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探訪記録 山形  11 : 庄内 11


佐藤リスト 位置番号 9 :  飽海郡八幡町(やわたまち)観音寺 古四王神社
                備考)飛沢神社境内、慶長6年以降に経塚森より移転
               〈桑原リスト:飽海郡八幡町 観音寺飛沢神社境内・古四王神社

《探訪の準備》
*飽海郡観音寺村の情報は《大山リスト》にあります。
*『池田・方寸5』によると、「麓の鎮守で旧説では稲倉魂命、あるいは少彦名命を祀っており、明治以降は豊受姫、月読命を合祀している飛沢神社の境内に、古四王神社の小祠がある。もとは来生出雲守氏秀の観音寺城の経塚森に安置されていたもので、慶長六年(1601)四月に城が廃絶になってから、現在地に移されたと伝えられ、城の四天王信仰とも関連があるものと考えられている。」とあります。
*『八幡町史 資料編5』(八幡町教育委員会 昭50・1975)所収の「六所神社と古四王神社について」(山口重三)の「三、古四王神社について」に「八幡町内には二社の古四王神社が祀られてあります。その一社は市條の八幡神社に合祀されている古四王神社で、もう一社は観音寺の飛沢神社の境内に摂社としてきわめて小さい祠ではあるが祀られてある同名の神社と、合わせて二社が祀られてあります。〈略〉飛沢神社の立派なそして急な石段を東に向いて登り切った所の北側にある小さな、そして目立たない祠の中に祀られてあります。〈略〉」があります。

*『平成の祭』によると、
 飛澤神社(ドビサワ) 通称:権現様 、鎮座地:飽海郡八幡町麓字麓山88 、祭神:《主》豊受姫命《配》稲倉魂命、月夜見命
 由緒に「当社は平安時代前期貞観13年(871)4月8日鳥海山大噴火に際してその御神霊を鎮め奉る為に天降堂を創建したのがはじまりと伝えられております。降って中世に至り観音寺城主来次氏代々の崇敬厚く慶長2年〈1597〉6月現在地に奉遷し神田を寄進されました。〈略〉古くは観音寺城の守護神として、今では〈略〉」とあります。

 《佐藤リスト》等の所在地情報では、飽海郡八幡町となっておりますが、平成の大合併で現在は酒田市になっています。
 市町村の変遷をたどれば、明治22年町村制施行で、飽海郡観音寺村・常禅寺村・麓村・小泉村・北仁田村・芹田村・大窪村・塚淵村が合併して、観音寺村が発足。
 観音寺村は、昭和29年に飽海郡一条村・大沢村・日向村と合併して、八幡町になります。
 八幡町は、平成17年に酒田市及び飽海郡松山町、平田町と合併して、酒田市になります。

 飛澤神社の所在地は、酒田市麓字麓山88。
 酒田市麓字楯ノ腰1とする情報も見受けられますが、社務所のようです。
 いずれにせよ、元の飽海郡麓村に鎮座しているようです。

 地図を見ると、飛澤神社の場所が確認できます。
 地図に、地名「天降堂」があり、天降神社であろう鳥居マークがあります。
 『平成の祭』 : 天降神社(テンコウ) 祭神:《主》豊受姫命 ,鎮座地:八幡町麓字天降堂40

 周辺には、平城を築いた古楯の場所といわれる八幡小学校(酒田市観音寺字古楯1-1)もありますし、円通寺(酒田市麓字楯ノ腰50)も確認できます。
 楯山に登り観音寺城跡に行くことは難しいようです。

 飛澤神社は、昔は小物忌神社と称していたといわれるそうですが、何時からどうして飛澤神社と言われるようになったのでしょうか。
 飛澤神社境内に古四王神社が祀られている経緯はどうなのでしょう。
 『池田・方寸5』の「古四王神社」が「観音寺城の経塚森に安置」、「慶長六年…に城が廃絶になってから、現在地に移された」とありますが、現在地たる飛澤神社は慶長二年に現在地に遷っているので慶長六年以降に移されるのはいいのですが、観音寺城が廃絶になるのが慶長六年四月なのかどうか。城が廃絶になってから、どのくらい後の時点で現在地に移されることになったのでしょうか。
 来次氏のこと、観音寺城のことを資料に当る必要がありそうです。
 観音寺城の経塚森とは、どの辺りのことなのでしょう。『山形県中世城館遺跡調査報告書 第3集』にヒントがあるとよいのですが。
 来次氏が古四王神を祀っていたとしてよいのか。
 飛澤神社が観音寺城の守護神とありますが、古四王神の位置付けはどうなのでしょうか。
 「城の四天王信仰とも関係がある」とのことですが、どうなのでしょうか。
 探るのが難しい課題が多くあるようです。

