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探訪記録 山形  21 : 庄内 21


佐藤リスト 位置番号 15 :  鶴岡市泉町 古四王権現 
                備考)竜覚寺境内 鶴岡城跡より移転
                〈桑原リスト:鶴岡市高畑竜覚寺内・古四王権現

《探訪の準備》
*この所在地情報は、大山リストでは“羽前国西田川郡鶴岡市”とあるだけです。
 どの地域に古四王神社が存在するかということが分かればいいだけならばこれでもいいかもしれませんが、実際に訪ねようとする場合には、情報の曖昧さに途方に暮れます。
 桑原リストに「鶴岡市高畑竜覚寺内・古四王権現」の情報がありましたので、探して訪ねたいと思ったわけですが、この情報ではたして探し出せるのか不安でした。
 山形の古四王神社に関する文献資料等をまだいくらも手にしていませんでしたので、住所と地図情報から探すしかありませんでした。
 鶴岡市の住所を調べても高畑というところは見当たりませんでした。

 町名の変更等が行なわれたのではないかと思い浮かび調べると、鶴岡市では昭和37年の住居表示に関する法律の制定を受けて昭和40年から街区方式による住居表示が実施されるようになり、市街地の区域の変更と新町名の制定が開始されたことが分かりました。
 鶴岡市のホームページから町名変更の資料を探すと、旧町名の家臣団が住んでいた侍町の項目に「高畑町(たかばたけまち)」がありました。また、新町名とその由来という資料で旧高畑町の領域を含む町名として上畑町・山王町・泉町を知り、泉町に市内の真言宗で最古の龍覚寺があることを知りました。
 竜覚寺は、新山 龍覚寺で鶴岡市泉町1−13に存在しているようです。

 見つけることが出来たようですが、いつ訪ねることが出来るか目途が立たないまま、山形の古四王神社に関する下調べや、文献資料を探したりしておりました。
 新潟・福島の古四王神社の探訪に見通しがつくようになりましたので、いよいよ山形の古四王神社の探訪に進もうと思いました。

《探訪の記録》
*2013年6月1日
 ようやく山形へ行くことができました。本当に遅々たる歩みです。
 このたびの訪問の第一の目的は、図書館での資料探しです。
 桑原文献リストの未入手の文献資料の入手と山形県立図書館の文献目録検索の“神社”で検索した資料で気になる文献の確認などが出来ればいいと思っていました。
 文献目録検索では様々な神社誌類や町史・郷土史や調査研究誌などがあがってきていました。

 先ず東田川郡庄内町余目の庄内町立図書館へ行きました。
 ここで小国や由良の古四王神社関係の資料などを見せてもらい、一部をコピーさせていただきました。
 鶴岡市立図書館に行き、未入手の文献資料と文献目録検索で抽出していた神社誌類・町史・郷土史・調査研究誌・等の資料にあたり、読む時間が無いので、関係のありそうな所をコピーさせてもらいました。
 その中には、未入手の文献としては川崎浩良『美人反別帳』や池田宗機『越王(古四王)信仰について』等があり、文献目録検索による資料には月光善弘『古志(四)王神社の信仰』、春日儀夫『目で見る山形県漁業史』、小形仁兵『置賜山巨四王大権現について』等があります。
 川崎浩良『美人反別帳』には大変お世話になり、悩まされもしております。
 池田宗機『越王(古四王)信仰について』の導きで遊佐町の古四王神社探訪ができました。
 『古志(四)王神社の信仰』は月光リストとしてこのホームページでも取上げさせていただいております。
 『置賜山巨四王大権現…』は東置賜郡川西町の手持ちの所在地リストに載っていない古四王社の情報でした。

