
所在地情報 秋田 11 十文字町植田
◎所在地情報
大山リスト : 平鹿郡植田村
桑原リスト : 平鹿郡十文字町植田 古四王神社
佐藤リスト : 平鹿郡十文字町植田 古四王神社
(参考)川崎・及川 : 平鹿郡植田村
藤原 : 平鹿郡上田村
丸山茂は、平鹿郡に上田村、秋宮村、植田村を記載しています。
雄勝郡と平鹿郡、植田と上田があります。情報の確認をどうしていたのでしょうか。時代的な面で制約もあるでしょうが。
*植田村は、明治22年に平鹿郡植田村・越前村・木下村・源太左馬村が合併して村制施行した村で、昭和30年に平鹿郡十文字町・睦合村・植田村が合併して、あらたに十文字町になっています。
平成17年に、増田町・平鹿町・雄物川町・大森町・十文字町・山内村・大雄村が横手市と合併して、あらためて横手市が発足しています。
○『平成の祭』
古四王神社
鎮座地:平鹿郡十文字町植田字宮前6
祭神:《合》天照皇大御神、事代主神、伊耶那岐神、少彦名神、稲倉魂神、品牟陀分命、伊邪那美神 《主》大彦命
○『秋田県神社庁HP』
古四王神社
鎮座地:横手市十文字町植田字宮ノ前6
御祭神:大彦命・天照皇大御神・伊邪那岐命・伊邪那美命・事代主命・品牟陀分命・稲倉魂命・少名彦名命
境内神社:神明社 稲荷神社
由緒:「文亀元年〈1501〉植田の地に小鼓城があり、古四王神社は城主大石駿河守誉九郎藤原定景が祀ったものと伝えられ、社祠は北向き、御神像は天邪鬼を踏まえた多聞天王(県指定有形文化財)であり、現在の奥殿は明治29年に上棟されたものである。
永禄3年〈1560〉の秋、植田小鼓城主大石誉九郎定景が皆瀬川のほとりを小鷹狩りして分けめぐり、葦原の雨露に濡れた木像を神か仏かと見奉れば、北に向きてましませり。
これはまさしく古四王権現の一柱と思召し、羽織に包みて従者に持たせ、小鼓城の隅は辰巳の方位〈東南〉に、古四王宮として守護奉りしが、今の多聞天王像である。
古四王宮は日々栄え、参詣道は賑わっていたが、文禄5年〈1596〉庄内の最上義光の軍に攻められて植田小鼓城は落城する。
この戦いで城に火がかけられ、古四王殿も危険となるや、多宝院の三世に当たる高勝坊が兵火の中に飛び込み、古四王尊像を命にかけて守り、小鼓城を逃れて里山に潜み時期を待ち、世の乱れも静まり、ほとぼりのさめた頃、植田に立ち帰り一紙半銭の寄付を集めて長い年月を重ねて再び古四王殿を建立したのが今の古四王神社である。(秋田叢書・記述抜粋)」とあります。
*サイト『秋田県WEB観光案内所』ー「沼館街道」ー「植田集落」とたどると「古四王神社」の記事があり、そこに「案内版によると」として上記の由緒とほぼ同様の文章がありました。
アクセスは、2013/09/11ですが、現在のURLは以下です。
〈 https://www.akitabi.com/kai-gazo/numadate/ueda/ueda.html 〉
*秋田叢書第6巻所収の菅江真澄「雪出羽道 平鹿郡(中)」の「平鹿郡 九巻」として「植田村」について記載されています。〈国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧〉
『秋田県神社庁HP』の古四王神社の「由緒」と重複する記述部分を含みますが、引用してみます。
はじめに九巻の目次にあたる部分があり「本郷 ○植田村 門田のさなえ」とあり、行を改めて「寄郷十二村」として「○おほしみづ 越前村」から「○日かげのめぐみ 木下邑」までの村々の名が記されています。
本文の前に、タイトルにあたる「○植田村」があり、それを修飾するように「門田のさなえ」と記されています。
本文は「○殖田、上田とも書し事あり。殖田は姓にも見えたり。」から始まります。
「〈略〉植田の南に皆瀬川あり、東より西に流れて御膳川に入る。○享保郡邑記に家員七十四軒。村の西に古館あり、昔城主大石ノ與九郎住居スと云。南は雄勝郡角間村にて境フと見えたり。〈略〉」があります。
