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探訪記録 秋田  8  雄勝町秋ノ宮


◎所在地情報
 大山リスト : 雄勝郡秋ノ宮村中村
 桑原リスト : 雄勝郡雄勝町樺山  古四王神社
 佐藤リスト : 雄勝郡雄勝町秋ノ宮  古四王神社
 (参考)及川 : 雄勝郡秋ノ宮村中村
    川崎 : 記載なし

*雄勝郡の秋ノ宮で調べてみると、現・湯沢市に秋ノ宮があり、秋ノ宮に多くの旧字地名と思われる地区があることが分かりました。
 現・秋ノ宮の地区名に「中村」は見当たりません。
 手持ちの辞書類をみると、明治22年に雄勝郡中村・役内村・川井村が合併して秋ノ宮村になり、昭和30年に雄勝郡院内町・横堀町・秋ノ宮村が合併し雄勝町になっています。
 秋ノ宮の村名は、この地が秋田県と宮城県の県境に位置し両県を結ぶ道路〈現・国道108号〉が通っており、両県名の頭文字をとったもの(角川日本地名大辞典 5秋田県)とのことです。
 雄勝町は、平成17年に湯沢市・稲川町・皆瀬村と合併し、あらたに湯沢市が発足しています。

*桑原の情報の樺山で調べてみると、秋ノ宮の地区名に樺山がありました。
 インターネットで検索すると樺山館や樺山水力発電所等の情報が出てきます。
 樺山水力発電所で検索したところ『秋田県のがんばる農山漁村応援サイト』のコンテンツの「樺山水力発電所」のページに「秋ノ宮地域イラストマップ」のリンクがあって、イラストマップを見ると樺山水力発電所の南側に「中村」が記されておりさらに南に「役内」が記されていました。
 樺山の場所は旧・中村の範囲になると思われます。 
 古四王神社に結び付きそうな情報は見出せません。
 イラストマップには、『秋田県のがんばる農山漁村応援サイト』の「地域について」−「湯沢市秋ノ宮」からたどれます。
 〈 https://common3.pref.akita.lg.jp/genkimura/  〉

*菅江真澄「増補 雪の出羽路 雄勝郡 巻四」〈秋田叢書第三巻所収〉の項目「中村」の「下樺山」に、「○古四王ノ社 〈割書:神殿向坤。秋田郡寺内村、山本郡寺内村、並古四王の神座せり〉 社守り兵右衛門也。此社の神寶に、牛□クツハといふもの蔓にて造りたるがありつるよし、はなまき皮のたぐひにや。〈略〉」〈 □は革に巴。原文に「くつは」の振仮名あり 〉
 大山宏が「古四王神社の源流を尋ねて」のなかで引用していたので読んだ秋田叢書第六巻所収の「雪出羽道 平鹿郡(中)・九巻 の植田村」の「古四王宮」の記述の中に、「また古四王ノ社は、雄勝ノ郡益〈旧字〉内荘中村ノ枝郷下樺山村ノ古四王、神殿向坤古社也。仙北ノ郡小貫高畑ケ村の古四王宮、秋田ノ郡寺内高清水の古四王宮、山本ノ郡寺内杉清水の古四王宮、なほ其外にも聞えたり。」があったことで、秋田叢書第三巻所収の「増補 雪の出羽路 雄勝郡 巻四」を見ていました。

*樺山にあった古四王社はどうなったのでしょうか。
 サイト『ゆざわジオパークの案内』の「2020/06/22:ジオサイト『秋ノ宮・役内』と『秋の宮温泉郷』パート6《中村 社寺の案内》の記事に、2021/07/01に出会いました。
〈 ジオサイト『秋ノ宮・役内』と『秋の宮温泉郷』 パート6 《中村 社寺の案内》 - ゆざわジオパークの案内 (fc2.com) 〉 
〈 http://miraaman.blog.fc2.com/blog-entry-230.html  〉 

 2020年5月に、別の古四王神社の情報でこちらのサイトに教えていただくことがありお世話になっていたのですが、その時には上記の情報とは出会えなかったわけです。
 《中村 社寺の案内》の記事中の、《古四王ノ社跡》の項目に菅江真澄の下樺山の古四王ノ社の記述を引用した後に「この神社は明治41年に山岸の神明社に合祀されました。」とありました。
 記事中に「真澄が描いた古四王ノ社図があるのでそれを案内します。」と絵図が載せてあります。
 絵図の左側の山の上に樺山館があり右側の山の上に古四王ノ社が描かれているとのことです。

 その場所は、樺山発電所の南東へ直線距離750メートル程の標高375メートルの山の頂〈比高170メートル程か〉のようです。
 国立国会図書館デジタルコレクションで見た秋田叢書第三巻では絵図のことは分かりませんでした。
 同巻には「勝地臨毫」も載っているのですが、見当たりませんでした。
 『菅江眞澄全集 第五巻』(未来社 1975)の「勝地臨毫」にはその絵図が載せられていましたが、モノクロ印刷で不鮮明でよく分かりません。

