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探訪記録 山形    18 : 庄内 18


佐藤リスト リスト外
桑原リスト : 東田川郡立川町清川・御諸皇子神社

《探訪の準備》
*藤原相之助は『美人国祖神記』で古四王神社の分布をしめしており、山形県に関して「五所王子神社ー羽前国東田川郡清川村、御所神社ー同北村山郡宮澤村、古四王子五聖山ー同北村山郡高崎村」をあげています。そして、〈音韻の変化で〉「ゴショともゴシャとも訛って来たらしいのです。それ故山形県田川郡五所王子社を、彦狭島王の御子御諸別王を祭るなどと付会して居りますけれど、之も矢張り古四王です。」とあります。
 『古四王神社の意義に就いて』は、五所王子神社ー山形県東田川郡清川村、御所神社ー同最上郡宮澤村、五聖堂ー同北村山郡観音山に変わっています。
*庄内15・16(佐藤13・14)にも記しましたが、及川大渓『みちのくの庶民信仰』に「古四王は一に胡四王、越王、腰王、小□王〈□は草冠に徙〉などといい、また古将、小姓、御所(御諸)、五聖、五社なども、それ等の訛りと考えられるから、」があります。
 及川も御所(御諸)を古四王の訛りと考えていたということなのでしょう。

 この社の情報については、桑原リストではその採録の方針によって取上げられており、佐藤リストでは「五所神社(あるいは御所神社)や北向薬師などをコシオウとの関わりで理解する指摘もあるが、充分な論証は早計とみて割愛した。」という方針によるものでしょうが取上げられていません。

*『立川町の歴史と文化』(立川町史編纂委員会 昭36・1961)=『清川編(成沢米三)ーU.古代のすがたー四.御諸皇子神社』に「『義経記』に五所王子神社の名によって書かれているので、鎌倉時代には既にあったわけだが創立の年月は不明である。社伝口碑によれば、昔どこからともなく王子が此の地に御出になり、常楽という所で夢じられたので〈地元民〉が王子塚と霊社を建ててその霊を祀ったのが、御諸皇子神社であるという。」「王子塚は…宮司の西北裏の山麓にあったが、北楯大堰を掘る時に、その計画予定地内にあったので、これを山上に移した。〈略〉山上に移された王子塚も今は跡形も無く只古い地図に見るだけである。」「神社の祭神は御諸別命といわれる。そうすると崇神天皇が四道将軍を派遣した時の古事に関係づけられるが、これも確たる資料は無い。」「清川の五所王子神社も、月山・羽黒・湯殿山・など五柱の神を祭ったのではないかとも言われるが、これも定説にはなっていない。」「酒井藩の崇敬は非常に篤く、酒井家荘内入部後の間も無い、元和年間〈1615〜1624〉社殿を再建し、〈略〉」「現在境内に稲荷神社という末社があるが、これは桃山時代の建築であるから、…貴重な文化財である。〈略〉この社殿は前の神社を寛政十二〈1800〉年建替えるとき、その本殿を移築奉斎したものと思う。昔から覆屋の中に修められている。」等の記述があります。
 稲荷神社の社殿の件は、元和年間に再建の社殿のことを桃山時代の建築と言っていると理解していいのだろうか。

 同書『立矢沢編(戸川安章)ー三.義経記からみた立矢沢』に「〈「清川」に〉月山・羽黒・湯殿・金峰・荒倉の五所の神々を勧請し、羽黒の御師が出張して、三山参詣の道者を引摂したのである。これが、五所王子の社であった。王子の神とは、みこ(王子)神とか、みさき(御前)神とかいう意味で、古くからつかわれていたことばであり、むかしからあった信仰であるが、時代がくだって、その意味がわすれられると、『王子』という文字にかこつけて、尊き血筋をうけたもうおん子をまつったものだと考えるようになったのである。進藤重記が、その著『出羽国風土略記』のなかで考証をくわえ、五所の王子とは、豊城命の孫にあたる彦狭島の、そのまたおん子であられる御諸別王子(みもろわけのみこ)ではないか、と、いったのは、その例であるが、そののち、この説にしたがうひとが多く、いまでは、社号そのものも『御諸別神社』と公称するまでになっている。しかし、安部親任の『三郡雑記』(「筆濃余理」十三)によると、社殿の中にかかげられた額には『五光殿』とかいてあった、というし、鳥居の額には『金華山五所王子』とあった、と、いうことである。」などの記述があります。

 藤原相之助が付会であると片付けたこの神社の祭神については、進藤重記が「出羽国風土略記略」のなかで考証を加えたものだったのですね。
 『立川町の歴史と文化』からは、古四王との関連は出てきません。

*『山形県神社誌』: 御諸皇子神社 ごしょのうじ じんじゃ
  鎮座地: 東田川郡立川町清川字花崎二二七
  主祭神: 御諸別命 みむろわけのみこと
  由緒: 「義経記」に五所王子神社の名によって書かれているので、鎌倉時代には既にあったわけだが、創立の年月は不明である。
 社伝口碑によれば、昔どこからともなく王子がこの地にお出になり、常楽という所で夢じられたので土人が王子塚と霊社を建ててその霊を祀ったのが、御諸皇子神社であるという。神社の祭神は、崇神天皇が四道将軍を派遣した時の古事に関係づけられるが、これも確たる資料は無い。〈略〉