本文は、○熊野権現宮、○古四王宮、○八幡宮、○多寶院累代、○延寿院累代、○護昌寺歴世、○八日市村、○田野村、等の各項目の記事が続き、植田邑・大寒泉・小鼓柵・熊野神社古四王神社・等の図絵が載せられています。
そして植田邑寄郷十二村の記事が続いていきます。
項目「○古四王宮」の記事は、「○甲秀山古四王寺あり、此寺いにしへの社僧なンとにや。古四王宮は、そのむかし雄勝ノ郡水瀬川の邊り、河熊(割書:今角間と書ケり)村の西北の方に中て、福島(割書:此福島雄勝郡平鹿郡両郡入合の村にて雄勝郡の角間にも亦同名あり)といふ村なる小高キ地に鎮座シズモリマセし御神にて、そのいつきまつりし創めを知れる人なし。むかし其邊はいと廣く家居も多かりしかと、水のために皆瀬の河岸みな崩頽コボレて、古四王ノ社もうちあばれ、修理する人しもあらねば神像もまろび出て、夏は蛍の火をともす破堂コヤタとなりぬるころ、永禄元年の秋、植田小鼓ノ城主大石誉九郎藤原ノ定景、此のあたり小鷹狩して分めぐり此木像をあやしみ見て、神か佛か、なにゝまれ、かゝる葦原雨露にぬれ神形や朽なむ、恐カシコき事とて近づきて見奉れば北に向キてませり。まさしく是レは古四王権現の、そがひとはしらにてこそおはしまさめとて、清き草の葉に包みもて従者に持たせ、やをら城に守護奉りていたり、日あらず小鼓が城の辰巳の隅なる處に堂を作りて安置スエまつりしは、今の多門天皇の尊形也といへり。此毘沙門天は四天王の其一柱ながら、こゝに古四王宮とまをし奉りて日々繁栄サカエ、参詣道もさりあえず賑ひたりし〈略〉」、「かの出現ありつる葦原は雄勝ノ郡の田と墾たれど、今もその字を下リ居田といへり。此古四王宮は、いにしへより平鹿ノ郡千室荘セムヤノサウ三嶋ノ郷植田村に鎮座の御神にや。また、秋田ノ郡率浦イサウラノ荘高清水ノ岡(割書:秋田郡、今の寺内村の事也)より此地に遷ウツシ齋奉りし御神にや、そのゆゑ知れる人もなし。また古四王ノ社は、雄勝ノ郡益〈旧字〉内ヤクナイ荘中村ノ枝郷下樺山村ノ古四王、神殿向坤古社也。仙北ノ郡小貫高畑ケ村の古四王宮、秋田ノ郡寺内高清水の古四王宮、山本ノ郡寺内杉清水の古四王宮、なほ其外にも聞えたり。」を記し、聖徳太子建立の護世四王寺に触れ、越後國蒲原郡五十公野の古四王宮について記し、高清水岡の古四王宮について記しています。
そして「此古四王ノ旧〈旧字〉跡に古キ柳あり。そこより湧出るを柳清水といふ。秋田ノ郡高清水の古四王、山本郡杉清水の古四王、此柳清水の古四王の古ルみやどころに、しみづあるも似たり。柳清水は高野川と流れ、としごとの四月八日は大祭にて、此神社の前わたりに市立て賑ひしかは、今も八日市町の名あり。大祭ならざる八日ごとにも、市立し事とその世ぞおもはれたる。あし原より一度は小鼓の城にうつし、ふたたびは古トの八日市(割書:植田村の支郷なり)村にうつしまつれり。神社は熊埜の杜と後會セナカアワセに北向の神也。祭日四月八日。古四王宮は○植田○越前○海蔵院○志摩新田○源太左馬、此五箇村の鎮守也。末社○神明宮○雷ノ社、別当多寶院。」として古四王宮の記事を終えています。
〈注:植田村の記事での五十公野の古四王社についての記述については、「探訪記録・新潟1ー新発田市五十公野」の記事の追記として「高志栞」との関係と大山宏「古四王神社の源流を尋ねて」での引用に関して記述しております。
大山論文及び植田村記事中の高清水岡の古四王宮の記述については寺内町の記事で取上げたいと思います。〉
項目「○八日市村」の記事を引用しますと、「八日市は植田ノ村ながら、郡邑記に枝郷の部に入レり、亦支郷ともいふべきか。越前村、植田邑ノ村民入合の處也。○熊野神社○古四王宮、おなじ杉の杜に、後會ウシロアワセに南と北に向きて鎮座シズモリマセり。古四王宮ノ祭日八日毎に市立シ事、前に古四王宮のくだりに委曲に云ひつる也。」がありました。