 「山岸の神明社」ですが、同サイトの同記事の続きに神明社について記されており、『秋田県神社庁HP』からの「神明社」の引用があり、「秋ノ宮『今とむかし』」(秋ノ宮地域づくり協議会 平25・2013)からの引用「この神明社は中村地区の10社が合祀され、中村地区全体の祭典となっています。明治41年9月、漆沢の熊野神社、田ノ沢の飯綱神社、下田ノ沢の白山神社、下中島の今木神社、中島の山神神社、椛山の古四王神社、徳左エ門沢の山神神社、礼堂の春日神社の無格十社が合併した後、山岸の稲荷神社も合併しました。昭和58年三級社に認定されました。 / 元社は野中集落の妻の沢にあります。例祭は7月115日で地域の虫まつりも同時に執り行われます。祭神は天照皇大神です。古老の話によれば、万延年代(1860)の棟札があったと伝えられています。〈略〉」がありました。
 この神明社は、『秋田県神社庁HP』によれば、「鎮座地:湯沢市秋の宮字妻の沢11」「御祭神:天照皇大神」「例祭:8月21日」「境内神社:八幡神社」の「神明社」になるようです。

 ネットの有料地図によると、現在の住所表示に、秋ノ宮に妻ノ沢は見当たりませんが、「西秋ノ宮簡易郵便局」前から国道108号線にそって地図上の計測で約300メートル南に進んだ場所、あるいは「秋ノ宮駐在所」前から同じく約230メートル南に進んだ場所に「中村神明社」があり、南に向って左側に入ると神社があります。
 グーグルマップで「妻ノ沢」の範囲を確認すると「野中の塔場」「しなの館跡」を囲うあたりを示しましたので、そうであれば「中村神明社」はその範囲外にあるということになります。

                                                                                     《 ここまで 2021−07 記 》


《探訪の準備》
*湯沢市立図書館から相互貸借で『秋ノ宮地誌』をお借りしました。
 この本は、菊地喜七著の大正12年の本を原本として昭和56年に菊地菊太郎によって書写されたもの、とのことです。
 その「第六編・神社 宗教及び慈善ー第一章・神社の由来附神社整理」の中に「村社神明社(字山岸にあり)中村全体氏子 無格社十社合併後に稲荷(山岸)合併 熊野(漆沢)白山(下田ノ沢)飯綱(田ノ沢)今木(下中島)山神(中島)稲荷(窪)山神(真木)古四王(樺山)山神(徳左エ門沢)春日(礼堂)」がありました。
 「同ー第二章・本村の神社」に「一、村社 / (一)神明社 本社は妻ノ沢にあり、山岸に遙拝殿あり / 祭神 天照大神 祭日 九月十五日 / 熊野 白山 飯綱 今木 山神 古四王 春日 稲荷を合祀 / (二)八幡社 〈略〉」
 「二、各部落の神社 / 形式上認められざるも事実に於ては却って部落住民の尊崇を集めているが故に煩を厭わずこれを記録する。」として、「 中村 」に16社、「川井」に5社、「役内」に9社の記載があります。
 「中村」の中に古四王堂が記されていました。
 「(九)古四王堂(樺山) 別当菅兵左エ門 貞享元年甲子〈1684〉十月十五日の棟札存す / 文禄年中に樺山館に菅兵庫あり 創立古きを想像せらる / 祭神 大彦命 神須佐男命 伊邪那美の命 大過津姫命」とありました。
 〈判読が難しい文字は当方の判断で記しました〉
 祭神は四柱の神で、オオヒコノミコト スサノオノミコト イザナミノミコトと大禍津日神オオマガツヒノカミでしょうか。

 大正末頃は、樺山に古四王堂が存在したということでしょうが、明治41年の合祀から大正12年までは15年ですが、大正12年から令和3年までは昭和平成をはさんでの98年ですので、古四王堂のその後はどうなったのでしょうか。

 ジオサイト〔『秋ノ宮・役内』と『秋の宮温泉郷』パート6《中村 社寺の案内》〕の記事は「《沢の大平山三吉神社・堰の口八幡神社・下椛山古四王ノ社・山岸の神明社》」の項目で「先回の常泉寺に続いて、今回は神社4か所をご案内します。 大半が秋ノ宮地域づくり協議会発行【秋ノ宮 今とむかし】からです。」とありましたので、「秋ノ宮の歴史・文化探訪ガイドブック」とある「秋ノ宮の『今とむかし』(平25・2013)を相互貸借でお借りして拝見しました。
 その第2章・中村地区の〔12〕が「村社 神明社」の記事ですが、《所在地情報》では引用していない部分をあらためて引用しますと「村社 神明社は、秋ノ宮山岸JAこまちの隣、国道108号沿いに面した所に鳥居があります。〈略〉境内にある銀杏の大木と杉の老木は、当時の面影を偲ばせていましたが、平成24年倒壊の恐れがあるため伐採されました。」とありました。
 〈略〉の部分には、合祀の10社について、万延年代の棟札、等について記されています。
 現在の樺山に古四王堂があるかどうかについての記述はありませんでした。
 銀杏と杉があったのは、山岸の神明社の境内のことかと思います。
 妻の沢11の神明社は、地図での住所検索が出来ず、鎮座の場所が分かりません。

