探訪記録 山形 25 : 庄内 25
佐藤リスト 位置番号 20 : 西田川郡温海町鼠ヶ関 古志王神
〈桑原リスト:西田川郡温海町念珠関・越王社
《探訪の準備》
*温海町鼠ヶ関ないしは念珠関の「コシオウ」が佐藤リスト・桑原リストに取上げられています。
これは川崎浩良『美人反別帳』の「荘内地方の越王神」の項目中に「先ず古志王神に就いて検討するに、西田川郡鼠ヶ関の古志王神をはじめ温海町五十川に二つの古四王神がある。現今五十川の落口鉄道線に近い海岸の突出部に建っているが、これは少距離東方にあったものを羽越線鉄道工事の際原位置に移転したもので、元は北向きの社であったのである。他を古四王河内神社と称しているが、これも古四王神であったのである。」とあることや『古志族の検討』で「西田川郡温海町念珠関 越王社」との記載があることによるものと思います。
佐藤リストは『美人反別帳』の記述文字を、桑原リストは『古志族の検討』の記述文字を採用しているようです。
月光リストには、『古志族の検討』から「西田川郡温海町念珠関 越王社」が載っています。
「西田川郡鼠ヶ関」と言うのであれば、「西田川郡鼠ヶ関村」は明治22年に町村制の施行により「念珠関村」の一部になり西田川郡念珠関村大字鼠ヶ関になるので、明治22年以前の地域を指すことになるのではないかと思います。
「西田川郡温海町念珠関 越王社」と言うのであれば、念珠関村を構成するかつての鼠ヶ関村・小名部村・早田村・小岩川村・大岩川村・槇野代村の区域が対象になると思います。
また、昭和29年には、念珠関村が温海町・福栄村・山戸村と合併して新制の温海町になり、鼠ヶ関地区は西田川郡温海町大字鼠ヶ関になります。
現在では鶴岡市鼠ヶ関です。
佐藤リストの住所表示を見れば、佐藤は(狭い範囲の)「鼠ヶ関」を考えていたのでしょう。
私の目を通した文献に限って言えば、川崎浩良以外の研究者が鼠ヶ関のコシオウについて触れているのを見たことがありません。
旧・念珠関村の範囲の神社について資料面での調べをしてみましたが、これはという情報は見当たりませんでした。
鶴岡市郷土資料館からも「明治末期の神社合祀の以前に〈鼠ヶ関に古四王社が〉あったという史料も見当たりません。」との連絡がありました。
折を見ては何度か鼠ヶ関地区を歩き回ってみましたが、得るところはありませんでした。
*川崎浩良の情報の出典はどこなのでしょうか。
五十川の古四王社については、古四王と記し具体的に述べてもいますが、「鼠ヶ関の古志王神」については説明がありません。
「越後古志郡の古志王神」と記したのと同じように、鼠ヶ関という謂れのある場所にはコシオウが在るはずということで記しているのでしょうか。
*『大泉叢誌 第1集 巻12-大泉事跡考』の「田川郡山浜通」のなかに「古四王権現(大岩川村)」の記事があります。
大岩川村に関して「大坂大明神 同組大岩川村にあり。新山大明神 祭神不知 同所にあり。鹿島大明神 同所にあり。」が記され、続いて「古四王権現 同村枝郷安田村に在。祭神の考、御城下の古四王社の下に記す。」となっています。
大坂神社・新山神社は今も在ります。鹿島社は大坂神社に合併になっています。
「同村枝郷安田村」の同村は温海組大岩川村のことになるでしょうが、大岩川村に枝郷安田村はあるのでしょうか。
槇野代村は大岩川村の枝郷として知れていますが、安田村の情報が見当たりません。
『大泉事跡考』では、由良村では白山大権現と十二権現の二社のみ取上げられています。五十川に関する記載はありません。
これらからすると、『大泉事跡考』の情報は限られたものではないかと思います。
小岩川に、安田ではありませんが、宮田がありますが関連は見いだせません。
旧五十川村安土を誤って取入れた可能性はないでしょうか。
川崎浩良がこの情報を出典としていれば、「西田川郡念珠関村」とするか「西田川郡温海町大岩川」としなければ正確ではないと思います。
今のところ、鼠ヶ関のコシオウは、存在していない可能性がある、「不明」です。