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探訪記録 山形   20  : 庄内 20


佐藤リスト 位置番号 17 :  鶴岡市谷定  古四王神社
                 備考)社焼失、祭神薬師如来座像を竜雲寺に保管
                  〈桑原リスト:なし
〈鶴岡市谷定は旧・東田川郡に属するので、「庄内 19」の次に置くことしました。
 佐藤リスト位置番号17を「庄内 20」として記事にし、佐藤リストの位置番号15と16をあとに回します。〉

《探訪の準備》
*谷定の古四王神について桑原リストには記載がありません。
 そのため、はじめて所在地情報に触れたのは桑原文献リストに記されていた川崎浩良の著作によってでした。
 川崎浩良『美人反別帳』(昭31・1956)の「荘内地方の越王神」の項目に〔「〈昭和29年5月、原田弥蔵氏から〉母狩山の東麓谷定村に古四王神社ある旨報告あった。」「社が焼け失せたので祭神を竜雲寺に保管」「佐藤東一・酒井忠治両氏調査の結果、本尊は高さ一尺四寸(42,42p)の一木造り薬師如来座像である旨報告された。」〕の記載がありました。
 『川崎浩良全集 1 増訂 出羽文化史料(全)』(昭38・1956)=「第一章・五 古志族の検討」に「東田川郡櫛引村山添谷定 古志王神」の記載があります。
 『出羽文化史料』は昭和22年の発行のようです。
 「古志族の検討」と『美人反別帳』とに神名の表記等に違いが見られます。

 東田川郡の櫛引村は、昭和29年に山添村と黒川村が合併して発足した村で、山添村と黒川村は明治22年の町村制施行でそれぞれ複数の村の合併により発足していますが、そのなかに谷定村が見当たりません。櫛引村に山添谷定の地名があったかどうか分かりません。
 明治22年に谷定村・金谷村・滝沢村・寿村(大部分)・青竜寺村・上山谷村・中橋村・民田村・高坂村が合併して黄金村が発足しています。
 黄金村には谷定地名の地区があります。
 黄金村は昭和30年に鶴岡市に編入となっています。

*『黄金村史〈コガネソンシ〉』(編者:地主範士、黄金村史編纂委員会、昭37・1962)の谷定部落の項目に〔「母狩山に因む伝説も多々あるが一説に」として「前九年の役で安倍貞任、宗任が奥州衣川戦に敗れて貞任は討死、宗任は義家に降った。時に宗任の母は遁れて来て母狩山麓に一庵を結んでいた。」「宗任は母を尋ねて艱難辛苦の末ここに至り母に巡り合い」「〈母は〉尼となって一族の冥福を祈ろうと〈宗任と共に都に上がることを〉断った。」「尼公は貞任等諸人の菩提を弔って十王十体を刻んで寺に安置したと伝え。今に保存している。」〕の記載があります。
 続いて〔「現在阿部を姓とする家十戸を越すが憚って安倍と書かない。正月に門松を樹てない、〈略〉」「阿部久兵衛家家譜によると家祖弥治郎貞頼は幼名旭童子といい、奥州厨川城主安倍頼時の子白鳥八郎の長子則任という。即ち貞任宗任の兄弟である。鳥海柵が滅る時則任の妻も自刃し、嬰児旭童子を乳母に託してこの地に保護すと。後三年役後山上に一祠を建てて大彦命及び貞任宗任を合祀して古四王社といい乳母を奉仕させたという。」「ここ谷定の古四王社も古四王薬師といわれている。後年武将の信仰深く庄内地方の三神の一としたとも伝える。この社大正四年ー先年火災の厄にあいそのままになっていたのでー同村龍雲寺境内に合祀した。」〕とあります。
 そして「谷定竜雲寺宝物 古四王薬師」と題された写真が載っています。
〈「幼名旭童子といい、奥州厨川城主安倍頼時の子白鳥八郎の長子則任という。」という記載があり、続いて「則任の妻も自刃し、嬰児旭童子を乳母に託し」の記載があるので、ちょっと意味が通らないように思います。白鳥八郎則任の子が幼名旭童子ということなのだと思いますが。〉