 この日は図書館2館をめぐって終了です。

*2013年6月2日
 図書館での文献資料確認に2日間の日程をあてていましたが、1日でほぼ予定を終えたので、この日は鶴岡がどんなところか見て歩くことにして、城跡公園など鶴岡市内を巡るうちに荘内病院の近くに来ましたので、思い立って龍覚寺へ行ってみることにしました。
 この時には龍覚寺に古四王神が祀られていること以上の情報を持っていない状態で、準備も無いまま行ってみました。
 狭い道を進み小さな坂を登って龍覚寺に着いて、境内を歩かせていただきましたが、古四王社が見当たりません。
 庫裏に声を掛けさせていただくと御住職が出てきてくださいましたので、こちらに古四王様が祀られているとのことでお訪ねいたした者ですと名乗りましたところ、わざわざご案内くださいました。
 観音堂にあげていただき、堂内左側奥の古四王権現の神殿にお詣りさせていただきました。
 神殿の左右の欄干に朱漆の木の小皿に紐を通したものが各数個ずつ掛けられていました。
 耳の聞こえにかんする信仰がこちらにもあるようです。
 御住職様から、古四王権現がもとは御城内にあり大光寺に遷され、その後龍覚寺に祀られるようになったとお教えいただきました。
 「古四王山」としるされた金属の山号額、板の中央に「古四王山 大光寺」と記され「古四王山」の文字の右・上・左に三種子が記され右から彌陀・四天王・薬師と記されている木製の板、懸仏様、などを拝見させていただきました。
 観音堂内には、新山権現が祀られており,他にもいくつかの神殿が祀られておりました。
 山号額と山号寺号木板についてはフラッシュなしで写真を撮らせていただきました。
 貴重なものと思いますので、露光や角度などを補正して見やすくして載せてみます。
 大変幸運なことに、龍覚寺の訪問は御住職様のご親切なご対応のおかげで、思いがけない成果をもたらしてくれました。
 この龍覚寺様訪問と鶴岡市立図書館での資料収集があったことで、その後の資料調べや他の古四王社訪問を少しずつではありますが続けてきたのかも知れません。

左上: 龍覚寺                        右上: 観音堂
左下: 山号額                        右下: 山号寺号木版



《探訪の整理》
*鶴岡市立図書館でコピーさせていただいた資料の中の『目で見る山形県漁業史』は、文献目録検索で見ていなければ手に取ることは無かったろうと思いますが、同書は庄内地方の古四王神社の情報を写真付で載せており、鶴岡市の竜覚寺の情報と古四王権現の神殿〈宮殿造の神棚のような感じ〉の写真も載せられていました。
 同書のプロローグに続く「〔参考〕古四王」の記事から引用すると「鶴岡市の古四王権現は最上義光時代は鶴ヶ岡城の土手にあった。その後、城増築により旧五日町の真言宗大光寺へ移され、同寺が明治維新の神仏分離で廃寺となったので、こんどは、上畑町の藩主酒井家の祈祷所であった竜覚寺境内の観音堂に安置され、ようやく落ち着いた。」とあります。
*『鶴岡市史 上巻』(昭37・1962 第1版/昭55・1980 第3版)=「第二章第五節山岳信仰と仏教界の変遷」の古四王神社の部分に「鶴岡市高畑町龍覚寺内(慶長十四年〈1609〉鶴岡城より移されたと伝う)」とあります。
 同書の「同章第六節平安仏教の普及と修験道の隆盛」の中に「荘内においてはなぜか真言宗が圧倒的な勢をもって普及した。今荘内の主な古刹の縁起をしらべてみると、〈略:「八幡山東光院ー(開山年代)大同元年ー(関係神社)八幡神社」から始まって「竜覚寺ー(関係神社)古四王神社」まで寺院が列挙されています〉。しかもこれらの寺院はほとんど全部が土地の有名な神社の神宮寺として設けられていたのであって、本地垂迹の思想によって神を仏の化身と考え、僧侶達が神前に仏典を転読し、又盛んに加持祈祷を行なって悪疫を払い、穀物の豊穣を祈願して国民の福祉のために努力した。(鶴ヶ岡には江戸時代龍覚寺の他に柳福寺柳、C水寺、宮台寺、西楽寺、大光寺、東昌寺、南岳寺の七ケ寺の真言寺があって祈祷を行なっていた。その中で一番古いと考えられる龍覚寺ですら、その創立が鎌倉時代にはいってからと伝えられるのは、この土地の開かれた時代が決して古くない事をしめしている。)〈略〉」の情報が記載されていました。
*川崎浩良『美人反別帳』に「鶴岡古四王権現は、元和八年〈1622〉酒井忠勝入部前は西門辺にありしを、二の丸経営のため五日町河岸通り大光寺(新八間町)に替地移転され、後に又高畑町竜覚寺に移された。」とあります。

 これらの文献によって少しずつ情報が集まってきましたが、古四王権現がいつどうなったのか明瞭ではありませんので、これらの情報の典拠に当たれないかと思い、鶴岡市立図書館のレファレンスサービスに問合せさせていただき、『大泉紀年〈タイセンキネン〉』『大泉叢誌〈タイセンソウシ〉』や寺院関係の史料などをご教示いただきました。
 こういった史料のほんの一部にふれて、物を知らない門外漢が何事かを記してしまうことを申し訳なく思います。素人ゆえのこととご容赦いただければ幸いです。

