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探訪記録 秋田  9  雄勝町桑崎


◎所在地情報
 桑原リスト : 雄勝郡雄勝町平城  古四王権現(オコシヨオサマ)
 佐藤リスト : 雄勝郡雄勝町桑ケ崎・平城  古四王権現(オコショ様)
 大山リスト : なし
 (参考)川崎 : なし
       及川 : 雄勝郡平城村
     藤原相之助 : 雄勝郡平城村 
  藤原相之助は「美人國祖神記」で、羽後国に「平鹿郡上田村・仙北郡大曲町・山本郡檜山村・雄勝郡平城村・雄勝郡益〈旧字〉内村」を記していますので、ここに記します。
 雄勝郡益〈旧字〉内村が、役内村のことであれば、おそらく秋ノ宮のことなのでしょう。
 コシオウ社の分布を示すということでは、町村名だけの所在地情報でよいのかもしれませんし、町村名だけでも記しておきたいということかもしれませんが。時代を考慮すれば致し方の無いことなのでしょうか。

*ネットの有料地図の住所検索で、湯沢市桑崎〈クワガサキ〉に平城〈ヒラジョウ〉地名がありました。
 平凡社『秋田県の地名』の「雄勝町」に「桑崎村」があり、その記事中に桑崎村の支郷に「平城」が見えます。
 桑崎村は明治22年雄勝郡小野村・泉沢村と合併して小野村になり、小野村は昭和30年雄勝郡雄勝町に編入となっています。

*サイト『秋田県遺跡地図情報』(秋田県教育庁 生涯学習文化財保護室)に、「平城館」が載っていました。
 〈 http://common3.pref.akita.lg.jp/heritage-map/index.html 〉 

 サイト『城郭放浪記』〈 秋田県湯沢市のお城一覧 https://www.hb.pei.jp/shiro/akita/?c=yuzawa 〉
 に桑崎字平城に「出羽 平城館、出羽 鵜沼城」がありました。
 〈 https://www.hb.pei.jp/shiro/akita/ 〉

*菅江真澄「増補 雪の出羽路 雄勝郡 巻一」〈秋田叢書第三巻所収〉の項目「桑箇埼ノ郷」に「平城村」があり、そこに古城の跡・鳳凰山桐善寺等の記載に続いて9社の神社が記されていて、その最後から2番目に「○古四王権現社 杉山にませり 柴田五郎兵衛齋る。」がありました。

*サイト『ゆざわジオパークの案内』のコンテンツ[ ジオサイト「小野・横堀」より 『小野地区の神社群』]の記事の「2020/01/06:『平城の神社群』パート3」に、「古四王神社」が記載されていました。
 アクセス2020/5/19 〈 ジオサイト「小野・横堀」より  『小野地区の神社群』 - ゆざわジオパークの案内 (fc2.com) 〉
 〈 http://miraaman.blog.fc2.com/blog-entry-183.html 〉

 こちらのサイトのお陰で、古四王神社が残っていること祀られていることとその場所が判明しました。

                                         《 ここまで 2021−07 記 》

《探訪の記録》
※2023−05−26
 秋ノ宮を訪ねたあと、もう少し時間があるので湯沢市桑崎平城〈ヒラジョウ〉に行くことにしました。
 「道の駅おがち」に立ち寄り、平城の地図や資料にあらためて目を通し、古四王神社のおおよその場所を確認して、平城に向うためのナビの目的地を「桐善寺」にして向いました。

◇平城集落
 平城の集落に入り桐善寺の前に着きましたが、桐善寺や桐善寺の裏の墓地から階段をのぼるとあるという秋葉神社や平城館跡などは確認せずに、古四王神社に行くために先ず「神明社」を目指しました。
 『ゆざわジオパークの案内』-[ ジオサイト「小野・横堀」より 『小野地区の神社群』(2019/12/30) 「平城の神社群」]の「1)神明社」が次に向う神明社になると思います。
《 http://miraaman.blog.fc2.com/blog-entry-181.htmll 》

 Googleマップでは、神社名は表示されませんが、ストリートビューで見ると「平城の神社群」の「1)神明社」で紹介されている神社と同じ建物でした。
 筆者のネットの有料地図では、「平城神社」と表示されています。その地図には、古四王神社と思える場所も民家の建物とは違う色で記されていますので、探しまわることなく訪ねられそうです。
*「神明社」に立ち寄りますと、「小野地域づくり協議会」による案内看板があって、そこに「神明社(平城神社)」とありました。

