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所在地情報 秋田  12  大曲町


◎所在地情報
 大山リスト : 仙北郡大曲町小貫高畑
 桑原リスト  :大曲市小貫高畑  古四王神社
 佐藤リスト : 大曲市大曲・古四王際  古四王神社
 (参考)及川 : 大曲市小貫高畑
       川崎 : 仙北郡大曲町高畑
       藤原 : 仙北郡大曲町
  丸山茂は、平鹿郡ばかりではなく、仙北郡でも高畑村、大曲村、小貫村、横澤村中里の4箇所をあげていますが、高畑・大曲・小貫は同じところのことと思いますので、出所の異なる情報をそのまま記しているのでしょうか。

*大曲村は明治22年に仙北郡大曲村・飯田村・川目村・小貫高畑村・和合村・東川村・戸蒔村が合併し村制施行して発足し、明治24年に町政施行し大曲町になり、大曲町は昭和29年に仙北郡花館村・大川西根村・内小友村・藤木村・四ツ屋村と合併し市制施行し大曲市となりました。
 平成17年、大曲市と神岡町・西仙北町・中仙町・協和町・南外村・仙北町・太田町が合併して大仙市が発足となりました。

○『平成の祭』
 古四王神社  
 鎮座地:大曲市字古四王際〈コシオウギワ〉30
 祭神:《合》天照皇大神、豊受大神、建御名方命、八坂刀売命、水波女大神 《主》大彦命

○『秋田県神社庁HP』
 古四王神社  
 鎮座地:大仙市大曲字古四王際30
 御祭神:大彦命、天照皇大神、豊受大神、建御名方命、八坂刀売命、水波女神
 由緒:「建立については、前責任役員富樫氏の文書に、『古四王大権現建立、元亀元年〈1570〉卯月吉日、戸沢六郎、又兵部トモ云伝也、奉行富樫左衛門太郎』とあって、富樫家の祖、誠白より7代目左衛門太郎勝家が領主戸沢兵部の命により、奉行として建築したものと見える。飛騨の名匠甚兵衛が、棟梁として建立したものである。」「明治41年12月17日諏訪神社、水波女神社、稲荷神社を合併す。」


*田口松圃「国宝建造物 古四王神社に就いて」(『秋田郷土叢話』所収)を見てみます。
 秋田県立図書館の蔵書検索によると、田口松圃ショウホ/著「国宝建造物 古四王神社に就いて」は大曲高等女学校を出版者として1931年〈昭6〉に発行されているようです。
 秋田神社庁HPにある「由緒」にある部分以外から引用すると、「今回の修理〈昭和5年〉に際して解体したるも焼けた痕跡は少しも無かった所を見れば、六郷方に焼討ちされた神殿の所在地は現在の地点でなかったであらう。
 然るに仙北郡長野町竹内氏所蔵の慶安〈1648〜1652〉頃の古文書に、仙北地方の古社寺の縁起をしるしたものがあって、それにー
     高畠小四王〈表題、行の中段に記載〉/〈改行〉
                               〈行の下段に二行〉高尾山長命寺/用明天皇御宇    /〈改行〉
 聖徳太子当国下向者八百森ニ有八百森ニハ吾縁ノ相形ヲ納ム爰ニハ又仏法寺守護ノ四天王ヲ込置ントテ小四王権現ト額ヲ打給泉州四天王寺同前ノ御縁起也 / 経塚 其後源氏義明当国ヘ下リ萬部ノ御経ヲ納タマウ /〈略〉」として「高畠小四王」の縁起を記載して、「この縁起は巻末に、『但シ後陽成院御宇文禄年中マデ』としてあるから、慶安頃に旧記に依って書いたものと思ハる。〈略〉」。
 そして、「高雄山長命寺」に関して「大曲町町史資料ー第一輯」から引用して、それについて「『高雄』が『高翁』と書かれるやうになって『気高き老人』の伝説が生まれたのであらう。即ち当古四王社の起原に関する伝説で、今人に知られてゐる唯一のものである。それは昔この所に一ツの石があった。そこへある時白髯さんさんとして如何にも気高い一人の老翁が憩ふた。後にその老翁は即ち大彦命であったと知って、里人等は畏み敬つて一宇を建立したのがこの古四王神社であるといふのである。」〈高尾、高雄はママ〉
 「寺内古四王神社の御神体が維新前まで本尊釈迦に四天王を四方に配してあつたと同じく、両部思想の浸潤と共に、この高畑古四王もやはり四天王化されたであろうことは想像に難くない。この慶安の古縁起にも、たとへそれは聖徳太子に附会しあるとはいへ四天王を奉祀したことの事実であることを思はせられる。富樫家元亀の古文書にも古四王大権現と見え、又昔の御神体であったといふ釈迦像も同家にあった〈略〉」とあります。
 先の引用の「六郷方に焼討ちされた神殿」については、「元亀元年富樫氏建立の古四王は富樫氏の内城と共に焼失した事が判る。その為に戸澤氏は富樫氏を奉行として、新たに現在の社殿を建立せしめたであらうことが想はれるのである。高畑古四王社に関しては何分文献に乏しく、以上の如き考え方をする外はないようであるが〈略〉」とあります。