*『大泉紀年 上巻ー寛永元年』と『大泉叢誌 第1集 巻百三十八ー鶴岡所々沿革記』の関連項目を付き合わせて読んでみると、いくつか気になることが出てきました。
 御城二ノ丸土手にあった新山権現之社及び古四王之社〈大泉紀年〉〈大泉叢誌では新山権現社、古四王堂と記載〉は最上義光公御代慶長十七甲子年にそれぞれ高畑口北之隅土居際と大光寺地内に御遷しとの記載がありますが、慶長十七年〈1612〉は甲子ではなく「壬子」ではないでしょうか。〈甲子年であれば酒井忠勝公入部後の寛永元年〈1624〉ではないでしょうか。〉
 新山権現は、その後「御城鬼門に当り、竜覚寺境内に御遷」とのことで、これは酒井忠勝公御入部〈元和八年・1622〉以降のことのようです。
 これは大工棟梁余語甚助所蔵の寛文四戊辰年書上の写しの「鶴岡御城古図」とその「絵図へ添覚書」〈大泉叢誌に「最上領の節御城御絵図」「同氏絵図書入」とあるものと同じと思います。〉にもとづいた記載のようです。
 ここにある寛文四年〈1664〉は戊辰ではなく甲辰年のようですので、ここでも干支が違っていて、なにか理由があるのでしょうか。
 なお、『鶴岡市史 上巻 第1版/第3版』では、古四王の遷移は慶長十四年になっていました。

 また、両書に、当時五日町河岸通り大光寺に安置する古四王の堂も、御入部の刻は今の西御門辺に彼堂建て有しを、二ノ丸御造営により今の所に遷座とする別の伝え〈鶴ヶ岡昔雑談〉があるとの記載があり、「〈紀年〉いつれか是なるにや」「〈叢誌〉万年云、〈略〉追て糺すべし」とあります。
 いつの時代の遷座であったにせよ、最上領の時代には古四王権現は存在したのは確かなようです。
 最上領の時代に御城内には本丸西南隅土手に冨士権現社があり、二ノ丸に新山権現と古四王権現があり、この三社は祀られていたようです。
 古四王が城中に祀られていた確実な例になると思います。

 これらの社は、誰が祀ったのでしょうか。
 分からないことではありますが、上杉氏の故地の新潟県上越地域には古四王神社の分布が今の所は見られませんし、本庄繁長の居城のあった旧村上市域に古四王神社の分布はないようですので、古四王権現は越後人による勧請ではなく、最上氏が勧請したか上杉時代以前に存在していたのではないだろうかと思います。
 本丸の冨士権現は、最上領の時代には動かされることなく、酒井忠勝公の御入国後に竜覚寺境内へ御遷となったようです。
 『平成の祭』で検索しても山形県には冨士と付く神社は山形市天神町に冨士神社が1社在るだけですし、浅間神社は在りません。
 山形にはめずらしい存在の神社だと思いますが、最上時代の御城に在ったとなれば最上氏が勧請したとしてもおかしくはないと思いますが、どうなのでしょう。
 新潟には法人社の富士神社が複数あります。法人社ではないようですが、南魚沼市の坂戸城跡に富士権現の社があるそうです。
 坂戸城は上杉景勝と直江兼続ゆかりの場所とのことで、富士権現は直江兼続が勧請したとの伝承もあるようです。
 直江兼続が大宝寺城に富士権現を勧請したかどうかは分かりません。
 新山権現は祀られているのに不思議はないと思いますが、新潟は新山神社の信仰圏ではないので上杉が城内に祀ったとは考えにくいと思います。
 大工棟梁の余語氏ですが、珍しい姓で、分布は愛知県に一番多く、次に東京・岐阜・山形と続くようですので、酒井氏入部に従って来たのではないかと思い、そうであれば最上の時代には鶴岡にいなかったのではないだろうかと思っていたのですが、平成30年3月〈2018〉に致道博物館より発行された『大泉叢誌絵図』の「二.最上時代鶴ケ岡之城古図」によると、「大工棟梁の於期オゴ(のちに余語)」とのことで於期姓を余語に改めたようですし、書入れの内容は「父長右衛門勝安から聞いた話をもとに」書入れたものとのことですので、最上時代の鶴岡にいたひとからの情報でまちがいないようです。
 於期姓が何に由来し何所に多いのか等は分かりません。
 また、同書「最上時代鶴ケ岡之城古図」を見ると、まさしく「最上義光公御代慶長十七甲子年」の文言が大工棟梁の於期長五郎によって書入れられていますので、これに基づいてこの年号・干支をそのまま引用しているものと思います。 

