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探訪記録 山形 6 : 庄内 6
佐藤リスト
位置番号
6 : 飽海郡遊佐町岩川 古四王神社 備考)なし
〈桑原リスト : 遊佐町岩川・古四王神社
《探訪の準備》
*『池田・方寸5』には「岩川の古四王神社は鉄道線路傍の苗代の中にあり、祠の中には古四王神社と墨書されている木牌が安置されている。部落民はコショサマとよんでいる。」とあります。
*『遊佐郷村落誌(下)=第一章 稲川の巻・二岩川・(一)千本柳』(昭63・1988発行)に「〈千本柳〉通称岩川ともいう。〈略〉住吉神社 中筒男命を祀る。千手観音が本地仏であった。〈略〉鉄道と町道との間の水田に古四王社の杜があった。六間に七間の小社であった。古四王社が祀られてあった。今は村の南西に移転した。〈略〉龍岩寺は永泉寺の末寺、元和五年(1619)三月永泉寺二十一世広厳寺薬誉大和尚の開創〈略〉」とあり、古四王社の森の写真が載っています。
写真では、松と思える木が三本くらいと松より小さい落葉木が数本あり、地面はいくらか高くなっているようですが小山状の盛り上がりはないようで、草むらか笹藪になっているようです。その中央に祠があるようです。鉄道用の電線でしょうか、写真の中程を左右に線が横切っています。これが鉄道の電線であれば、森は鉄道線路から遠くはないようですし、松の木の高さはけっこうあるようです。
「六間に七間の小社」というのは、杜全体の大きさかと思われます。
*「桑原文献リスト」にある「松本良一『姿を消す伝説の社と塚』(月刊「庄内散歩」bP6所収・昭50・1975)」を鶴岡市立図書館・郷土資料館からコピーして送ってもらいました。この資料は「佐藤文献リスト」にも載っています。
それによると「…、国鉄線路を越えたところに庄内平野の田圃の中によく見られる、
もり
、
塚
がある。十五平方メートル位の土盛りに三、四本の木立があり、
めっけ竹
が残っている。〈略〉その「
もり
」は古四王様の森ということだった。〈略〉古四王様は北面が普通と聞いていたが、これは東面で千本柳の方に面していた。その前の左側に庚申の碑がある。一メートル二十センチ位の卵形の自然石の碑である。宝暦十一〈1761〉年己二月吉日とあり、遊佐町では宮田神社(酒田市宮田)にある庚申様と同年号で、川北地方では古い方の庚申塚である。〈略〉今、遊佐町では基盤整備、圃場整備事業で、この岩川地区も含めた大事業が行なわれている。〈略〉」とあります。〈
もり
など下線文字は、原本では傍点〉
これらからすると、情報では岩川とされている古四王神社の所在地は、遊佐町岩川千本柳となるようです。
旧岩川村は、明治22年に稲田村になり、大正11年に稲川村になって、昭和29年に遊佐町になります。
田圃の中の少し盛り上がって木立が残された場所にコショサマの祠が祀られていたのでしょう。
「もり」は農地として利用せずに、手を付けずに残されて、木立が生じた場所ではないでしょうか。
そういう場所には何かが祀られていることがままあります。
大きさについては、「六間に七間の小社」とすれば、古四王社の森の写真からすると大きすぎるように思います。「十五平方メートル位」というほうがあっているのではないかと思います。
昭和50年代頃に、基盤整備、圃場整備事業でこの杜も消滅し、祠は村の南西に移転したようで、現在の古四王神社の祠が何所にあるのかはっきりしません。
歩いて、尋ねて探すしかありません。
《探訪の記録》
*2017年6月9日
図書館で見せてもらった住宅地図には千本柳に神社は住吉神社だけで、他に鳥居マークもなく、ヒントは得られませんでした。
上大内の後に、岩川千本柳を訪れました。
千本柳集落内の道が狭いので、車をおける場所を探してから、先ず住吉神社へ行ってみました。古四王社に関連するヒントになるようなものは見つけられませんでした。
それから、集落の南西方面はじめいろいろと歩き回ってみましたが、古四王の祠は見当たりません。
出会ったご婦人やご老人にお聞きしてもご存じではありませんでした。
龍岩寺周辺を歩いていたときにご住職と出会いましたのでお聞きしましたところ、生まれがこの地ではないとのことで、畳屋さんをご紹介いただきました。
畳屋さんでは、「こしおう」と言っても何のことか分からないようでしたが、田の中にあった小さな杜の祠と伝えるとすぐに分かっていただけました。
わざわざ外に出て住吉神社付近の道路から神社の向側の畑の方を向いて、かつての社地の場所を指し示して教えてくれました。
杜の祠は、鉄道線路の電柱の付近で、線路の向こう側(西側)にあったそうで、以前からの道と鉄道の間の田の中の小さなもりだったそうです。祠の移転先については千本柳の北東側の集落の家の屋号とおよその場所を教えてくれて、そこで問うとよいとのことでした。
その家を探して屋号の家の付近と思える所でお聞きすると家が分かりましたので、お訪ねしました。
ご高齢のご婦人にお話を伺うことができて、祠を祀られている方のお名前と家と場所を教えていただきました。その家で祀ることになった謂われについては、祠の受け入れ先が決まらずに、ご縁があったその家でお祀りすることになったことのようですが、お聞きした方がご高齢で聞き返すのがうまくいかずはっきりとは聞き取れなかったので違うのかも知れません。
ありえないようなご親切が次々につながって、古四王が今ある場所にたどり着けそうです。
集落の南西方面に戻って、あちらこちらに注意を払ってその家を探しながら道路を歩いていると家と家との奥に小祠が在るのが見えましたので、ここであろうとお訪ねしました。