 田口氏の同書の記述を見ると、竹内氏所蔵の「慶安頃に旧記に依って書いた」と思われる古社寺の縁起に「高畠小四王」と記されていたようですが、「富樫家元亀の古文書にも古四王大権現と見え」とありますので、小四王権現表記と古四王大権現表記があります。
 「旧記」の書かれた年代がいつ頃なのかはっきりしませんが、「高畑小四王」ですから、高畠にコシオウがあった時代のことになるでしょう。
 二つの表記のあること、とりわけ小四王の表記のあることが、気になります。
 また、たいへんな伝説・附会の説なのですが、そのことから、古四王の祭神・大彦命のこと、聖徳太子と四天王寺、四天王と古四王神社のことがある程度伝えられていることが分かります。
 『秋田県神社庁HP』の「由緒」にある「古四王大権現建立、元亀元年」と田口氏の記す「元亀元年富樫氏建立の古四王は富樫氏の内城と共に焼失した事が判る。その為に戸澤氏は富樫氏を奉行として、新たに現在の社殿を建立せしめた」は、どういうことになるのでしょうか。
 元亀元年に建立した古四王社が焼失したので、元亀元年にもう一度古四王社を建立したと言うことでしょうか。
 六郷方が富樫氏の古四王社と内城を焼討ちしたのは何時のことなのでしょうか。
 そして、焼討ちされた古四王社はいつ建立されたのでしょうか、また古四王社と内城はどこにあったのでしょうか。

*「冨樫氏 大曲」でネット検索したところ、雑誌「あきた(通巻33号 1965年(昭和40年)2月1日発行」ー「戦国の武将たち(11)」として「富樫左衛門 〜伏見祐造〜」の記事がありました。
 〈 http://common3.pref.akita.lg.jp/koholib/search/html/033/033_055.html 〉

 それによると、六代目富樫忠之の子の「左衛門太郎勝家は、戸沢氏の命により、大曲土屋館より同市内高畑の孔雀城に移った。高畑は六郷境目に当り、当時は所々に谷地があり、孔雀城をその水利の下に築城したらしく、続いてすぐ側に守護神古四王社を建立した。これが今、国の重要文化財になっている建物だ。」として富樫家古文書を引き「由緒」にある文書が記されています。
 7代目の左衛門太郎勝家が高畑に来たのですから、六郷境目の高畑の城と古四王社に火をかけられたのであれば、古四王社は高畑で少なくとも二度建てられて、現在の社殿は飛騨の匠が棟梁として建てた、ということになるのではないでしょうか。
 「六郷方に焼討ちされた神殿の所在地は現在の地点でなかったであらう。」とありますが、焼かれた古四王社の場所に現在の社殿を建てたとしても、新たに建てた社殿であれば「解体したるも焼けた痕跡は少しも無かった」のも当然ではないでしょうか。
 なお、大曲土屋館〈ドヤダテ〉は大仙市大曲中通町、孔雀城は大仙市大曲上高畑とのことですので、この間は直線距離で3キロメートル弱ではないかと思います。

*2021/07/10に閲覧出来た『東大曲小学校』のwebサイトに「古四王神社」のコンテンツがあり、その「古四王神社のご案内(壱)」の記事に、「仙北平野を南北に走る奥羽本線の大曲駅と飯詰駅のほぼ中間地点、広い田園に囲まれて天を仰ぐ老樹の中に小さい社があります。/これが元亀元年(1570年)卯月に当時の大曲城主『冨樫左衛門太郎勝家』が、武運長久を祈ってこの地へ神宮寺から移った際に建立したもので、祭神は大彦命です。/もっともこの神社は前からこの地にあったものですが、あまりにも壊れているので城主が孔雀城を築いた際、再興したものであると伝えられてきました。」
 〈 http://www.edu.city.daisen.akita.jp/~om-higashisyo/kosiou-1.html 〉

