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探訪記録 山形   9 : 庄内  9 


佐藤リスト リスト外 : 飽海郡遊佐町西谷地 古四王神社 
桑原リスト : 遊佐町庄泉西谷地・古志王神社

《探訪の準備》
*桑原リストに所在地情報がありますので、鎮座地の具体的な場所を探していました。

*記事「探訪記録 庄内 1」において《遊佐町の古四王神社情報について》に記しましたが、
『遊佐町史・上巻』の『古四王信仰』項目に「池田宗機は1974年に『越王(古四王)信仰について』の論考の中で、遊佐町には八ヵ所の古四王社があると紹介している。〈略〉この論考から十五年を経て、菅原傳作は『遊佐新風土記』のなかで古四王神社は十社におよぶとして、小服部(コバットリ)から勧請した西谷地と海岸に近い鳥崎の所在地を加えている(1987年)。」の記載があります。
*『遊佐郷村落誌(下)=第一章 稲川の巻・三庄泉・(六)西谷地』に「もともと小服部の分け地である。〈略〉この村は明治十年から二十年代に集落が形成されたまだ新しい入植地で各地から移住した。小服部村の分家の形で入植した。〈略〉古四王神社は小服部村の古四王神社を勧請した。もとはみな小服部の古四王神社の氏子であったが、明治二十一年村の鎮守として創建したものである。」とあります。

《探訪の記録》
*2017年6月10日
 前日に、遊佐町立図書館で菅原傳作『遊佐新風土記』から「七 お社」の部分をコピーさせていただきました。
 その「七 お社 (二)古四王神社」に「よく路傍に古い木の椀をいくつか下げた小祠を見かける。これが古四王神社である。〈略〉本町には十社に及ぶ古四王神社がある。〈略〉社殿の大きい社は小服部の古四王神社で経津主命を祀り、村の鎮守様である。西谷地の社は小服部から勧請したという。〈略〉古四王神社に共通なことは「きかずさま」と呼ばれていることで、更に古い木の椀の底に穴をあけていくつか下げている。これはお椀が耳の形に似ていることからの信仰であろう。「きかず大明神」「耳地蔵」と称し、耳の神として多くの信仰をうけたのであろう。はじめに祀られた神とは全く別な方向に考えられてきたのが一般の民衆の信仰というものであろうか。」とありました。

 遊佐探訪の二日目に庄泉字宮ノ下(小服部)に古四王神社を訪ねてから、西谷地に向かいました。
 庄泉宮ノ下の西に位置する隣の集落が西谷地です。
 県道208号を進み西谷地に近づくと、川(西通川)を越えた右手に「西谷地」の表示看板があり、その先の左側に神社がありました。
 「西谷地」看板があるところが西谷地の公民館で、神社が古四王神社でした。
 神社の建物は道路に並行に建っていて、正面は県道から左折する道路側にあります。
 幟柱と鳥居の奥に拝殿正面があり、西方面を向いています。
 道路側から神社の側面が見えますが、拝殿の後方に続く部分の建物が長く窓が二つ設けられていて、なにかしら神社らしくない印象を受けました。誤っていれば申し訳ないのですが、神社と集会場を兼ねていたのでしょうか。
 向拝柱から庄泉字宮ノ下(小服部)の古四王神社と同形の注連縄がV字形に張られています。
 拝殿に古四王神社の社額があげられています。

 左上: 神社正面側  左下: 注連縄と社額        右上: 社殿正面  右下: 側面

《探訪の整理》
*地図を調べると、庄泉宮ノ下の西に庄泉西谷地があり、西谷地の南に大谷地があります。
 大谷地の南にも西谷地がありますがそこは酒田市千代田西谷地になっています。
 地理院地図を見ると、西谷地の東に小服部、小服部の東に服部の表示が記載されています。
 地名の通り名としては、現在でも小服部・(大)服部が通じるのでしょうか。 
 服部と小服部(宮ノ下)は隣接し、小服部(宮ノ下)と西谷地は隣接し、西谷地と大谷地は南北に続いていて、庄泉地域になります。
 小服部(宮ノ下)の古四王神社を基点とすると、600bで大服部(藤ノ木)の三上神社、400bで西谷地の古四王神社、700b程で大谷地の皇太神社となる近さです。
 現在の住所表示では、庄泉地域には大服部も服部も小服部の(小字)地名もなく、大谷地・開元・堅田・後藤寺田・中道・西谷地・藤ノ木・神子免・宮ノ下があります。
 記事「探訪記録 庄内 5」に引用した『山形県地名録』の稲川村の庄泉地内にあった地名の内の幾つかは現在の住所表示にはありません。
 庄泉村は大井村・大服部村・小服部村の明治九年の合併によって成立した村とのことで、小服部はほぼ現在の庄泉宮ノ下にあたるようです。
 『遊佐郷村落誌(下)=第一章 稲川の巻・三庄泉・(三)服部』に「昔より大服部村といい、砂越氏の所領であったという。」とありますので、服部が大服部村にあたるようです。
 服部にあたる字地名は、中道と藤ノ木はそうだと思うのですが、その他はどうか、私には範囲が不明です。
 同書『三庄泉・(五)大谷地』に「西谷地は共に砂丘寄りの西通川沿いの湿地帯で、砂丘から侵出する湧水によってできたものである。勿論村落としての開発は藤崎より後のことである。稲川村大井・大小服部・福升の分家が多い。〈略〉皇太神社は嘉永五年(1852)の創建である。この村もそれ以前に既に移住がはじまったと考えてよい。〈略〉西通川はもと通船川といった。南は日向川六ツ新田より北は月光川南山下まで長さ七粁に亘る西山砂丘寄りの手掘掘割である。掘割されたのは庄内が最上氏領であった慶長六年(1601)頃から酒井氏が庄内に入部した元和八年(1622)頃迄の間であろうと推測されている。〈略〉」とあります。