菅江真澄によって記されたこの内容を見ると、「四天王の其一柱」の毘沙門天は「古四王権現の、そがひとはしら」であるという認識があり、北を向いていることが古四王神たることの決めてのひつとであり、毘沙門天のみを祀って古四王宮としていて参詣道も賑わっている事が記されています。
これは重要なことではないかと思います。
大山「古四王神社の源流を尋ねて」に真澄の「永禄元年の秋、植田小鼓ノ城主大石誉九郎藤原ノ定景〜此毘沙門天は四天王の其一柱ながら、こゝに古四王宮とまをし奉りて日々繁栄、参詣道もさりあえず賑ひたりし」までを引用して、「これは古四王は四天王であるが、こゝには毘沙門天の一體をも古四王と申したりといふのであるがこの四天王説は荒井の風土記にも僧徒の説として揚げてゐる。」と記しています。
毘沙門天は四天王のひとつであること、古四王権現のひとつであることを、ただちに結びつけていますが、古四王は大山も記しているように「釈迦、薬師、毘沙門、文殊の四佛體」という捉え方もありますので、四佛のひとつの毘沙門天という認識であっても「古四王権現の、そがひとはしら」と言うことになると思います。
しかし、釈迦・薬師・文殊ないし持国天・増長天・広目天のどれかひとつが葦原に見いだされても「古四王権現の、そがひとはしら」とはならないだろうと思います。
北を向く神が古四王という認識があってこそ、毘沙門天を古四王の象徴として、毘沙門天のみを祀っても古四王として祀ることが受入れられたのではないのではないかと思います。
甲秀山古四王寺については、これ以上の記載がありません。
菅江真澄の記述と『秋田県神社庁HP』の「由緒」との違いとして、神像出現の年が永禄元年と永禄3年があります。
また、「由緒」で「辰巳の方位に、古四王宮として守護奉り」とあるので古四王宮の方位のようにとられる恐れがありますが、辰巳というのは堂の場所であって堂の向く方角ではないことが分かります。
古四王宮がかつてあったところのことも記されています。
現在の湯沢市に角間があり角間福島という住所表示があり、皆瀬川の川向かいになりますが、菅江真澄の記す角間・福島はこのあたりのことなのでしょうか。
ここに、小鼓城の辰巳の隅で古四王宮となる御神がそのむかしに鎮座していたのでしょうか。
ここの「古四王ノ社」が「うちあばれ」て「神像もまろび出」たのでしょうか。
本サイトの「秋田10 稲川町」のところで記した『湯沢市川連漆器伝統工芸館』の「歴史資料館ー川連漆器歴史年表」にある「西暦1528年 享保〈ママ〉年中 大舘古四王社の御神体が大洪水で植田村に流される(植田古四王神社)。」の記載がありました。
1528年から永禄元年まで30年の隔たりがあります。
湯沢市角間のあたりに古四王社があってそこからまろび出た神像を祀ったとすると、皆瀬川の上流にあたる川連町大舘の古四王社の1528年の大洪水で流された御神体が永禄元年に植田古四王神社に祀られたと言うことと結び付かないと思います。
川連町大舘の伝承は、植田の古四王社の神像の出現にまつわる話が知られていたが故の事のようでもありますが、どうなのでしょうか。
古四王旧跡と柳清水のことが記されています。
古四王旧跡というのは小鼓城の辰巳の隅の古四王宮のあった場所と思いますので、そのあたりに古い柳の木があり清水が湧き、「柳清水は高野川と流れ」ていったということかと思います。
また、神社の大祭などには「神社の前わたりに市立て賑ひし」で、「今も八日市町の名あり」とありますし、現在の住所表示に「十文字町植田八日市」があります。
小鼓城跡と言われる場所と植田八日市の場所は近いので、古四王旧跡はこの付近にあったということでよいと思います。
いまのところ、柳清水や高野川についての情報はありません。