 また、この「パート6《中村社寺の案内》」に載せられていた「真澄が描いた古四王ノ社図」の絵図は、「秋ノ宮の『今とむかし』(平25・2013)には見当たりませんでした。
 『雄勝町史』(雄勝町郷土史編纂委員会 雄勝町教育委員会・発行 昭36・1961)にも「真澄が描いた古四王ノ社図」は見当たりませんでした。
 同書の「第二編 雄勝町の郷村風土記ー八、中村の歴史」の中に「雪の出羽路」として「○中村」の部分を引いてありました。

                                            《 2021年11月 記 》


《探訪の記録》
※2023−05−26
 天気が持つか心配な状態のなか、午後2時頃に秋の宮に到着しました。
 国道108号沿いを走行していると、樺山発電所へ向う交差点に気付かずに通り過ぎて、ネットの有料地図で「中村神明社」と記されていた、山岸の神明社に至りました。
◇神明社に詣でる
 この旧村社の神明社は、道路脇の神明鳥居から奥に続くコンクリート舗装の参道がありますが、社殿に向って参道の左側には数台の車が駐車しており、右側にはトラクター等があったり,奥にはフォークリフトのパレットのような物も置かれているという有り様で、神社が生活に密着し利用されているのかもしれませんが、神域らしさは感じられません。
 社殿は、赤系色の金属板で葺かれた切妻屋根の平入で、三段の石段があり、正面に両開きの扉、扉の上部に注連縄と紙垂、軒天に裸電球が連なっていました。神明系の神社建築なのかもしれませんが、神社らしさの装飾がない素っ気ない建物のように、境内状態の印象もあってか思いました。
 扉の上に「秋ノ宮中村神明社 参道舗装事寄進」の額がありました。地図の「中村神明社」はこのあたりからきているのかもしれません。
 八幡神社が境内神社と記されていましたが、大きくはないが神社らしい建物の社と忠魂碑が境内の向って左側にあります。
 境内の右側には、大きな切株が残っていますが、新たな植栽はなされていないようです。
 この社殿は、『秋田県神社庁HP』の神社検索で鎮座地が妻の沢になっていた神明社の写真と同じ社殿で間違いないと思います。この社殿の写真を載せていながら、鎮座地を妻の沢にしているということになります。
 所在地が山岸の神明社を探そうとしていたので、『秋田県神社庁HP』に見当たらないと思っていたわけです。
 『秋ノ宮地誌』に「事実に於ては却って部落住民の崇敬を集めている」と合祀されても元のように祀っていた事が記されていますが、神社と境内の現状を見ると、合祀すれば集落住民の崇敬が自ずと神明社に対する崇敬に代わるというものではないようで、そういう事がここに連なってくるのかもしれないと思えます。


 神明社 (秋ノ宮山岸 地内)

*境内に銀杏の大木と杉の老木のある画像を載せます。年月日は不明です。 この画像については後述します。

◇椛山(下椛山)集落をうろうろする
 〈住所表示は「秋ノ宮椛山」とするのが正しいようですので、住所に関してはそのように表記したいと思いますが、施設の名称や資料に「樺山」と表記されている場合は、表記に従います。〉
 道を戻って椛山の水力発電所の方に向います。
 役内川に架かる橋(住宅地図・椛山橋)を渡ると椛山(下椛山)集落となると思います。現在の住居表示は椛山とあり下椛山・上椛山の区別がないようですが、コ左エ門沢に近い南側が上椛山にあたるようです。
 先ず橋の手前で橋の向こうの山とその右側の山を写真に収めました。橋の向こうの山が「樺山館跡」と言われている場所にあたると思います。そうであればその右の山が古四王神社のあった山ではないかと思われます。
 車のすれ違いは難しい幅員の橋を渡り、右折し古四王神社のあったと思われる山の方に近づいてうろうろしましたが、これはと思うような物は何も見当たりませんでした。農作業中のご婦人の姿が見えたので、このあたりの山に古四王様という神社があったというようなことをご存知ないかお聞きしたところ、橋の近くの方に物知りの方がおられるのでそこで聞いたらよいと教えて頂きました。
 橋の方に戻るので、発電所に行ってみると手前に空地があったので、そこへ進んで発電所を眺めてから、物知りの方のお宅を探しました。

 左上: 椛山橋からの樺山館跡の山             右上: 樺山館跡山の右の山を写す
 左下:樺山発電所と送電施設                 右下: 樺山発電所と上部水槽・水圧鉄管(右側)