 古四王社が、冨樫氏が高畠の地に来る前から、地元の神として祀られていたとすると、疑問に思った点に答えが出るように思います。
 勝手な想像ですが、冨樫氏が高畑に来て拠点を築く際に、その地にある神社を復興して祀った。
 高畑に拠点を築いたことで対抗勢力に攻められて、その地の神社が焼かれ内城も焼かれたので、戸沢氏のもとに神社を立派に再建し孔雀城を築いた、と言うようなことであれば腑に落ちるように思います。
 高畑に冨樫氏以前にコシオウ社があったとすれば、竹内氏所蔵の古文書の「高畑小四王」「小四王権現」の表記は冨樫氏以前のコシオウ社の表記を反映しているのかもしれません。
 そうであれば、「小四王」表記が古い時代のものということになるのではないかと思います。

 同サイトの「古四王神社の伝説」に二つの伝説が紹介されていて、その一つは田口氏も記していた「白髯さんさんとして如何にも気高い一人の老翁」の伝説で、二つめは「延暦元年(728年)に、東方から一人の老翁が来臨しそこにあった光輝く不思議な一尺四面(30p四方)の意思〈ママ〉を打ちくだくと、中から瑠璃の薬壺が出たので、これこそ古四王大権現のお出ましだと、草堂を建てて祀ったというもので、古四王堂縁起という古い文書にあります。」とありました。
 先に引いた、雑誌「あきた(通巻33号)」ー「戦国の武将たち(11)」ー「富樫左衛門 〜伏見祐造〜」の記事の中に、「さて、『古四王堂縁記〈ママ〉』によれば、左衛門太郎勝家、物詣での帰途、夕闇せまる草叢の中に瑠璃光の壺の光るのを見た。これはただものに非ずと、ただちにこわれかかった堂宇を修築し御堂を建立したとあるが、〈略〉」がありました。

*菅江眞澄「月出羽道仙北郡(二)」(『秋田叢書 第9巻』所収)の十巻中の「○小貫高畑邑」を見てみます。
 縦書きの○小貫高畑邑(割書:大曲寄郷、十三村の内なり)には右に「水沼のはちす」と副題ないし修飾語が付いています。
 本文「○此邑は二郷一名の村号也。村の東は六郷本館、西は大曲西根、〈略〉」と続いて「○枝郷○小貫(家員四十戸)○相野(三戸)○開キ(十四戸)○大蔵(古名本郷七戸)○高畠(あら町の名あり、合廿七戸)○大槻(二戸)○古四王堂(五戸)○笑野口(九戸)〈略〉」と続きます。〈(カッコ内)は小字、割書〉
 古四王堂という地名の集落が存在するようです。
 神社等の記載は「○諏訪明神 祭日六月廿七日、小貫村鎮守也○齋主新墾保長祀せり。/ ○古四王ノ社 田中に座り、祭日(割書:四月八日、八月八日)○齋主富樫刑部左衛門。/ 〈略〉/ ○富樫稲荷大明神 祭日八月十日○齋主富樫刑部左衛門。/ 此稲荷明神の由来、また白狐の物語なンどは、神宮寺村の寶蔵寺の條に徳政夜話を引て挙たり。富樫の家は孔雀ノ丘に作れリ、その創めは元亀の頃也といへり。富樫家の由緒並家系譜、及陣幕、小旗、家験等は、『笠置の巻』の下に委曲にしるして此處には事省ぬ、また富樫氏の古記に伝へもあるべけれど、そはえしらねばもらしたり。」とあります。
 最後に「○此一郷の姥帳の上書に『慶安元年山本郡北浦分小貫高畑村』と見えたり、いづこも慶安のむかしまでは、山本ノ郡ともはら云ひしと見えたり。/ ○総家員百十戸 ○同人員四百四十四人 ○同馬員三十七匹。」と記されています。
 「月出羽道仙北郡(二)」(『秋田叢書 第9巻』所収)の六巻に「○寶蔵寺歴代並由来」「○富樫家系譜」があります。

                                        《 ここまで 2021−07 記 》

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