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探訪記録 秋田  11  十文字町植田


◎所在地情報
 大山リスト : 平鹿郡植田村
 桑原リスト : 平鹿郡十文字町植田  古四王神社
 佐藤リスト : 平鹿郡十文字町植田  古四王神社
 (参考)川崎・及川 : 平鹿郡植田村
      藤原 : 平鹿郡上田村
      丸山茂は、平鹿郡に上田村、秋宮村、植田村を記載しています。
      雄勝郡と平鹿郡、植田と上田があります。情報の確認をどうしていたのでしょうか。時代的な面で制約もあるでしょうが。

*植田村は、明治22年に平鹿郡植田村・越前村・木下村・源太左馬村が合併して村制施行した村で、昭和30年に平鹿郡十文字町・睦合村・植田村が合併して、あらたに十文字町になっています。
 平成17年に、増田町・平鹿町・雄物川町・大森町・十文字町・山内村・大雄村が横手市と合併して、あらためて横手市が発足しています。


○『平成の祭』
 古四王神社 
 鎮座地:平鹿郡十文字町植田字宮前6
 祭神:《合》天照皇大御神、事代主神、伊耶那岐神、少彦名神、稲倉魂神、品牟陀分命、伊邪那美神 《主》大彦命

○『秋田県神社庁HP』
 古四王神社
 鎮座地:横手市十文字町植田字宮ノ前6 
 御祭神:大彦命・天照皇大御神・伊邪那岐命・伊邪那美命・事代主命・品牟陀分命・稲倉魂命・少名彦名命
 境内神社:神明社 稲荷神社 
 由緒:「文亀元年〈1501〉植田の地に小鼓城があり、古四王神社は城主大石駿河守誉九郎藤原定景が祀ったものと伝えられ、社祠は北向き、御神像は天邪鬼を踏まえた多聞天王(県指定有形文化財)であり、現在の奥殿は明治29年に上棟されたものである。
 永禄3年〈1560〉の秋、植田小鼓城主大石誉九郎定景が皆瀬川のほとりを小鷹狩りして分けめぐり、葦原の雨露に濡れた木像を神か仏かと見奉れば、北に向きてましませり。
 これはまさしく古四王権現の一柱と思召し、羽織に包みて従者に持たせ、小鼓城の隅は辰巳の方位〈東南〉に、古四王宮として守護奉りしが、今の多聞天王像である。
 古四王宮は日々栄え、参詣道は賑わっていたが、文禄5年〈1596〉庄内の最上義光の軍に攻められて植田小鼓城は落城する。
 この戦いで城に火がかけられ、古四王殿も危険となるや、多宝院の三世に当たる高勝坊が兵火の中に飛び込み、古四王尊像を命にかけて守り、小鼓城を逃れて里山に潜み時期を待ち、世の乱れも静まり、ほとぼりのさめた頃、植田に立ち帰り一紙半銭の寄付を集めて長い年月を重ねて再び古四王殿を建立したのが今の古四王神社である。(秋田叢書・記述抜粋)」とあります。


*サイト『秋田県WEB観光案内所』ー「沼館街道」ー「植田集落」とたどると「古四王神社」の記事があり、そこに「案内版によると」として上記の由緒とほぼ同様の文章がありました。
 アクセスは、2013/09/11ですが、現在のURLは以下です。
〈 https://www.akitabi.com/kai-gazo/numadate/ueda/ueda.html 〉

*秋田叢書第6巻所収の菅江真澄「雪出羽道 平鹿郡(中)」の「平鹿郡 九巻」として「植田村」について記載されています。〈国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧〉
 『秋田県神社庁HP』の古四王神社の「由緒」と重複する記述部分を含みますが、引用してみます。
 はじめに九巻の目次にあたる部分があり「本郷 ○植田村 門田のさなえ」とあり、行を改めて「寄郷十二村」として「○おほしみづ 越前村」から「○日かげのめぐみ 木下邑」までの村々の名が記されています。
 本文の前に、タイトルにあたる「○植田村」があり、それを修飾するように「門田のさなえ」と記されています。
 本文は「○殖田、上田とも書し事あり。殖田は姓にも見えたり。」から始まります。
 「〈略〉植田の南に皆瀬川あり、東より西に流れて御膳川に入る。○享保郡邑記に家員七十四軒。村の西に古館あり、昔城主大石ノ與九郎住居スと云。南は雄勝郡角間村にて境フと見えたり。〈略〉」があります。
 本文は、○熊野権現宮、○古四王宮、○八幡宮、○多寶院累代、○延寿院累代、○護昌寺歴世、○八日市村、○田野村、等の各項目の記事が続き、植田邑・大寒泉・小鼓柵・熊野神社古四王神社・等の図絵が載せられています。
 そして植田邑寄郷十二村の記事が続いていきます。

 項目「○古四王宮」の記事は、「○甲秀山古四王寺あり、此寺いにしへの社僧なンとにや。古四王宮は、そのむかし雄勝ノ郡水瀬川の邊り、河熊(割書:今角間と書ケり)村の西北の方に中て、福島(割書:此福島雄勝郡平鹿郡両郡入合の村にて雄勝郡の角間にも亦同名あり)といふ村なる小高キ地に鎮座シズモリマセし御神にて、そのいつきまつりし創めを知れる人なし。むかし其邊はいと廣く家居も多かりしかと、水のために皆瀬の河岸みな崩頽コボレて、古四王ノ社もうちあばれ、修理する人しもあらねば神像もまろび出て、夏は蛍の火をともす破堂コヤタとなりぬるころ、永禄元年の秋、植田小鼓ノ城主大石誉九郎藤原ノ定景、此のあたり小鷹狩して分めぐり此木像をあやしみ見て、神か佛か、なにゝまれ、かゝる葦原雨露にぬれ神形や朽なむ、恐カシコき事とて近づきて見奉れば北に向キてませり。まさしく是レは古四王権現の、そがひとはしらにてこそおはしまさめとて、清き草の葉に包みもて従者に持たせ、やをら城に守護奉りていたり、日あらず小鼓が城の辰巳の隅なる處に堂を作りて安置スエまつりしは、今の多門天皇の尊形也といへり。此毘沙門天は四天王の其一柱ながら、こゝに古四王宮とまをし奉りて日々繁栄サカエ、参詣道もさりあえず賑ひたりし〈略〉」、「かの出現ありつる葦原は雄勝ノ郡の田と墾たれど、今もその字を下リ居田といへり。此古四王宮は、いにしへより平鹿ノ郡千室荘セムヤノサウ三嶋ノ郷植田村に鎮座の御神にや。また、秋田ノ郡率浦イサウラノ荘高清水ノ岡(割書:秋田郡、今の寺内村の事也)より此地に遷ウツシ齋奉りし御神にや、そのゆゑ知れる人もなし。また古四王ノ社は、雄勝ノ郡益〈旧字〉内ヤクナイ荘中村ノ枝郷下樺山村ノ古四王、神殿向坤古社也。仙北ノ郡小貫高畑ケ村の古四王宮、秋田ノ郡寺内高清水の古四王宮、山本ノ郡寺内杉清水の古四王宮、なほ其外にも聞えたり。」を記し、聖徳太子建立の護世四王寺に触れ、越後國蒲原郡五十公野の古四王宮について記し、高清水岡の古四王宮について記しています。
 そして「此古四王ノ旧〈旧字〉跡に古キ柳あり。そこより湧出るを柳清水といふ。秋田ノ郡高清水の古四王、山本郡杉清水の古四王、此柳清水の古四王の古ルみやどころに、しみづあるも似たり。柳清水は高野川と流れ、としごとの四月八日は大祭にて、此神社の前わたりに市立て賑ひしかは、今も八日市町の名あり。大祭ならざる八日ごとにも、市立し事とその世ぞおもはれたる。あし原より一度は小鼓の城にうつし、ふたたびは古トの八日市(割書:植田村の支郷なり)村にうつしまつれり。神社は熊埜の杜と後會セナカアワセに北向の神也。祭日四月八日。古四王宮は○植田○越前○海蔵院○志摩新田○源太左馬、此五箇村の鎮守也。末社○神明宮○雷ノ社、別当多寶院。」として古四王宮の記事を終えています。
 〈注:植田村の記事での五十公野の古四王社についての記述については、「探訪記録・新潟1ー新発田市五十公野」の記事の追記として「高志栞」との関係と大山宏「古四王神社の源流を尋ねて」での引用に関して記述しております。
 大山論文及び植田村記事中の高清水岡の古四王宮の記述については寺内町の記事で取上げたいと思います。〉

 項目「○八日市村」の記事を引用しますと、「八日市は植田ノ村ながら、郡邑記に枝郷の部に入レり、亦支郷ともいふべきか。越前村、植田邑ノ村民入合の處也。○熊野神社○古四王宮、おなじ杉の杜に、後會ウシロアワセに南と北に向きて鎮座シズモリマセり。古四王宮ノ祭日八日毎に市立シ事、前に古四王宮のくだりに委曲に云ひつる也。」がありました。

 菅江真澄によって記されたこの内容を見ると、「四天王の其一柱」の毘沙門天は「古四王権現の、そがひとはしら」であるという認識があり、北を向いていることが古四王神たることの決めてのひつとであり、毘沙門天のみを祀って古四王宮としていて参詣道も賑わっている事が記されています。
 これは重要なことではないかと思います。
 大山「古四王神社の源流を尋ねて」に真澄の「永禄元年の秋、植田小鼓ノ城主大石誉九郎藤原ノ定景〜此毘沙門天は四天王の其一柱ながら、こゝに古四王宮とまをし奉りて日々繁栄、参詣道もさりあえず賑ひたりし」までを引用して、「これは古四王は四天王であるが、こゝには毘沙門天の一體をも古四王と申したりといふのであるがこの四天王説は荒井の風土記にも僧徒の説として揚げてゐる。」と記しています。
 毘沙門天は四天王のひとつであること、古四王権現のひとつであることを、ただちに結びつけていますが、古四王は大山も記しているように「釈迦、薬師、毘沙門、文殊の四佛體」という捉え方もありますので、四佛のひとつの毘沙門天という認識であっても「古四王権現の、そがひとはしら」と言うことになると思います。

