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追加情報 山形・庄内 : 庄内 追加


庄内-追加情報
リストなし :(1)東田川郡藤島町大字添川  古四王稲荷
          :(2)東田川郡藤島町大字無音  古四天王社


*(1)東田川郡藤島町大字添川  古四王稲荷
 「探訪記録 庄内 23 温海町五十川 古四王神社」の記事中で、『五百津□〈金偏に且〉イオツスキ』から「古四王社」の情報部分を引用したなかに「添川村に立し給へり俗に古四王稲荷とまをす」がありました。

 「庄内 23」の記事に述べたとおり、「添川村」は西置賜郡にかつてあって現在は飯豊町添川地区か、東田川郡にかつてあった添川村が東栄村になり藤島町添川になって鶴岡市添川になったところのいずれかではないかと思います。

 飯豊町添川には法人社の稲荷神社はありませんが地名に稲荷堂があります。
 『添川村史』(添川村史編纂委員会 昭45・1970)=「第六章・6-文化財の概観」の「寺社・仏堂」の表中に「稲荷神社:〈所有者〉部落有:〈所在地〉添川昭和」がありました。
 飯豊町添川に地名としての昭和は無いようですが、地区名としては使われているようです。

 藤島町添川には法人社の稲荷神社があります。
 『平成の祭』では、祭神:《主》稲倉魂命 鎮座地:東田川郡藤島町大字添川字米山219です。
 この稲荷神社については、情報が無く場所も特定できていません。

 『五百津□〈金偏に且〉イオツスキ』にある古四王情報は庄内に関するものが多いように思いますので、「添川村」は、東田川郡藤島町大字添川(現・鶴岡市添川)ではないかと思います。

*『藤島町史 上巻』(藤島町役場 昭40・1965)=「第二章/第二節-集落の形成と盛衰ー第三項・東栄地区」に「添川」を見てみます。
 この資料からは、コシオウ関連の情報は得られませんでした。

 現地調査等で古四王の関係が出てくれば、探訪記録として項目を設けて記述したいと思います。
 現状では、追加の情報として記しておきます。


*(2)東田川郡藤島町大字無音  古四天王社
 『藤島町史 上巻』の同章・同節・同項に「無音」があり、「一、村名の起り」に「無音と書いて『よばらず』と読む。」とあり、「二、古四天王社と村の開発」に「無音村の開発の年代や最初の村の名前については不明であるが、近くに越後京田があり、和銅七年後の越後の国からの移住地とも見られるのでその頃の移民集落でもあろうか。殊に当村には古四天王社があることによって越後の国との深い連がりがあるようにも思える。古四天王社は越王社、又腰王社と同じで越国の国王であった安倍臣の祖大彦命を祀るとも又越民族の祖先を祭ったとの説などあってまだ定説がないようであるが、古来の社が凡て南面しているのに越王社のみは往古よりのものは皆北面しており北方より渡来して来たと見られている蝦夷と関係あるらしく考えられる。」とありました。

*桑原正史執筆項目の『新発田市史 上巻=第一篇第二章第三節-二、古四王神社』の中に、大山宏の研究を論じた際に記されている「延文元年(1356)の陸中国新渡戸文書には『出羽国秋田城古四天王寺』」という表記があります。
 無音の「古四天王社」とありますが、これにつながるものなのでしょうか。

 祭神などが不明ですし、所在地が特定できていません。
 コシと天王社との合わさった名前であれば、牛頭天王を祀るとかスサノウ命を祀るとかではないかと思います。
 ゴズ天王社がコシ天王社になったというようなことは、どうだろうかと思ったりもします。

*『山形県の地名』(日本歴史地名体系第六巻 平凡社 平2・1990)で「東田川郡藤島町ー無音」を見ると「鎮守は古四王神社〈振仮名・こしおう〉。ほかに観音堂(現皇大神社)・稲荷社があった。獅子踊が伝えられている。曹洞宗満福寺はもと三ケ沢村光星寺の末で、元禄十五年の創建という。」があります。