 さて、《佐藤リスト》には、この西谷地の古四王神社は記されていません。
 遊佐町域の古四王神社については、『遊佐町史・上巻』にあるように、池田論文が八ヵ所を数え、菅原傳作『遊佐新風土記』(昭62・1987)で西谷地と鳥崎の二ヵ所を追加し十ヵ所の所在地を示して現在に至っていると思いますので、昭和61年の佐藤リストに西谷地がもれているのはこのためと思います。
 《桑原リスト》は昭和51年ですが「庄泉西谷地・古志王神社」が記載されています。
 この「西谷地」「古志王」という情報の出典がどこなのか、私の読んだ桑原文献リストの諸論文には無いように思います。
 見落としているのか、未読の論文の情報なのか、桑原が見つけ出したのか。菅原傳作氏からの情報でしょうか。
 《月光リスト》では、分布表に遊佐町西谷地・古四王神社(出典:池田宗機「越王(古四王)信仰について」)の項目があります。
 月光リストについては、記事「探訪記録にあたってー月光リスト」を参照下さい。
 月光リストで、池田論文からのリストとして飽海郡遊佐町地域であげられているのは、杉沢・中山・吹浦・岩川・北福升・上大内・小服部・西谷地の八ヵ所ですが、池田論文に小服部という表記はなく、西谷地もありませんし、池田論文にある野沢は取上げられていません。
 これは、池田論文を担当する採録者が池田論文中の「服部部落の鎮守」を検討するなかで、小服部と西谷地に古四王社の存在を知って行なった対応ではないかと思います。
 《月光リスト》では、遊佐町に関連して、「北遊佐町野澤・古四王神社(出典:喜田貞吉・川崎浩良・丸山茂・及川大渓)」「遊佐町水上・小四王明神(出典:川崎)」があり、「大服部村(稲田村服部)・ー(出典:喜田・丸山・及川)」「遊佐町稲川庄泉・古四王神(出典:川崎)」があり、これらが重複の検討が無いままリストに載せられていますので、リスト作成に際して全体を通した検討・資料批判が行なわれたとはとうてい思われないので、池田論文については担当者が自ら検討し対処したことかと思います。
 月光リストの時代は、情報の検討は今と比べようもなく難しく手間の掛かることではありますが。
 なお、月光リストの調査対象論文になっている川崎浩良「古志族の検討」のなかで、遊佐町野沢と遊佐町水上の両方が記されています。
 川崎が情報を広く求めていたことの表れと思いますし、情報の検討は月光の頃よりさらに難しい時代と思いますが。

 菅原傳作『遊佐新風土記』に「古四王神社に共通なことは『きかずさま』と呼ばれていることで、更に古い木の椀の底に穴をあけていくつか下げている。」と記されています。記事「探訪記録 庄内 8」で触れた『改訂 遊佐の歴史=二、遊佐と越族』と同様の記述があります。
 宮ノ下の古四王神社や西谷地の古四王神社も「きかずさま」と呼ばれているのでしょうか。
 この両神社では、外からみた限りでは穴あきの椀は見かけませんでした。

 きかずさまと古四王神社が結び付けられているのであれば、古四王神社がきかずさまにかわった方向性ばかりではなく、路傍の石が「きかずさま」だからその石は古四王神だということになって祀られることもあるのではないかと思います。
 きかずさまとされる古四王様が知られていて、別のきかずさまがこちらも古四王様と言われることがあるのではないでしょうか。
 遊佐町に小祠の古四王神社が多くあり、自然石をご神体とするいくつかの例もあるというのは、きかずさまを古四王神として祀ったということがあるのかも知れないと思ったりもします。

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