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探訪記録 山形   3 : 庄内  3


佐藤リスト 位置番号 3 : 飽海郡遊佐町北福升 古四王神社
                備考)斎藤家の屋敷神、楕円形の石、キカジ大明神
               〈桑原リスト : 遊佐町北福升・古四王神社(聞璽大明神)

《探訪の準備》
 『池田・方寸5』−「北福升の古四王神社は、斎藤氏の屋敷神であるが、田圃の中に祠堂があり、…安置している。斎藤氏にお尋ねすると、清川の斎藤家(清川八郎生家)より江戸時代末期に当地へ分家してきた時にいただいてきたものとし、ご神体は三十センチぐらいの楕円形の石で『聞かず大明神』と称し、秋田方面の方がよく参拝にくるとのことである。」
 『遊佐郷村落誌(下)=第一章 稲川の巻・四 増穂・(四)北福升』に「十六戸の村である。〈略〉諏訪神社 建御名方命、手力男之命を祀る。正平十五年(1360)信濃国諏訪神社より勧請せりという。神社に文書がある。〈略〉村の北、路傍に古四王神社の小祠がある。江戸時代の末頃斎藤家が清川の斎藤家から分家する時に勧請したものと伝えられ、祭りの時には『爾聞〈ママ〉大明神』の幟を立てる。古い木のお椀が下がっているが所謂『きかずさま』で耳の神様として信仰されている。本来の神とは随分かけはなれた存在になっているが一般の信仰であろうか。」とあります。
 同書の「増穂」の項目に「増穂は明治九年十二月四ケ村合併して名付けられた雅称である。」とあり、仙北新田・鵜沼・南福升・北福升について記載されています。

 北福升という住所地は、現在の住所表示では使われてはいないもようで、遊佐町の住所検索をしても出てきません。
 国土地理院の地図には北福升という表示がありましたので、およその場所が分かります。
 遊佐町増穂には9つの字地名があり、そのなかの前田という集落が北福升に近いようです。
 旧北福升村は、明治9年に増穂村になり、増穂村は明治22年に稲田村、大正11年に稲田村は稲川村になって、昭和29年に遊佐町になっていくようです。

《探訪の記録》
*2017年6月10日
 遊佐町の古四王神社探訪の二日目の三箇所目に西谷地の次に訪れました。
 前日、遊佐町立図書館で資料を探した折りに住宅地図を確認しました。
 遊佐町増穂前田に着いて、集落の西側にある南北に通る道路を進むと「北福升」と表示された看板が設置されておりましたので、ここが間違いなく北福升でした。
 遊佐町は旧地名も大切にしているようで、「北福升」の表示板と同様の看板が西谷地にもありました。
 看板脇に石碑がありコンクリートの覆い屋の中に地蔵様などが祀られています。
 ストリートビューで見ることが出来ます。

 看板から北へ道路を進み集落はずれに至ると道路の左脇・西側に木造瓦葺きの小さな覆い屋の中に小社殿が鎮座していました。
 社殿の扉は閉じられており社額等もありませんでしたが、社殿の右脇に穴を開けて紐を通した椀が掛けられていましたので、この社が「聞かず大明神」古四王神社で間違いないものと思います。
 近くの民家で尋ねますと、そのお宅が斎藤家で、社殿はお祀りしている「きかずさま」とのことが確認できました。

 左上: 北福升看板と周辺                 右上: 路傍の覆屋と小社殿 
 左下: 「聞かず大明神]古四王神社           右下: 社殿の右側と掛けられた椀 


《探訪の整理》
 この社は、「清川の斎藤家(清川八郎生家)より江戸時代末期に当地へ分家してきた時にいただいてきたもの」、ないしは「江戸時代の末頃斎藤家が清川の斎藤家から分家する時に勧請したもの」とのことですので、江戸時代には清川に本家・斎藤家の祀る古四王神社が存在していたのでしょうが、清川の本家・斎藤家には古四王神社が残ったのでしょうか。
 「いただいてきた」とすれば清川から遷座して清川には残らないことになるのでしょうし、「勧請した」ということであれば清川にも古四王社が存在することになるのではないかと思います。
 清川の斎藤家のご子孫は東京に移り住み、斎藤家の家屋も残っていないとのことです。
 清川八郎の生家であったことと、古四王神社を分家に持たせた?ことは関係があるのでしょうか。
 北福升の斎藤家にはこのあたりのことをお聞きする事はいたしておりません。
 清川には、斎藤家に関連する古四王神社の情報は無いようです。
 
