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探訪記録 山形   7 : 庄内  7


佐藤リスト 位置番号 7 : 飽海郡遊佐町杉沢 古四王神社
              備考)熊野神社境内、明治以後移転、楕円形の石、現在東向き
              〈桑原リスト : 遊佐町 杉沢熊野神社境内・古四王神社

《探訪の準備》
*『池田・方寸5』では「遊佐町内の古四王神社について誌してみると、杉沢の熊野神社は、平安初期の承和元年(834)の創建と伝えられ、神仏分離以前は鳥海山二之王子熊野大権現として、順峯衆徒入峰の二の宿であり、また最近は比山舞で脚光をあびているが、その境内に末社として東むきに安置されている。ご神体は古四王神の特色をよくあらわした高さ約1メートルの楕円形の石である。土地の古老の言によれば明治以後に現在地に移されたものである。〈略〉杉沢の熊野神社の古四王神も、前にはここ〈中山の古四王神社のところ〉に安置されていたという方もおる。」とあります。
 「杉沢の古四王神社」と記された写真が載せられており「ご神体は楕円形の石である。」の説明が付いています。
 写真の祠は妻入り屋根です。自然石は見えません。
*『遊佐郷村落誌(上)=第一章 蕨岡の巻・三 杉沢』のこの項目中に「古四王」について記されているのは「出羽国風土記に 熊野神社〈略〉境内社、皇太神社、八坂神社、疱瘡神社 とあるが、その外に境内には、吉坊神(鬼子母神ー塞の神)古四王神、馬頭観音が祀られている。」とあるだけですので、境内の古四王神の記載は出羽国風土記の熊野神社の記述本文にはなく遊佐郷村落誌(上)の執筆者による「その外に」以下の追記に見えるだけですので、古い記録にはないのかも知れません。

*『平成の祭』: 熊野神社  通称:権現様
              祭神: 《主》伊弉諾尊、伊弉冉尊、武甕槌命 《合》大彦命、大山祇命
                  鎮座地: 飽海郡遊佐町大字杉沢字宮ノ後23
         境内社として古四王神社 祭神《主》経津主命 の記載があります。
         祭礼の項目に、5月1日・古四王祭が記されています。
 古四王神社の祭神が経津主命とされ、庄泉宮ノ下(小服部)の古四王神社と同じですが、熊野神社に合祀されている大彦命はどういう謂われなのでしょうか。また、大山祇命の合祀の謂われも何でしょう。
*『山形県神社誌』には、祭神は伊佐那岐命・伊佐那美命の記載のみで、境内社の情報の記載もありません。

《探訪の記録》
*2017年6月9日
 野沢・御嶽神社の後にこちらに向かいました。
 遊佐町語りべの館に立寄り少し休ませていただいてから熊野神社へ参りました。
 語りべの館は、平日は午後3時から5時までのようですが、訪ねた時に作品搬入の作業中で関係者の方がいらして中に招き入れていただきました。
 熊野神社は道路の側にありすぐに分かりました。道路脇に「鳥海山一合目杉沢熊野神社」の標柱、その奥に「村社 熊野神社」の石柱があり、杉沢比山の案内看板があり、幟旗用の柱があって、両部鳥居、参道、社殿と続き、社殿の三方を樹木が囲んでいます。
 鳥居から進むと境内の左側に同形の木材の色がまだ新しい小祠が四社並んでおり、順に馬頭観音、二番目の祠に古四王神社、疱瘡神社、吉坊神の額が揚げられておりました。
 祠は「方寸」掲載の写真のものとは異なります。
 古四王神社の社殿の下には、楕円形の石が据えられていました。
 境内右手には左の小祠より大きく時代の感じられる境内社がありますが、祭神は分かりませんでした。

 左上: 熊野神社  左下: 手前が古四王神社      右上: 並ぶ四社殿  右下: 古四王神社-社額

《探訪の整理》
 楕円形の自然石をご神体とし経津主命をご祭神とする古四王神社が、熊野神社の境内に祀られていることは確認できました。
 現在、熊野神社に合祀されている祭神や境内社については、その経緯や由緒などについて分からないことだらけです。
 合祀の記録とかはどうなっているのでしょうか。

 土地の古老の話という「〈古四王神は〉明治以後に移されたもの」というのは、そうなのではないかと思えるのですが、その事や以前は中山の地に安置されていたということを裏付けするものはないのでしょうか。