その家はお留守でした。
*2017年6月10日
もう一度お訪ねしましたが、お留守でした。
少し待ってみてメモを残そうかとしていたところ、回覧板を持って近所のご婦人がおいでになりましたので、経緯などをお話しさせていただくと、こちらで間違いはないようです。
ご婦人はご親切に「呼び鈴が聞こえないのかも」と確認してくれましたが、やはりお留守でした。
そのご婦人に名刺をお渡しし、この家の方によろしくお伝えいただきたいとお願いいたしました。
祠は、上大内(豊岡大内)の◯◯家の祠と同じくらいの1メートル四方程の大きさで、こちらの祠は平入り屋根です。流れ造りではないようで、社殿に比して屋根の横への広がりが大きいように思えました。
この祠が「古四王の杜」にあった祠で、『遊佐郷村落誌(下)』の写真の古四王の森の中央付近に写っている祠であろうと思います。
左: 神社前道路から住吉神社を望む。 右: 神社前道路から向かい側を望む。写真右側に線路と電柱。
鉄道線路の西側の町道から、かつて古四王の杜のあったあたりを望む。
左端の朱の鳥居は住吉神社。
奥は千本柳集落。
中央やや右に、線路の電柱が見える。
《地図: 千本柳集落付近。 マークはかつての古四王の杜と思われる場所。》
《探訪の整理》
かつて古四王祠は集落の方を向いて東面していたそうですが、古四王社は北面するということにとらわれていなければ、集落の方向を意識するのは当たり前の事と思います。
そのかつての「古四王の杜」の古四王祠と思われる小祠は、岩本千本柳で個人によってお守りされ祀られているようです。
その場所は確かに集落の南西にあたりますので、『遊佐郷村落誌(下)』で「今は村の南西に移転した。」と記述されているのは正確なのですが、『遊佐郷村落誌(上)』で上大内の古四王社について「◯◯家の地内にあって東面し鏡を神体」というように家の名を出して具体的に記している例があるのに、ここに関しては何も触れられていません。
「今は村の南西に移転した。」と記してありましたので、祠の移転にあたって新しい鎮座地として用意された土地が村の南西にあたる場所なのだと思いました。個人によって祀られているとは思いもしませんでした。
村落誌に、そのように祀られていることくらいは記してもよいのではないかと思うのですが、なにか記さない訳があるのでしょうか。
この杜の祠は、何時の頃に祀られたのか、誰によって祀られたのか。祭祀はどのようなものであったのか、何の神様を祀ったのか。
言伝え、資料などは残っていないのでしょうか。
どのような経緯で今の場所に祀られることになったのでしょうか。
いろいろのことが不明です。
さて、岩本千本柳の古四王祠を祀られている方に、ホームページに載せたい記事の原稿をお送りして、頭文字を英字で表記して匿名化したお名前や場所の情報及び祠の写真を載せても良いかどうかご意向をお伺いいたしまたところ、掲載を断られましたので、それらの情報や祠の写真を削除いたし、原稿を改めました。掲載を断る理由についても、個人情報に関連する恐れがありますので、記載しないほうがよいと判断しました。
もし、このホームページの記事によって岩本千本柳の古四王祠を訪ねようと思われる方がいらっしゃいましたら、現在お祀りされている方のご意向を尊重いただけますよう、個人の敷地に立ち入らないよう、お願いいたします。
古四王神社に関心を持ってくれる方が多くなり古四王神社を訪ねる人が多くなればいいと思いますが、遊佐でお話しをお聞きした方々にもご存じではない方々が多かったことを思いますと、このようにして忘れられ消えていくのだろうと思わずにはいられません。
*補足情報を追記します。
岩川の古四王社の祠の写真が『目で見る 山形県漁業史』(春日儀夫 平8・1996)の「参考・古四王(3)」のページに掲載されています。
撮影者は菅原伝作氏〈『遊佐新風土記』著者〉と紹介されています。
《桑原・調査資料による追記》 2019-08
*桑原正史氏より新発田歴史図書館に寄贈された古四王神社研究関連資料中の神社調査資料によって、ホームページ「古四王神社探訪記録」の記事に追記させていただきました。このことについては、記事「庄内2」の追記をご参照下さい。
◎桑原氏の資料中に、この社に関する2葉の写真がありました。撮影日は昭和50年8月26日〈1975〉です。
『姿を消す伝説の杜と塚』が掲載された「月刊 庄内散歩 7月号」が昭和50年発行で、『遊佐郷村落誌(下)』が昭和63年3月〈1988〉で、この時には古四王の杜は既に姿を消していたわけです。
デジカメで複写したものに若干の加工を施したものを以下に載せます。
*写真左:笹藪と木立に囲われたように祠があります。祠の扉が開いていて、中に下がっているのは房状の鈴緒のようです。その奥には、御幣と木札が納められているようです。
社殿の左側に、風除けか雪囲いのようなものがあるようです。社殿の右側や後方にもあるのかもしれません。
*写真右:古四王の杜の在りし日の姿です。
調査ノートに祠と庚申碑と相撲取りの碑のスケッチがあります。
『姿を消す伝説の杜と塚』によれば、真中にお宮が建っていて、その前の左側には庚申碑があり、「右側にある新しい碑は明治廿六年己七月十日に建てられたお相撲さんの記念碑である」とのことです。
この相撲の碑は、住吉神社の前に移されたそうです。
庚申碑は、古四王祠を祀られている個人の家の敷地内に移されたそうです。
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