*「山上に一祠を建て…古四王社といい」の記述がありますので、焼失以前の古四王社のあった場所を探ってみました。
 山形県庁ホームページにある「山形県遺跡地図」を見てみますと、谷定地域を含む図名「下名川」に遺跡番号「203-191=古四王薬師社寺跡=平安時代、中世」がありました。
 遺跡番「203-191」の場所は、地図で調べると谷定集落の皇大神社(谷定字伊勢鉢232)を目印にするとその場所からほぼ真西に約1000メートルの辺りになると思います。目印から西に900メートルのあたりに標高173メートルのピークがありますので、そこから尾根筋を西南に行った場所と思います。
 173メートルのピークの東に150メートルくらいの所に遺跡番号「203ー189=谷定B遺跡=遺物包蔵地=縄文時代」があります。古くから人の活動の範囲にあった場所のようです。
 「古四王薬師社寺跡」へ接近するには、御嶽神社(谷定字宮ノ下29)前を流れている谷定川沿いの道を進んでから山に入るか、皇大神社の南の慶昌寺(谷定字伊勢堂4)付近から西へ行く道を辿って行けるところまで行って遺跡を目指すかになるのでしょうが、私は行けそうもありません。
 なお、母狩山の山頂は標高751メートルで、谷定の集落からは西南西方面にあり、直線距離で約3キロメートル強となります。

*平成27年10月〈2015〉、龍雲寺様に、概略「各地の古四王を訪ねていて、黄金村史で古四王薬師を龍雲寺に合祀の記事があり、お寺を訪ねさせていただきたく」という訪問と写真についてのお伺いの手紙を出させていただきましたところ、御住職様よりご丁寧なお手紙をいただきました。
 それによりますと「…前九年の役で破れた安倍則任は死ぬ前妻にむかって、わが子旭童子と共にのがれるように命じたが、妻は則任の後を追いました。残された旭童子は家来の家久と乳母とともに亡命しました。家久と乳母は源氏の兵や清原軍の捜索を恐れ必死になって旭童子を守護したといわれています。
 旭童子が成人に達し貞頼と改名しましたが、武士の身をすて、先祖の頼良、貞任、則任を合祀して古四王薬師如来として祀ったと言われています。…」「薬師如来を見るに何の問題もありませんが如来像等写真撮るのはご遠慮願います。」ということでございました。
 あらためて御礼のお手紙を出させていただき「〈写真の件について〉もとより仏様にカメラを向けるつもりはありません。」「ご迷惑をおかけいたさないように気を付けたいとおもっております。…」とお願いいたしました。

《探訪の記録》
*2015年11月7日
 鶴岡市谷定(旧・東田川郡黄金村谷定)に龍雲寺をお訪ねいたしました。
 曹洞宗 大沢山 龍雲寺の住所は、谷定字楯の前1番地になります。現在の住所表示では、鶴岡市谷定1 となるようです。
 楯の前という地名は、谷定館という城館があったことによるのでしょうか。
 龍雲寺様にお声掛けをさせていただきますと、御住職様御奥様が薬師堂にご案内くださり、薬師如来を拝観させていただきました。
 いろいろ貴重なお話しをうかがうことが出来ました。
 薬師如来が古四王とされているお姿を拝観させていただくのは初めてのことになり、感慨深いものがありました。
 薬師堂の堂内右側の壁面に平成3年の薬師堂の改築記念の額があり、それによると「施主 阿部久兵衛」とありました。
 『黄金村史』にも記載されていますが「阿部久兵衛家」は安倍則任の子孫と伝承されていますが、御住職様より「阿部久兵衛」という名は「屋号」であって、龍雲寺の御住職家のこととの説明をうかがいました。
 龍雲寺様をおいとまし、御嶽神社の前へ出て、谷定川を見て、川沿いの道を集落から離れるまで進みました。
 そこから、望めた山が母狩山でした。来た道を振り返ると龍雲寺の本堂の屋根が見えます。
 そうすると、龍雲寺におうかがいする時に門の向こうに本堂の左側に見えていた山が母狩山ということになると思います。

左上: 龍雲寺の門に続く道                右上: 御嶽神社脇の谷定川
左下: 谷定川沿いの道路から母狩山を望む            右下: 龍雲寺 本堂の屋根が見える