 しかし、釈迦・薬師・文殊ないし持国天・増長天・広目天のどれかひとつが葦原に見いだされても「古四王権現の、そがひとはしら」とはならないだろうと思います。
 北を向く神が古四王という認識があってこそ、毘沙門天を古四王の象徴として、毘沙門天のみを祀っても古四王として祀ることが受入れられたのではないのではないかと思います。

 甲秀山古四王寺については、これ以上の記載がありません。

 菅江真澄の記述と『秋田県神社庁HP』の「由緒」との違いとして、神像出現の年が永禄元年と永禄3年があります。
 また、「由緒」で「辰巳の方位に、古四王宮として守護奉り」とあるので古四王宮の方位のようにとられる恐れがありますが、辰巳というのは堂の場所であって堂の向く方角ではないことが分かります。

 古四王宮がかつてあったところのことも記されています。
 現在の湯沢市に角間があり角間福島という住所表示があり、皆瀬川の川向かいになりますが、菅江真澄の記す角間・福島はこのあたりのことなのでしょうか。
 ここに、小鼓城の辰巳の隅で古四王宮となる御神がそのむかしに鎮座していたのでしょうか。
 ここの「古四王ノ社」が「うちあばれ」て「神像もまろび出」たのでしょうか。

 本サイトの「秋田10 稲川町」のところで記した『湯沢市川連漆器伝統工芸館』の「歴史資料館ー川連漆器歴史年表」にある「西暦1528年 享保〈ママ〉年中 大舘古四王社の御神体が大洪水で植田村に流される(植田古四王神社)。」の記載がありました。
 1528年から永禄元年まで30年の隔たりがあります。
 湯沢市角間のあたりに古四王社があってそこからまろび出た神像を祀ったとすると、皆瀬川の上流にあたる川連町大舘の古四王社の1528年の大洪水で流された御神体が永禄元年に植田古四王神社に祀られたと言うことと結び付かないと思います。
 川連町大舘の伝承は、植田の古四王社の神像の出現にまつわる話が知られていたが故の事のようでもありますが、どうなのでしょうか。

 古四王旧跡と柳清水のことが記されています。
 古四王旧跡というのは小鼓城の辰巳の隅の古四王宮のあった場所と思いますので、そのあたりに古い柳の木があり清水が湧き、「柳清水は高野川と流れ」ていったということかと思います。
 また、神社の大祭などには「神社の前わたりに市立て賑ひし」で、「今も八日市町の名あり」とありますし、現在の住所表示に「十文字町植田八日市」があります。
 小鼓城跡と言われる場所と植田八日市の場所は近いので、古四王旧跡はこの付近にあったということでよいと思います。
 いまのところ、柳清水や高野川についての情報はありません。


*『菅江真澄全集 第6巻 地誌U 雪の出羽道平鹿郡』の「解題」(内田武志)に、「真澄が本格的に地誌編集の目的で執筆したのが、《雪の出羽道平鹿郡》十四巻である。文政七(1824)年八月から同九年五月に及ぶ巡村調査の結果であった。」「この地誌の表記の特徴を述べると、/ 一、藩命の地誌としての表現を整えている。冒頭に、その村の里長の名前を掲示する。最終に、家数、住民数、馬匹数を掲載する。/ 二、『郡邑記』(岡見知愛、享保年間)を引載し、村の存廃などについて、それと現在との比較を行っている。/ 三、寺社の縁起、祭事は詳しい。とくに祭礼には可能なかぎり参列し、祭日の模様を記した。/ 四、旧家の由緒、家系を調べ、所蔵の古文書を遺漏なく採録する。/ 五、藩主佐竹氏の姓名を書く場合、闕字にして、尊敬の意を現わしている。/ 六、佐竹藩の地誌であるから、他国の見聞考証は余計で無用とみなされて、なるべくこれを書かないように心掛けている。しかし、旅人真澄の特色はそこにあったから、控え目ながら、各所に記された。その場合には断り書きをしている。〈略〉」がありました。
 藩命地誌の『平鹿郡』のなかで、古四王宮についての最初の記載は「植田村」のものになります。
 そうであるがゆえに、ここに、他所に鎮座する古四王社を記し、越後蒲原郡五十公野の古四王宮について里の伝えとして「此尊〈大彦尊〉を齋りて古四王とはまをす。またく此神は古四王にはあらず、越皇にておはしき。されど今は真言宗の寺にものし侍れば、さは申さふらはで、唯四天王を祭るとのみ申せば」をも記し、「高清水の岡に在る古四王宮」の今に至る経緯を記し、古四王宮と清水のつながりを記し、古四王宮についての理解に資するように記述しているのではないかと思います。

 『秋田叢書 第5巻』所収の菅江真澄「雪出羽道 平鹿郡(上)」を見ますと、タイトル「雪出羽道 平鹿郡(上)」が記される前に先ず「○平鹿ノ郡」の文があります。その文に続いて「○またこゝにいふ」という文が記され、そのなかに「○巻中に郡邑記とあるは、岡見氏、青龍堂ノ老人の編集也。そはみな享保の時世にて、そのむかしとは聊事かはれる処々あり。」と記されています。
 『菅江真澄全集 第6巻』では、「雪出羽道 平鹿郡」の巻頭に「(序文) ○平鹿ノ郡」、次に「○またこゝにいふ」があります。
 同書の「解題」に「続いて、『またこゝにいふ』として、この地誌の凡例が記される。〈略〉また、『巻中に郡邑記とあるは、岡見氏、青龍堂ノ老人の編集也』と、特に断っている。享保年間に編まれた岡見知愛の【郡邑記】を引載して真澄が地誌を編集せねばならなかった理由については後述する。」と記しています。
 『秋田叢書 第2巻』に「六郡郡邑記」が収録されています。同書の「解題」に「この六郡郡邑記は一に享保郡邑記とも称し青龍堂岡見知愛の享保十五年に編纂したものである。〈略〉各郡の町村及び戸数の調査は最も正確なれば、菅江真澄の遊覧記には秋田六郡の町村戸数等は主としてこの書から引用してある。」とあります。

                                        《 ここまで 2021−07 記 》


《探訪の準備》
*図書館間相互貸借によって、『十文字町史』(十文字町史編纂委員会 発行 十文字町 平8・1996)をお借りしました。
 「第二章ー第三節ー四 祈りと神仏」に、熊野神社・古四王神社・八幡信仰・王秀山護昌寺とあって、神社については『雪の出羽路』に触れています。
 古四王神社は、「『雪の出羽路』によると、この神社は皆瀬川をはさんだ向側の集落河熊(角間)に近い福島にあったという。」がありました。
 同書「第七章ー第一節 郷土の文化」に、「木像多聞天立像」の項目があり、そこに『植田の話』からの引用で「雄勝郡角間の西、福島という村にまつられていたが」ありました。
 町史の口絵に、多聞天立像がありました。
 「第七章ー第二節 宗教と民間信仰」の「宗教法人神社」の項目の中に「古四王神社」が記載されていました。

 古四王神社がかつてあった場所は、角間の西の福島ということで、あらためて地図にあたってみました。
 『雪の出羽路』の「河熊(割書:今角間と書ケり)村の西北の方に中て、福島(割書:此福島雄勝郡平鹿郡両郡入合の村にて雄勝郡の角間にも亦同名あり)といふ村なる小高キ地に鎮座」の福島についての割書「此福島雄勝郡平鹿郡両郡入合の村にて雄勝郡の角間にも亦同名あり」の「雄勝郡の角間にも亦同名あり」を読み取れていませんでした。
 この記事の◎所在地情報の所で、「現在の湯沢市に角間があり角間福島という住所表示があり、皆瀬川の川向かいになりますが、菅江真澄の記す角間・福島はこのあたりのことなのでしょうか。」と記しましたが、角間にも同名の福島があるとのことなのですから、ここではないことになると思います。
 十文字町睦合に上福島・中福島・下福島川原があり、そこは湯沢市角間の北西にあたり、皆瀬川が雄物川に合流した下流の左岸側になりますので、こちらの方が可能性が高いのではないかと思います。

*「第七章ー第二節 宗教と民間信仰」の「地区別氏神、屋敷神調査表」の項目に、「宝古四王大神」という1社が記載されていました。
 それは、睦合で地区名は福島とあり、個人が祀り祭日は五月十五日とありました。
 それ以外は何も記されておりませんので、何も分かりません。
 睦合の福島ということで、古四王神社がかつてあった場所ではないかと思える所ですので、何か関係があるのでしょうか。

*『十文字町の 神社と寺院』(十文字地方史研究会編 平8・1996)を横手の図書館のレファレンスサービスに教えていただきました。
 植田地区の神社に古四王神社の写真があり、「当初の祭神は四道将軍の一人大彦命となっているが、ご神像は多聞天王で仏像である。古くは明治初年まで真言宗王秀山〈ママ〉古四王寺で」とあります。
 菅江真澄の植田村の古四王宮の記事に「○甲秀山古四王寺あり、此寺いにしへの社僧なンとにや。」がありました。「いにしへの社僧」というのは、どういうことなのでしょう。
 植田村の記事に「○多寶院累代」があり「○三世多門兵衛定興は、小鼓の城主大石駿河守藤原定宗ノ男、大石與九郎定景の舎弟、大石一角藤原定興神職となり熊野の家を胤ぬ。天正十七年己丑十二月九日〈1590年に入っているか?〉卒去。○四世高勝坊。此高勝坊より修験道に入り、入峯修行ありて役氏優婆塞の家全く備り、萬治元年戊戌八月廿三日〈1658〉六十九歳遷化。」「○十二世現住雲随坊永泉。代々熊野権現、古四王宮、八幡宮三社ノ別当職也。」とあります。
 また「○護昌寺歴世」があり「○王秀山護昌寺は曹洞派にて、」があります。 
 『十文字町の 神社と寺院』では、古四王寺の山号が「王」秀山となっていますが、王秀山護昌寺という曹洞宗の寺が十文字町植田字植田65に存在するそうですので、「王」は「甲」の誤りかと思いますが、古四王寺は古四王宮のことなのでしょうか。
 さて、植田小鼓城の落城は文禄5年〈1596〉で、多宝院三世の高勝坊が兵火から古四王尊像を命にかけて守ったとありました。
 「○多寶院累代」では、三世は没していますし、四世が高勝坊ですが、1658年に69歳で没したとすると1589年頃に生まれ1596年では7歳くらいでしょうか。
 別当の多宝院はどうなっていったのでしょうか。