◇K様宅をお訪ねする
 お宅を探して尋ね当てたのはK様宅で、運良くK氏がご在宅なさっておいででした。自己紹介をさせて頂き、合祀された古四王神社の元の鎮座地について知りたいと申しますと、元のところに今もあるとあっさりと当たり前のようにおっしゃるので、ないと思っていたものがあるという事に驚きました。また、車でも行けるとのことです。
 その鎮座する場所は、「樺山館跡」とのことで、サイト『ゆざわジオパークの案内』で見ていた菅江真澄の図絵によると樺山館跡の山とは別の山の頂きに古四王神社が記されていたので、樺山館跡に神社があるのはどういうことだろうと思いました。
 また、ウェブサイト『城郭放浪記』の「出羽・椛山館」や『秋田の中世を歩く』の「椛山館」等を見ていましたが、掲載された写真に社殿や祠のような物を見出さなかったので、山城跡という認識しかありませんでしたし、歩いて行った方が無難とも書かれていたと思うので、筆者のありふれた小型車で行けるかどうか不安でしたので、K氏にお聞きしましたら行けるとおっしゃって頂きましたので、山に入っていく予定はなかったのですが、何はともあれ行ってみることにしました。
 K氏のお話によれば、発電所の先から山に入る道を進んで三方向に分かれるところで大きく右に回り込んで道なりに進めばよいとのことです。樺山館跡は皇太子(大正天皇)の御行を記念した公園とのことで、そこへの道はすこしずつ舗装の道普請をしているそうですが、まだ一部未舗装の所があり轍にはまらないようにとのことでした。また、その北側の道とは別の人の登る道も整備しようとしているとのことでした。

◇樺山館跡
 なんとか車で進んでいき城跡遺構付近に近づきましたが、草の勢いが強く丈が高くなり、車を放棄して歩くことにしました。
 道の続く部分は比較的に草丈が低く轍と思えるところもあり、そこを進んでいくと左右に高まり部分がせまり、道は鞍部を通ります。
 右側の高台にあがってみますと、小さな区画で、中央の樅と思われる木の根元に小さな石像が、左右に石を立ててその上に石を横置きにして屋根にした祠に安置されていました。袖の長い着物で右手の持ち物が鎌のようにも見えるので左手は稲穂かもしれない物を持った神像のようです。鞍部を通る道は、この小区画をぐるりとまわっているようです。
 鞍部の道から左側の高台にのぼる坂道がありのぼると草だらけの開けている広い場所になりました。ここが城の主郭にあたる部分で、公園整備がされたところでしょう。
 左側が木立になっていて奥の方に祠のような物があります。長靴に履き替えてビニール傘も持っていたので、草地に踏み込むと、小さな湿地があって、地面から突き出ている管から水がしたたっています。こんなところにも水が出る場所があるのだなくらいで、よくも見ずに祠へ向いました。
 祠は、コンクリート造りで、鉄の鳥居が二本立ち、奥の鳥居に針金で鈴が付けられていました。
 扉は開いており、中に二体の神像があり、左の像は座している貴人のような神像で、右の像は立ち姿で頭は兜なのか武人風に見えます。
 鳥居もあってあまり近づけないので、写真に収めさせて頂きました。
 空地の周辺を歩き回るのを草のためしていないのですが、祠よりさらに奥まった所に「皇太子殿下行啓紀」までしか草で見えない石碑があり、祠の向かい方面に「皇太子大婚紀念」の碑がありました。
 公園としては利用されていないようです。
 雨模様もあって、椛山に戻ると車が泥だらけになっていました。
 草の生い茂らない時期を選んで、車であれば軽トラックかジムニーのような車でのぼるとよいようです。できれば歩く方が無難かもしれませんが、野生動物の心配も必要かもしれません。

◇K氏を再訪する
 K氏を再び訪ね、行って来たことの報告をいたし、あらためてお話を聞かせていただきました。
 祠の神像の左側が古四王様とのことです。
 『秋ノ宮地誌』や『雪の出羽路雄勝郡』等に関するご意見など貴重なお話をうかがいました。雄勝柵の跡が川向かいの何とかという(メモなし)山の辺りにあるとのことで、菅江真澄も記しているとうかがいました。菅江真澄の記載に思い当たるところがありませんでした。
 元総理の菅義偉さんが秋ノ宮出身とのことで、明日湯沢駅前で胸像の除幕式が行われるそうです。
 農作業中のご婦人にお会いできてK氏にお目にかかれたことによって、思いがけない探訪となりました。この幸運に感謝いたしております。
 K氏には、後日様々な資料をお送り頂きました。
 先の「境内に銀杏の大木と杉の老木のある画像」もそのひとつです。当方で加工して掲載させて頂きました。

 左上: 車を置いて歩いた道                右上: 小区画(北郭)中央の石像
 左下: 西側眼下の眺め                   右下: 鞍部から主郭にのぼる道
 左上: 主郭を北側から見る                右上: 水場
 左下: 祠と行啓碑                     右下: 鳥居と祠            
 左: 主郭を南側から見る 一面の草       右: 主郭付近の「スーパー地形」(スマホアプリ)のスクリーンショット