《桑原・調査資料による追記》 2019-08
*桑原正史氏より新発田歴史図書館に寄贈された古四王神社研究関連資料中の神社調査資料によって、ホームページ「古四王神社探訪記録」の記事に追記させていただきました。このことについては、記事「庄内2」の《追記》をご参照下さい。

◎1975−08−26
◯調査ノートに「祠の中」として、「神体 自然石=祠の下から中へ床をつきぬけている。中にオワンのふたが下げてある。ハリの下にもオワンのふたが下げてある。」が記されています。
 また、中に布地の赤いハタがあり「古四王神社/昭和三十七年十二月二十六日/奉納者名〈縦書、/は改行〉」と記されています。
 「4つの祠のうち、他の3つの性格は?」のメモがあります。
 その事などに関して菅原傳作氏よりの手紙があり、「吉坊神は鬼子母神であろう。(或人は塞の神であるともいっている)」とあり、境内右手の社殿については「皇太神社」と記されていました。
 菅原傳作氏は当時遊佐町の教育長であったと思います。

*祠の中にオワンのふたが下げてあるとありましたので、こちらの古四王神社も、自然石を御神体としており、耳の病に霊験があるという信仰があったのではないでしょうか。
 「きかずさま」と言われていたかどうかは、分かりません。

昭和50年の古四王神社 祠の脚部に自然石が見える  


《 追 記 》
 杉沢の熊野神社境内に祀られている古四王神社には、御神体とされる岩石が古四王神社の小社殿に覆われて立っています。
 この御神体については「高さ約1メートルの楕円形の石である」(池田宗機 『方寸』第5号)とあって、私も小社殿の床下の柱に囲われた中に御神体が見えることを確認しましたが、それ以上の確認はしていませんでした。
 しっかりと見ておかなかったと無念に思っていました。

《 2024年3月16日 再訪 》
*あらためて御神体を拝観したいと思い、杉沢の熊野神社を訪ねました。
 思いがけないことに、古四王神社の扉の片方が開いておりました。
 他の小祠にも扉の右側が開いているものがありましたのでので、風によるものと思います。
 熊野神社に参拝に来られた地元のご老人と古四王神社を訪ねてきて御神体を拝見させていただきに来た事などをお話しさせていただきましたところ、中山にも石の御神体があって、こちらの御神体も以前はそちらにあったようだとおっしゃっておいででした。
 せっかくきたのだから、扉を開けてよく拝んでいきなさいとのこともあり、扉を両方開けて拝見しました。
 扉を開けると格子があって、その内側に御神体がありますが、格子のせいであまりよく見えません。
 他の小祠には格子は無く賽銭箱がありますが、古四王神社の祠には御神体があるので、床もないのでしょうし、賽銭箱を置く場所が無いようです。
 御神体は、小祠の社殿部分の四隅に繋がる本柱の中に、石の底部をコンクリートで固めて立てられています。
 社殿の正面は階段がありますし、左右には縁があって本柱の外側に縁からの柱があり貫も通っていて、接近して見ることは困難です。
 社殿の背後には縁が回っていないので、いくらか近くから見ることが出来ます。
 御神体の形状は、後方から見ると左側が比較的に平面になっていて、石の後方は丸いというよりはややとがっているようにも思えました。
 高さは、床下のコンクリートで固定されたところから祠内の石の頂部まで、およそ1メートルでした。
 幅は本柱の間隔からすると、前後左右共に50センチ程ではないでしょうか。
 石の頂部と底部が窄まったようになっていますので、その意味では楕円形の石と言ってよいかと思いますが、石の全貌を把握することは出来ませんでした。
 御神体の石ですから、それでいいのかも知れません。

*桑原正史氏の調査ノートに記されていた「オワンのふた」「布地の赤いハタ」も見かけませんでした。

*写真をいくつか載せます。
 配置は、左から右へ、上から下です。
 1枚目は、冬囲いの熊野神社。6枚目は疱瘡神社の小社殿です。
 2枚目から5枚目が古四王神社です。3枚目は社殿の左側からの写真で、4枚目は右から、5枚目は後方から写しています。
 4枚目写真の左の本柱(内側の太い柱)の上と右側の柱の下側に付いている白い物体は電源器具です。
 3・4・5の画像は露光調整をしています。



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