 神明社と案内看板の写真を載せます。

◇古四王神社
*神明社前の道を、道なりに右にカーブして進み、左に行く道とのT字路を右に行き、右に入る道とのT字路の2本目を右に入って進み、およそ4m幅の舗装道路が終わる所まで行くと、左側に空地があったので、そこに車を置かせてもらって、舗装道路の先に続く農道のような狭路のゆるい坂になった道を歩いていくと、正面に社殿がありました。
 社殿には向拝が設けられています。数段の石段があり、石段の最上段の左右に向拝柱の基石があり、向拝柱が据えられています。向拝柱の上に組物があります。向拝柱の虹梁や海老虹梁は素朴で、木鼻はありません。向拝柱から社殿まで数段の階段があり、両開きの扉が閉じられています。屋根は重厚で、赤系の金属板で菱形に葺かれていて、垂木は、飛えん垂木が組まれて二段になっています。社殿の基礎部分は、板等があてられていて見えませんでした。
 社殿の向きは、北向きでした。
 この社殿はそんなに古いものではなさそうですが、社殿の向きは北向きと定められていて現社殿が北向きに建てられているのでしょうか。
 狭路は社殿の前で少し広がり右に曲がって続いていて、少し進んだ左手には墓地があって、道の先には2〜3軒の家がありましたが、行ってみることはしていません。

 写真と地図(カシミール3D・解説本の地図に書込み)を載せます。地図のが神社です。

*古四王神社は個人の方が祀っておられるようですので、その方のお宅は平城にあるのではないかと思い、お宅の可能性があるのではないかと思う家を訪ねてお聞きしてみようと、行ってみましたがお留守でした。
 翌日もお訪ねしてみましたが、お留守でした。 通りかかった30代と思える男の方に、古四王神社をお祀りなさっている方をご存知ないか聞いてみましたが、分らないとのことでした。他の家を訪ねてお聞きすることはしないで、平城を離れました。 


《探訪の整理》
 湯沢市立図書館でコピーしてきた平城の住宅地図を見て、勝手で不躾ながら平城でお訪ねしたお宅に手紙を出させて頂きました。
 幸いなことに、後日古四王神社をお祀りなさっておいでの方(お名前をA氏とさせていただきます)からお返事を頂きました。 
 それによると、A氏は昭和の終り頃に平城から移転しており、元の家は取り壊したそうです。
 私が訪ねて手紙を出したお宅は、他人の家とのことです。
 それなのに手紙がA氏に届いたのは、A氏は自給菜園をお持ちで時々管理に訪れているそうですし、正月には集落の十戸くらいの方が神社にお詣りにこられるそうで、平城との関係がつながっていたために、手紙を受け取った家の方がご親切にもA氏に渡してくださったということなのだろうと思います。
 ご迷惑をおかけいたしてしまいました。

◇A氏にご教示いただいた事
・個人で祀っている神社とのことです。
・神社の名前の文字と発音:「古四王神社(こしおうじんじゃ)」、または「こしおさん」
・神社の行事など:正月にお供え、松飾り等を実施。集落の十戸くらいがお参りしている。
 平城から引越して、行事らしきものはほとんど行っていないそうです。
・力(ちから)の神社と言われているそうです。
 40〜50年頃〈昭和?〉、集落内出身の大相撲十両力士の家族が熱心にお参りしていたそうです。
・参考になる資料・文書はないそうです。由緒などの言い伝えも、集落内でもほとんど知っている人はいない状況とのことです。

*この神社の所在地は、湯沢市桑崎平城で番地は不明です。
 鎮座する場所は平城館の領域範囲の外でしょうが、平城館の北側に位置して北を向いています。力の神社との伝えもありますが、平城館との関わりはないのでしょうか。
 菅江真澄の記した「柴田五郎兵衛」とはどういう人物なのでしょうか。
 『雄勝町史』(雄勝町郷土史編纂委員会 昭63・1988)の「第二篇 四、桑ケ崎村の歴史」の「平城」の項目に「村の草分け 阿部氏は門兵衛佐治兵衛と二人仙台方面から来住、柴田氏は小野の大水口の姉崎氏の家臣の後裔である。」とありました。
 現在の平城にも柴田姓の家が何軒かあります。
 現在古四王神社を祀っているのは柴田家ではなくA家ですが、この関係や経緯はどうなのでしょうか。

 今のところここまで、です。

 
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