《探訪の記録》
*2018年6月24日
 旧飽海郡本楯〈モトタテ〉村に城輪柵跡〈酒田市城輪嘉平田〉と城輪神社〈酒田市城輪表物忌35〉を訪ねてから、旧八幡町に入り、先ず天降神社へ向いました。
 天降神社前の道から八幡小学校を望むと、道路から低くなった位置にある田圃の向こうに樹木に囲まれたように学校が見えました。学校は来次氏の平城の跡と言われているそうですが、遠目には敷地は田圃の高さと変わらないように見えました。
 神社側の道路脇は溝状になり、溝のコンクリート板の橋の先に神社境内に向う数段の石段があり、石段の奥は少し高くなった境内のようです。高くなった土地の端のほうに道路側に向けて天降神社の社標と表題「観音寺城跡」の案内看板があり、その奥は樹木で薄暗くなっています。
 天降神社の境内が暗く見通せずに様子が分かりませんでしたし、そう遠くない場所での熊目撃情報もありましたので、念のため熊鈴とラジオを持ち長靴に履き替えて虫除けスプレーをしてから天降神社境内へ向いました。
 石段をのぼり社標を過ぎると境内ですが、境内は狭く奥行きはなく、入って左に赤い鳥居があります。
 鳥居をくぐるとコンクリートの基壇状のものの上に石祠があります。その後方に小さな四角の土台のようなものと石碑かと思えるものがありました。
 『山形県神社誌』で天降神社を見ると、本殿・二坪(兼拝殿)とあり木造の社殿の写真が載っていて飛澤神社の旧社地とあります。
 その写真からは二坪の大きさのある社殿には見えず、コンクリートの基壇状のものが二坪くらいではないかと思ったりしますが、いずれにせよ木造の社殿は見当たりませんでした。 
 境内の奥から山の竹藪を通って続いている山道がありましたが、行きませんでした。

 円通寺に行きましたが、山門を入り、石碑を拝見して、それ以上見て回ることはせずに、飛澤神社へ向いました。

 飛澤神社の手前から南方面を望むと八森自然公園のある山が見えます。
 観音寺城のあった山と八森公園の山の間は平地であることが分かります。
 東から続くそれぞれの山地の西の端が観音寺城の山と八森公園の山になり、ここから西側は海岸砂丘の山並みまで庄内平野の平地になります。
 飛澤神社の社標をこえると鳥居で、その先に優に数十段はありそうな石段が見えます。
 鳥居の手前左側に「飛澤神社由緒」の案内看板があります。
 鳥居をくぐり石段に向うと、石段の上の左側に小祠のあるのが見えます。それが訪ねる古四王神社の祠だと思います。
 石段を登ると石敷の平坦路になり、また十数段の石段がある手前に、石の基壇の上に屋根が金属で葺かれた妻入りの小祠があり古四王神社と明示されていました。社殿は南向きです。

 十数段の石段の先を左側に進むと朱の両部鳥居がありそこを進むと飛澤神社の社殿に至りますが、左側に曲がらずにさらに数段の石段をのぼると八坂神社です。
 鳥居越しに望む飛澤神社の社殿は遠目ながら立派な社殿であることが分かります。
 社殿に近づくと手水舎があり、その手前を右に入ると狐の狛犬からすると稲荷社があります。
 稲荷社は小さな神社ですが、参道があり幟を立てる柱と思えるものもあり石燈籠もあります。
 古四王神社とは祀られた経緯に違いがあるのだろうと思われます。
 拝殿前で参拝させていただき戻ると、長い石段の登り口の脇に草刈り中の神職の方がいらっしゃいましたので、挨拶をさせていただきましたが、不意のことでしたので疑問に思っていることをお聞きするのを失念してしまいました。 

左上: 天降神社前の道路                 右上: 天降神社の社標と「観音寺城跡」案内看板
左下: 天降神社の境内                  右下: 円通寺 山門前
左上: 飛澤神社鳥居前                  右上: 古四王神社の小祠と飛澤神社に続く石段、朱鳥居
左中: 古四王神社                    右中: 飛澤神社の朱鳥居と奥の社殿
左下: 飛澤神社拝殿前                  右下: 拝殿正面