 同書「屋敷神(氏神)一覧」を見ますと、睦合地区に「宝古四王大神」は見当たらず、その当該の社と思える社は「竜神社」と記されていました。
 植田地区に、「古四王神社」があり、個人が祀り祭日四月三日と記されていました。

 この社は、町史の方では記されていません。
 調査編纂委員のお名前が載っていますので、町史編纂委員会名簿と比較しますと、重複しない方が複数人いらっしゃいましたので、調査に違いがあったと思います。

*『真言宗 智山派 梅松山 円泉寺』様のサイトの中のブログの2018年3月23日の記事「古四王大権現と北辰妙見大菩薩 遠藤昌益画 秋田県横手市・古四王神社 古文書・御利益記」を、2020年5月21日に拝見しました。
 《 https://www.ensenji.or.jp/blog/3434/ 

 遠藤昌益の画く「甲秀山古四王大権現」と「北辰妙見大菩薩」の掛軸図像が載せられていました。
 掛軸の上部に横書きで右から左に「甲秀山古四王大権現」とあり、その下にブログ記事によると「上右・釈迦如来 上左・薬師如来 中右・毘沙門天 中左・文殊菩薩 下・二童子」が描かれています。
 古四王大権現の図像に『釈・薬・毘・文』が画かれているわけです。

 もう一対が「北辰妙見大菩薩」の掛軸です。
 掛軸の裏面と思いますが「為五穀成就郷中安全願主家運長久〈略〉」「奉祈念」「願主 近野伊左エ門 藤原信光敬白」と記され「于時 安政六年巳未四月八日」(1859)の日付と「開眼供養師大阿闍梨法印舜浄謹而勤修之」とあります。
 この掛軸は、円泉寺様が「市内の骨董屋さんで購入した」そうですが、近野家が祈願し祀るために依頼し作成したものなのでしょうから、近野家に祀られていたのでしょうか。
 古四王権現と妙見菩薩を対にして祈願し祀ったとすれば、何が言えるのでしょうか。

 古文書の「甲秀山古四王大権現御利益記」を、古文書解読研修会のS氏に文頭部分と文末部分を読んでもらいました。
 文頭から「○秋田平鹿郡植田村甲秀山古四王大権現と申し奉るは 所の城主大石与九郎殿の内守護神本地毘沙門天にておわします 天正年中において 最上義光の軍勢によって落城せしより 当所植田村・越前村・海蔵院村・源太左馬村・志摩新田村 右五ケ村鎮守と祭り込み 御縁日四月八日と相定め 御湯立祭礼尊みける 于時 享保元年丙申年よりの有り難き御利益を書き印置く 此の年 世上田地に大虫付きにて稲皆黒くなり 実穂三ケ一と見えし 貴賤の人々に至る迄口説悲しまざるなかりけり」とあって、続いて、堀米村の百姓利左衛門が「虫付きを悲しみ古四王大権現様一心不乱に念じ奉り 毒虫退散の札とてもなき御宮なれば 悪病退散と加持印したる切札を壱丈五六尺の竹のうらへ結び付けさげて 五千刈余の田地残らず払らえければ 毒虫皆うん蚊の飛ぶが如くにしりぞきける 稲色皆黄に直りてしななぐ皆みのりけり」となり、「利左衛門大きに悦び古四王大権現様に御果の御礼に 青木千本□木千本植え立て 御供米として三斗入五十俵奉納仕り御礼と拝み奉り是れ皆古四王大権現様の御神徳なり遠近に輝きけり」とあります。続いて御利益の実例を記しているようです。
 〈 □木千本: タラノキのタラ 桜の旁の上にノ 〉
 最後に「○又目を煩う者もそこそこに有り 古四王大権現へ御立願掛けて全快なしと云う事なし」とあって、さらに「虫歯病み」「腹一切の病気」「難産・瘧・中風・疝気・寸白・眼病・虫喰い歯 □タラ木喰わず切らず 紅花蒔かず 而して常に心信する者 一生難に遭うまい御誓願なり 甲秀山古四王大権現様は□タラ木立像にて本地毘沙門天御座す 御手には鉾剱宝塔を持ち 御脇立には禅尼子童子 御妹には吉祥天立ち給えば 旅他国に出で給うも 怨敵退散諸厄諸難除く御誓願なり」、続いて「御誓願の御序口」と記し「一代に□タラの木手をかけかえさずば 諸厄諸病をすくい取らんや 紅花を蒔かず我を祈るなり 産の苦難に遭わざりしに 右の御序を披露め給うにより 御禁物品々をかたくいましめ神心すれば何成り共心願成就させしめんと 古四王大権現様の御利益 後の世迄も正に輝けり」とあります。
 このあとに、「安政七庚申年二月吉日書之敬白」「甲秀山古四王大権現 略印」とあります。
 この文書が誰によって書かれたのか記されていないようです。

 あれもこれもの幅広い御利益とそれと引き換えのように禁じられる事と守るべき事が記されています。
 信仰のありようの一端がうかがえるようです。
 □タラの木は、タラの芽で知られる木でしょう。

 毘沙門天と禅尼子童子と吉祥天について、円泉寺様の2018年12月30日のブログにも記載があります。
 吉祥天女は毘沙門天の后または妹とされているそうです。
 禅尼子童子(善膩師童子)は毘沙門天と吉祥天の末子ということです。
 甲秀山古四王大権現では、この三尊形式で祀られていたのでしょうか。

                                     《 2021年12月 記 》


《探訪の記録》
※2023ー05−27
◇植田古四王神社に向う
 ナビの目的地を植田集落内の「羽後植田郵便局」の電話番号で設定して、向いました。
 ナビのルートに従って県道13号を走行して、古四王神社の東側の交差点から右折して集落内に入ったのですが、左側にある古四王神社には気付かずに、右側の大きなふたつの石碑(土地改良の碑)を見て右折しました。
 目的地に到着して、集落内をあちこち回ってみてから、集落内の道を南に古四王神社の方向へ車を進めました。そうすると先ほど気になった大きな石碑の所に出て、十字路を右折するとすぐ左に古四王神社の社号碑がありました。ここだったのかと、先ほど何故気付かなかったのか不思議に思いました。
 車をなるべく邪魔にならないであろう場所に駐車して、古四王神社の社号碑の所に向います。

*植田の古四王神社は、菅江真澄の編纂した藩命による初めての地誌『雪の出羽路平鹿郡』で最初に記述される「古四王宮」です。
 そのためか、植田の「古四王宮」の項目では、植田古四王宮の由緒ばかりでなく、秋田郡寺内村の古四王宮やその他にもある古四王宮に関連する様々な事柄が記されており、それらは古四王神社を考える上で重要な記述となっていると思います。
 それらもあって、植田古四王神社は情報が多く、検討課題も多い神社であり、著名な古四王神社のひとつと思います。
 以下『地誌』と記した場合は、菅江真澄の地誌『雪の出羽路平鹿郡』を指すものとします。

◇植田古四王神社
 実際の訪問時には、目に入る対象物のひとつひとつをしっかりメモを取ったりして確認しているわけではなく、とりあえず写真を撮っておくことが多いのが実情です。
 この《探訪の記録》は、探訪後に撮ってきた写真や入手した資料などを見ながら、探訪を再確認して記録として文章化を試みたものです。
*参道:
 古四王神社の参道は、県道13号から斜めについていて、県道13号はこの先で大きく右にカーブして田圃の間を通っていますので、この県道は新しく付けられた道で、この道が出来た事で参道が県道から始まっているような形になったのだろうと思います。
*東西方向に通る参道(以下、東西参道)に向おうとすると、境内に「秋田県指定文化財 木像多聞天立像」とある白い案内柱が立っています。東西参道に入ると、左側に案内看板があって、そこには「秋田県重要文化財指定 古四王神社 祭事執行御案内」とあって、交通安全祈願・七五三詣・厄払祈願・等が記されて「祭事執行ご希望の方は社務所(大石宮司宅)へお申し出下さい」とあり電話番号が記されています。現在の宮司さんが大石さんだと知りました。
 次に、右側に古四王神社の立派な社号碑があります。基壇が組まれ、自然石の礎石を置いたうえに碑が立てられています。
 その社号碑の向って右(北)横には水路があって、さらに県道13号からの農道もあります。
 社号碑から石の一の鳥居までの間にも、右側に「出羽三山碑」、左側にその碑より大きい中央に「大先達大石キヨ子」とある「三山参宮記念碑」があり、次に変わった形の碑があり、碑の幅広面に「柴田氏の碑」他面に「石造大鳥居建立紀念碑」とあります。
 参道の両脇の地面に狛犬が向き合わずに参道に並行におります。
 古四王神社の額があがる石鳥居は補強が施されています。
 鳥居をくぐると、左側に様々な碑が十程も並んでいます。参道の先には「足尾山」額の上がる祠があり、東西参道はここで左に直角に曲がって南北に通る参道(以下、南北参道)になります。曲がる前の東西参道の右側には三碑程あります。 東西参道の左側に整然と様々な碑が並んでいることもあって、もしかすると参道が曲がっていることも県道13号のせいなのだろうかという疑問が生じました。

 左上: 東西参道・社号碑                   右上: 出羽三山碑(右)など
 左下: 石鳥居の前後                        右下: 石鳥居の先の東西参道左側    

*南北参道に曲がると、二の鳥居になる黒色の両部鳥居があり、その先に社殿が見えます。
 ウエッブサイト『城郭放浪記』の「出羽 植田城」の掲載写真のなかにこの二の鳥居の写真がありますが、色が茶系で社額も無いのですが同じ鳥居のようです。また一の鳥居には補強がありません。これらの写真は最終訪問日が2009年9月となっていますので、その時のものではないでしょうか。《 https://www.hb.pei.jp/shiro/dewa/ueda-jyo/ 》
 また、サイト『中世の秋田を歩く』の「小鼓城」の掲載写真では二の鳥居が無く、鳥居の柱の根元部分だけが写っているように見えます。こちらの訪問日は2008年5月ですので、建て替えられたのでしょうか。
 二の鳥居の袖柱についていた銘板を読んでこなかったので、詳しいことが分りません。
 《 https://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/zyuumonzi/kozutumi.html 》

