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探訪記録 山形  23  : 庄内 23

佐藤リスト 位置番号 18 :  西田川郡温海町五十川・鳶ケ坂 古四王神社
                 備考)もと北向き社を移転、大彦命、少彦名命など
                  〈桑原リスト:西田川郡温海町五十川鳶ケ坂・古四王神社


《探訪の準備》
*この社は、情報が豊富ですし、地図で所在地が簡単に分かります。
 『角川 日本地名大辞典 6山形県』(昭56・1981)の西田川郡温海町の現行行政地名の項目の「いらがわ 五十川」を見ると「…鈴・五十川・安土・田川の4集落があり、…国鉄五十川駅・五十川駐在所・五十川郵便局・五十川中学校・五十川小学校・大阪造船田川製作所・古四王神社・古四王河内神社・薬師神社・曹洞宗遭竜寺がある。」と記されています。

*『平成の祭』に記載があります。
 古四王神社 
 鎮座地: 西田川郡温海町大字五十川字鳶ケ坂3 
 祭神: 《主》大彦命 《配》仲哀天皇、外一柱 《合》大山祇命、武内宿禰命、少彦名命
 現在の住所は鶴岡市五十川鳶ケ坂3になります。

*『温海町史 上巻』(温海町史編さん委員会 昭53・1978)の「第七編 第五章宗教と芸能」の神社の項目に五十川では古四王神社・古四王河内神社・薬師神社の記載があります。
 古四王神社に関する記載を引用しますと「古四王神社 五十川字鳶カ坂三。 祭神: 大毘古命、武内宿弥命、大山□〈示偏に氏〉命、少名彦名命。 建物: 本殿三坪三、幣殿十五坪、拝殿十八坪六。 氏子: 184戸。 縁起: 崇神天皇十年、四道将軍の大彦命は北陸道平定のため海路を秋田に向うべく北上の途次、大時化に遭い難破して五十川に漂着、此の地に滞在し農業、製塩業等の新しい業を授け、再び遠征の途についた。土地の人々はその徳を慕い一宇を建立し祀ったと伝えられる。延享二年〈1745〉古四王権現堂造替、明治九年村社となる。同四十一年山ノ神・矢除神・御嶽神社を合併、大正十三年鳶ケ坂へ移転、昭和十七年指定村社となる。」
 同書の神社の項目では「熊野神社 湯温海六七」の記事が「社人と修験の確執」について修験による架空の神宮寺と縁起の創作や主な紛争を取上げており、興味深く読ませていただきました。
 また『温海町史 中巻』(昭62・1987)の「第三章 第三節 第六項 神社と信仰」に神仏分離令と村々の動きが記述され、こちらも参考にさせていただきました。

*山形県ホームページの庄内地域振興課のコンテンツに「古四王神社浜入祭」の情報がありました。
 引用しますと「村人は大彦命を慕い、長く留まることを願いますが、重い任務の為五十川を後にしなければなりませんでした。そこで当時の11戸の村人が浜辺で惜別の宴を開催し、後に一社を建立し古四王神社を奉祀したと伝えられています。例大祭である『古四王神社浜入祭』では、大彦命の送迎を表現しているとされ、赤い装束の若者達が担ぐ神輿行列が地区内を廻った後、浜辺近くで哀調の曲に合わせて獅子舞が披露され、獅子に『餞別』と書かれた菓子を噛ませ惜別の思いを表わしています。また大彦命を見送った村人が11戸だったことに由来して祭壇には11台の供物を供える慣わしがあります。5月5日五十川地区内で行なわれます。」

*川崎浩良『美人反別帳』に温海町五十川の古四王神の情報が記されておりますが、あとで記します。

《探訪の記録》
*2013年6月2日
 鶴岡市立図書館・郷土資料館へ文献資料を求めて初めて出かけた旅程の二日目に思い立って鶴岡市泉町の龍覚寺をお訪ねいたしたことで、それに背中を押されて五十川の古四王神社にも立寄りました。
 海沿いを走る国道7号線からJR五十川駅のある集落へ入れば、五十川に掛る橋の右岸のたもと近くに古四王神社があります。
 高速道路の五十川インターからだと、海に向って道なりに五十川右岸を進むと赤い欄干の橋の手前に神社があります。

