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探訪記録 山形   2 : 庄内  2


佐藤リスト 位置番号 2 : 飽海郡遊佐町野沢 小四王神  
              備考)御嶽神社(大己貴命・猿田彦命・小彦名命)に合祀、もと蔵王権現の小四王神 
                〈桑原リスト : 遊佐町野沢竜沢神社境内・小四王屋敷、小四王明神

《探訪の準備》
 この情報はかなり知られていたようで、大山リストに飽海郡北遊佐村野澤があり、大山新リストに羽後国飽海郡北遊佐村野澤蔵王権現鰐口銘天文四年小四王明神(永禄十年の兵乱によりて廃絶)の記載があります。

 『池田・方寸5』に、「野沢には野沢館(滝〈ママ〉沢館)があり、…永承二年(1047)阿部頼時の子、黒沢五郎正任が前九年の役後〈ママ〉に館を築いたと伝えられており〈略〉御嶽神社は明治の神仏分離後の名で、もとは蔵王権現と称し小四王神も祀られていた。これは貞和二年(南朝年号では正平元年−1346)藤名左エ門が京都より移住してきて小四王神を祀ったものであるが、永禄十年(1567)流鏑馬神事の日に、秋田由利郡の仁賀保嘉茂の大軍の急襲を受けて絶えてしまった。鰐口も近年まで残っていて『天文四年小四王明神』と刻まれていたが、現在は…某氏所有となっている。」とあります。
 永承二年と前九年の役後との記述については、後で述べたいと思います。 
 阿部〈安部〉頼時・正任のことに関しては伝説なのでしょうが、古四王の在るこの所に安倍氏の伝説があることは興味深く思います。

 『平成の祭』によると、「 御嶽神社(ミタケジンジャ) 通称-龍沢さま(リュウザワサマ) : 祭神〔主〕少彦名命、大己貴命、猿田彦命 〔合〕大日□貴命〈□=雨の下に口が横に三並びその下に女、オオヒルメムチ〉 : 飽海郡遊佐町大字野沢字水上55−1 : 境内社 火伏神社〔主〕火伏大神」とありますので、佐藤リストと桑原リストは同じ所で間違いないと思います。

『山形県神社誌』(山形県神社庁 平12・2000)の御嶽神社の記事の「由緒」によると「当社は、元蔵王権現と称し〈略〉。縁起書に末社、由良姫神社は貞観年中、隠岐国知夫郡、由良姫大明神を遷し奉るとあるので、本社の創始は其の以前と考えられる。〈略〉貞和二年藤名氏が京都より来り、小四王明神を祀る。〈略〉」とあります。縁起書の詳細は分かりません。

《探訪の記録》
*2017年6月9日
 丸池の次の目的地を野沢・御嶽神社にしました。
 御嶽神社のそばにナビの目的地に出来そうな情報が無いので、先ず野沢へ向かいました。

 野沢に至り川〈野沢川〉の側の狭路を進んでいると、川を横切る道路に出る手前の川の右岸(西側)に御嶽神社の石柱神社標がありました。その場所から赤い欄干の細い橋が掛かっていて、川の向こうに両部鳥居があります。
 道路を渡り、鳥居近くの空地に車を止め、神社を目指そうとしました。鳥居には龍澤宮の社額があげられており、鳥居の先に道路がありますが、神社ヘ続く参道が分かりません。
 道路を歩いていくと、道路脇に数段のなだらかな階段がありました。その先に杉並木が続いていて、並木の間に狭い道がへこんでいますので、ここが参道と思いますが、草が多く先も見通せないので、ここを進むのはやめました。
 道路をなお少し先に進むと杉並木の横を行く道路がありました。
 事前のネットでの情報収集でも、参道を歩くと結構遠く車で行ける道が並行しているとありましたので、参道を歩いて杉並木の巨木を見たいとも思いましたが、時間に余裕が無いので車まで戻ってこの道を車で行くことにしました。
 車で行くと、御嶽神社の社務所近くまで進めました。
 境内には、大きな杉の木があり、両部鳥居・手水舎・社殿・火伏神社があります。
 りっぱな社殿に、龍澤宮の額があげられています。
 境内の一画(両部鳥居の外)に、朽ちた木柵に囲まれた少し土が盛り上がり礎石のようなものがある場所があり、謂われを記したものであろう木の立札がありますが、文字が消えて読めません。
 後で写真で見ると、立札の中央右に大きい文字で「龍澤館当◯」と読めるようです。◯は地か時かもしれません。「龍澤館」の文字の左に「外に」と読める小さめの文字があります。
 事前調査が行き届かず、社殿の背後にある階段を登ると館跡が見られることを知らず、戻りました。
 この地に小四王明神があったことは現状ではまったく分かりませんが、小四王明神にゆかりの地に立ってみました。