 現地調査等で古四王の関係が出てくれば、探訪記録として項目を設けて記述したいと思います。
 現状では、追加の情報として記しておきます。

*「探訪記録 村山 16」に、東根市観音寺の黒伏神社と古志天王社の記事があります。

《 追記 》
2020年12月12日 
 旧東田川郡藤島町を訪ねました。
 先ず、文献資料に目を通したいと思い鶴岡市立図書館藤島分館に向かいます。
 あらかじめ鶴岡市立図書館の蔵書検索で幾つかの資料をリストアップしたなかに『添川郷土史料(写し)』(鈴木盾三編著)がありました。この資料は藤島分館の蔵書で、他には山形県立図書館にあるようです。
 藤島分館を訪れるのは二回目になります。分館は東田川文化記念館の建物の旧郡会議事堂内にあり、趣のある図書館ですが、コピー機は置いていないようです。
 期待していた『添川郷土史料(写し)』と他に幾つかの資料を見たのですが、探している神社関連の情報は見出せませんでした。
 藤島町時代の住宅地図で無音の沼田地区と添川の永鷲寺〈ヨウジュジ〉や湯の澤温泉地蔵の湯や両所神社の辺りを見てみました。
 沼田集落に無音公民館があり、その近くに皇大神社があり、皇大神社の東側の集落の東端付近に神社ではないかと思える建物があることをネットの有料地図で見ていました。
 住宅地図で、集落の東端付近の建物に鳥居のマークがありましたので、ここにも神社があるようです。
 『平成の祭』では、無音には天照大神を祭神とする皇大神社(字沼田105)のみが記載されていて、他の神社の記載はありません。
 昭和18年版の『山形県神社誌』でも無音には皇大神社のみが記載されています。
 平成12年版の『山形県神社誌』に記載されている無音の皇大神社の由緒に「村創業以降一村の鎮守様として祀られている。」とあります。
 『平成の祭』では、藤島町に59社の神社がありますが、そのうちの24社が皇大神社です。祭神として、天照大神13社、天照皇大神7社、大日■〈雨/口口口/女〉命3社、天照皇大御神1社となっています。
 無音の周辺にある村落にも皇大神社があるようです。
 明治期の神社を取り巻く政策の影響はどうなのでしょうか。

 また、ネットの有料地図から添川のその辺りに両所神社の他に5カ所の神社の可能性のある建物を見ておいたので、住宅地図でその確認をしてみたところ、5カ所とも鳥居のマークがありましたが、神社名までは分かりませんでした。
 『平成の祭』では、添川には両所神社の他に稲荷神社(字米山219)、皇大神社(字米山214)、山野神社3社(字米山202,字新地8、字北山37)の5社の神社が記載されています。
 昭和18年版の『山形県神社誌』では、両所神社の他に7社(山野神社3社、稲荷神社2社、皇大神社、白山神社)が記載されています。
 平成12年版の『山形県神社誌』では、添川には両所神社の記載があるだけで、他の5社の記載がありません。
 法人社ではなくなったとか、何らかの理由があるのでしょうか。
 ネットの有料地図では、両所神社と字新地8の山野神社の2社は確認できました。
 字新地8の山野神社は永鷲寺・湯の澤温泉・両所神社の付近からは少し離れていますので、この付近の5カ所の神社からは外れます。
 『藤島町史 上巻』の「添川」の「八、雑録」中に「7 奇祭『八幡様の馬出し』」があり「部落東南の山麓にある八幡宮に伝わるもので〈略〉」とありますが、八幡宮のことは昭和18年版『山形県神社誌』にも出ていませんし、ネット有料地図では所在地と思える場所も分かりません。