*『平成の祭』: 御諸皇子神社 ごしょのうじ じんじゃ
  鎮座地: 東田川郡立川町清川字花崎171 
  祭神: 《主》船玉大神・大渡津見大神・三吉大神
 『平成の祭』のデータは、CD−ROMの取扱説明書によれば「全国神社祭祀祭礼調査の調査結果の報告書をデータ化したものです。
 そのため、調査を回収した平成5年当時のデータに基づいています。」とのことですので、調査への回答内容が反映されているものと思います。
 〈Googleマップで見ると、清川花崎171の場所には「三吉神社(社務所)」と記されており、御諸皇子神社の場所には「御諸皇子神社(境内社 三吉神社)」と記されています。
 Google検索では花崎171は御諸皇子神社社務所という情報もあります。  
 こういった事とここに記された祭神名に関わりがあるのではないかと思えますが、不明です。
 『平成の祭』及び『山形県神社誌』共に、立川町に三吉神社の記載はありません。〉

 市町村の変遷をみると、明治22年に町制施行により東田川郡狩川村・三ケ沢村・添津村・清川村が合併し狩川村が発足。
 明治24年、清川が狩川村から清川村を分立。
 昭和29年東田川郡狩川町・立谷沢村・清川村が合併し立川町が発足。
 平成17年余目町と立川町が合併し庄内町となる。

 御諸皇子神社の現住所は、東田川郡庄内町清川花崎227。

《探訪の記録》
*2015年11月8日
 羽黒山から県道45号を進んで清川の町に入りました。
 神社を探して狭い道を進んでいると社号標がありました。
 周辺に湯殿山・舟見稲荷神社・庚申・秋葉山大権現・等の石碑が道の端に並べられ、道を進むと線路になります。
 線路を越えたその先に鳥居と神門があります。鳥居と神門の間に橋(御宮橋・平成十二年竣工)が架けられていて、整備された水流が流れています。
 奥行きの深い規模の大きな神社の様子ですので、車を邪魔にならないところに置いてからあらためて神社ヘ向かいました。
 橋を渡り仁王様を安置する随神門をこえて進むと、石段が上に続いています。石段を登ると奥に少祠があり、石段にそって方向を変えてさらに上に進んでいくと、左側に鳥居と社殿(太神宮)が見えました。行ってみると右方向にさらに大きな社殿が見えました。
 登ってきた石段に戻って向かったその大きな社殿は、左右の軒を大きく広げた入母屋と正面の唐破風が目を引く立派な社殿でした。
 ここが御諸皇子神社の社殿でしょう、御諸宮の額があげられており扉が開かれていました。
 外から内部を拝見させていただきました。
 社殿の右側の少し奥に赤い覆屋の稲荷神社があります。
 御諸宮と稲荷神社の間に石段があり、奥に石段を上がると枝振りの目立つ樹木があり、その奥に上ると右と左に社殿(金刀比羅神社と三吉神社)がまたあります。
 その二つの社殿の後方にさらに上に続く石段があり、登ると一間幅程の基壇を置き玉垣をめぐらせた中に石祠が祀られています。
 これより上は無いようです。

 「山上に移された王子塚も今は跡形も無く」とありましたが、このような位置にあるのは、奥の院とかなのでしょうか。
 何を祀ったものでしょうか。戦死兵士の慰霊碑の可能性はどうでしょうか。
 上へ奥へと重層的な神社境内でした。

左上: 社標、奥に随神門                   右上: 線路越しに鳥居と随神門
左下: 境内の石段                      右下: 境内社

左上: 御諸宮。 右に稲荷神社                 右上: 稲荷神社の覆屋
左中: 稲荷神社横の石段                    右中: 境内社〈左が三吉神社〉
左下: 境内社後方の石段                    右下: 石祠

 〔周辺地図〕
 

《探訪の整理》 
 所在地情報があるので、行ってみました。

 進藤重記「出羽国風土略記」の「五所王子」を見てみますと「守護する修験云往古何れの御時にや王子此所に下らせ給ひ常楽という所にて夢去し給ひき〈略〉」の記述があります。
 これは貴種流離譚の一種ではないかと思うのですが、修験による御所山・天子塚の伝説(東根市)と似通ったものを感じます。
 御所山・天子塚伝説については、御所神社についても所在地情報(藤原相之助)があるので、その探訪記録を記載する際にあらためて記したいと思います。
 王子云々は修験による由緒話かもしれないとしても、祭神がよく分からないとしても、「ゴショオウジ」が「コシオウ」に由来するというようなことは断定的に言うべきではないと思います。

 安部親任「三郡雑記」に記されているという金華山及び五光殿の額のことや金華山五所王子のことは、進藤重記「出羽国風土略記」の「五所王子」にも出てきています。
 金華山については「源頼義東夷征伐の時神殿に通夜ましまし御祈りなど有て御持仏の弁財天を社内に安置し本地仏とすゆえに金華山と称す」とあります。弁財天との関連で金華山と号したということでしょうか。
 御諸皇子神社に隣接する観喜寺は山号が金華山です。

 進藤重記が「五所王子は彦狭島の御子御諸別の王にや」としたことの理由は、読解力がなく読んでもよく分かりませんでした。
 それこそ「王子」にとらわれすぎてしまったのではないでしょうか。

 他の信仰との関連などはどうなのでしょうか。
 庄内藩酒井家の崇敬が篤い神社とのことですが、鶴岡市の竜覚寺の古四王社の経緯を考える参考になるかも知れません。

 鳥居と随神門の間の水路は「北楯大堰」でした。疎水百選に選ばれているそうです。

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