*『菅江真澄全集 第6巻 地誌U 雪の出羽道平鹿郡』の「解題」(内田武志)に、「真澄が本格的に地誌編集の目的で執筆したのが、《雪の出羽道平鹿郡》十四巻である。文政七(1824)年八月から同九年五月に及ぶ巡村調査の結果であった。」「この地誌の表記の特徴を述べると、/ 一、藩命の地誌としての表現を整えている。冒頭に、その村の里長の名前を掲示する。最終に、家数、住民数、馬匹数を掲載する。/ 二、『郡邑記』(岡見知愛、享保年間)を引載し、村の存廃などについて、それと現在との比較を行っている。/ 三、寺社の縁起、祭事は詳しい。とくに祭礼には可能なかぎり参列し、祭日の模様を記した。/ 四、旧家の由緒、家系を調べ、所蔵の古文書を遺漏なく採録する。/ 五、藩主佐竹氏の姓名を書く場合、闕字にして、尊敬の意を現わしている。/ 六、佐竹藩の地誌であるから、他国の見聞考証は余計で無用とみなされて、なるべくこれを書かないように心掛けている。しかし、旅人真澄の特色はそこにあったから、控え目ながら、各所に記された。その場合には断り書きをしている。〈略〉」がありました。
藩命地誌の『平鹿郡』のなかで、古四王宮についての最初の記載は「植田村」のものになります。
そうであるがゆえに、ここに、他所に鎮座する古四王社を記し、越後蒲原郡五十公野の古四王宮について里の伝えとして「此尊〈大彦尊〉を齋りて古四王とはまをす。またく此神は古四王にはあらず、越皇にておはしき。されど今は真言宗の寺にものし侍れば、さは申さふらはで、唯四天王を祭るとのみ申せば」をも記し、「高清水の岡に在る古四王宮」の今に至る経緯を記し、古四王宮と清水のつながりを記し、古四王宮についての理解に資するように記述しているのではないかと思います。
『秋田叢書 第5巻』所収の菅江真澄「雪出羽道 平鹿郡(上)」を見ますと、タイトル「雪出羽道 平鹿郡(上)」が記される前に先ず「○平鹿ノ郡」の文があります。その文に続いて「○またこゝにいふ」という文が記され、そのなかに「○巻中に郡邑記とあるは、岡見氏、青龍堂ノ老人の編集也。そはみな享保の時世にて、そのむかしとは聊事かはれる処々あり。」と記されています。
『菅江真澄全集 第6巻』では、「雪出羽道 平鹿郡」の巻頭に「(序文) ○平鹿ノ郡」、次に「○またこゝにいふ」があります。
同書の「解題」に「続いて、『またこゝにいふ』として、この地誌の凡例が記される。〈略〉また、『巻中に郡邑記とあるは、岡見氏、青龍堂ノ老人の編集也』と、特に断っている。享保年間に編まれた岡見知愛の【郡邑記】を引載して真澄が地誌を編集せねばならなかった理由については後述する。」と記しています。
『秋田叢書 第2巻』に「六郡郡邑記」が収録されています。同書の「解題」に「この六郡郡邑記は一に享保郡邑記とも称し青龍堂岡見知愛の享保十五年に編纂したものである。〈略〉各郡の町村及び戸数の調査は最も正確なれば、菅江真澄の遊覧記には秋田六郡の町村戸数等は主としてこの書から引用してある。」とあります。
《 ここまで 2021−07 記 》
《探訪の準備》
*図書館間相互貸借によって、『十文字町史』(十文字町史編纂委員会 発行 十文字町 平8・1996)をお借りしました。
「第二章ー第三節ー四 祈りと神仏」に、熊野神社・古四王神社・八幡信仰・王秀山護昌寺とあって、神社については『雪の出羽路』に触れています。
古四王神社は、「『雪の出羽路』によると、この神社は皆瀬川をはさんだ向側の集落河熊(角間)に近い福島にあったという。」がありました。
同書「第七章ー第一節 郷土の文化」に、「木像多聞天立像」の項目があり、そこに『植田の話』からの引用で「雄勝郡角間の西、福島という村にまつられていたが」ありました。
町史の口絵に、多聞天立像がありました。
「第七章ー第二節 宗教と民間信仰」の「宗教法人神社」の項目の中に「古四王神社」が記載されていました。
古四王神社がかつてあった場所は、角間の西の福島ということで、あらためて地図にあたってみました。