 欄干の赤い橋には古四王橋の銘板がありました。
 古四王神社は少し高台にあり石段があります。石段の下方の右に「古峯神社」の社標、左には湯殿山石碑があり、石段の上の石鳥居の左手前に「古四王神社」の社標があります。
 鳥居には「古四王大神」の社額、横幅のある建物の社殿には「古四王神社」の社額があげられていました。
 境内には石の小祠も祀られていました。
 予定していないことでしたが、古四王神社に詣らせていただくことができました。

*2014年11月2日
 由良の古四王神社を訪ねた後、五十川の古四王神社に向いました。安土の古四王河内神社を探したあとで訪ねました。
 雨模様でもあり、お詣りをして戻りました。

左上: 古四王橋。手前右に古四王神社。右が海側        右上: 古四王神社社標、鳥居
左下: 社殿                          右下: 境内の小祠、他


《探訪の整理》
*『明治十三年 調 西田川郡神社明細帳』(鶴岡市郷土資料館所蔵)〈郡役所文書が散逸したものか、古書店より購入して所蔵に至ったようです〉で、「古四王神社」を見てみます.
 明細帳の罫紙に「山形縣管下羽前国西田川郡五十川村字濱千鳥  村社 古四王神社 一 祭神 大毘古命 一 由緒不詳 明治九年二月廿四日被定村社 一神殿間數 桁行六間 梁行三間 一境内坪數 三千五百0五坪 官有地第一種 一 氏子戸數 九拾戸 一 管轄廳□〈マデ〉之距離三拾四里貳町五拾貳間  以上』とあります。ここに朱書きが加えられています。
 罫紙の一行目は住所が記され、二行目・三行目の下側に村社と古四王神社と記されています。罫紙の二行目・三行目の上側に「大正十二年十一月二十六日◇◇無格社神社境内地ニ移轉」の朱書きがあり、欄外に「大正十二年四月二日附願其ノ神社合併ノ上同村大字同字鳶ヶ坂ヘ移轉ノ上古四王神社ト呼称ノ件許可ス 大正十二年十一月二十六日 山形縣知事 縣◇」の朱書きがあります。〈◇は私に判読できなかった文字〉
 原文の「氏子戸数、管轄廳□…、以上」について消すための朱線が引かれています。原文に続いて朱筆で「一 境内神社三社 皇大神社〈略〉住吉神社〈略〉八幡神社〈略〉 一 氏子戸数 九拾九戸〈略〉」の記載があります。

 ここに旧社地情報と移転先に別の神社があった情報がありました。

 「無格社 御嶽神社」の記載を見ると住所が「五十川村字鳶ケ坂」とあり「祭神 少彦名命 由緒 不詳」等の記載があり、朱書きで「村社古四王神社」の書入れと欄外に「濱千鳥 古四王神社ニ合併ノ上本境内ニ移転 大正十二年十一月二十六日」書入れがありました。