*『大泉叢誌 第1集 巻十二-大泉事跡考 上之巻』の神社・仏閣の鶴岡城下の項目中に「一、古四王社 祭神四座 速日ハヤヒ 煙羽速日ヒノハヤヒ 経津主フツヌシ 武甕棚(槌)命 御城下新八間町に在。『日本逸史』三十八巻天長七年条に四王堂社と有ハ此神の事也。是非をしらず。」があります。
 大泉事跡考は杉山宣袁〈ヨシナガ ェ保元年1741〜文化八年1811〉撰とありますので、宝暦十二年〈1762〉に書き終わった進藤重記『出羽国風土略記』を見ていて、秋田郡の古四王社の記事を承知していて「祭神四座」や「『日本逸史』三十八巻天長七年条に四王堂社云々」を記載したのかもしれないと思います。
 ここでは古四王社は「新八間町に在」りとなっていて、他の記録にある「五日町河岸通り大光寺に安置する古四王堂」と食い違いがありますし、先に引用した川崎浩良は「五日町河岸通り大光寺(新八間町)」と記していますので、どういうことなのか戸惑いました。
 
*志田則富撰(宝暦八年・1758)とされる『大泉叢誌ー巻二十二・鶴ヶ丘昔雑談 下』に宝永元年申〈1704甲申〉五月十日の十日町茂助方から出火の火事で三日町に火が移り五日町八間町下肴町を焼き「大光寺・古四王堂共に回禄したり。」とあります。
 また「或人云、当時三日町御橋北の脇より五日町御橋南の脇角の河岸通を新八間町といふ。正徳元年辛卯年〈1711辛卯〉より此名始ると覚たり。」とあり、これは同年四月十七日〈正徳への改元は宝永八年=1711辛卯四月二十五日なので、宝永八年中の出来事〉十日町通丁東側より出火し、三日町へ火移り、「五日町に火飛て、同町東西のこりなく、下肴町・八間町・…・獄屋共に焼失す。寺院は長円寺・正頓寺・大光寺・古四王堂、共に修験の家四軒回禄したり。」ということがあって「八間町の家五六軒を此所より御払」「右五六軒の家の者共へ、三日町より五日町の河岸通、其頃□〈マデ:二点のしんにょうに占〉明地なるを替地に被下て移されけると也。此節□〈マデ〉八間町に住居セし者共を移されし故に新八間町と唱ふとぞ。」とあります。
 回禄というのがどの程度の被害なのか分からないのですが、これらの記事でも大光寺・古四王堂はわずかな年月の内に二回も回禄しています。
 『城下町鶴岡』(大瀬欽哉・著、庄内歴史調査会・編集/発行者 平19・2007 第5版)の「鶴岡城下の大火ー200軒以上焼けた火災−」には15の図表が載っており、「(3)宝永元年5月10日・677軒、(4)正徳2年4月10日〈「鶴ヶ丘昔雑談」にある「同年〈正徳元年〉四月十七日」のことでしょうか〉 786軒 茂右衛門火事」が記されていますが、三日町五日町等が焼けた火災は他にもう4回記されています。
 同書には新旧対比の出来る複数の地図が折り込まれていますので、それによると江戸時代の五日町は現在の本町1丁目5と1丁目6の間の道路の両側に当るように見うけられます。その道路が五日町の通りになるのではないかと思います。五日町口木戸は内川の西側の鶴岡信用金庫本店の先に当るようで、そこから内川に掛る橋が「五日町御橋」〈現・千歳橋〉ではないでしょうか。「三日町御橋」は、荘内銀行本店前の道が三日町の通りで、そこから内川に掛る橋〈現・朱塗りの三雪橋〉のことと思います。
 この両橋の間の内川の東側が「新八間町」に当るものと思います。
 『江戸中期 鶴ヶ岡城下絵図』(致道博物館・監修、鶴岡書店組合・発行 平23・2011)によると、五日町の御橋の北側の八間町通りまでの区画の中頃の川端の道沿いに大光寺の記載がありました。
 現在の地図では内川の川沿いの東側で千歳橋と開運橋までの間の中頃になると思います。
 この位置は五日町通りから八間町通りまでの河岸通りですので、三日町通りから五日町通りまでの河岸通りに当る新八間町ではありません。
 新八間町の範囲がこの記述で間違いが無いか確認できませんので、「古四王社 御城下新八間町に在」の正誤は、分かりません。
 大光寺は五日町の内川沿いの河岸通りに面して在った事はまちがいないようです。
 そこから移転したことがあったかどうかは分かりません。
 古四王権現が大光寺に移された理由についても分かりませんが、大光寺の山号が古四王山ですので、大光寺に古四王権現が移されたのはまちがいないようです。