『雪の出羽路』の「河熊(割書:今角間と書ケり)村の西北の方に中て、福島(割書:此福島雄勝郡平鹿郡両郡入合の村にて雄勝郡の角間にも亦同名あり)といふ村なる小高キ地に鎮座」の福島についての割書「此福島雄勝郡平鹿郡両郡入合の村にて雄勝郡の角間にも亦同名あり」の「雄勝郡の角間にも亦同名あり」を読み取れていませんでした。
この記事の◎所在地情報の所で、「現在の湯沢市に角間があり角間福島という住所表示があり、皆瀬川の川向かいになりますが、菅江真澄の記す角間・福島はこのあたりのことなのでしょうか。」と記しましたが、角間にも同名の福島があるとのことなのですから、ここではないことになると思います。
十文字町睦合に上福島・中福島・下福島川原があり、そこは湯沢市角間の北西にあたり、皆瀬川が雄物川に合流した下流の左岸側になりますので、こちらの方が可能性が高いのではないかと思います。
*「第七章ー第二節 宗教と民間信仰」の「地区別氏神、屋敷神調査表」の項目に、「宝古四王大神」という1社が記載されていました。
それは、睦合で地区名は福島とあり、個人が祀り祭日は五月十五日とありました。
それ以外は何も記されておりませんので、何も分かりません。
睦合の福島ということで、古四王神社がかつてあった場所ではないかと思える所ですので、何か関係があるのでしょうか。
*『十文字町の 神社と寺院』(十文字地方史研究会編 平8・1996)を横手の図書館のレファレンスサービスに教えていただきました。
植田地区の神社に古四王神社の写真があり、「当初の祭神は四道将軍の一人大彦命となっているが、ご神像は多聞天王で仏像である。古くは明治初年まで真言宗王秀山〈ママ〉古四王寺で」とあります。
菅江真澄の植田村の古四王宮の記事に「○甲秀山古四王寺あり、此寺いにしへの社僧なンとにや。」がありました。「いにしへの社僧」というのは、どういうことなのでしょう。
植田村の記事に「○多寶院累代」があり「○三世多門兵衛定興は、小鼓の城主大石駿河守藤原定宗ノ男、大石與九郎定景の舎弟、大石一角藤原定興神職となり熊野の家を胤ぬ。天正十七年己丑十二月九日〈1590年に入っているか?〉卒去。○四世高勝坊。此高勝坊より修験道に入り、入峯修行ありて役氏優婆塞の家全く備り、萬治元年戊戌八月廿三日〈1658〉六十九歳遷化。」「○十二世現住雲随坊永泉。代々熊野権現、古四王宮、八幡宮三社ノ別当職也。」とあります。
また「○護昌寺歴世」があり「○王秀山護昌寺は曹洞派にて、」があります。
『十文字町の 神社と寺院』では、古四王寺の山号が「王」秀山となっていますが、王秀山護昌寺という曹洞宗の寺が十文字町植田字植田65に存在するそうですので、「王」は「甲」の誤りかと思いますが、古四王寺は古四王宮のことなのでしょうか。
さて、植田小鼓城の落城は文禄5年〈1596〉で、多宝院三世の高勝坊が兵火から古四王尊像を命にかけて守ったとありました。
「○多寶院累代」では、三世は没していますし、四世が高勝坊ですが、1658年に69歳で没したとすると1589年頃に生まれ1596年では7歳くらいでしょうか。
別当の多宝院はどうなっていったのでしょうか。
同書「屋敷神(氏神)一覧」を見ますと、睦合地区に「宝古四王大神」は見当たらず、その当該の社と思える社は「竜神社」と記されていました。
植田地区に、「古四王神社」があり、個人が祀り祭日四月三日と記されていました。
この社は、町史の方では記されていません。
調査編纂委員のお名前が載っていますので、町史編纂委員会名簿と比較しますと、重複しない方が複数人いらっしゃいましたので、調査に違いがあったと思います。
*『真言宗 智山派 梅松山 円泉寺』様のサイトの中のブログの2018年3月23日の記事「古四王大権現と北辰妙見大菩薩 遠藤昌益画 秋田県横手市・古四王神社 古文書・御利益記」を、2020年5月21日に拝見しました。
《 https://www.ensenji.or.jp/blog/3434/ 》
遠藤昌益の画く「甲秀山古四王大権現」と「北辰妙見大菩薩」の掛軸図像が載せられていました。