 鳥居を入ると、参道の左側に「寄附人名」碑があり、石灯籠が火袋の無いものを含めて三基、手前の灯籠の竿と基礎とも見えるものを含めれば四基が左右に並んでいます。
 なお、写真はまとめて別途写真のページに載せます。

*由来の碑:
 参道の右側の社殿の前に、「古四王神社と小鼓城の由来」と題された、鋳物で文面を記したような案内版を石に組み込んだ碑(モニュメント)があります。
 由来の文面は、本記事の「◎所在地情報」部分に記載した『秋田県神社庁HP』の「由緒」の文面と同じで「文亀元年」から「今の古四王神社である。(秋田叢書・記述抜粋)」までの文面です。
 この文面に続いて「奉納 / 昭和六十年九月八日古四王神社四百二十五年大祭記念」とあって、「〈割書〉大石誉九郎定景嫡流/多聞兵衛元興十七世 大石雅一」の名前があり、他に「子孫 越前」とある二名の大石氏と「外 大石一族有志」と記されています。
 この「(秋田叢書・記述抜粋)」というのは、『秋田叢書 第六巻』の菅江真澄の「雪の出羽路 平鹿郡(中)」の「九巻 植田村」の項目「古四王宮」の記述を元にしたものと思われますが、「抜粋」にとどまらず編集されたものになるようです。
 「九巻 植田村」の項目「古四王宮」の記述内容も「◎所在地情報」部分に記載しておりますので、ご参照下さい。
 奉納者名のところにある「大石誉九郎定景」はこの「由緒」に記されているように小鼓城の城主ですし、「多聞兵衛元興」は別当の多宝院に関連する名前になります。
 これらについては、《探訪の整理》で記したいと思います。

*社殿:
 南北参道の正面の社殿は拝殿になるのでしょうが、お寺の御堂のような印象の、寄棟屋根で向拝というより玄関のような唐破風が正面中央にあります。幅は七間でしょうか。屋根は金属板で葺かれています。北側を向いています。
 拝殿の扉は四枚の引戸で、戸の上半分くらいが格子でガラスが入っています。
 建物正面の左右の外壁は、上部の白壁の部分には「奉納 古四王神社」「奉納 古四王神社祭典」などの奉納木札が並んで飾られています。 外壁の中程にはトタンと思われるものが貼られていますが、開口部をトタンで覆ったものなのか外壁の補強のためのものなのか分りません。 外壁下部もトタンで覆われています。 
 拝殿の向って左(東)の側面は四間幅で、先ず基礎にのる土台のところから高さ一間程がトタンになっていて小さな南京錠が付いていますので、手前の一間は開口部と思われます。
 上部の白壁のところには、建物幅の半分のところまで奉納木札が飾られています。
 奥の三間の側面は中央部にトタンが貼られており、下部は下見板です。
 次に、拝殿より小さい入母屋造りの社殿が拝殿から廊下状のものによって続いています。
 この社殿は、後方に「現在の奥殿は明治29年に上棟されたものである」とあった「奥殿」があるので、弊殿とされています。
 組物から下の部分はブルーシートで覆われていて、ブロック塀が周囲を囲っています。
 弊殿のこちらの側(東)の両角の柱の組物の隅木の所に力士像(頭がない状態)があったそうですが、確認できませんでした。
 これは、ウェブサイト『秋田県WEB観光案内所(ホーム)』の『秋田県建築力士像(社寺建築彫刻)』及び『古四王神社(横手市)』に拠っています。
 『古四王神社(横手市)』にブルーシートに覆われていない弊殿と力士像や奥殿などの写真があります。
 《 https://www.akitabi.com/rikisi.html 》
 《 https://www.akitabi.com/rikisi-gazo/kosiou.html 》

 奥殿は、入母屋屋根の下は透明波板の囲いに覆われています。
 奥殿が明治の建物であれば、弊殿や拝殿は江戸期の建物なのでしょうか。
 明治の奥殿以前に奥殿はあったのでしょうか。奥殿を新たに造ったのであれば、現在の弊殿が本殿であったのでしょう。
 境内の東側には、「十文字町の古木 ケヤキ」があって、境内の東側を通っている道路につながる道(脇参道でしょうか)があります。
 拝殿の向って右側(西)は、上部白壁に奉納木札がなく、手前の一間に開口部と思えるトタンの戸のようなものがあり、奥三間の側面の中央部分はブルーシートが覆っています。
 拝殿の側面の手前の左右に開口部があるとすると、拝殿の手前側に土間の部分でもあるのでしょうか。 
 こちらの側には、拝殿の後方から弊殿にかけて、別の建物があります。この建物が何であるか不明です。
 境内の西側の空地には、小さな祠(中の石像は「山神像」のようです)、石像、北辰妙見大菩薩石碑、青面金剛像が彫られた石塔があり、トタン張の倉庫のようなものがあり、そこに棒のついた奉納木札がいくつも逆さに立てかけてありました。

○神社境内の石碑・石造物については『十文字町の石造物』(編集 十文字地方史研究会 発行 十文字町教育委員会 平1・1989)をご参照いただければ幸いです。
 この本の「記(紀)念碑 他」の項目に掲載されていた「御神像秋田県重要文化財指定記念」碑(昭和三十四年造立)という高さが240センチもある碑を、見落としたのでしょうか確認していません。

※写真のページは下のリンク(文字列又はNextボタン)をクリックしてください。
 【植田 古四王神社 写真】 
  

*境内南側:
 境内東側の道路に出て南へ行くと右に行く道があり境内の南側を区切っています。右への道を進むと境内地の道路脇に南向きに鳥居があり少し奥に祠がありました。
 古四王神社と背中合わせの線からは外れているようですが、ここにあるということは熊野神社ではないかと思いますが、社名などは無く、明確なことは分りません。
 祠の横に、変わった種子の庚申塔と出羽三山供養塔の石碑と残欠のような石があります。

 左: 道路から鳥居と社殿を撮る は古四王神社の社殿      右: 庚申塔ほか


*小鼓城の記念施設:
 県道13号(主要地方道湯沢雄物川大曲線)を古四王神社を過ぎて右にカーブして北(護昌寺の方)へ向うと、道路右手の田圃の中に小鼓城の記念施設があらわれます。
 周りは田圃で、この小さな施設以外には城跡の遺構も何も無いようです。
 この辺りに小鼓城があり、その辰巳のほうに毘沙門天を古四王として祀っていたのでしょう。
 施設区画は、石垣で囲い盛土された部分を中心とするようですが、石垣の上は低木などが茂っていて何があるのか分りません。枯木が見えますが、木は石垣の背後にあるようです。
 区画の左角に「史跡 小鼓城と古四王神社の由来」とある石柱が基壇のうえに立てられていますが、近寄れないため由来がどこに記されているのか分りません。
 『城郭放浪記』の「出羽 植田城」で確認してみると、石垣の上には植栽と石碑があります。枯木は松だったようです。 
 『十文字町の石造物』の項目「記(紀)念碑 他」にこの石碑のことが「史跡碑」として記載されていました。
 それによると、碑陽に「小鼓城跡/古四王神社社蹟」の二行の刻字、碑陰は「 此地所売買ヲ禁ズ/多門兵衛元興第十二世大石寛蔵建立/明治三十七年九月」とあるそうです。
 記念施設の写真を載せます。


〔屋敷神 植田地区 古四王神社〕
*『十文字町の神社と寺院』の「屋敷神(氏神)一覧」の「植田地区」の「二ツ橋」に記載されていた、個人が祀る古四王神社を訪ねてみたいと思います。 
 二ツ橋は古くに開けた所とのことですし、T姓の家が旧家のひとつに数えられているようです。
 この集落に多くのT姓の家があり、古四王神社を祀る家もT様です。
 訪ね、聞いて、行き着くことができました。
 折良く奥様がご在宅で、ご親切にもご自宅の敷地の奥の方の社殿にご案内いただき、お話をうかがうことが出来ました。
 木造の金属板葺き入母屋で向拝と階が設けられた小社殿が、周囲を透明波板で囲われており、正面は波板の両開きの戸がついていました。
 戸を開けてくださいますと、注連縄に紙垂がさげられています。
 木材の色からは新しいように見えます。
 お話によりますと、昔から祠があったそうです。ご主人様のお父様が小社殿を建立し、ご主人様が今の社殿に建て替えられたそうです。
 正月に、古四王神社の大石神主に来てもらって春祈祷を行っているそうです。
 植田の古四王神社を勧請したものではないかとのことです。