 〔 カシミール3D・解説本の地図に書入れ :マークは古四王薬師社跡



《探訪の整理》
*旧黄金村には金峯山・金峯神社(鶴岡市青龍寺字金峯1)があり修験道の地でもあるとのことです。
 母狩山から摩耶山(1019b、あつみ観光協会のサイトを参照)にいたる山域も逆峰修験の場となっていたそうです。
 金峯山・母狩山・摩耶山を金峯三山といったとのことです。
 母狩山〈ホカリヤマ〉の名は、安倍宗任が母を探した山に由来するとされているようです。
 安倍宗任に関する伝説、安倍則任に関する伝説、子孫伝承と安倍氏に関する伝説の濃い場所と思います。

*鶴岡市立図書館・郷土資料館で『黄金村史』をあらためて拝見し追加コピーしました。
 同書の「母狩山の伝説と阿部一族」の項目に「…当地に貞任の弟宗任がその母をたずねて来り、母狩山、鎧ケ峯、十王堂にまつわる伝説、並に古四王薬師、阿部一族に関する幾多の伝説を今に伝えている。…」とあります。
 また同書巻末の特別寄稿の二.として『金峯山麓の古仏巡礼の記』(山形県文化財調査委員 佐藤東一述)が載っていました。
 川崎浩良が『美人反別帳』で「佐藤東一・酒井忠治両氏調査の結果、云々」と記している方の寄稿になると思います。
 『金峯山麓の古仏巡礼の記』に〔「鶴岡市役所黄金支所の本間岩治氏から旧黄金地域の文化財めぐりの御誘いを頂いた」「致道博物館の酒井忠治氏と共に本間氏のご案内で〈略〉先ず谷定部落に直行して曹洞宗龍雲寺檀内の薬師堂に安置の薬師如来を拝したのであるが往年は寺の裏山に鎮守古四王神社の御神体であったとのことである。」「像高一尺四寸の一本造りの坐像ある(但膝部は別木で継ぐ)小さな仏像であるが特徴のある御像である。」「〈略〉頭部も肉髻も何等の刻入も見当たらないこと遠く白鳳時代の如来像に類して居る。次に衣が通肩であるが衣文がまた白鳳仏か清涼寺釈迦像に見られる流水分である。印像は勿論薬師如来のそれであるが黒漆をかけた頭部面相〈略〉。素晴らしい横顔である円相、鼻根図の全然ないところ或いは時代をいま少し上せてもとは思うのであったが眼の裂れと口唇の辺の強さは鎌倉期に入れるべきものであろうと私は鎌倉も初期の造顕かと住職野村氏と本間氏に申上げたのであった。」〈略〉〕とあります。また、「一説は龍雲寺の薬師如来像は旭童子の念持仏とも云われる。」の記載があります。

*『郷土鶴岡の文化財めぐり』(鶴岡市教育研修所社会科同好会 昭51・1976 復刻版 平6・1994)の「二、黄金地域」に「14 古四王薬師像」があり、写真も載っています。
 重複する事柄を省略して引用すると「昔『弥治郎沢』と称する山のなかに古四王神社があってその御神体であったとも伝えられる。〈略〉旭童子が三歳の時乳母に抱かれて当地に落ちのび(保延六年)この旭童子の持念として持ちこられたといわれている。『寛治年中未申の山上に一祠を建て、高祖大毘古命及び頼良、貞任、宗任を合祀し乳母を奉祀せしむは今の古四王薬師にしてこの辺りにある媼婆塚は乳母の墳墓なり』とある。」の記載があります。
 阿部久兵衛家の家祖は弥治郎貞頼とのことですので、「弥治郎沢」はそこから来ているのでしょうか。 
 括弧書きされている(保延六年〈1140〉)はどこから出てきたのでしょうか。 寛治年中は1087〜1094年のことでしょうから、保延ではなく康平六年〈1062〉ならば話は通ると思いますが。
 記事中の引用文がどこからの引用なのか不明ですが、そこに『高祖大毘古命及び頼良、貞任、宗任』とありますので、大毘古命〈=大彦命〉を安倍頼良に連なる安倍家の祖先としているわけで、奥州の安倍氏が大彦命を祖とすると記すことが行なわれています。
 大彦命を祀ることで古四王とするのであれば、古四王の祭神を大彦命とする認識が存在していなければならないでしょうが、それはいつまでさかなぼることができるのでしょうか。
 いろいろと判然としないことが多くあります。
 また、それぞれの伝説・伝承には事実と言われていることとは異なる伝えが見受けられます。