 左上: 神社標 左中: 参道入口                   右上: 橋欄干と龍澤宮鳥居 右中: 杉並木の参道 


 左: 社殿                        右: 不明な立札





《探訪の整理》
 ここまでの情報に関する部分を『遊佐郷村落誌(上)』から抜き出してみると、『第二章 遊佐の巻=一,遊佐のあらまし』に「永承二年(1047)安倍氏の一族黒沢尻五郎正任が参り、野沢館を築いた。」「南北朝時代(正平元ー1346)藤名左エ門京都より来たり野沢館に入り、五百年の長きに亘って勢を張り…」「藤名氏は永禄十年(1567)に…亡び」がみられます。
 同書『第一章 蕨岡の巻=一,蕨岡のあらまし』に「永承二年(1047)黒沢尻五郎正任龍沢館をつくり、やがて松岳山に移り蕨岡館を築いたと龍沢館伝記に述べている。」とあります。
 これらには、前九年の役との関係を記してはいません。前九年の役は永承六年(1051)に始まり康平五年(1062)に終わったとありますので、永承二年は前九年の役より前になります。
 同書『第二章 遊佐の巻=八,上野沢 舞台』に「この村では先ず龍沢山について、更に龍沢館、御嶽神社、古四王神社のことについて述べなければならない。」とありますのでそれらの部分を以下に示します。
 「出羽国風土略記に、『蔵王権現、上野沢村山中に在り又滝〈ママ〉沢権現共云〈略〉寺社領略記には神号の上に滝〈ママ〉沢山玉椿寺とあり。虚空蔵堂の山寺号にや。』…」
 「出羽国風土記に、『郷社御嶽神社、祭神は少彦名命大己貴命二柱なり。野沢村水上に鎮座す。…境内社皇大神社太田神社〈二社割書〉 当社は大和国吉野郡金峰社を勧請せり。その年代詳ならざれども末社由良姫神社は…貞観年中(860年代)椿原の峰に社地を定め、隠岐国知夫郡由良姫大明神を遷し、下津岩根には太田大明神を遷し、里見和泉守橘正氏之を祭ると縁起にあり。…往昔は古四王明神をも祭りしが、永禄十年(1567)の兵乱に絶えたり。鰐口の銘に天文四年小四王明神とあり。末社の勧請地なりと該社由来記に有り。…』椿原の峰は本殿のある処である。…里見和泉守は不詳」
 「郡誌に、御嶽神社、〈略〉……本ト龍沢山玉椿寺蔵王権現ト称ス……」
 「郷社御嶽神社私考(佐藤民五郎)によれば、『往昔小四王神ヲ祀レル小四王社趾ハ今小四王屋敷ト呼ビ、境ヲ同ジクシテ龍沢山玉椿寺趾アリ。玉椿寺ハ同寺縁起書ニ持統天皇ノ七年(793)僧道昭ノ開基ニカカル霊場ナリト見ユル古刹ノ一なり。同寺ガ当社ヲ地主ノ神トシテ斎祀シ、開基以後ノ勧請ニ非ラザルベキハ其地相ニヨリ窺知スルヲ得ベシト雖モ、玉椿寺縁起今ニワカニ信ジ難ク、当社ノ創建亦推考ニ難シ』〈略〉」
 これらの記載の後も棟札写しや社家の文書等の資料が記載されており、そのなかの「龍沢館伝記並ニ社家先祖代々記」に「龍沢之館ハ永承二年丁亥春黒沢五郎正任館ヲ築始シ、〈略〉龍沢ノ館未ダ出来ザルニ松岳山ヲ縄張ス。正任後ニ松岳山ニ移リ、跡は正任ノ臣葛井勘十郎龍沢ニ住ス。貞和二丙戌年藤名左エ門トイフ御人京都ヨリ御下リ被成候。巳後都殿様ト唱申候由、其子孫代々永禄年中迄相続、永禄十年仁賀保ト戦ッテ敗北ス。〈略〉」とあります。
 情報の出処の資料は分かりますが、私などには「寺社領略記」は不明で、「出羽国風土記に、…」の引用文中の「縁起」は不明、同じく「末社の勧請地なりと該社由来記に有り」の末社の勧請地なりというのはどうゆうことかと疑問をおぼえますが該社「由来記」も不明、「郷社御嶽神社私考」も不明という有様です。
 宝暦十二年完成『出羽国風土略記』進藤重記(元昭和三年刊行ー歴史図書社・昭和四十九年発行版)巻之六6ノ11に上記に引用の蔵王権現の記載があります。引用すると「上野澤村山中に在り又瀧〈ママ〉澤権現共云…神號の上に龍〈ママ〉澤山玉椿寺…」とあります。
 明治十七年刊『出羽国風土記』(荒井太四郎著、狩野徳蔵校訂ー歴史図書社・昭和五十二年版)巻五飽海郡のなかに上記に引用の郷社御嶽神社の記載があり、他にも龍澤館趾・曹洞宗安養寺等の記載があります。「龍沢館伝記並ニ社家先祖代々記」の引用個所に該当する記事が龍澤館趾の記事にあります。曹洞宗安養寺の記事に「当寺ハ天正年中道昭法師の開基…元ハ村の東北なる龍澤山に在りて龍澤山宝林寺と號せり〈略〉龍澤山玉積寺と改號す…其後玉椿寺と改む爾来衰頽せしを寛永年中…再興して曹洞宗に転し安養寺と更む天和年中…現地に移転す。風土略記に蔵王権現ハ又龍澤権現と云吉出組上野澤村山中にあり〈略〉寺社領略記に神号の上に龍澤山玉椿寺とあり虚空蔵堂の山寺號にや」があります。「虚空蔵堂の山寺號にや」は何のことでしょう。
 引用した『池田・方寸5』に記されていた「野沢には野沢館(滝沢館)」は竜沢館の誤りかと思いましたが、出羽国風土略記(歴史図書社・昭和四十九年発行版)に瀧澤権現の記述がありましたが龍澤山玉椿寺ともあります。出羽国風土記(歴史図書社・昭和四十九年発行版)では「龍澤館趾」であり「神號の上に龍澤山玉椿寺」とあります。
 『改訂 遊佐の歴史』(「遊佐の歴史」刊行委員会 昭49-10月・1974)の項目「十二,(五)野沢館」には「上野沢滝沢山中の御嶽神社社地にあった館で、滝沢館ともいう。後冷泉天皇の永承二年(1047)、阿部頼時の子、黒沢五郎正任が前九年の役に敗れてこの地に落ちのび、この館を築いたが〈略〉」とあります。
 滝沢館や前九年の役について『池田・方寸5』と同様な記載があります。
 龍沢山なのか滝沢山なのか、龍沢館なのか滝沢館なのか。
 年代の相違と云うことはありますが、前九年の役後に実は落ちのびて館を築いたという伝説があったのでしょうか。
 いろいろ分からないことが多いのですが、天文四年小四王明神とある鰐口があり、小四王明神のことを記した「由来記」ないし「縁起」があって、出羽国風土記の内容が記されたように思われます。
 小四王屋敷と呼ばれる小四王社趾は、私には特定できません。
 御嶽神社境内にあった立札に関する情報は見つけられませんでした。