 現在の地図に、江戸期に大光寺があったと思われる場所をマークしてみました。
  

 古四王権現が大光寺から龍覚寺へ移された事については、明治三十六年の『合寺願書』によると、「大光寺が明治十六年五月類焼ニ罹リ」「到底再建ノ見込ミモ無之ニ依リ」、龍覚寺と大光寺のかねてからの関係性もあり「大光寺類焼ノ節本尊は勿論仏具什器…等ニ至ルマテ龍覚寺ニ移置現今事実上合寺同様ノ状況」であり、「廃藩の今日」に龍覚寺の将来も考慮して「合寺致候事ニ決議」とのことです。
 大光寺は「神仏分離で廃寺」になったのではなく、類焼からの再建を断念して龍覚寺にいわゆる吸収合併となり、ここに古四王権現も龍覚寺の観音堂に祀られる事となったようです。
 同願書に付された大光寺什器及財産表のなかに「一、真鍮額面 但古四王ノ文字ヲ鋳ル 壱面」があります。写真に撮らせていただいた山号額のことと思います。
 山号寺号木版はこの表には記されていないようです。
*『鶴岡城下にあった寺院』(昭和六十三年六月 鶴岡市山王町大昌寺住職 冨樫宗晃 調)によると、「大光寺 明治16年火災にあい類焼以後廃寺、檀家及び古四王社は竜覚寺へ」とあります。

*龍覚寺については、『山形県寺院大総覧』(山形県寺院総覧編纂委員会 昭44・1969)に「真言宗 新山 竜覚寺」は「仁安年中(約八百余年前)」の創建で「一千余年前の羽黒山は、峨々たる山で、老幼婦女の参詣登山はおよびもつかなかった。そこでその礼拝所として鶴岡城下の一隅三ツ曲輪南側に一宇を建立して便をはかった。堂宇には羽黒の御分身である聖観世音菩薩を勧請して祀り、竜覚寺と命名した。」「上司の命によって浜中街道に移され、さらに慶長十七年最上家によって高畑土堤上(現在泉町)に移建された。」「天和八年八月酒井忠勝公…荘内藩主として…転封」「富士権現と新山権現をここに移した。ところがこの場所は城の鬼門にあたるというので竜覚寺は酒井公の御祈願所に指定された。」「正月の年始めの諸礼式の時は恒例によって鶴岡市内の寺院の登城が許されるが、竜覚寺はそれら寺院の最上位の席に着くことが許された。」「竜覚寺は、酒井藩筆頭の寺位につき寺領百五十石をおくられ」とありました。
 『鶴岡城下にあった寺院』では、「新山遍照院竜覚寺ハ当城ノ祈願所也。観音ヲ本地堂トシ、昔御城中ヨリ移サレタリシ富士権現、新山権現等ヲ祭ル。〈略〉昔此寺ハ羽黒山院代ノ隠居所ニ建タルモノ也ト云。案ニ、武藤家此城ニ在テ別当タリシ頃ノ事ナルベシ。〈略〉」などの記載がありました。
 『鶴岡市史 上巻』では、“龍覚寺の関係神社として古四王神社”と記されておりますが、古四王社の遷移は明治時代であり、龍覚寺の山号が新山であることから、関係神社を記す場合は新山神社とするほうが良いと思います。

*龍覚寺で撮らせていただいた三種子の記された大光寺の山号寺号板ですが、何のための物かわかりませんし時代も分からないのですが、種子が気になりましたのフリーソフトの梵字フォントを使わせていただいてうつしてみましたので、載せさせていただきました。


*中央の種子の右下に四天王と記されていて、梵字を漢字で表わしているのではないかと思いますが、この種子は薬師を表わすのではないでしょうか。 
 左の種子の左下に薬師とありますが、こちらは毘沙門天ではないでしょうか。
 古四王と四天王との結びつきが意識されていて、毘沙門天を四天王としていて、漢字の記入にあたって種子を取り違えたのでしょうか。
 何故この三つの種子がきされているのでしょうか。
 気になるので、記させていただきました。


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