ページ先頭へ 前へ 次へ ページ末尾へ

所在地情報 秋田  17  能代市桧山 


◎所在地情報
 大山リスト : 山本郡檜山町
 桑原リスト : 山本郡檜山町  越王神社
 佐藤リスト : 能代市檜山・越王下  古四王神社
 (参考)及川 : 能代市桧山
      川崎 : 山本郡桧山村  古四王神  補記に能代市桧山町
      藤原 : 山本郡檜山村
      丸山は山本郡檜山村貸子所と記している。

*明治22年、山本郡檜山町・大森村・中沢村・母体村・田床内村が合併して檜山町発足。
 昭和30年、檜山町・浅内村・鶴形村・定盤村が能代市に編入。
 平成18年、二ツ井町が能代市と合併し、あらたに能代市発足。

○『平成の祭』
 桧山神社  
 鎮座地:能代市桧山字越王下21 
 祭神:《主》大彦命、加遇突智神、天照皇大神、《配》受持大神、少名彦神、海神、息長足志姫命、大名持神、豊受姫神、羽宇志別神、水波売大神
○『秋田県神社庁HP』
 檜山神社 
 鎮座地:能代市桧山字越王下21 
 御祭神:大彦命、加遇突智神、天照皇大神、受持大神、少名彦神、海神、息長足志姫命、菅原大神、大名持神、豊受姫神、羽宇志別神、水波売大神
 境内神社:神明社
 由緒:「元愛宕神社、先年秋田城之介愛季公建立の由、申し伝えあり。 / のち慶長年中〈1596〜1615〉仙北白岩より多賀谷佐兵衛宣家当所に引移り再建す。 / 明治6年村社に列し、明治40年12月5反5畝28歩境内編入許可。 /
 元越王神社、弘仁〈ママ〉50代桓武天皇御宇田村将軍東夷征伐の為、下向の節勧請草創の申し伝えあり、のち元亀3年中〈1572〉阿部愛季公再建の由代々申し伝えられる。 / 明治41年1反7畝23歩境内編入許可。 /
 両神社大正6年に合祀、桧山字茶臼館に移転鎮座、同時に社名を桧山神社と改称する。 / 大正13年野火で社殿焼失、大正14年11月現在番地に移転再建現在に至っている。」
 越王神社と表記されています。

*『能代市史資料 第32号 山本郡神社明細帳』の「明治四十四年 山本郡神社明細帳」に「檜山神社」についてより詳しく記されています。
 それによると、村社愛宕神社の旧社地は檜山町檜山字霧山下で、明治42年から43年にかけて字霧山下無格社茶臼館神社、字中沢無格社大友神社を合祀した村社諏訪神社、字縄手下村社保呂羽神社及び境内社神明社、唐松神社を合祀しています。
 村社越王神社は檜山町檜山字越王下に鎮座。
 明細帳への追加記載部分になると思いますが、大正六年に「前記村社愛宕神社、同境内社稲荷社、天神社、太平山神社ト前記村社越王神社、同境内社神明社ト合併シ、檜山町檜山字茶臼館三十八番ノ七ニ移転、檜山神社ト改称」し、大正七年に「檜山字茶園無格社愛宕神社、同字寺田無格社相染神社、同字丸山無格社丸山神社、同字新田家ノ前無格社神明社ヲ明細帳ニ編入ノ上合併」し、大正十四年に「檜山町檜山字越王下二十一番十五番ノ二へ移転、並社殿新築許可セラレ」、大正十五年に「工事竣工移転セリ。」とあります。

 そうすると、越王神社の元の鎮座地は檜山字越王下で、合併移転改称で檜山字茶臼館に遷り、その後また檜山字越王下に遷ったということになります。
 越王下の字地名は同じですが、元の鎮座地と同じ場所かどうかは不明です。