《探訪の整理》
◇樺山館跡の写真について
*私の撮った2023年5月26日の写真を、ウェブサイト『城郭放浪記』-「出羽・樺山館」のものと比べて見てみました。
 《 https://www.hb.pei.jp/shiro/dewa/kabayama-date/ 》 
 「出羽・樺山館」に「最終訪問日2012年5月」とありましたので、11年前の写真なのでしょう。
 桜が咲き草も目立たないので、5月の上旬でしょうが、5月26日との草丈の違いに驚きます。
 「出羽・樺山館」の写真をよく見ると祠がわかりますが、それと知らないと見過ごすと思います。
 私の写真では水の出ている管にしか見えないものは、蛇口の付いた管が細い柱に支持されて立ち上がっているものですし、湿地は四角形に作られた浅い水面に見えますし、地面に置かれた流しの枠のようなものもあります。蛇口のある管と枠と水面の位置関係がバラバラに思います。城跡ですので、井戸があったとか湧水があった場所でしょうか。公園の水場としての設備なのでしょうか。今でも立ち上がった管の先から水が出ています。自噴でしょうか、どこか標高の高い水源からパイプを敷設するなどして水を引いているのでしょうか。
 サイトの写真には四阿も写っていますが、私はその存在に気付かなかったので、見落としたか破損したのでしょうか。
 サイトに二つの石碑の写真がありますので、私の方では載せません。

*撮った写真を拡大して細部を見ていったところ、祠の手前の鉄鳥居の右の柱に「三吉神社」と彫られていて、左の柱に「明治三十八年旧九月吉日」であろう日付けと願主のお名前が彫られていました。
 祠の右の神像を拡大してみると、兜のように見えたのは頭髪の表現とも思えますし、右手に持つものは長柄斧のようでもあり、左手の方に葉が見え、裸足のようですので、三吉様の神像のようです。背後に松が光背のようにあります。
 左側の古四王様という神像は、冠に笏を持ち座しており、楽座のようですが平緒かと思うものが垂れていて足先はわかりません。こちらも松を背負ったお姿ですが、松の彫りが明瞭で、こちらの神像の方が新しいのかもしれないと思わせます。
 『秋ノ宮地誌』の記す「祭神 大彦命 神須佐男命 伊邪那美の命 大過津姫命」からすれば、古四王様の神像は大彦命ということでしょう。
 大彦命を「正しき位官の人」として現わしているようです。〈「正しき位官の人」については、秋田市寺内の記事に記載したいと思います〉
 古四王神社と知らなければ、天神様と思うかも知れません。
 『秋ノ宮地誌』の記す四祭神は、明治の神社行政下における祭神ということではないかと思います。
 古四王神社の祭神を大彦命とする事が、いつ頃からの事なのか、はっきりしないと思います。
 これらの祭神について、椛山の伝承にあらわれているのでしょうか。

◇樺山館跡の小祠はいつから鎮座
*ガイドブック「秋ノ宮の『今とむかし』」の「【2】ーK 雄勝・秋ノ宮地区の中世の城・館・柵跡」の「F樺山館跡、または椛山館、牛塚館、生牛箇城」に、「頂上は樺山公園になっており」、「明治33年5月に皇太子殿下のご成婚記念として慶紀公園」となったとあるので、鉄鳥居の明治三十八年はその後になります。
*また、サイト『ゆざわジオパークの案内』の「ジオサイト『秋ノ宮・役内』と『秋の宮温泉郷』パート4《中村 ○樺山》」の記事に「樺山館跡の詳しい説明と館跡の見取り図を見て」として「湯沢市教育委員会報告書」を引用しています。そこに、「標高302m、比高約100mの山頂に位置」し、主郭が「100m×40mの広さ」で、「主郭は、現在放棄されているが、明治33年にグランドに整地され破壊されている」とありました。この「現在放棄されている」は、どういうことをあらわしているのかわからないのですが、明治33年の整地は公園造営によるのでしょうが、城跡としての主郭は扁平にされたようです。
 この「湯沢市教育委員会報告書」の見取り図には、西側から曲がりくねった道が主郭に通じているように見えます。
 K氏のおっしゃった「人の登る道も整備」というのは、K氏より頂いた資料によると「表側の遊歩道復元」整備計画の事と思われますし、主郭の西側に下椛山集落がありますので、この主郭に至る山を登る曲がりくねった道を整備する計画の事と思われます。 
 《 http://miraaman.blog.fc2.com/blog-entry-227.html 》

*「慶紀公園」となった後に、その公園に祠を遷すということは、考えにくいのではないかと思いますので、公園化される前から樺山館跡に椛山(下椛山)の方たちが神を祀っていたのだろうと思います。
 公園化に際して、神の祠を遷して取り払う事は、さすがにしなかったのではないかと思います。
 公園となった後の、また村社神明社へ中村地区の神社を合併した明治41年9月より前の「明治三十八年」に「三吉神社」の鳥居が奉納されており、現在も祠に三吉様の神像が安置されています。『秋ノ宮地誌』の記す四祭神に三吉霊神らしき祭神はないように思います。
 もしかしたら、この公園が造られた時に古四王様の祠は新たにされたのかも知れません。新しくされた祠が今あるコンクリートの祠であったとしたら、相当に画期的な祠として建立されたのではないでしょうか。
 新たにされた祠に、三吉様を祀りたいと勧請されたのかも知れません。経緯の分らないことなので、いろいろ想像させられます。

