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探訪記録 山形   5 : 庄内  5 


佐藤リスト 位置番号 5 : 飽海郡遊佐町庄泉・大谷地 古四王神社   備考)経津主命、鏡
              〈桑原リスト : 遊佐町庄泉(旧稲川村服部)・古四王神社

《探訪の準備》
*『池田・方寸5』では、この社について「服部部落の鎮守である古四王神社は、飽海地方の古四王神社では最も大きな社殿をもっているもので、ご神体は鏡で祭神は経津主命(フツヌシノミコト)である。経津主命は、古来より建御雷神(タケミカヅチノカミ)を別名建布都神(タケフツ)とか豊布都神(トヨフツ)と呼んでいるので異名同神といわれている。〈略〉霊剣の神格化したもので、平定の大役を果したことを示している。」の記述があります。
*『遊佐郷村落誌(下)=第一章 稲川の巻・三庄泉・(四)小服部』を引用すると「古服部ではないか。古くから七戸村である。〈略〉古四王神社は本町では古四王社のうち最も大きな宮である。経津主命を祀る。古四王神社については色々な説がある。〈略〉本町には十社を数えるが、村の鎮守はこの宮だけである。もと村の北五百米位の田中堂の前にあったが、明治二十三年旧九月十五日今の宮ノ下十番に遷宮したという。境内に稲荷神社、皇太神社の小祠がある。〈略〉この村の創立は天正年中即ち四百年前のことである。〈略〉」とあります。

*『平成の祭』では、古四王神社  祭神:《主》経津主命 
               鎮座地:飽海郡遊佐町大字庄泉字宮ノ下10
               例祭ー5月1日 夜篭祭ー12月15日

 市町村の変遷を辿ると、明治9年に大井村・大服部村・小服部村が庄泉村になり、明治22年に岩川村・増穂村・庄泉村が稲田村になり、大正11年に稲田村・川行村が稲川村になり、昭和29年に遊佐町・蕨岡村・稲川村・高瀬村・西遊佐村・吹浦村が合併して遊佐町が発足、となるようです。
 『遊佐郷村落誌(下)第一章 稲川の巻』の「三、庄泉」は(一)大井、(二)後藤寺、(三)服部、(四)小服部、(五)大谷地、(六)西谷地で構成されています。
 その(三)の服部は「昔より大服部といい、砂越氏の所領であったという。〈略〉三上神社はこの村の鎮守、豊受姫神、倉稲魂命を祀る。〈略〉この村はもと二十六戸であったが今は三十一戸村である。〈略〉」とあり、服部はハットリと読むようです。
 (四)の小服部はコバトリと言うようです。

 小服部村にあった鎮守古四王神社は、現在の住所表示では遊佐町庄泉宮ノ下10となります。
 旧社地の田中堂の前というのは分かりません。

 佐藤リストの情報では「遊佐町庄泉・大谷地 古四王神社」ですが、佐藤リストの遊佐町の所在地情報は池田宗機の昭和49年の方寸5号掲載論文を参照していると思います。
 池田は「服部部落の鎮守である古四王神社」と記しましたが、「服部」と言っても服部ないし大服部との表示があるうえに小服部もあり、どこを指し示しているのか混乱しそうですし、市町村合併を経て住所表示も変わっていますので、そのままを所在地情報としては所在地の特定が出来ないので、佐藤は遊佐町に合併した後の新たな住所で表示しようとして「庄泉」としたのでしょうが小字地名までは特定できなかったのか大谷地となって誤ってしまったようです。
 桑原リストも池田論文を参照していると思いますが、桑原がリストで表示した「旧稲川村服部」は、「服部部落の鎮守」を稲川村服部としたのでしょう。
 『山形県地名録』では、稲川村は岩川・江地・庄泉・増穂・宮田で構成され、庄泉には(西)大谷地・後藤寺田・庄泉・大井・中道・(小)服部・開元・藤崎・藤ノ木・神子免・宮ノ下・矢馳田の地名が載せられています。
 稲川村は大正11年から昭和29年までで、以後は遊佐町です。
 池田は昭和49年発表論文で「服部部落の鎮守」と表記することに躊躇が無かったのでしょうか。

《探訪の記録》
*2017年6月10日
 遊佐の探訪二日目の最初に庄泉の字宮ノ下(小服部)の集落に古四王神社を訪ねました。
 県道208号から旧道かと思われる道に入ると古四王神社があり、集落がありました。
 旧道から神社を見ると、御大典紀念昭和三年と記された幟用の柱?が二本立ち、橋が置かれ(川・水はない)、両部鳥居があり、社殿があります。 鳥居と社殿に古四王神社の社額が揚げられています。
 向拝柱間に注連縄が張られています。いわゆる荷縄のような三筋の藁を綯った縄(三つ子縄)で、その中央部を50センチ程の長さで太くしてあり、そこを縦に二重に縄を掛け飾り結びをした注連縄です。注連縄は中央部の大きいところを下に下げる形のV字に張られています。
 境内に小祠があり、旱魃紀念碑、天保年号の南無阿弥陀仏の碑、雨具で覆われた地蔵様?、庚申碑があります。
 外に人が見当たりませんでしたので、家を訪ねてお聞きすることをしないまま、宮ノ下を離れました。

  左上: 道路から境内を望む               右上: 鳥居と社額
 左下: 社殿と注連縄                  右下: 社殿の社額


《探訪の整理》
 地名に大服部(服部)・小服部、があって、現在の鎮座地名は宮ノ下とあるので、分かりにくいように感じられます。
 これらについては探訪記録・庄内9ー西谷地の中であらためて記してみたいと思います。
 宮ノ下地名の「宮」はどの宮のことなのでしょうか。
 旧社地の田中堂の前の場所とその場所の住所が分かれば、はっきりすることもあるのではないかと思うのですが、情報がありません。

 さて、「本町には十社を数えるが、村の鎮守はこの宮だけである。」とありましたが、明治になってからここから勧請された西谷地の古四王神社〈庄内9ー西谷地 参照〉も村の鎮守とする表記がありましたので、江戸期の遊佐町域に存在した古四王神社の中ではこの社だけが村の鎮守とされていたということのようです。

 大服部の村の鎮守は三上神社で豊受姫神・倉稲魂命を祀るとあります。
 『平成の祭』によれば、遊佐町には法人社の数が85社あり、その中で三上神社は15社あり、皇大神社の15社と同数の首位で、次いで諏訪神社9社、八幡神社6社、稲荷神社6社となっています。これを合わせて51社になります。
 なお、15社の三上神社の内12社の祭神に倉稲魂命が祀られています。
 85社の神社名は32種で、1社のみの神社は古四王神社を含めて22社です。
 遊佐町において、古四王神社は多くの人の信仰を集めるような主要な神社ではないが、鎮守として祀る村が一つ存在し、その村の歴史は四百年さかのぼれるということなので、もしかしたらそのころから伝えられてきた神社かも知れません。その先は不明ですが。
 遊佐町の最も多い神社が法人社の数で15社ー実際はもっと多くあったでしょうがーですから、古四王社は法人社は1社で小祠が主であり、江戸後期から明治の勧請が2社あるとはいえ、現在10社が知られているのですから、かなりの数と言えるのではないでしょうか。
 古四王社としては、このように多く存在する地域は他に無いと言えると思います。

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