 社殿だけを正面から写した写真は、なぜか補正がきかない程のピンボケでした。その写真と側面からの写真を載せたいと思います。周囲をぼかす処置をしています。

〔屋敷神 睦合福島 宝古四王大神〕
*『十文字町史』-「第七章第二節」の「地区別氏神屋敷神集計表」に「宝古四王大神」が「十文字・三重・植田・睦合」のなかで「睦合」に1社あることが記され、それは「地区別氏神、屋敷神調査表」で見ると「福島」地区に「宝古四王大神」があると記されています。
 『十文字町の神社と寺院』の「屋敷神(氏神)一覧」では「睦合地区」の「町内・集落名」分類のなかに「福島」がありますが、そこに「宝古四王大神」は無く「竜神社」とされているようです。
 住所表示を見ると、十文字町睦合に上福島・中福島・中福島川原・下福島川原があります。
 地図を見ると集落のあるのは、中福島のようですので、先ずはそこに行って聞いてみることにします。
 睦合中福島には、県道13号から県道57号に進み、雄物川(皆瀬川が雄物川と合流して雄物川に)を今泉橋で渡ってから、右折して砂出を通って行くことになります。
 ここを古四王神社の元の社地とするには、植田からは雄物川を渡らなければならないので、ふさわしいと言えないように思いますが、「宝古四王大神」が祀られているという情報がありますので、元の社地の候補地から外せないように思います。
*中福島の集落をぐるぐるとめぐってみますと、屋敷神を祀っている家があちこちにありました。
 そういうお宅を訪ねて、『十文字町史』による資料のコピーを見てもらってご存知ないかお聞きしてみたのですが、ご存知ない方もお留守の家もありましたが、お聞きできた三軒目の家の方に○○さんかも知れないと教えて頂く事ができました。
 そちらを訪ねると新しいお住まいと見受けられました。お留守でどなたもいらっしゃらないようでした。
 敷地内に屋敷神としは大きな社殿がひとつありましたので、そちらをお参りさせて頂いて出直そうとしたところ、折良くご主人が軽トラに乗って戻ってこられました。
 お訪ねした趣旨をお話いたしたところ、敷地内の社殿ではなく少し離れた道路沿いの場所に祀ってある石祠がそうだと教えて頂きました。
 その石祠は、宝古四王大神でしょうか竜神様でしょうかとお聞きしたところ、どちらでもあるというようなお話でした。
 宝古四王大神の幟旗があるそうです。竜神社のものは無いそうです。
 謂れやいつから祀られているかは不明とのことです。 
 植田の古四王神社は、元は福島にあったというような話は知らないし、植田の古四王神社の方がここより古いのだろうとのことでした。
 石祠の近くには、ご主人の子供の頃には幅2メートル程の川が流れていて小さな池もあったことを覚えておいでとのことです。その川は雄物川から流れていたとのことで、雄物川からものが流れてくる可能性もあるようです。川があって竜神を祀っているのかも知れません。
 そのようなこともお聞きしましたが、植田古四王神社の御神体はかつてこの地に祀られていたというような伝承はないようですし、実際に雄物川の長い橋を渡ってこの地を訪ねてみると、ここが元の社地という可能性は低いように感じます。

*中福島集落の南側の道の東のほうにある石祠に行ってみました。
 集落内の道と農道との変則的な交差点があり、農道の横に石祠の境内があります。鳥居と参道があります。集落が北側にあり、石祠は北に向いています。石祠の背後には木立があります。
 石祠の所在地は、中福島の住所範囲の外になるようです。
 石祠は、比較的平らながら反りの加工がある屋根があり、そこに錘台状の石が載っています。錘台の上部に小さな突起がありますので、錘台の上に何かが載っていたのかも知れません。
 祠の胴部は屋根石と色が違うので材質が異なるようです。胴部に四角の室が開口していますが、中には何もありません。胴部の下の基礎石の上に半球形の石が置かれていますので、この石が錘台の上に載るのかも知れません。
 基礎石の下の基壇部分の石は磨かれた御影石ですから、新しくされたようです。その下にコンクリートの土台があります。蝋燭立てが置かれています。
 石祠の大きさは、屋根幅が二尺程、基壇幅も二尺程で、錘台状の上から基礎石の下まで高さはおおよそ1メートルくらいでしょうか。
 背後の杉の木の横に、傾いているブロック組の基壇のようなものがあるので、石祠は以前はこの木の下にあったのかもしれないと思います。まったくの勘違いかも知れません。
 この石祠は何度か補修されて大事に維持されているようです。
 石祠の写真を載せます。カシミール3Dの解説本の地図の福島に鳥居のマークがありましたので、鳥居マークの位置と石祠の位置は微妙に違いますが、参考に載せておきます。
*追記(2023ー11ー15)
幟旗の写真を送っていただきました。
「宝四王大明神」とあります。
写真では見えていませんが、旗の上部に横書き
で「奉納」とあるようです。
年月日は「昭和四十六年 / 旧四月八日」で、
この幟旗の奉納日でしょう。
旗の周りはアスファルトのようです。わざわざ旗
を広げて写真を撮っていただいたようです。


旗の文字は、十文字町史にあった「宝古四王大
神」ではありませんでした。

町史は平成8年発行ですが、屋敷神を調査した
年月は不明ですが、聞き取りによって「宝古四
王大神」とされたものと思われます。





 このあと、十文字歴史資料展示室・十文字図書館に行き、「木造多聞天立像」の写真を見たり、『植田の話』をざっとですが見ることができましたので、後日図書館相互貸借でお借りして読ませて頂きました。


《探訪の整理》
*『出羽実録 植田の話』(近 泰知/著 十文字町地方史研究会/編 国安 寛/解題 秋田文化出版社 昭60・1985)の記載によって、探訪で見聞したことを整理していきたいと思います。(以下、『話』と表記)
 この稀に見る著作に敬意の念を禁じ得ませんし、出版に尽力された方々に感謝いたします。
 〈この本は、国立国会図書館デジタルコレクションの「個人向けデジタル化資料送信サービス」で閲覧可能です。〉 
 巻頭の「著者の弁」のなかに「本書の記録は明治三十七年を以て擱筆せしも、往々一事実に関し聴き得たる部分の記入を為せるものあり。ねがわくは諒恕せられん事を。」とありますので、長年に渡って手を加えられていたことがうかがわれます。

*先ず植田集落について見ると、「第一章総説」・「十三(一)」の植田についての記述に「古より田の村という字あり(家七軒)、今の多宝院の居所といえり(明治三十七年九月古四王社東に移転、其趾に碑建つ)、村に南北の通路二条あり、西を表町といい(元小鼓城あるを以て表町とすといえり)東を裏町という。表町と裏町との中程に通路あり衝貫ツキヌキと称し、昔城主大石駿河守藤原定景の馬場なりしという。」、「植田表町裏町の追分八日市に達する処に」などがあります。
 多宝院のあった場所の情報があり、表町の通りと裏町の通りが合わさって一本の通りになった先から古四王神社に向う道の辺りが八日市になるようです。

◇古四王神社に関して:
 『話』-「第四章神社・仏閣」の項目「古四王神社(甲秀山と称す)」に「明治三十年/ 鎮守/ 古四王神社/ 奥殿新築/ 護遷宮/ 当時乃図」という絵図があります。〈 / =改行。 以下同じ〉
 この絵図の構図は、古四王神社の境内を東側からやや俯瞰して見ています。
 境内の東側を通る植田集落から続く道路(西馬音内街道)(以下、街道)が、画面の下部を右端から左端まで横切っています。
 この街道から東西に通る参道があります。この東西参道は、県道13号の開通とは関係なく、遅くとも明治の時代にはあったわけです。
 主要道路からの参拝のためにある参道と思います。
 参道入口に石柱の門が立ち(この門は「下馬門」と称されるもよう)、門の左側には柵の囲いのなかに高札が立っています。
 この高札は「定 / 一、車馬ヲ乗入ルゝ事 / 一、魚鳥ヲ捕フル事/ 一、竹木ヲ伐ル事/ 右条々於境内令禁止者也 / 明治三十年五月/ 秋田県」という禁制札のようです。
 大先達の碑はありません。門を入って右側に「出羽三山碑」(慶応二年)があります。この梵字を刻んである碑を廃仏毀釈令から守った逸話が記されていました。
 東西参道には正面を向いた「唐獅子」、石鳥居があり、参道の突き当りに社殿があります。
 石鳥居については、「嘉永六(1853)年四月七日、土田重蔵石造の大鳥居を寄進、秋田六郡中其の比を見ず。」とあります。石鳥居は雪で崩れたり、明治二十九年八月三十一日の大地震で壊倒破損したものの(この地震では他の社殿等には損害がなかったようです)、明治三十九年「『セメント』を以て、継合せ修繕建築せり。」とのことです。
 この石鳥居が、現在の石鳥居なのでしょうか。「石造大鳥居建立紀念碑」の文面を記録してこなかったのが悔やまれます。
 狛犬は「慶応二(1866)年四月八日、石の鳥居の左右に高橋庄右衛門外十六名にて、石造の大唐獅子を寄進」とあります。
 突き当りの社殿は「足尾山神社なり。」とあります。
 東西参道は足尾山神社の手前で南向きに折れ曲がります。曲がると石橋がかかる川が西から東に流れていますが、境内で川は向きを変え境内の東側を南流しています。この川も橋も今はありません。
 「御石橋」を渡ると鳥居があり、その先に門でしょうか、随神門のようなものがあり、現在の拝殿は無く、向拝のある入母屋の社殿があり、長床のような建物でつながる奥殿があります。奥殿も向拝のある入母屋社殿に見えます。長床と奥殿は瑞垣がめぐっています。
 奥殿の前にある入母屋社殿はこの時代には拝殿なのでしょう。
 『話』の小項目「奥殿の新建立 金堂安置」に、「明治二十九年一月、信徒御神徳に酬い奉らんとして、数千金を拠出し、明治二十九年四月二十二日奥殿棟上式を謹行し、奥殿の新築拝殿の葺替(是まで萱葺なりしを木羽葺に改めたり)をなし、鉄製の美麗なる金堂に御神体を安置し奉るべく構を替え、〈中略〉。東方隣地田地を変換して、境内芝生附属地となし、土手を廻らし松桜を植え境内を均らし、多羅の木(□桜の右側が妥=タラ)林を造る等一新面目を改めたりき。此の挙は近熊兵衛与て尽力せし事は諸人の已に認むる処なりき。」とあり、「明治二十九年境内附属地として、社の東方に近熊兵衛の寄附せる田地を埋立て、東南北の三方に土手を廻らし、堤の内に桜樹を植え、外には松樹を移したるを以て」がありますので、奥殿新築の折に、御神体安置のための鉄製金堂を設置し、以前からあった社殿の屋根の葺替えを行い、さらに境内東側の川と道路の間には田圃があったのでしょうが、それを芝生の土地にして道路脇に土手を廻らして松と桜を植えたもようです。それ以前の境内の東側は川までだったのを道路まで拡張したのでしょう。
 境内には□〈木偏に妥=タラ〉の林を造ったそうですが、樹木に素養もなく、わかりませんでした。
 同じく小項目「御遷宮」に、「時維明治二十九年五月十八日(旧四月六日)多宝院にまします御神体御遷坐、多宝院大石寛蔵御神体を負い奉り、社掌氏子総代奉仕不肖泰知も之に加わり、掛巻も畏き、御神体を眼のあたり拝し奉れり。明治三十年五月九日(旧四月八日)新建立落成に付、右御遷坐祭〈略〉」があります。
 御神体は「木造多聞天立像」ということでしょうが、古四王宮ではなく多宝院のほうに安置されていたのでしょうか。奥殿建築に伴い一時的に多宝院に安置されたのでしょうか。
 またここには「社掌」が記されています。 
 境内東側を流れる川の、拝殿の横にあたる位置に簡易な橋がかかり街道に通じる道があり、街道との境には二本の門柱があります。これは「古四王社境内の『蒼弥白椙』」という小項目に「古四王社東方冬日参道」という記載がありますので、雪の冬用の近道ということでしょうか。
 奥殿の背後(南側)には、熊野神社の社殿や境内社があります。奥殿と熊野神社の距離は近く、背中合わせです。両社の境内の境になるのでしょうか、明治二十九年に廻らせたものでしょうか土手がありますが、中程で途切れていて行き来できるようにされているようです。
 境内の西側に大木が数本描かれており、そのうちの二本の木の間に境内社があり、その左右に小祠や石碑があります。
 小項目「末社」に、「神明社 宝暦十四(1764)年棟札を打たり云々(括弧内略)此の御宮は大破に及びて、明治十二年十一月元の如く東向きに御改築をなせり。」とありますので、境内社は「神明社」ということで、絵図があります。神明社の階段前に「宝暦十四年、社殿と共に記念樹として左右に杉二本植付けたるもの現今、目通の処、回り南七尺五寸七分、回り北七尺三寸五分となり轟々として枝葉繁茂せり。昭和二十三年夏其の南一本を伐採せり。」とあります。描かれているのはその二本の杉となります。
 神明社の南側には庚申塔・五庚申塔(石造)・ 不動明王(石造)・ 行司稲荷神社・ 天満天神社・ 山神社があり、北側には観世音石像・三庚申像(石)・ 庚申塔・三庚申像(石)・妙見塔・太平山足尾山塔(石像)があるそうです。
 この神明社は、明治四十三年に古四王神社に合祀されています。今は社殿は無く、行司稲荷神社・ 天満天神社・ 山神社や石造物の幾つかは分りませんでした。東西参道脇に移されたものもあるのではないかと思います。「三庚申像(石)」とあるのは、青面金剛像の彫られた塔のことでしょうか。
 神明社は、倉庫のような建物のあった辺りになるのでしょうか。
 絵図の下部の街道には、絵図右端で橋がかかっていて、流れる川は、絵図では石鳥居の右側辺りで二本の流れになって右に曲がっていて、画面の北側から流れてきています。県道13号のカーブに似ているようです。
 現在の東西参道の古四王神社碑の右横にあった水路は、この川の変遷後の水路になるのでしょうか。
 明治三十年当時の絵図の後、「明治三十五年九月二十八日午後より未曾有の大颶風グフウ(括弧内略)あり。社内東方の杉大木三十余本倒れ、拝殿神楽殿等の屋根、二の鳥居(木造)を毀ちたりしは〈略〉」とあり、「明治三十六年九月二十七日(旧八月七日)拝殿、神楽殿、二の鳥居修繕工事出来秋季大祭を執行せり。」があります。
 明治三十五年の「神楽殿」というのは、神楽殿についての初めての記載になると思いますので、絵図では随神門のように見えた建物のことと考えるしかないと思います。神楽殿を修繕したということでしょうから、移築でも改築でも再建でもないわけですので、神楽殿は二の鳥居と拝殿の間にあったことになりますが、今はそのような建物はありません。
 神楽殿はなくなり、それにかえて現在の一番北側の御堂のような社殿を造ったのでしょうか。その建物を拝殿と記してきましたが、神楽殿なのでしょうか。
 いろいろの変遷を経てきているのでしょうが、この建物についての情報がありませんので、経緯が分りません。