 同明細帳の越王神社の由緒は、「田村将軍東夷征伐ノ為メ下向ノ節勧請、草創ノ霊地ナリ。往古当国未タ開ケサル時、男鹿山海辺ヨリ岩館マテノ濱通ニ、夷賊数万住居致シ、其長本覚大内柏子所ト名付、巨室構ヘ、暴威ヲ張リ、其時田村将軍夷賊ヲ残リ無ク退治シ、遺跡ヲ焼キ払、村居トナル。今ノ大内田村柏子所村是ナリト云フ。其ノ時代檜山ハ富岡ト唱ヒシト云フ。当社ノ東ニ当リ、茶臼館ト云フ処ハ即チ田村将軍陣城ノ処ニテ、此麓ニ鎮護ノ為メ建立ノ由、代々伝フ。中古廃社、年号原由不詳ト雖モ、元亀三壬申年中阿部愛季公再建ノ由、代々伝フ。」とあります。
 柏子所の八幡神社の由緒と似ています。
 田村将軍の陣の場所が柏子所と茶臼館の違いがあり、陣の麓に建立したのが一方は八幡神社であり一方は越王神社となっています。
 どちらも征夷の神として田村麻呂と関連させたのでしょうか。
 越王神社は阿部愛季公再建とあり、愛宕神社は秋田城之介愛季公建立とあります。阿部愛季公と秋田城之介愛季公は同一人物なのだろうと思います。
 「当社ノ東ニ当リ、茶臼館ト云フ処ハ」とありますので、合併前の村社越王神社の鎮座地の檜山字越王下は茶臼館の西に位置しているということになるのでしょう。

 同資料の「明治四年 山本郡神社明細帳」を見ると、山本郡檜山町には古四王神社・高山神社・相染神社・稲荷神社・愛宕神社・茶臼舘〈ママ〉神社がこの順で記載されています。
 「古四王神社」は古四王と表記され、「祭神 秋田郡寺内村古四王社に同じ / 草創 元亀三年壬申秋田城介安部実季勧請、寛文五年〈1665〉乙巳多賀谷某再建」とあり、「愛宕神社」は「祭神 丹波国愛宕社に同じ / 草創 秋田城介勧請、年月不詳、万治元年〈1658〉戊戌多賀谷某再建」とあります。

 古四王社が、『秋田県神社庁HP』のほうでは「元亀3年中阿部愛季公再建の由」とあり、「明治四年 山本郡神社明細帳」では「元亀三年壬申秋田城介安部実季勧請」とあります。
 「元亀三年壬申」と「秋田城介安部実季」は結び付かないと思いますので、何かが違っているのではないでしょうか。

 同資料の「享保八年 山本郡神社明細帳」〈資料編纂室による標題〉では、桧山に「古四王堂/起野宮堂/相染堂」が記載されていました。
 こちらも「古四王」の表記でした。

*『秋田県の地名』で、「檜山町」の項目を見てみますと、「享保の絵図と、天保二年(1831)の檜山絵図(秋田県庁蔵)によると、町の入口に檜山川に架かる大橋がある。大橋を渡ると丁字路にあたる。右折すると茶臼館下の古四王神社・十王堂へ通じ、東へ折れると馬苦労町へ入る。」がありました。
 項目「檜山町」の中の小項目「馬苦労町」に「檜山町の入口にあたる。羽州街道の檜山川に架かる大橋を渡った所から、大町につながる角まで長さ一三九間。〈略〉町の西側には十王堂(現山居庵)がある。」がありました。
 小項目「茶臼山居館跡」は、現住所では能代市檜山字霧山下とあり、「檜山町西側の小高い丘上にある。元和六年(1620)檜山城破却以来、多賀谷氏の居館があった。享保十三年(1728)の檜山一円御絵図(秋田県庁蔵)によると、〈略〉。」「居館は檜山町の中心に位置し、東西南の三方に家臣の屋敷があり、北側は米代川方面を望める戦略的に優れた位置にあった。」「明治二十年(1887)以降取り払われ、現在は畑になっている。また東北端には寛政九年(1797)に郷校崇徳書院が移建された。」がありました。 