 佐藤『コシオウ信仰研究序説』に「古文書や金石文からコシオウをたどれば、まず山形県遊佐町野沢の御嶽神社の鰐口がある。『天文四年(1535)小四王明神』の銘があり、…。同県八幡町市条には永享2年(1430)とそれを写した長享3年(1489)の一条八幡祭礼日記がある。その中に『小四王めん千二百かり』『小四王のまつり四月四日』と記録されている(…)。コシオウ神社に関連してこれを遡る史料は知られていない。」とあります。
 コシオウの金石文として今のところ最も古いものとなった鰐口の銘が「天文四年小四王明神」とあること、一条八幡祭礼日記に小四王とあること、これは記憶に留めておかなければならないと思います。
 山形には他にも小四王と記す社があります。
 もしかすると、古四王は元々は小四王と記されていたのかもしれません。
 「小」を嫌って、いにしえを表わし創建の歴史を表わすものとして「古」と書換えた可能性はないでしょうか。
 長井市の巨四王神社も小四王があって「巨」にしたのかもしれませんし、小四王があって小姓などもあるのかもしれません。
 小四王であったとしたら小四王とは何かという問題があります。

 毘沙門天一体を祀って古四王神社と称する例がありますが、毘沙門天のみで四天王を代表させるというような意識があった場合に、毘沙門天を小四天王とし小四王と称するようなことはなかったでしょうか。
 根拠もなく証拠もなく、妄想的な思いつきにすぎませんが。