*『菅江真澄全集第六巻』で『雪の出羽路平鹿郡』-「植田村」に収録される図絵(モノクロ印刷)と説明文の「古四王ノ杜」部分を見ると、寄棟萱葺屋根の社殿が一棟あって本殿や神楽殿などは見えず、末社の神明宮と雷社があります。
 真澄は「北向の神也」と記していますが、描かれている両部鳥居のところに「北」とあって、その鳥居から進んで右に曲がって社殿があるように見えます。モノクロで図絵が見にくいこともあって、位置関係が腑に落ちませんが、この当時は北向きの鳥居と参道があって東西参道はないもようです。
*また、古四王宮がかつてあったとされる「福島といふ村」は、睦合の福島では雄物川の対岸になるので、小鼓城の城主の「小鷹狩」の場所としてふさわしくないので、『地誌』-「植田村」で廃村とされていた植田村の枝郷の福島のほうが、福島の場所がどのあたりかは分りませんが皆瀬川の右岸でしょうから、小鼓城との位置関係からすると可能性が高いように思えます。
 その福島村で祀られていた毘沙門天は、祠から「まろび出て」拾いあげられて小鼓城の辰巳の堂に祀られたのであって、大舘の古四王社から洪水で流されて葦原に30年程もうち捨てられていたら、木像ですので腐蝕してしまったでしょう。
 洪水で流されてきた御神体を福島の人が祠を建てて祀ったのかもしれませんが、そのようなことは伝わっていないようです。

◇多宝院について:
 『地誌』の植田村の項目「古四王宮」には、「多宝院の三世に当る高勝坊兵火の中に飛入り、この古四王の尊像を命にかけてもり奉りて、小鼓が城を逃れ出て」、「世の乱しづまりしかば植田に立帰り来て、〈中略〉年を経て、ふたゝび古四王殿を営み建しは高勝坊が勲功也。」とあり、項目「多宝院累代」には「四世高勝坊。此高勝坊より修験道に入り、〈中略〉、萬治元年〈1658〉戊戌八月廿三日六十九歳遷化。」とあります。
 『話』では「第一章・一」に「天和二(1682)年植田古四王神社建立、その後二十四年を経て宝永二(1705)年閏四月八日御遷宮祭。」とあり、別に「大石家古書に曰く」として「当社天和二年戌年当村市右衛門と申者改建次に宝永二酉年改建三間四面二重垂木作棟梁は〈中略〉閏四月八日遷宮」の記載があります。
 文禄五年(1598)の小鼓城落城とされていますが、大石家の口伝には「植田落城は戦より三日目の天正十七(1589)年霜月十日なりと。」とあるそうです。
 この落城は「高勝坊四歳の時にて母方舅高勝坊を懐にして兵火に飛び込み、尊体を守り奉りてひそかに逃れ出て、山間に隠れ世の静まるを待て植田に帰り、信者の力をかり、再び古四王殿を熊野の杜の北に北向に営み奉り、当社家となりて永く大神につかえまつれり。」の記載があります。記述を追っても、よく分りません。
 同書「第五章宗教」の項目「多宝院」は、書出しに「甲秀山多宝院は植田村西方田ノ村にあり(今は大石寛蔵という)元祖年代未詳、代々社家にして、植田村熊野山別当たり。其の秘蔵する宝物の古き神楽太鼓の胴内に『大檀那大石氏定景御寄進天正弐甲戌正月十五日(雪の出羽路に正月七日とあり誤也)羽州平鹿郡植田村熊野山別当藤原氏兵部大夫祐次作之』と書きたるを以て、此の祐次を鼻祖とすべきは当を得たりとして、雪の出羽路に第一世と書き記せり。されど多宝院にては多門兵衛元興を上祖とせり、故に多宝院の古記録により茲に記載せり。」と記しています。真澄の記した項目「多宝院累代」に「四世高勝坊」とあったのはその為ということになります。
 多宝院の古記録による記載は、小項目「当社別当代々系(明和二年〈1765〉乙酉書上)」となっています。この書上げは、菅江真澄の『雪の出羽路 平鹿郡』の巡村調査より60年程前のものになります。
 「当社別当代々系」からかいつまんで記せば、「第一世 多門元興」「城主与九郎次の子、熊野山、古四王寺両社別当也。元禄年中送号を修験に直す。多門兵衛元興也」。「第二世 多門定興 天正十七(1589)年己丑霜月九日戦死す 此の時御城没落」。「第三世 高勝修験 万治元(1658)年戊戌八月二十三日六十九歳にて遷化 四歳の頃御城戦 母方の舅懐逃助命 静謐折本所へ帰り 旦那場祈祷勤 両社別当相勤」とあり、「第四世 権大僧都青円」、この四世の記事に「泰知古書追加『高勝子青円峯中修行め多宝院と申也〈略〉」とある著者による古書追加が記され、そのあとに「(多宝院となる)」とあります。
 「第十四世 大石一角」の時「御一新御布告遵奉明治庚午三月復飾大石一角と改蒙神主号御許可」と復飾して神主になっています。
 「第十五世 大石寛蔵」は「明治二十四年十二月十五日旧多宝院の後嗣となる。」とあります。古四王神社拝殿前の「由緒碑」にあった「大石雅一」氏は一代おいて第十七世となるようです。

 小鼓城の城主と多宝院の関係について、「植田城主定景戦死前に、既に弟元興社家多宝院を嗣ぎ、その子多門定興植田落城の時戦死、其の子高勝坊四歳母の父と共に逃げ、長じて多宝院を興す。茲に於て城主戦死により後嗣なく断絶せり。」とあります。
 著者による「〈因記〉城主と多宝院を混同すべからず。〈略〉城主の弟は多宝院の家を嗣ぎ、而して、城主戦死により嗣なく断絶し、多宝院城主の血胤として今日に伝う。」があります。