 佐藤リストでは外してありますが、桑原リストには東田川郡立川町清川・御諸皇子神社の情報があります。
 この社は、藤原相之助『美人国祖神記』に「羽前国東田川郡清川村・五所王子神社」として情報があげられています。根拠は記されていません。
 及川大渓の『みちのくの庶民信仰』にも、様々な文字表記がある古四王の訛りと考えられるとして、この社もあげられています。
 桑原リストにありますので、私もこの社を訪ねていますので、それなりに清川についても調べましたが、その際には清川の斎藤家の古四王神社のことは分かりませんでした。
 ですが、立川町には「三ヶ沢にコシオウが祀られている」と『立川町史・上巻』にあることを知ることが出来ました。
 この社については、桑原・佐藤両リストに情報がありません。
 こちらも参っておりますので、この探訪記録に記していく予定です。

 さて、北福升で耳の神として信仰されていた斎藤家の屋敷神の古四王社が祀られたのは、江戸時代末期以降になり、元々は清川に鎮座していた社に謂われを持つ社とのことでした。
 清川でも「聞かず大明神」だったのでしょうか。

 現在の住所地は、遊佐町増穂後田地内になります。


《桑原・調査資料による追記》 2019-08
*桑原正史氏より新発田歴史図書館に寄贈された古四王神社研究関連資料中の神社調査資料によって、ホームページ「古四王神社探訪記録」の記事に追記させていただきました。このことについては、記事「庄内2」の《追記》をご参照下さい。

◎桑原氏がこの社を訪ねたのは、調査ノートの日付によると1975年8月26日〈昭50〉です。
 8月26日は、聞璽大明神ー古四王神社の祭礼日で、調査ノートに「オスワ様と一緒にやる」のメモがありました。
 『遊佐郷村落誌(下)』〈昭63・1988〉に、諏訪神社について〔「正平十五年(1360)信濃国諏訪神社より勧請せりという。」「明治十二年村社に列し」「八月二十六日の月夜待はお諏訪様と称し、なかなかの賑わいを見せる。」〕などの記載があります。
 同書には、「北福升の古四王神社」の写真があります。
 池田「方寸5」〈昭49・1974〉に「近年木の祠が破損したので、コンクリートにつくり替えて安置している。」の記載があります。
 先に公開したHP記事では、木の祠の破損とコンクリートにつくり替えのところは省略しています。
 『遊佐郷村落誌(下)』の写真は、コンクリートの祠で、祠の扉は閉じられており、祠の前の地面に丸い石のようなものが置かれているように見えます。祠に向って左後方に大きな木があり、周囲に小さな木々があります。
 桑原・調査資料に、この社の写真が何枚かありました。
 桑原・写真の社は『遊佐郷村落誌(下)』の写真の祠と同じと思われます。
 桑原・写真〈下の写真左〉では、祠の扉が開かれていて、社殿の前の丸い石の上に何個かの石が置かれており、その中には穴のある石があるように見えます。
 調査ノートに、祠のスケッチがあって、その扉の前から丸い石の上の何個かの石に向って矢印が書かれています。「祠の中に自然石」のメモがあります。
 『遊佐郷村落誌(下)』の写真には、丸石はありますが、丸石の上に石があるようには見えません。
 祠の前の丸石の上の幾つかの石は、祠の中にあったものを表に出したものではないかと思います。
 祭礼日ゆえに、祠の扉を開き、中の自然石を表に出したのでしょうか。あるいは、調査に協力してのことでしょうか。
 祠の中の自然石に穴あき石はあったのでしょうか。写真では、丸い石の上の石に穴あき石ではないかと思える石があるように見えるのですが。
 また、調査ノートには、「右側にオワンがさがっている」とあります。
 祠の前にあげられた三本の幟旗が写っている写真〈写真右〉があります。

 調査ノートによれば、幟に記された年月は三本とも「昭和四十年八月二十六日」で「奉納 聞璽大明神」とあり、「キカジ」と読むことが記入されています。写真を拡大して見ると「ジ」は「璽」でした。

 私が訪ねたときは、木造瓦葺きの覆屋の中に木製の小社殿があり、社殿の前には丸石等はありませんでした。
 社殿の右側面にお椀は吊されていました。周囲に木立はありませんでした。
 かつて社殿前にあった丸い石は何だったのでしょうか。
 「ご神体は三十センチぐらいの楕円形の石」とある、その石だったのでしょうか。

 桑原氏撮影写真


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