 これで、濱千鳥から鳶ヶ坂への移転と、移転先に御嶽神社が在ったことが分かりました。

*『鶴岡西田川神社誌』(山形県神社庁鶴岡西田川支部 平2・1990)の「古四王神社」の記載からこれまでの情報との重複を避けて引用します。
 記載項目は「神社名 鎮座地 祭神 境内神社 祭日 神事芸能 社殿 主要建物 工作物 境内地 氏子数 由緒」です。
 神事芸能に「例祭の浜入祭の獅子舞 獅子(大彦命)に御餞別の御初穂や菓子を捧げる獅子舞」とあります。
 由緒について大彦命に関する部分を省略しそれに続く部分を引用しますと「寛治元年(1087)、源義家が後三年の役の帰途、五十川に差しかかるが、飛屋坂上に安倍の残党が潜むことを一羽の鳶が空高く舞って知らせ、これを一挙に攻め滅ぼすことができた。義家はこの坂を鳶ケ坂と名付け、古四王神社の境内に八幡宮を建立し感謝を捧げた。」が記されています。
 続いて「寛永年間(1704〜1710)、大蔵坊が信者の助力をえて鳶ェ坂の道路を開削し、この地で倒れた戦死者の霊を弔うため麓に馬頭観音をまつり、また、蔵王権現をまつるが後に御岳神社となった。」があります。
 移転に関して「大正十一年(1922)、羽越線敷設による参道の切断、境内の山崩れなどのため社殿を現在地に移転改築した。」とあり、移転理由が記されていました。

 「濱千鳥の旧社地」はどこでしょうか。
 川崎浩良は『美人反別帳』でこの古四王神について「現今五十川の落口鉄道線に近い海岸の突出部に建っているが、これは少距離東方にあったものを羽越線鉄道工事の際原位置にいてんしたもので、元は北向きの社であったのである。」と記していますが、地図を見ると東側は「濱千鳥」という地名ではないようですし、そのあたりの山は北側が標高が高いので北向きの社殿を建てるにふさわしい場所が見当たらないように思います。
 参道は羽越線をまたいでいたので「参道の切断」にあい、「境内の山崩れ」から境内が山地で崩れたか周囲の山崩れの影響があった場所ということになると思います。
 五十川の左岸であったのかも知れないと考えていますが、どうなのでしょう。
 左岸側の山は川のある北側が標高が低くなるので、山に北向きの社殿を建てると集落からも望めると思います。

 また「大蔵坊」というのは『生活文化史料 荘内史料集20 鶴岡市史資料編』(鶴岡市史編纂会 平8・1996)所収の「荘内寺院録」にある温海組の修験である「羽黒山郡坊弟子 五十川村大蔵坊 蔵王権現九月廿九日・十二権現正月五日」とある大蔵坊のことでしょうか。

 ここで見たように、創建伝説に大彦命があらわれ、地名伝説に源義家と鳥の話があらわれていました。
 情報が少ないながらも伝わってきていることで伝説に取入れられ、情報が少ないが故にあり得ないことを証明も出来ない。人は話を作らないではいられないものなのでしょうか。
 伝説は、伝説に反映された思いを伝えてきたものなのでしょうか。
 貴人が村里に来て暫く留まった。農業・医薬等の新知識を村里にもたらした。だから、この村里は特別な恩寵を受けた村里だということなのでしょうか。
 祀る側の人にとってどうあることが望まれたのでしょうか。
 由良の伝説は坂上田村麻呂でした。
 由良では、田村麻呂が古四王神を祀って堂宇を建立して、産業開拓を導き庶民の難病をお救い下された、ということでした。
 五十川の古四王神社は、村人が農耕・製塩・医薬等の技術を授けてくれた大彦命を慕って創建したものでした。
 まろうどの来訪と新知識の伝授というような、なにか伝説の元になる出来事があったとしても不思議ではないと思います。
 征夷の遠征途上の地元民との交流ということならば、阿倍比羅夫のほうが良くはないだろうか等と思ったりもします。

*『温海町神社寺院研究資料ー温海町史編集資料 第2号』(温海町史編纂委員会 昭47・1972)のなかに他書からのコピーと思える「古四王〈ルビ:こしのきみの〉社」の記事が資料としてか載せてありました。
 その「古四王社」の記事に「田川郡五十川村の山上に立し給へり此の本社は越後國新谷村也其裔孫なりとて此地に阿部理(非)内と云う人の土着と云へり…」から始まる記述がありました。
 鶴岡市郷土資料館にこの記事の出典を問合せいたしましたところ、「鶴岡の国学者・照井長柄ナガラ(号撲平タマヒラ)が安政6年(1859)に著わした『五百津□〈金偏に且〉イオツスキ』で大正10年に山形県神職会西田川支部から出版されたものです。」とのことで「但し誤植が多く、当館に所蔵されているものは、そこが朱で訂正されています。」とのことでした。