《探訪の整理》
*古四王神社の小祠は南を向いていましたが、飛澤神社も八坂神社も南面していました。
 酒田市立図書館で『八幡町史 上巻、下巻』(八幡町史編纂委員会 昭56・1981、昭63・1988)を見てみましたが、古四王神社に関する記載を見付けられませんでした。
*飛澤神社に関しては『八幡町史 上巻ー第二編・第五章』に「真言宗飛沢神社」の項目があり「飛澤神社は、その縁起によると、貞観十三年鳥海山が噴火し、岩石は飛び、土石は焼け、爆発は雷の様なありさまであったが、この時、大きな鳥が荒瀬川の清流に舞い、飛沢におり、松の梢にとまった。そして大悲観世音が正身の姿で現われ、小沢を登ったが、これに因んで昌木沢と呼ぶようになったと書かれている。羽黒山に潜伏していた来次時秀の父氏房(淳祐)がこの地に来て感徳を得、当社を崇め奉まつり、飛沢大明神と名付けたといわれる。〈略〉飛沢神社は関ヶ原の戦い後の慶長年間、最上義光庄内を領するに及び、真言宗から禅宗に転宗した。」とありました。
「飛澤権現縁起」と吹浦神宮寺法印の「飛澤大権現縁起」(宝暦十一年)があるようです。〈同書「第二編・第四章・第一節・一」〉

 町史記載の縁起によれば、飛沢というのは場所の呼名(地名)のようです。昌木沢等については分かりません。

 神社にある「飛澤神社由緒」看板によると「来次氏代々の崇敬厚く慶長二年六月現在地に奉遷し神田を寄進されました。古くは飛澤大権現の神号を授けられ観音寺城守護神として…。天正十八年来次氏秀に変わって寺尾伝左衞門が入城したが九月に討死される。庄内が上杉領から最上領になったので〈略〉。…観音寺城を退城したのでした。これが慶長六年(1601)の事である。」などの記述があります。

 『山形県中世城館遺跡調査報告書 第3集(庄内・最上地方)』(山形県教育委員会 平9・1997)によると「観音寺城」の「概容」のなかに「来次氏房が古楯に平城を築城したが、その子時秀は、平城では防備上不安のため、元亀元年(1570)をさかのぼることそう遠くない時期にこちらの楯山に城を移し観音寺城を築城した。天正18年(1590)までの20年余りが存続期間である。天正18年城主来次氏秀に変って寺尾伝右衛門が入城したが9月に討死し、同年破城された。(佐々木有恒)」とあります。
 『八幡町史 上巻』及び飛沢神社の由緒看板によれば「寺尾伝左衛門」。
 破城が城割のことであれば、天正18年に城が壊され廃止されたとすると、慶長六年の退城ないしは廃絶という説と食い違うようですし、慶長二年の神社の移転と神田の寄進は誰が担ったのか疑問です。
 天降神社にあった「観音寺城跡」の案内看板には「元和元年『枝城廃止令』〈1615年・慶長20年、一国一城令〉によって観音寺城は取りこわしになっており」とあります。
 慶長六年以降も観音寺城は何らかの形で存在したのでしょうか。

 『八幡町史 上巻ー第二編・第四章・第四節・五、観音寺城主来次氏秀とその家臣団』のなかで「来次氏秀が観音寺城を離れ、越後高田に下り、上杉景勝の直臣となったのはこの時である。」と天正18年として、慶長6年説に疑問を呈しています。
 あるいは、城が壊されたので、飛沢神社を現・天降神社の場所から麓山の現在地に移したのだろうかと思ったりもします。それを来次氏が担ったとしてもおかしくはないのでは。
 慶長六年はこの地と来次氏との縁が切れたときなのでしょうか。
 分からないことがかえって広がって、この地のことを知らない者に勝手な想像をさせています。
 『池田・方寸5』にある情報はどの資料にあるのでしょうか。

 古四王神社はなんのためにどこにあって、いつどうして現在地に祀られるようになったのでしょう。
 来次氏の先祖が隠れ住んだという羽黒山と関わりがあるのでしょうか。

*『八森遺跡 古代編』の「第1章 遺跡の環境・二 遺跡の歴史的環境・1 遺跡近辺の古代的痕跡」の中に「荒瀬川の対岸は観音寺と呼ばれており、東根市観音寺とともに定額寺とする説がある。観音寺という寺は存在していないが、楯の腰にある曹洞宗見竜山円通寺が、貞観7(865)年『日本三代実録』記載の定額を賜った観音寺の後身ともいわれている。この境内にも古四王神社の小さな祠があり、村人に病を治す神として信仰されている。戦国期の観音寺城主来次氏の菩提寺であった。また円通寺に近い山中の飛澤神社も貞観13年の創建を伝え、往古には物忌神と称したという。」がありました。
 現在、飛澤神社境内にある古四王神社は円通寺にあったのでしょうか。
 それは来次氏の菩提寺ゆえのことでしょうか。
 他の資料を探す機会を持ちたいと思います。

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