掛軸の上部に横書きで右から左に「甲秀山古四王大権現」とあり、その下にブログ記事によると「上右・釈迦如来 上左・薬師如来 中右・毘沙門天 中左・文殊菩薩 下・二童子」が描かれています。
古四王大権現の図像に『釈・薬・毘・文』が画かれているわけです。
もう一対が「北辰妙見大菩薩」の掛軸です。
掛軸の裏面と思いますが「為五穀成就郷中安全願主家運長久〈略〉」「奉祈念」「願主 近野伊左エ門 藤原信光敬白」と記され「于時 安政六年巳未四月八日」(1859)の日付と「開眼供養師大阿闍梨法印舜浄謹而勤修之」とあります。
この掛軸は、円泉寺様が「市内の骨董屋さんで購入した」そうですが、近野家が祈願し祀るために依頼し作成したものなのでしょうから、近野家に祀られていたのでしょうか。
古四王権現と妙見菩薩を対にして祈願し祀ったとすれば、何が言えるのでしょうか。
古文書の「甲秀山古四王大権現御利益記」を、古文書解読研修会のS氏に文頭部分と文末部分を読んでもらいました。
文頭から「○秋田平鹿郡植田村甲秀山古四王大権現と申し奉るは 所の城主大石与九郎殿の内守護神本地毘沙門天にておわします 天正年中において 最上義光の軍勢によって落城せしより 当所植田村・越前村・海蔵院村・源太左馬村・志摩新田村 右五ケ村鎮守と祭り込み 御縁日四月八日と相定め 御湯立祭礼尊みける 于時 享保元年丙申年よりの有り難き御利益を書き印置く 此の年 世上田地に大虫付きにて稲皆黒くなり 実穂三ケ一と見えし 貴賤の人々に至る迄口説悲しまざるなかりけり」とあって、続いて、堀米村の百姓利左衛門が「虫付きを悲しみ古四王大権現様一心不乱に念じ奉り 毒虫退散の札とてもなき御宮なれば 悪病退散と加持印したる切札を壱丈五六尺の竹のうらへ結び付けさげて 五千刈余の田地残らず払らえければ 毒虫皆うん蚊の飛ぶが如くにしりぞきける 稲色皆黄に直りてしななぐ皆みのりけり」となり、「利左衛門大きに悦び古四王大権現様に御果の御礼に 青木千本□木千本植え立て 御供米として三斗入五十俵奉納仕り御礼と拝み奉り是れ皆古四王大権現様の御神徳なり遠近に輝きけり」とあります。続いて御利益の実例を記しているようです。
〈 □木千本: タラノキのタラ 桜の旁の上にノ 〉
最後に「○又目を煩う者もそこそこに有り 古四王大権現へ御立願掛けて全快なしと云う事なし」とあって、さらに「虫歯病み」「腹一切の病気」「難産・瘧・中風・疝気・寸白・眼病・虫喰い歯 □タラ木喰わず切らず 紅花蒔かず 而して常に心信する者 一生難に遭うまい御誓願なり 甲秀山古四王大権現様は□タラ木立像にて本地毘沙門天御座す 御手には鉾剱宝塔を持ち 御脇立には禅尼子童子 御妹には吉祥天立ち給えば 旅他国に出で給うも 怨敵退散諸厄諸難除く御誓願なり」、続いて「御誓願の御序口」と記し「一代に□タラの木手をかけかえさずば 諸厄諸病をすくい取らんや 紅花を蒔かず我を祈るなり 産の苦難に遭わざりしに 右の御序を披露め給うにより 御禁物品々をかたくいましめ神心すれば何成り共心願成就させしめんと 古四王大権現様の御利益 後の世迄も正に輝けり」とあります。
このあとに、「安政七庚申年二月吉日書之敬白」「甲秀山古四王大権現 略印」とあります。
この文書が誰によって書かれたのか記されていないようです。
あれもこれもの幅広い御利益とそれと引き換えのように禁じられる事と守るべき事が記されています。
信仰のありようの一端がうかがえるようです。
□タラの木は、タラの芽で知られる木でしょう。
毘沙門天と禅尼子童子と吉祥天について、円泉寺様の2018年12月30日のブログにも記載があります。
吉祥天女は毘沙門天の后または妹とされているそうです。
禅尼子童子(善膩師童子)は毘沙門天と吉祥天の末子ということです。
甲秀山古四王大権現では、この三尊形式で祀られていたのでしょうか。
《 2021年12月 記 》