 現在の地図を見ると、「桧山馬喰町自治会館」(桧山越王下70)があります。
 『photo life 秋田』というブログに「山居庵・十王堂跡のイチョウ(2015-11-17)」がありました。
 〈https://blog.goo.ne.jp/photo_life_akita/e/9b2af857a0945f95f440e686e2ca3717 〉
 サイト『秋田県:歴史・観光・見所』にも「山居庵・十王堂跡のイチョウ」がありました。

 この場所が、「桧山馬喰町自治会館」に隣接しているようです。
 残念ながら、馬苦労町の西側から古四王神社まではどのくらいの距離があるのかは、文章からは分かりません。
 「茶臼山居館跡」は、現在の県道4号線の東側が字霧山下の地域になり、崇徳書院の場所は現在の能代市檜山公民館(霧山下104)になるそうですので、公民館の南側の檜山町の南北の町並みの西側のところに、多賀谷氏の居館があったということになると思います。
 「茶臼山」とあっても、茶臼館跡とは異なる場所になります。
 『秋田県の地名』では、古四王神社の場所が享保と天保の絵図によると「茶臼館下の古四王神社」とありましたが、現在の檜山神社の鎮座地は、「茶臼館跡」と言われている範囲及びその麓とは異なる場所になると思います。
 茶臼館の山と檜山神社の背後の山の間は谷筋になり耕作地もあるようです。
 檜山神社の鎮座地は、「明治四十四年 山本郡神社明細帳」にある「当社ノ東ニ当リ、茶臼館ト云フ処ハ」の位置関係とは矛盾しないと思います。
 「茶臼館跡」の範囲については、能代市のサイトの「檜山城跡」のページにある関連リンク「国史跡檜山安東氏城館跡(檜山城跡)発掘調査報告」でT〜Xの発掘調査報告書のどれかでその関連ファイルの調査報告書のPDFを見ると「史跡檜山安東氏城館跡位置図」によって確認できました。
 「檜山城跡」:〈https://www.city.noshiro.lg.jp/res/kanko/views/shiseki/967 〉

*『秋田県公文書館』のデジタルアーカイブに、「桧山一円御絵図」(享保十三年)のあることが分かりました。
 〈 http://da.apl.pref.akita.jp/koubun/item/00010005/ref-C-15692 〉

 この絵図を見ると、大橋があり、馬苦労町があり、十王堂、古四王、古四王別当、多賀谷氏居館、茶磨舘、浄明寺、愛宕堂、多宝院、古城、「享保八年 山本郡神社明細帳」に記されていた「古四王堂/起野宮堂/相染堂」が「木宮堂」「相染堂」としてありました。
 「古四王堂」はただ「古四王」とだけ記されていました。
 「茶磨舘」は、茶臼館のことと思いますが、その文字の記されている位置は茶臼館の主郭とされている場所のように思います。
 「古四王」の場所は、「茶磨舘」と記された場所から北の茶臼館の西の尾根の北端に近い場所のように見えますが、パソコン画面で見る絵図のため断定はできかねますが、少なくとも現在の檜山神社の鎮座地とは違うと思います。

*天保二年の檜山絵図が、「ウィキペディア ファイル:江戸・天保二年(1832年)『檜山絵図』.jpg」(日付 2018年12月13日)にありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%83%BB%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E4%BA%8C%E5%B9%B4%E2%81%BD1832%E5%B9%B4%E2%81%BE%E3%80%8C%E6%AA%9C%E5%B1%B1%E7%B5%B5%E5%9B%B3%E3%80%8D.jpg

 これを見ると、「古四王」の場所は、茶臼館の西の尾根ではなく、現在の檜山神社の鎮座地のあたりのように見えます。
 享保十三年の絵図の読み方を間違えてしまったのか、「古四王」に移転があったのか。

 『秋田県の地名』の「茶臼館下の古四王神社」とある「茶臼館下」は、どういうことでしょうか。
 ある程度の範囲をもつ地名の「茶臼館下」なのか、茶臼館のあった山地の麓とか周囲とかの意味なのか。
 享保の絵図の「古四王」は、山地の下ないし麓にあるようには見えないと思います。
 天保の絵図の「古四王」は、茶臼館のあった山地とは違う場所にあるように見えます。
 どちらも「茶臼館下」からイメージする場所ではないように思います。