*樺山館跡に古四王神他を祀る祠は、いつからここに鎮座しているのでしょうか。
 菅江真澄が「増補 雪の出羽路 雄勝郡 巻四」で「中村」の「下樺山」に「○古四王ノ社 」「社守り兵右衛門也」と記して、生牛館跡・古四王社・下椛山村の家などが記され図絵を画いた頃の古四王社はどこにあったのでしょう。
◇菅江真澄の図絵について
 この図絵については、先にも記したサイト『ゆざわジオパークの案内』の「ジオサイト『秋ノ宮・役内』と『秋の宮温泉郷』パート6《中村 社寺の案内》」をご参照いただければと存じます。
 《 http://miraaman.blog.fc2.com/blog-entry-230.html 
 また『菅江真澄と歩く 二百年後の勝地臨毫 出羽国雄勝郡』(執筆・編集 逆木一 2017年)の「第八章 光ことなる錦秋の宮」にもこの図絵が掲載されています。
*『秋田叢書第三巻』所収の「増補 雪の出羽路雄勝郡」の「巻六」が「勝地臨毫 出羽国雄勝郡」で、巻六の表紙に佐竹侯爵家蔵とあります。
 「勝地臨毫 出羽国雄勝郡」は全七冊で目次では雄勝郡の五に「泉澤村 小野村 横堀村 院内 八口内 宇須久内」とありますが、その五に収録された図絵は泉澤村と宇須久内の二枚のみです。〈八口内=役内〉
 このことについて『菅江真澄全集 第五巻 地誌T』の内田武志の「解題」で、雄勝郡の五について「目次には六カ村をあげているから、最初はその村名に相当する図絵が収載されていたと思われるが、現在は右の二図絵だけが綴られている。おそらく、文政五年十二月、明徳館献納の直前に、真澄の手によって、他は削除されたものと思われる。削除された図絵のうち、現在、次の八図絵が見出されている。それは半紙に描かれた彩色図で、明らかに目次にいう『院内、八口内』の二村の図絵と考えられる。この八葉の図絵は装本されておらず、捺印もない。」「第五冊に属する、これ以外の図絵『小野村、横堀村』は発見されていない。」とあり、見出された三図から九図までの八図絵の題名が記されいます。『全集 第五巻』には、見出された図絵も掲載されており、その八図が「役内 下椛山村」で、サイト『ゆざわジオパークの案内』で見て出典を探していた図絵です。
*この図絵の画面構成は、画面右上に樹木の描写がある山があり山頂の樹木の中に「古四王ノ社」があります。右下に「下椛山村」の家とその奥に屋根だけ見えて二軒の家のように描かれ、家の辺りから山へ続く曲がりくねった道が描かれています。左の下側にも「下椛山村」の右の家よりいくらか大きな家が一軒描かれ、画面のその家の上のほうに古四王社の山よりも低い「生キ牛ガ館あと」の山が樹木もない丸い山頂で描かれています。こちらの山には道は描かれていません。画面の中央あたりに蔓を巻いた「牛塚ノ槻」が画面を左右に分けるように大きく描かれています。「牛塚ノ槻」の右側の画面中央よりやや右下あたりから川が描かれていて、川は斜め右下に流れ、右下の家付近で流れの向きを変えて画面の下側を左に流れていきます。川には二枚の板を並べた橋が二箇所に架かっているので、大きな川ではなく下椛山の集落内を流れる川と思われます。
*この図絵の樺山館跡(生牛箇館跡)と古四王社の位置関係が正しく、樺山館が標高302mの山頂にあるならば、樺山館とは別のより高い山頂に古四王社はあることになるので、樺山館の主郭中央付近から南南東に500m程のところの標高375mの山がかつての古四王社の候補地となると思います。
 もしも、真澄の図絵に描かれた川が、樺山発電所の北から樺山館に向う林道九十九沢線の側を流れる九十九沢川であるとしたら、古四王社は樺山館跡にあって、真澄が生牛箇館跡とした山は林道の北側の、果樹園の地図記号や記念碑の地図記号のある所ということになると思いますが、現在の九十九沢川の流路を見ると、真澄図絵の左側の家が建つような土地が見当たらないように思います。
 真澄の図絵に描かれた範囲が相当に狭い範囲とすれば、樺山館跡を古四王社の山として殿蓋山遺跡のあたりを生牛箇館跡と取り違えた可能性はあるのでしょうか。