*『五百津スキ』から「古四王社」の部分を引用します。私には読解が難しいので情報として取上げます。
 先ず「五十川村の山上に立し給へり此の本社は越後國新谷村也其裔孫なりとて此地に阿部理(非)内と云う人の土着と云へり又此地に阿部氏家多く見ゆるは由有る事なる可し…」の記述についてですが、『新編会津風土記 第五巻=巻之一百五 外篇越後国蒲原郡之六 下条組下十二箇村』のなかに「新谷村」がありますが、そこに古四王社に関係する記述はありません。
 「新谷村」の記事に「旧家」の項目があり「伊兵衛 此村ノ百姓ナリ、九代ノ祖ヲ安部理非内某ト云、理非内ハ葦名盛氏ノ臣平田五郎ニ仕ヘシモノナリ〈略〉」があります。
 「新谷村」の「旧家ー伊兵衛」の記述によると、安部理非内は、天正15年〈1587〉の上杉景勝による新発田重家討伐戦の際に小田切参河の籠る赤谷城に津川から兵糧をまわす任務に従軍し景勝勢と遭遇し戦功があったと云い、「其後蒲生氏ニ仕フ、忠郷時代彼カ出セシ訴状ノ写アリ」としてその訴状文が載せられています。また「指物ヲ持伝フ」として指物形状を載せています。
 文書写や指物を伝えている事から、安部理非内の子孫は新谷村に住していたのではないでしょうか。
 この「旧家ー伊兵衛」の記事には、五十川に移住のような記載はありません。
 しかし、安部理非内の子孫は一人だけとは限らないでしょうから、新谷村に残った子孫の他に五十川に移住した子孫がいた可能性は否定できません。そして、安部理非内家が古四王神を信仰していたならば五十川に古四王神を勧請したという可能性もあるのかも知れません。
 電話帳調べですが、現在の五十川に阿部家は多くはないようです。

 旧・東蒲原郡津川町に古四王神社が存在します。『新編会津風土記 第五巻=巻之一百一 外篇越後国蒲原郡之四 津川町』に記載があります。記事「新潟 2」をご覧ください。
 理非内が兵糧を運んだであろう津川から赤谷(城)に通じる道の中程の場所に新谷村があります。その道は、現在は新潟県道14号・新発田津川線で、江戸時代は新発田城下から津川を通る会津街道にあたる道であろうと思います。
 現在のこの道程で、津川市街と新谷地区まで約16キロメートルで、新谷から赤谷地区まで約10キロメートル程となります。
 江戸時代の赤谷は会津藩領に属し、新発田藩領と接しています。

 また、五十川に関して「五十川村古四王社傳に往昔古四王神此國巡りの御時五十川の潮込瀧まて御舟にて遡り其の落る澤に橋を架けさせ其橋より登り給ひて國中を見下して□濱を見立給ふ山を古志の峯と云う」とあります。〈□は鹽か?〉〈鶴岡市郷土資料館所蔵の「訂正」された五百津スキより引用しています〉
 古四王に関する情報を引用しますと「磐船郡平林村(是より前津川駅の橋傍にも立し給へり)の山上に古四王社保呂波社並ひ立し給へり」「三瀬村と由良村の中間に立し給へり但し此社に疾病の事を祈り奉るに必奇験有りとて多く尊敬ひ奉る〈由良・古四王神社〉」「鶴岡の大光寺と云うに立し給へり〈略〉又小児頭瘡口瘡に奇験ある事人の知る所にして三瀬村の傅へに同し〈鶴岡市・龍覚寺-古四王権現〉」「櫛引郷谷定村の山上に立し給へり俗に古四王薬師とまをし奉れは〈鶴岡市谷定-古四王薬師〉」「添川村に立し給へり俗に古四王稲荷とまをす」「飽海郡一條村八幡宮の社地に有り又杉林の中にも在りと云へり〈酒田市・一条八幡宮-合祀古四王神社〉」「野澤村の御嶽社の末社に有りし事其梵鐘の銘に遺れり〈遊佐町・御嶽神社-小四王明神〉」「由利郡冠石郷荒屋町に立し給へり」「秋田國新谷村に立し給へり」以下略。