 もし、古四王が茶臼館の尾根にあったとしたら、「明治四十四年 山本郡神社明細帳」にある「村社越王神社は檜山町檜山字越王下」の鎮座地が茶臼館の西にあたる事と合致しません。
 古四王が天保の絵図の場所にあれば、茶臼館の西にあたる事と合致します。

 また、大正六年の「合併シ、檜山町檜山字茶臼館三十八番ノ七ニ移転」はどういうことなのでしょう。
 現在の住所表示に「字茶臼館」地名が見当たらないので、今のところ場所を特定できません。

*『秋田叢書 別集 第3 (菅江真澄集 第3)』所収の「霞むつきほし」を見てみます。
 本文に先立って「文化三とせの春、出羽の國渟代に在りて」とあって「阿陪のうし月星のふるあとをさくりえて、この冊子の名をそ『霞むつきほし』とつけたり。」の文があります。
 本文中に「野をへて霊亀山の□〈山の下に頂。ユニコード:U+5D7F〉に出て、いや茂りたる古四王の堂にまうづ。杉清水は、大椙の根より流れて神さひわたれり。檜山の里になりて、やゝ櫻咲つるなとおもしろき春なり。」がありました。
 「霞むつきほし」の記載によると、鶴形については「けふも此鶴潟にくれなん」とあり立ち寄っていると思いますし、柏子所についても「かしこところといふ村の名は」「賢所を妻手に」とあり立ち寄ってはいないようですが承知していると思いますが、古四王堂の記載は桧山にあるだけです。
 「霞むつきほし」には、絵図が相当数載せられていて、その中の2枚に「古四王」の文字を見つけました。
 その絵と説明文を見ると、茶臼館(西の尾根の北端の平坦な頂のように思えます)と古四王の場所が別に描かれているようです。
 その古四王の場所は、少なくとも、茶臼館の尾根ではなく、むしろ現在の檜山神社の鎮座地のほうと合うように思えます。

 『別集 第3』の「解題」によれば、「文化三年翁年五十三、能代に滞留し、二月二十一日より三月二十六日までの間に〈略〉」とあります。
 文化三年は1806年で、天保二年より26年前ですが、享保十三年より78年後ですから、この間に古四王に移転があったのかもしれません。
 大正六年の「檜山町檜山字茶臼館三十八番ノ七ニ移転」というのは、もしかすると「古四王」が享保のころに鎮座していた場所に移転したということかも知れないと思います。

 『菅江真澄遊覧記 4』(東洋文庫99 平凡社)の「かすむ月星」に「古四王の堂」についての「注」があり、「能代市檜山の現檜山神社に合祀されている古四王は、従来、越王と書かれていた。開基は坂上田村麿といわれ、檜山城主安東愛季が再興した。『亀井』という眼病にきく霊泉水を有するのも、秋田寺内の古四王社と同様である。正行寺を別当寺として霊亀山と号した。」とありましたので、「霊亀山」とつながりましたし、杉清水が亀井の霊泉ということも知れました。

 菅江真澄は、ここの清水を「杉清水」と記していますが、「雪出羽道 平鹿郡」の「植田村」の記事に記されている「山本ノ郡寺内杉清水の古四王宮」というのは、どこのことなのでしょうか。
 地名と思える「寺内」という二字がなければ、「杉清水の古四王宮」を桧山の古四王社のこととではないかと考えることもできるのではないかと思えるのですが。
 「霞むつきほし」は文化三年(1806)の日記ということですし、「雪の出羽道平鹿郡」は文政七(1824)年八月から同九年五月に及ぶ巡村調査に基づく地誌とのことですので、ずいぶん時間も隔たっています。

                                《 ここまで2021−08 記 》 

ページ先頭へ 前へ 次へ ページ末尾へ