*古四王神社を論じたなかに、薬師と古四王を結び付けることもいくつか目にしています。
 喜田貞吉『越の国及び越人の研究(下)』に「古四王社は又往々にして、本地薬師佛として崇敬せられて居る。陸中矢澤の胡四王社の如き其の著しいもので、同國徳田村なる同社も、もと北向薬師と呼ばれて居た。〈略〉奥羽地方には殊に薬師仏の信仰が盛んであった。維新後神仏分離の結果として、それが其の名を其のまま薬師神社となって居るものが各地に多い。是等薬師神社といはれるものの中にも、もと古四王として祭ったという由来のものが少なからぬかも知れぬ。」の記述があります。
 「陸中矢澤の胡四王社」とは岩手県花巻市の胡四王神社のことで、創建伝説に「坂上田村麻呂東征の折、自ら兜の中心に納めてあった薬師如来を安置」とあり「稗貫氏時代には医王山胡四王寺(天台宗)として末寺十八カ寺を擁する」も、諸経緯を経て昭和29年胡四王神社に社名変更のようです。
 「同國徳田村なる同社」は、岩手県紫波郡矢巾町の徳丹城跡の徳田神社です。
 由緒から経緯を記すと「数百年の間胡四王社と称したが、元和初年(1615)薬師社を合祀して薬師神社と改称。明治2年(1869)天満宮を合祀し天満宮と称した。大正13年(1924)地名を冠し徳田神社に改める。」ということのようです。
 これらの2社については、岩手県の探訪記事を記す際により詳しく触れたいと思います。
 喜田が具体例に挙げているのは岩手の2社で、その1社は後の合祀のようですし、あとは可能性を示すのみです。

 坂上田村麻呂と古四王社と薬師信仰とに関連が見受けられるかどうか、注意が必要かも知れません。

 川崎浩良『美人反別帳』には「〈略〉古四王遺跡地西根村勧進代、長井村五十川笹崎に北向き観音、或いはムンヅリ観音という祠がある。〈略〉前記勧進代・五十川等の観音堂が北向きであるのは、古来北向きであった古四王堂を引継ぎ、其の当時信仰に盛況を見た観音に合流した結果と見られる。〈略〉」と記し、「袖崎村土生田に古志王の変遷した北向き薬師堂がある。古志王神を後世薬師如来とした事に就いては、他に東田川郡谷定にもある〈略〉」と記しています。
 薬師ばかりではなく観音も、北向きならば古志王ではないかと言わんばかりです。
 「西根村勧進代」は山形県長井市勧進代になります。旧西根村に属する長井市川原沢には巨四王神社があります。
 この社はまだ訪ねていませんので、長井市を訪ねたおりに勧進代・等の観音堂のことも調ベてみたいと思います。
 今のところは、観音堂のことは分かりません。
 「長井村五十川笹崎」については現長井市にも五十川〈イカガワ〉という地区があります。
 五十川観音があり、生僧(しょうず)観音ともいい置賜三十三観音の三十一番札所ということです。
 ネットで情報を探していると「置賜三十三観音札所巡り」サイトに“〈旧国道沿いの五十川観音の〉駐車場の脇に小さなお堂があって、そこに穴の開いた小さな自然石を吊してあった”という情報が記されていました。ストリートビューで見てみると、小祠と朱屋根のお堂がありました。
 このお堂がどういうものなのかは、分かりません。
 五十川にしろ勧進代にしろ、今のところは古四王との具体的な関係は出てきていません。
 北向き薬師堂の「袖崎村土生田」ですが、山形県村山市土生田〈トチウダ〉のようです。
 土生田にある「湯舟沢温泉旅館」は「薬師の湯」とも言われているそうですが、薬師を祀るとか薬師堂に関する情報は見当たりません。
 今のところ、どこに北向薬師堂があるのか分かりませんし、古四王の情報もありません。

 北向薬師や観音と言っても、具体例は谷定に確認できるだけです。

*薬師如来を本尊としつつ仏教系ではなく神社を名乗る薬師神社は神仏分離以降のことでしょうが各地にあります。
 薬師如来を祀って古四王とする社ないし堂は、どれほどあるのでしょうか。

 確かなことは、谷定集落の里山に大彦命と安倍氏を祀る古四王社が大正時代に焼失するまで存在し、古四王社がお祀りしていたのは薬師如来像であり、現在は龍雲寺の薬師堂に安置されているということです。
 貴重なことと思います。

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