 ここでは、飽海郡遊佐町野沢水上の現・御嶽神社の境内地に、かって小四王明神の社があったが、今は無いというしかありません。 
 市町村の変遷を辿ると、明治9年に上野沢村・下野沢村・下野沢新田村が合併して野沢村になり、明治22年に遊佐町村・白井新田村・野沢村・吉出村・小原田村が遊佐村になり、昭和16年に町制施行して遊佐町になり、昭和29年に遊佐町と他5村が合併し遊佐町があらためて発足したようです。

《桑原・調査資料による追記》 2019-08
*桑原正史氏より新発田歴史図書館に寄贈〈2018〉された古四王神社研究関連資料中に、桑原氏による神社調査資料がありました。
 庄内地方から秋田県にかけて、現地を訪問して行なった古四王神社の調査ノートで、私では調べられなかった事柄がいくつも記されておりました。
 ホームページ「古四王神社探訪記録」のなかで私が行なおうとしてできなかったことを、桑原先生による実際の調査の記録から探訪記録の記事に追記して取入れさせていただきました。
 桑原正史氏については、『探訪記録にあたって』の「探訪の導き手」「桑原リスト」及び『引用・参照文献一覧』をご覧下さい。

◎1975−08−26
◯調査ノートを見ると、竜沢神社境内(御嶽神社)の社務所で宮司さんからお話しを伺っていて、その内容がメモ書きされています。
 鰐口について『御嶽神社宝物其他取調目録』という明治九年に鶴岡縣あての文書に「一 鰐口  四筒 / 内壱筒 ー〈略〉/ 内壱筒 銘無銘、寸法 五寸五分四匁、寄附人 小八元文十年古四王/明神与摺而有 / 内貳筒 」〈 /改項目 / 改行〉とあり、「元文」は「天文」ナルベシの注記があり、「天文十年古四王明神」とメモされています。
 『池田・方寸5』(及び『遊佐郷村落誌(上)』)に「天文四年」とあり、『改定 遊佐の歴史』には「天文十年」とあることをメモされています。
 古地図『遊佐郷上野沢村龍澤社地絵図面 文政11年』に「小子王屋敷〈ママ〉という地名あり、現在 寺屋敷という地名になっている。」と記され、「寺屋敷 現拝殿の左手に旧拝殿の跡地たる平坦な地があり、そこからやや北に登った高い処に、再びやや平坦がある。今は杉林になっているが、ここが『寺屋敷』で、ここから西を望むと杉木立の間から庄内平野が一望である。もともとこの辺は舘趾であったと言われている。」と記されています。
 『郷社 御嶽神社私考』に「小四王社趾ハ今小四王屋敷ト呼ビ」とあるそうですが、その小四王社趾は寺屋敷という地名で“現拝殿の左手の平坦地からやや北に登った高い処の平坦地”のことだそうです。
 桑原氏の資料の中に、菅原傳作氏より提供された『郷社 御嶽神社私考』の部分的なコピーがありましたので、見る事が出来ました。
 題名は『郷社御嶽神社 郷社私考』となっていました。
 この書物には「小四王」とあります。また、鰐口銘についてはコピー資料中の4箇所で「天文四年小四王明神」とあり、宝物に関して記したと思われる記述中の1箇所が「一、 鰐口四筒 〈略〉 一、銅周囲一尺六寸五分 銘元文十年小四王明神」でした。
 『御嶽神社宝物其他取調目録』の「寄附人 小八元文十年古四王/明神与摺而有 」と同様に「元文十年」です。
 「元文」が正しければ江戸時代ということになりますが、元文は六年までしかありません。
 また、調査ノートに、三山へおまいりの人がこの社務所にとまった、のメモがありました。

*大山宏も「蔵王権現鰐口銘天文四年小四王明神」として取上げている鰐口の銘について、「元文十年古四王明神」と記してある資料の存在が気になります。年号も神社名表記も異なっているのは何故なのでしょうか。

 小四王社趾の寺屋敷の場所に関して、現拝殿の左手の平坦地というのは現在火伏神社のあるところなのでしょうか。そこからやや北に登ると、先に示した「カシミール3Dの解説本の地図」で標高100,8と記された場所あたりが寺屋敷なのでしょうか。「やや北」のややは、登る距離が短いことなのか、真北とは言えないが北の方向ということなのか。

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