湯沢市・雄勝郡」の「大館〈ママ〉」を見ると「皆瀬川右岸の自然堤防上に位置し古四王神社付近がこれに比定される。」「付近に屋敷前・城面の地名が残り城主が祭ったと伝えられる八坂神社や日吉神社がある。」があります。
 古四王神社の場所は示されていません。
 現在の住所表示に「大舘屋布前ヤシキマエ」「大舘城面ジョウメン」があります。
 古四王神社と思われる神社の所在地は、大舘屋布前になります。
 大館集落に日吉神社はあり地名は大舘下山王ですが、大舘城跡にあたるであろう付近に八坂神社は見当たらず、川連町東天王(旧住所表示:稲川町大舘字東天王)に鎮座する八坂神社があります。
 インターネットで「秋田の神社検索」〈 https://akita-jinjacho.sakura.ne.jp/tatsujin_etc/01_jinja/finder.html 〉を見ると、湯沢市の日吉神社の頁に日吉神社は「通称:よさんどんさん」とあり、「御祭神 大山咋神」「由緒 建久3年〈1192〉創建。元仁元年〈1224〉大館〈ママ〉城主土井三郎の保護をうける。」がありました。通称の意味は分りません。

*『稲川町史』(稲川町教育委員会 昭59・1984)の「第六章第三節」の「神社・仏閣」を見ると項目「川連地区」に日吉神社はありますが八坂神社はなく古四王神社も見当たらず蔵王と金刀比羅も記されていませんでした。
 「第三章第二節」の項目「城と館」の「大舘城」は所在地が「稲川町大舘字大舘、字下山王」とあるので、現在の住所表示では湯沢市川連町大舘及び大舘下山王となります。
 項目「大舘城」中に「享保二十年(1735)の記録による大舘故城やそれ以前に記録したと思われる『大舘村創村事由』の記録によると、小野寺弥四郎(又は大泉六郎)秀道が弟道矩(又道則ともいう)川連村大舘字古四王野尻に一館を築いて、大舘村を食邑とするとある。」、また「『雄勝郡村誌』を資料とした、昭和四年発行の『雄勝郡郷土史資料』(名著出版)には、建久四年(1193)当時の大舘城は、土肥(井)三郎の居城としているが、それに関する古記録には未だに見つかっておらない。何によって取材記録したか、〈略〉」があります。
 ここに示されている資料「大舘村創村事由」『雄勝郡村誌』『雄勝郡郷土史資料』等は、見れていません。

*『校訂解題 久保田領群邑記』(柴田次雄 無明舎出版 平16・2004)の「雄勝郡」の目次の稲川町関連では「飯田村・宮田村・稲庭村・川向村〈皆瀬村〉・畠等村〈皆瀬村〉・三梨子村・川連村・大館村〈ママ〉・八面村・大門村・三又村・東福寺村・大倉村」の順に並んでおり、「大館村(現・雄勝郡稲川町大館)」を見ると「・川連より八丁南、元ト川連村の支郷なりと云ふ。いま一村となれり、其ノ年をしらず。」とあって「○社地 ・観音 ・午頭天皇 ・伊勢 ・黒滝権現 ・稲荷、五社」とあり、日吉神社も古四王もありません。
*『秋田風土記』〔編者淀川盛品 所収『新秋田叢書 第十五巻』(歴史図書社 昭47・1972)〕の「稲川町」の目次も「三梨・川連・大館〈ママ〉・八面」と続きます。「大館」の社は「観音堂 午頭天皇 神明社 黒竜社 稲荷社」と少し違いますが、古四王はありません。
*『増補 雪の出羽路 雄勝郡』(『秋田叢書第三巻』昭4・1929)の「巻二」の「三梨ノ郷、稲庭ノ郷」には「大館」がなくて、「巻五」に「大館〈ママ〉ノ郷、八面村、東福寺村」がありました。「大館ノ郷」を見ると「此郷本ト川連の内たりしを別ちたる事群邑記に見えたり、」とあります。「大館」について具体的な記述はありません。