*樺山館跡と古四王社が別の場所であったとすれば、江戸後期から明治にかけて、古四王社を樺山館跡に遷座したことになると思います。
 そのような伝承は、地元に残っているのでしょうか。
 真澄は古四王社の場所と生牛箇館跡が違う場所としていますが、古四王社は樺山館跡にあって、樺山館跡と古四王社が同じ場所ということはあり得るのでしょうか。
 菅江真澄「増補 雪の出羽路 雄勝郡 巻四」〈秋田叢書第三巻所収〉の項目「中村」の「下樺山」に古城の項目があり「○古城あり生牛箇館といふ、〈略〉、こは菅ノ加賀守の旧城たり、最上義光と戦ひうちほろびたり」があります。
 ガイドブック「秋ノ宮の『今とむかし』」の「年表」の「文禄二年(1593)」に「中村樺山館(生牛城)菅兵庫籠りしが最上勢にて陥落。」は、真澄の記事と同じ事でしょう。
 『秋ノ宮地誌』に「(九)古四王堂(樺山) 別当菅兵左エ門 貞享元年甲子〈1684〉十月十五日の棟札存す / 文禄年中に樺山館に菅兵庫あり創立古きを想像せらる」とあることからすると、貞享元年の別当菅兵左エ門と文禄の菅兵庫が全く無関係とは思えませんので、樺山館跡に古四王堂が祀られてもおかしいことはないと思います。

 K氏にお送り頂いた資料に「昭和30年頃の館(茅刈場であった)」と記されたの画像がありましたので載せます。
 鮮明ではないのですが、左下の白い部分は道路と思いますし、その右側は田圃で、左側の白い斜め線のような物は樺山発電所の水圧鉄管でしょうか。茅刈場であれば、現在のように樹木で覆われていいないのでしょうが、残念ながらこの画像と同位置からの写真がないので比較ができません。
 参考までに、国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」による画像と対照地図を載せます。
・左画像:1967/11/02(昭42)撮影「TO677Y-CBA-2」      ・右画像:1976/10/18(昭51)撮影「CTO7612-C11A-12」
・カシミール3D 解説本の地図に記入

◇雄勝柵
*菅江真澄「増補 雪の出羽路 雄勝郡 巻四」〈秋田叢書第三巻所収〉の項目「中村」に「○漆澤(支村) 陸奥国加美郡漆澤あり。考に続紀二十巻宣命の條に、百姓波京土履牟事穢禰出羽国膝村乃柵戸爾移賜久止宣、云々と見えたり。此膝村は漆村を誤り書ならむ、漆澤、旧漆村と云ひし處といへり、古城の跡あり、其柵戸などの跡にや。由理ノ郡(亀田)漆寺村あり、また越後ノ國に漆山ノ神(式内)ませり。」がありました。
 この項目を読んではいても、文字面を追っただけだったようで、K氏のおっしゃった雄勝柵の事とは気付きもしませんでした。
 「秋ノ宮の『今とむかし』」の「年表」に「天平宝字元年(757)」に「雄勝村『漆沢』に柵有り、翌二年小勝柵を雄勝城と称した、浮浪人二千人を柵戸とした。」がありました。
 同年表に「天平五年(733)『続日本紀』に雄勝村に郡を建て民を住ませるとある。」、「天平宝字三年(759)有屋峠開設なる。(陸奥国から出羽国府(秋田城)へ通ずる雄勝経由の官道ができる)」があります。