 「磐船郡平林村」については、新潟県村上市平林〈旧・岩船郡神林村大字平林〉に普光山千眼寺の御堂として保呂波堂があります。
 これは色部氏15代色部長真が上杉氏家臣として秋田の大森城に在城したことから、保呂波山宇志別志神社から分霊し色部家菩提寺千眼寺の守護神社として創建したもののようです。
 色部氏は上杉氏の移封に伴い、米沢にも千眼寺と保呂波神社を創建しているそうです。
 色部氏と保呂波神社の関連で古四王神社についての情報はありません。
 村上市松沢〈旧・岩船郡神林村大字松沢〉に古四王神社があります。記事「新潟 3」をご覧ください。
 この社と千眼寺までの直線距離は約1300メートルで、平林城〈居館〉跡との直線距離は約1500メートルです。
 この社の情報が「古四王社保呂波社並ひ立し給へり」になったのでしょうか。

 初めて目にする情報ですが、「添川村に立し給へり俗に古四王稲荷」とはなんでしょうか。
 「添川村」は、西置賜郡にかつてあって現在は飯豊町添川地区か、東田川郡にかつてあった添川村が東栄村になり藤島町添川になって鶴岡市添川になったところのいずれかではないかと思います。
 飯豊町添川には稲荷神社はありませんが、藤島町添川には稲荷神社があります。
 『平成の祭』では、祭神:《主》稲倉魂命 鎮座地:東田川郡藤島町大字添川字米山219です。
 同データでは、添川地区には他に両所神社、皇大神社、山野神社3社の計6社あり、藤島町では59社記されています。
 『山形県神社誌』では、藤島町には54社が記されており、なぜか両所神社を除いた添川地区の5社の情報が見当たりません。
 また、現在のネット地図では添川米山に番地表示がなく、添川米山219で所在地を検索することが出来ません。
 この稲荷神社についての情報は今のところありません。

 秋田県に関してはここでは検討しません。

*上杉と新発田の件で追記。
 『平成の祭』によると、東田川郡藤島町大字大半田字宮田70〈現・鶴岡市大半田ダイハンダ宮田〉に鎮座する六所神社の由緒に「天正年中越後国新発田の城主いんば重家の家臣佐藤九郎左エ門なるもの庄司五郎左エ門を率い大半田に入り、横山城主〈三川町横山〉の臣松浦勘五郎と来会提携して越後国上杉景勝庄内領有時代横山城代金内伊賀別当の許可を得て当村を開発し神社を創建。村の鎮守とされた。」がありました。
 「いんば重家」というのは、新発田因幡守重家のイナバノカミからきているのでしょうか。


《桑原・調査資料による追記》 2019-08
*桑原正史氏より新発田歴史図書館に寄贈された古四王神社研究関連資料中の神社調査資料によって、ホームページ「古四王神社探訪記録」の記事に追記させていただきました。このことについては、記事「庄内2」の《追記》をご参照下さい。

◎古四王神社の遷座前の旧社地について
 桑原氏は、1975年8月24日〈昭50〉の調査で、近所の年配の婦人のお話として“昔は川をはさんで相向いの遭竜寺の脇にあった、鉄道工事の際現在地に移転。今は東向になっている。”を記録しています。
 この証言の採話によって、旧社地の場所についての私の想定も的外れではなかったことが分かりました。

 残念ながら旧社地と遭竜寺の位置関係までは分かりません。 

*地図は、カシミール3Dの解説本の地図。拡大表示。
 は古四王神社。は遭竜寺。


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