*多宝院及び小鼓城趾の小絵図(頁の半分)が4枚と頁1枚の絵図が1枚と「明治二十八年 植田小鼓城趾 想像図」という上から見た地図があります。
 これらによると、田ノ村の地域に小鼓城の趾があり、城の東南角に多宝院があります。
 城の東南は城主が祀った古四王宮があった場所で、そのあとに多宝院があることになります。
 多宝院の南東側に大きな樅の木があり柳のようなものも描かれていて、川が流れています。城趾には、城主の庭泉と伝わる「市左衛門清水」があります。 しかし、真澄の記した「柳清水」については一切触れられていません。
 城趾区域北東に隣接して護昌寺があります。 
 八日市を通って古四王神社東側を通る道の他に、多宝院の東側から南にまっすぐ古四王社まで「宮道」と記された道が通じています。
 『地誌』-「植田村」の小項目「田野村」に「群邑記に、田野村家員五軒(享保年中)と見えたり、今は修験多宝院一戸也。其家どもの跡は田とひらけたり。此小田の中路より、古四王宮の前に直にいたる。」があります。 
 多宝院が古四王神社の東側に移転した後の絵図があり、多宝院のあった場所に東に向いた石碑と松が描かれています。
 この石碑は、項目「*小鼓城の記念施設」で記した「小鼓城跡/古四王神社社蹟」碑です。枯れていた松はこの絵の松なのでしょうか。
 『話』にも碑の文面が記されている絵がありますが、「多門兵衛元興第十二世大石寛蔵建立」とあります。十五世と三代の違いはどこからきているのでしょう。
 この碑は現在、田圃のなかの記念施設に西向きに立っていると思いますので、記念施設を造るときに県道13号に向けたのでしょう。この記念施設が何時整備されたかは分りません。
 これらからすると、記念施設の場所はかつて多宝院があった場所ではないでしょうか。
 それらの場所を、カシミール3D・解説本の地図に書入れてみました。が記念施設です。


*国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で植田周辺の空中写真を探すと「撮影地域:浅舞、撮影年月日:1948/10/08(昭23)」という米軍撮影の写真がありました。その写真から植田周辺を切り取ったものが上の写真です。
 これによると、古四王神社の北側には道はなく、植田集落から羽場集落に通じる道が古四王神社の東側を北北東から南南西へ斜めに通っています。写真を拡大してみると多宝院跡ではないかと思える場所が田圃の中にあります。
 東西参道の北側を流れている川は、県道13号のカーブのような流路で北側から流れていて、北側では何本かの流れになっていて、多宝院跡付近を流れる川もあるようです。この川は、東西参道から東に流れるといくつかの川が集まり大きな川になっています。
 『全集-六』によって『雪の出羽路平鹿郡』-「植田村」の「小鼓柵」の図絵とその説明文を見ると、「小鼓ノ城ハ 植田村の表町の東北の間 護昌寺の裡にあたりぬ 凡そその広今残りて三百間もあたらむか。みな田畑と成れり」とあって、「田野村の一戸ヒトツヤ 多宝院」と「古四王ノ杜 真熊野ノ杜」が描かれ、その位置関係が示されています。

◇菅江真澄に関して:
 『話』-「著者の弁」に「明治二十一年、余十八歳の時まで熊兵衛翁方に寄食中、小学校助手となる。この年同家嫡男雄平氏の勧めにより『植田の話』著作に着手せり。明治二十八年春、高橋庄右衛門家に伝わる秘書『雪の出羽路』を見せられ雀躍して之を書写せり。明治三十二年年春、雄平氏『秋田沿革史』という二冊もの秋田より買入れ参考書として泰知に寄贈せられ、実在の老師に侍する心地す。」とあります。
*小項目「真澄翁の事」に「泰知再誌。古四王神社の事は、真澄翁植田邑にて自ら信ずる処を考査し詳細を極めたり。而して他の古四王社に就いては一も記するなし。読者能く『雪の出羽路』門田の早苗を謹誦せらるべし。/ 又誌 真澄翁の事書き誌したる序でに、植田村親郷肝煎は、雪の出羽路門田の早苗巻末に左の如く誌せり。藩公の命なるを知るに足る。/ 此の書は三河の国の産菅江真澄と申人御上より回村被仰付当所に二十八日御宿御賄手形にて御逗留寄郷肝煎為呼寄其他寺院由緒有之者相尋書取御上へ差上候/ 文政八乙酉6月 高橋荘兵衛(親郷肝煎 高橋庄右衛門のこと也)/ として写本に彩色を施せる絵画ある一冊を現今所持せり」が記載されていました。
 菅江真澄の地誌編纂のための巡村調査の様子が、受入れ側の記録として記されています。
 『地誌』で「植田村」は「里長 荘兵衛」とありましたが、里長とは高橋荘兵衛で、その家は「彩色を施せる絵画」のある「雪の出羽路門田の早苗」巻を所持しているのですから、その巻は協力の御礼に真澄から送られたものかもしれないと思います。
 『話』で「旧家として」記されている中に、「高橋庄右衛門 〈略〉高橋の祖宗家なり。土田治兵衛と共に伊勢より落ち来るという」があり、系図のほうには「高橋荘右衛門」とありました。
 「旧家」の中に「近 孫右衛門〈略〉近家の祖宗家なり」があり、系図には孫右衛門の次に近伊兵衛ほかがあり、「近伊兵衛を本家とす(協定)」と記されていて、伊兵衛の次に近伊左衛門ほかがあります。
 『話』の「同家嫡男雄平氏」は「八代伊左衛門」とのことですので、「熊兵衛翁」は七代伊左衛門と思います。
 同書に「親郷肝煎は藩より帯刀を許さる。/〈因記〉功労によりて苗字を許されたる人々は、天保五年窮民救済の納金によりて苗字を、また天保七年丙申四月二十二日居下御免 高橋庄右衛門/近野伊左衛門/慶応二年御用金調達により苗字居下御免 土田重蔵/近野伊兵衛」の記載があります。
 近伊左衛門は近野伊左衛門とも称したということでしょうか。

*『地誌』では「○古四王宮」という表記で項目名としています。
 植田村の神社に関する項目は、先ず「熊野権現ノ宮」、次に「古四王宮」、そして「八幡宮」の三社です。
 この「古四王宮」は真澄が地誌の項目名としたものですので、植田集落の方達がそのように称していたとは限らないと思います。
 項目「古四王宮」の書出しは、「甲秀山古四王寺あり、此寺いにしへの社僧なンとにや。」です。「此寺いにしへの社僧なンとにや」をどのように理解すればよいのか、私には分りかねるのですが、「甲秀山古四王寺」と称す施設があるのでしょう。
 『話』に、古四王神社を甲秀山と称すがあり、甲秀山多宝院ともあります。
 『十文字町の神社と寺院』に、神仏判然令までは古四王神社は甲秀山古四王寺でありとありましたが、古四王宮はそのように呼ばれていたのでしょうか、あるいは古四王大権現などで呼ばれていたのでしょうか。
 《探訪の準備》中に記した『真言宗 智山派 梅松山 円泉寺』様のウエッブサイト〈ホーム>円泉寺便り〉2018年3月>23日 :続きを読む〉の当該ブログ記事に「古四王神社古地図」が追加されておりました。明治時代の地図のようですが、字地名が「古四王堂」とありますので、古四王堂で通っていたのかも知れません。
 また、地図には古四王神社境内の北側から東に通じる道(東西参道か)と北への道が記されています。北への道は短く、川のところまでになっていますが、北への道が残っていたようです。
 古四王神社の東側に田が記されています。 
 《 https://www.ensenji.or.jp/2018/03/23/?post_type=blog 》

 神仏習合や別当について、どういうものか実感がないので分っていないのですが、佐藤久治著『秋田の山伏修験』(秋田真宗研究会 昭48・1973)の「第四部 神仏分離」に「修験は市町村の部落(かつては村)に、少なくとも一人(一寺院)は存在し、現在の神社(かつては堂または宮か社)別当をした。そして寺院名で呼ばれた。ホーエンまたはベットウと特別に呼ばれた。/ 神社自身をも寺院名で呼んだ。一二の例をあげると、/〈例を略す〉/ の如くである。神社のほかに寺院があったのではない。神社名即ち寺院名なのである。そしてその神社即寺院を涼とする別当がいたのである。別当は修験でも社家でも村人でもかまわない。しかし修験は断然多かった。」を見ることが出来ます。
 混沌が、実感のなさになっているのでしょうか。
 多宝院というのは修験としての名で、甲秀山古四王寺はいわゆる神宮寺で、その別当を多宝院がになっていたと言うことなのでしょうか。 甲秀山古四王寺を多宝院が同じ所で運営していれば、甲秀山古四王寺と多宝院は重なった関係になるのでしょう。