*『新訂増補 国史大系 第二巻 続日本紀』(編輯 黒板勝美 国史大系刊行会 昭10・1935)を、国立国会図書館デジタルコレクションの送信サービスで閲覧しました。
 続日本紀・孝謙天皇の巻二十の「天平宝字元年七月」に「百姓波京土履牟事穢弥出羽国小勝村乃柵戸尓移賜久止宣」(p239)とあり、「膝村」が「小勝村」に改められています。頭注によれば「勝、原作膝、據金本堀本改」とあり、同書の「凡例」に「校勘者が本文の譌誤及び闕脱を諸異本及び諸書により全く改補して可なりと信じたるものは頭書に據何本改、又は據何書補と注し」とありますので、金本(尾張徳川黎明會所蔵金澤文庫本)堀本(旧輯国史大系所引堀正意本)に拠り改めたということのようです。
 『国史大系第二巻 続日本紀』(経済雑誌社 明治30・1897)の頭注は「小勝、原作膝一字、據官本ト本堀本改」とあり、官本は楓山文庫本(永正写本)、ト本はト部家本、堀本は堀正意本とあります。
 天平宝字元年七月の記事にある「膝村」を、小勝村に改めた根拠はなんでしょうか。
 真澄は膝一字の記された原作を読んでいて、膝村とあるが漆村が正しく、漆沢は以前は漆村と言ったので、この中村の漆沢に柵があると考察したということのようです。
 真澄がこのことを記載しているのは、地元に柵の伝承や村名の伝承があったのでしょうか。
 原文の文字を誤りとして論じていくのには、相当の根拠が必要と思いますが、どうなのでしょう。
*全現代語訳『続日本紀(上中下)』(宇治谷孟 講談社学術文庫 )で見てみます。
 『続日本紀(中)』で当該部分のすこし前から見ると「また言葉を改めて申しわたすに、久奈多夫礼らに欺かれて、陰謀に加わった人民らが、都の土を踏むことは汚らわしいので、出羽国小勝村の柵戸に移住させると、仰せになる天皇のお言葉を皆承るように申しつける。」とあります。
 真澄の引用部分は「人民らが、都の土を踏むことは汚らわしいので、出羽国小勝村の柵戸に移住させる」の部分になろうかと思います。
 これは、「橘奈良麻呂の乱」に関係の者を柵戸にするということになると思います。
 雄勝城の完成は天平宝字三年〈759〉とされているようですので、天平宝字元年の孝謙天皇の宣命をどのように考えればよいのでしょう。
 「小勝村乃柵戸」が、もし雄勝城の柵戸ということであれば、天平宝字三年に完成の雄勝城は天平宝字元年の当時はどのような状態だったのでしょう。
 都の土を踏ませたくないということであれば、計画は定まっているがこれから作る雄勝城が出来たらそこへ移せというような悠長な処罰ではないのでしょうから、すぐに移すことのできる柵があったと考える方が無理がないと思います。
 『続日本紀(上)』の、天平五年十二月二十六日に「出羽の柵を秋田村の高清水の岡に移し置いた。また雄勝村に郡を建てて人々を居住させた。」(又於雄勝村建郡居民焉)があります。
 そして、天平宝字元年七月より以前の天平宝字元年四月に「不孝・不恭・不友・不順の者があれば、それらを陸奥国の桃生・出羽国の小勝に配属し、風俗を矯正し、かねて辺境を防衛させるべきである。」(#z陸奥国桃生出羽国小勝以清風俗亦捍邊防)があります。
 ここに「小勝」〈頭注・訂正はない〉があるので、七月の「出羽国膝村」を「出羽国小勝村」に改めたのでしょうか。
 また、天平宝字二年十二月八日に「板東の騎兵・鎮平・役夫と帰順した蝦夷らを徴発して、桃生城・小勝柵を造営した。この造営には五道の諸国がみな参加して、ともに築城の工事を行った。」(造桃生城小勝柵五道■人〈■人偏に具〉)があります。
 さらに、天保宝字三年九月二十六日の記載に「天皇は次のように勅した。『陸奥国の桃生城・出羽国の雄勝城を造らせているが、工事に従っている郡司・軍毅・鎮守府の兵士・馬子ら合せて八千百八十八人は、今年の春から秋に至るまで、すでに故郷を離れて生業にかかわっていない。朕はこれを思うごとに心中深く哀れんでいる。彼らが今年負担する出挙の税を免除するように』と。」(造陸奥国桃生城出羽国雄勝城)があって、「小勝柵」が「雄勝城」になっています。また、天保宝字三年の工事期間や規模が示されているようです。
 記載は続いて「初めて出羽国の雄勝・平鹿の二群に、玉野・避翼・平戈・横河・雄勝・助河ならびに陸奥国の嶺基などに駅家を置いた。」(始置出羽国雄勝平鹿二郡・・・)があって、現代語訳で上記のようですが、天平五年の「雄勝村建郡」の記事と「始置出羽国雄勝平鹿二郡」との関係を問題にして、天平五年に建郡の記載があるがそれは実現せずに天保宝字三年に雄勝建郡が成ったという見解もあるので、どうなのでしょうか。
 同九月二十七日の記載に「板東の八国と越前・能登・越後の四国(越中脱落)の浮浪人二千人を雄勝の柵戸とした。また相模・上総・下総・常陸・上野・武蔵・下野の七カ国から送られてきた兵士の武器を一部保留して、雄勝・桃生の二城に貯えた。」があります。
 天平宝字四年正月四日の詔のなかに「昔、先帝(聖武天皇)はたびたび明らかな詔を下して、雄勝城を造らせられた。しかしその仕事はなかなかむつかしくて、前任の将軍は困らせられたものであった。しかしながら今の陸奥国の按察使兼鎮守将軍・正五位下の藤原恵美朝臣朝?らは、荒夷を教え導いて、皇化に馴れ従わせ、一戦も交えることなく、雄勝城を完成させた。また陸奥国牡鹿郡では、大河(北上川)をまたぎ、高くけわしい峰を越えて、桃生柵をつくり、賊の急所である地点を奪った。かえりみてその功績を思うと、褒美として位階を上げるのは当然である。」(詔造雄勝城 作桃生柵)があります。
 雄勝城の完成に合わせるように、駅家を配置し、柵戸を置き、武器を貯えていますので、本格的な雄勝郡の経営はここに始まるのかもしれませんが、それ以前に雄勝城の完成に至る紆余曲折の経緯があるわけでしょうから、天平宝字元年の雄勝郡には柵戸を移す柵の存在があったのだろうと思います。
 天平宝字元年四月の記載に「出羽国小勝」とあり、同七月の記載が「出羽国膝村乃柵戸」になっていても、「膝村」を「小勝村」の誤りではなく、小勝にある柵をより具体的に地名をもって示しているのかもしれないと思いますが、あり得ないことでしょうか。
 ただ、柵戸に移したという膝村の柵が、はたして漆村(漆沢)であるのかどうか。
 可能性は否定すべきではないと思いますが、膝村という地名の史料が出てくるとか、考古学的な発見があれば、いいのですが。


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