*『稲川今昔記 いなかわのむかしっこ』(著者佐藤公二郎 発行稲川町 平12・2000)に「伝説 古四王神社とその周辺 古四王野にたちて」があり、項目「※古四王神社について」に「我が町の古四王神社の創建については、はっきりとした記録がないのでわからないが、(北朝)康永元年(1342)のころ、土井三郎が大舘城(旧城、亀岡城とも)に住み、古四王神社を祭ったという。(土井三郎は大舘亀岡城主で、増田城主小笠原光冬が楢岡城に移った後に増田城に入り、以来土肥舘といった=増田郷土史) この神社の場所が、旧古四王中学校の校庭付近であるという。」があり、「享禄三年(1530)の皆瀬川の大洪水で、この古四王神社とご神像(多聞天)が流され、植田村で植田小鼓城主、大石駿河守與九郎定景が河原から拾い上げて祭ったのが、植田古四王神社のご神像といわれている。『大舘から何回となく返してもらうよう願ったが、ついに返されなかった』(茂木久栄先生)」も記されています。
 「大洪水」の年代が「享禄」になっていて、1528年の享禄元年ではなく「三年」の1530年になっています。この大洪水よる出来事に関しては植田村に関する記事で記したいと思います。
 項目「※古四王神社と古四王野尻」に「(1)稲庭城主小野寺重道の弟道矩(道則とも)が、古四王野尻に大舘城を築いたといわれている(現神明社のあたりが中心)。〈略〉(2)旧古四王中学校については、昭和25年10月25日の旧川連町議会で、三梨村字小四王野をその敷地にすることが議決され、校名は公募によって『古四王』に決まったという。」がありました。
 小野寺道則が大舘城を築いたのが「1197 建久7年」と「年表」にありました〈建久7年だと1196年ではないでしょうか〉ので、「土井三郎」が「古四王神社を祭った」のは、その後のことになるのでしょうが、『稲川町史』の項目「大舘城」中の「土井三郎」や神社検索での「日吉神社」の「由緒」に記された「土井三郎」と『稲川今昔記 いなかわのむかしっこ』の「土井三郎」と同一人物であれば、記されている年代に隔たりがあります。同一名で呼ばれる別人なのでしょうか。
 元になった資料が分りませんので、このまま記しておきます。 

 古四王中学校は、川連漆器伝統工芸館の並びの湯沢市産業支援センターや湯沢市稲川交流スポーツエリアの場所にあったそうですし、それらの所在地は川連町大舘中野ですが、「湯沢市の住所表示」(湯沢市ホームページ>市政>湯沢市の概要>市の概要>市の概要>合併前住所の対応)に、平成17年の合併前の「(雄勝郡稲川町)三梨字中野」が「(湯沢市)川連町字大舘中野」に変更になったとありますので、川連町大舘中野は旧三梨字中野であり、字中野は元の三梨村の字小四王野の範囲を含む地名ではないでしょうか。
 古四王野ではなく小四王野と記されるようですが、ここが延暦21年に古四王神社が建立されたと伝えられている場所になるのでしょう。
 延暦21年という年代は、寺社縁起の創建年代によく出てくる大同より以前で、ずいぶん古い時代ですが、どうなのでしょう。
 ここが創建の場所で、ここに鎮座し続けていれば「大舘古四王社」とは言われないのではないかと思いますが、「年表」に「大舘古四王社の御神体」とありますので、三梨から大舘に遷座したのかもしれません。
 大舘城の築かれた古四王野尻は、『稲川町史』に川連村大舘字古四王野尻と表記されていますので、大舘に含まれるとされている場所なのでしょう。三梨の小四王野から城の築かれた大舘の古四王野尻に遷座したのかもしれません。
 それに「土井三郎」が「古四王神社を祭った」という伝えが関係しているのかもしれないと思います。
 「御神体が大洪水で」流されるにしても、皆瀬川からそう遠くない所に祀られているのではないかと思います。

*古い時代の伝えもよく分りませんが、現在の古四王神社については、ほとんど何も分りません。
 現在の古四王神社についてご存知の方をお探してお聞きするしかないと思いますが、なにかよい手立てがあればよいのですが。

 古四王神社と思える神社は、自治体史誌類での紹介を見ていませんし、法人社ではなく、管理者が不明などがありますので、写真は道路から撮ったものにしました。また、神社の額については、周囲をぼかして文字情報中心にして載せます。

 道路から見た古四王神社と思える神社           社額の文字

*国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」によって、昭和51年10月18日の画像、昭和42年11月02日の画像、昭和24年09月09日の画像を載せます。
 「地図・空中写真閲覧サービス」からダウンロードした画像をトリミングして画像ナンバーなどを書入れしています。
 画像1が、昭和51年の空中写真を加工したものです。昭和51年3月に閉校になった古四王中学校の校舎が写っており、同年4月に開校になった稲川中学校も写っています。また、古四王神社の境内と思われる木立も見えているようです。
 画像1の諸元情報:[整理番号-CTO7612 コース番号-C2 写真番号-1 ] 
 画像2が、昭和42年です。下部に古四王中学校が見えています。諸元情報:[TO677Y C5 5 ]
 画像3は、昭和24年のものです。古四王神社の境内と思われる木立が見えるようです。諸元情報:[USA R3039 81 ]





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