*さて、藩命地誌で最初に記される植田村の古四王神社の記述は、古四王神社に関して論究し尽くそうとするかのようで、その記載の特異さを近泰知氏も感じておられるようです。 
 秋田藩の『地誌』の平鹿郡「植田村」-項目「古四王宮」に、越後国蒲原郡五十公野の古四王宮の祭神伝承についての記載があります。
 本記事の「◎所在地情報」でもこの事に触れていますが、『地誌』での五十公野の古四王宮に関する記載の全体を引用すると以下です。
 「また越後ノ国蒲原ノ郡五十公野イジミノに古四王ノ宮あり。其里の伝へには、神武天皇より十代崇神天皇ノ皇子四人おはしましゝ中に、大彦ノ尊をもて高志ノ国を鎮護しめ給ひしゆえに、此尊を齋りて古四王とはまをす。またく此神は古四王にはあらず、越皇にておはしき。されど今は真言宗の寺にものし侍れば、さは申さふらはで、唯四天王を祭るとのみ申せば、恐事ながら、大彦ノ尊の御勲功も世にしたがひてかくろいはてぬるこそ、ほいにも侍らね、と俚人の語れり。」
 このように記されています。
 この記述について、明治三年に「古四王神社考」(所収『秋田叢書第三巻』昭4・1929)を著わした小野崎通亮(国学者、維新後に秋田藩権大参事、古四王神社宮司も務める)は、真澄『地誌』の項目「古四王宮」をその一行目から五十公野の古四王宮の記載までを引用し、「越後なる古四王を大彦命なりと載したるは、我がこの考の左證となりてこの書の大なる賜也」と記しています。
 大山宏(秋田中学教諭、郷土史家)は「秋田城阯に就いて」(所収『秋田縣史蹟調査報告第一輯』昭7・1932)で五十公野の古四王宮についての記載を引用し、「私の見た限に於ては菅江氏の紹介を以て大彦命説の嚆矢とする」を記しています。
 菅江真澄を、大彦命を古四王神社の祭神とする見解の江戸時代の発表者として取上げています。
 地誌『雪の出羽路 平鹿郡』の「五十公野の古四王宮」の記載は、菅江真澄の著作の中では雑纂に分類される『高志栞』の巻頭に置かれた「笠原寺(秋田市 本誓寺)の是観上人ノ高志路ノ日記」にある古四王宮とその祭神についての記述を元にしており、それを改変して地誌に記したものです。
 是観上人が故郷の蒲原郡弥彦荘小吉村を訪ねる旅の途中、越後の蒲原郡五十公野に秋田郡寺内村にある古四王宮と同名の宮があったので、その由縁を尋ね聞こうと訪れた古四王宮の近隣の日枝神社の神主の日下部大和が述べた事が、この日記に記されています。
 是観日記の古四王宮に関する部分は、「日下部大和ノ曰ク、神武天皇より十代崇神天皇ノ皇子四人おはしましゝ中に、大彦ノ尊をもて高志ノ国を鎮護しめ給ひしゆえに、此尊を齋りて古四王とはまをす。またく此神は古四王にはあらず、越皇にておはしき。されど今は真言宗の寺にものし侍れば、さは申さふらはで、唯四天王を祭るとのみ申せば、世こぞりてしかおもへりと語りぬ。」となっています。
 私が下線を引いた部分が、改変されて『地誌』に記されています。
 「日下部大和ノ曰ク」が「其里の伝へには」となり、伝承されているという里の共通認識になっています。
 「世こぞりてしかおもへりと語りぬ。」という、世間では四天王を祀ると思っているということが消されて、「恐事ながら、大彦ノ尊の御勲功も世にしたがひてかくろいはてぬるこそ、ほいにも侍らね、と俚人の語れり。」と真澄による改変と創作がなされています。
 時の流れで大彦命の業績が忘れられている事をなんと言うことであろうかと村人が語ったとしています。
 こういった改変と創作をして『地誌』に記載した真澄の思いや意図などを、当時の久保田(秋田)藩の知識層の中での真澄の状況なども考慮して検討することは課題であると思いますが、この探訪記録では踏み込みません。
 そもそも、是観上人が蒲原郡五十公野の古四王宮について調査した事は、偶然なのかどうか。真澄が是観上人の日記を見たことは偶然なのか。直接の証明資料は無いと思いますが、これらについても検討課題と思います。
 また、江戸後期に越後国蒲原郡の新発田藩内の有力神主のひとりである日下部大和が、古四王神社の祭神は大彦命と述べていることは、現在の古四王神社の祭神として大彦命を祀る社が少なくない事を考える上でも、古四王神社論としてはより重要なのではないかと思います。


◇甲秀山古四王大権現御利益記などについて:
 『話』に、「甲秀山古四王大権現御利益記」について、「本記は近伊左衛門氏所蔵の写本に拠りて筆写せり。著者は大方植田村の人なるべく、濁音の混入夥多にして読み易からず。希くは後仁著者を知らば教を垂れて記入せしめられんことを。/昭和八年七月七日写 近泰知記」と記して御利益記を翻刻し記載しています。
 この御利益記については、《探訪の準備》中に『真言宗 智山派 梅松山 円泉寺』様のウエッブサイトに掲載の「古文書・御利益記」のことを記しましたが、その御利益記と内容はほとんど同一のもののようです。
 翻刻文で御利益の具体例としてあげられている最初の享保元年〈1716〉の堀米村の利左衛門に関する事は本記事でも概要に触れていますが、その次の羽場村の喜左衛門と子の関する事柄の記載中に「多宝院様へ参り、右の様子咄しければ、法印様聞くより成程古四王権現様にはちがいなし。おんべしらまんたやそわかと申は、古四王宮の御真言なり。又古四王と申は釈尊如来、薬師如来、毘沙門天、文殊支利菩薩此四社にて御座します。御真言に曰く御釈薬毘文そわかと云う。〈中略〉多宝院の御教訓身にふくみ、〈以下略〉」があります。続いて、慶安二年五月の事例、文政七年五月の旱魃の事例、それに続く文政十年春の事に「古四王大権現様の大鳥居再建有て、同四月八日に棟札納めんと、遷宮導師御役僧 観行院 大衆数多行列 警固先祓 榊御幣 仁王弊 小児のねり子数多にて、悪魔祓の獅子刀 神楽拍子にぎわしく様々俄踊も不足なし、老若男女不残御供に添い目出度棟札納めける。」がありました。事例の最後は天保二年の秋の長雨や雪で稲入れができない事について記されています。
 それから、翻刻では一行開けて「諸難諸病を免れさせ給う古四王大権現様へ、目を煩う者そこここに有りて御立願掛るに、全快せずと云うことなし。」と続いていますが、『円泉寺』様の「御利益記」では、先に記したように「又目を煩う者もそこここに有り古四王大権現様へ御立願掛けて全快なしと云う事なし」とあって、違いがあります。
 「近伊左衛門氏所蔵の写本」と円泉寺様が入手された「甲秀山古四王大権現御利益記」は別々の写本の可能性が高いようです。

*翻刻文に、多宝院では古四王とは釈迦如来・薬師如来・毘沙門天・文殊菩薩としていることが記されています。仏教の守護神とされる四天王を祀っているわけではない事が示されています。
 『秋田県神社庁HP』の植田・古四王神社の由緒及び拝殿前の由来の碑には「多聞天王」とあるので、持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王とされているのではないかと思いますが、真澄の「古四王宮」では「今の多聞天皇の尊形也といへり。此毘沙門天は四天王の其一柱ながら、ここに古四王宮とまをし」と、多聞天と毘沙門天を混用しています。
 『話』の「古四王神社」の小項目「明和二(1765)乙酉年甲秀山御宝物書上写左の通り」の中に「一、御前立 二体 元文五、十一月〈1536〉 当村 正右衛門/善内童子 吉祥天女 開眼明覚院 八世住」がありました。「善内童子」とありますが、「吉祥天女」と並んで記されていて「御前立」とあるので、「御利益記」にあるように毘沙門天と禅尼子童子と吉祥天女が祀られるようになったのではないかと思います。
 三尊形式で祀られるとすれば、多聞天ではなく毘沙門天とするほうが祀られ方に適う表記でしょうが、四天王の場合も毘沙門天と記すこともあるので、厳密でなくてもよいのかもしれません。
 私も、独尊であれ四天王としてであれ毘沙門天と表記してきて、多聞天と毘沙門天の表記区別をそれほど意識していませんでした。今後は注意したいと思います。
 毘沙門天が「多宝院にまします」のが常態であれば、この「善内童子」「吉祥天女」も、多宝院のほうで祀られていたのでしょうから、古四王宮は何を祀っていたのでしょうか。

*翻刻文の文政十年の「大鳥居再建」記事中にある「観行院」ですが、地誌「平鹿郡-八巻」の浅舞村の寄郷の下鍋倉村に修験勧行院が記されています。「観行院」が下鍋倉の観行院のことかどうかは分りませんが、下鍋倉は現在の横手市平鹿町下鍋倉ですので、それほど遠方ではないと思います。

*円泉寺様のサイトの「甲秀山古四王大権現」と「北辰妙見大菩薩」の掛軸について:
 《探訪の準備》に記載していますが、「甲秀山古四王大権現」の掛軸図像は釈迦・薬師・毘沙門・文殊でした。
 「北辰妙見大菩薩」の石碑(石塔)は、古四王神社境内にありました。
 「十文字町の石造物」によると、ここに「願主近熊兵衛ほか十一名が刻字されている」そうですが、造立年代不明とのことです。
 近熊兵衛名が世襲でなければ、七代目近伊左衛門となり、幕末から明治にかけての近伊左衛門となると思います。
 掛軸の願主は「近野伊左衛門 藤原信光」とありますので、『話』によると「近野伊左衛門」は天保五年〈1834〉に苗字を許されています。
 『話』「第十一章人物伝記ー六」に、「近野清七は植田村親郷肝煎近伊左衛門(五代)六男にして、天保十四(1843)年十二月二十八日に生まれる。」、「近野氏は旧藩時代苗字御許の恩典を蒙りし時、一字苗字を許されず。」とありますので、近伊左衛門と近野伊左衛門は同一人物で苗字を許されるにあたって近野としたと思われます。
 掛軸の年号は、安政六年〈1859〉ですので、名字御免の後になります。
 六代近伊左衛門の可能性が考えられるのではないかと思います。
*『話』に「甲秀山古四王大権現所蔵の鰐口」の絵があります。それによると、鰐口裏面に「施主 秋田平鹿郡植田村近野伊左衛門」「文政十二丑〈1829〉天四月八日別当多方院智全代」とあります。名字御免は天保五年ですから、それ以前に近野を称していることになりますし、文政十二年の多宝院は『話』によれば、第十一世は文政七年卒ですので「第十二世 多門坊竜宝」の代にあたると思われます。十二世は天保十四年卒とのことです。
 どういうことなのかでしょうか。
 『話』に、古四王神社の東西参道脇の「出羽三山碑」について「慶応二(1866)年八月八日下馬門内北側に近埜伊兵衛・近埜伊左衛門石造の庄内三山の大塔を建てたり。」とあり、その他に十一名の名前が刻まれていて、その中に「近埜万右衛門 近埜庄蔵 近埜四郎左衛門 近埜俊蔵近埜源左衛門 近埜孫右衛門」があるそうです。
 現代の植田の住宅地図を見ると近家はいくつもありますが、近野(近埜)姓の家は見当たりません。
 また、掛軸の開眼導師の大阿闍梨法印舜浄については、手がかりを見つけられませんでした。

◇熊野神社について
*地誌の「植田村」でも『植田の話』でも、熊野神社についてはいろいろ興味深い事柄が記されておりますが、ここでは省略せざるを得ません。
 《探訪の記録》の「*境内南側:」のところに載せた写真の御堂は、変わった種子の庚申塔と出羽三山供養塔の石碑のことが『十文字町の石造物』に熊野神社として掲載されていましたので、熊野神社で間違いないようです。
 かつての熊野神社は、境内入口に杉の大木が三本あって、社殿は境内地の奥の方に古四王神社と背中合わせに建っていて、境内社もあったそうですが、面影はないようです。

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