 現地へ行って、地元の方にお聞きするしかないと、藤島分館をあとにしました。

《探訪記録 無音》
*県道339号から県道346号を南に進み、無音字沼田で皇大神社を目指します。
 満幅寺を右に見て通り過ぎて、左折して東側に向う道を入っていった先の右側に赤い鳥居がありました。(写真・左上)
 鳥居の前の道は狭いため停車せず、その先の十字路を南側に右折して公民館の脇に車を駐車しました。
 神社境内は、東西方向への道と南北方向への道の角地にあり(写真・右上)、鳥居は東西道路の側にあって、境内の北側にあります。
 鳥居からコンクリート舗装の幅1メートル程の参道があり(写真・左2段目)、南に数メートル先で右に直角に曲がり西に向いて、その先に皇大神社の額をあげた社殿が東向きに建っていました。
 皇大神社は、鳥居から見ると右側に、鳥居と横向きに建っています。
 社殿は茅を編んだ雪囲いで覆われていて、様子は分かりません。
 鳥居から南への参道の左側・東側に、鞘堂内の馬頭観音の石碑と小社殿が西に向いてあります。(写真・右2段目、左3段目)
 鳥居の面する道路側の境内の北西側に、小社殿と庚申碑が南に向いてあります。(写真・左4段目)
 小社殿は何を祀るのか分かりません。
 境内の南側は、ブランコのある空地と倉庫のような建物がありました。

 地図にあったもうひとつ鳥居マークに向いました。
 コンクリート製と思われる鳥居があり、社殿は茅の雪囲いで覆われ、社額も見えませんし様子が分かりません。
 境内に鳥居のある小社殿があります。(写真・右4段目)

 近くで物音がしていましたので、人がいればお話をお聞きできるかもしれないと、音の方に行ってみました。
 住宅敷地の作業場の方から音がしていますので、声をかけてお邪魔させていただきました。
 60代ないしはそれ以上かと思える男性に、コシテンノウシャという神社をご存知でしょうかとお聞きいたしましたが、分からないということでした。そこの神社はどういう神社でしょうかと伺いますと、観音様だったのが神社になったというようなことでした。
 皇大神社の方に戻っていきますと、屋敷から道路に出てきた高齢のご婦人がいらっしゃいましたので、コシテンノウシャのことをお聞きしました。
 ご存知ないとのことで、以前に町内会長をやられていた方なら知っているのではないかと、元町内会長のお宅まで連れて行ってくださいました。
 幸いご在宅で、お話をお聞きすることが出来ました。
 それによると、皇大神社の境内の馬頭観音の隣の小社殿がコシテンノウシャとのことでした。
 また、ご自身より以前の町内会長の時か、御神体が盗まれた?、というようなことでした。
 御神体がどんなものであったかはご存知ないとのことでした。
 ともかく、古四天王社と思える神社があり、場所が分かりました。
 なにぶん、マスクをして、あまり近くに寄らないようにと思うと、それ以上あれこれとお聞きすることは出来ませんでした。
 ご親切にご対応いただき感謝にたえません。

*皇大神社境内に戻りました。
 古四天王社と教えていただいた小社殿は、流造風の屋根で(写真・右2段目)、柱の下の横木の土台が礎石の上に据えられていて(写真・左3段目)、正面に踏石が置かれ、社殿の背面に御神体を納める所かと思われる張り出し部分がありました。(写真・右3段目)
 社殿の右側と後側に丸っぽい石がいくつも置かれています。この神社に関するものではないかと思います。(写真・右3段目)

 境内にあるもう一つの小社殿は、どうやら古峯神社のようですが、コンクリートの参道があり、コンクリートの基礎もあり、古四天王社よりも大きく、新しいもののようです。(写真・左4段目)

*『藤島町史 上巻』に「古四天王社」とあり、『山形県の地名』に「鎮守は古四王神社、ほかに観音堂(現皇大神社)・稲荷社があった。」とあります。
 『角川日本地名大辞典 6山形県』の「よばらず 無音〈藤島町〉」の記載に「鎮守は古四王神社、寺院は曹洞宗満福寺がある。」とあります。
 コシテンノウシャでお聞きして教えていただいたので、古四天王社と表記したいと思います。
 「鎮守」とありますが、現在は皇大神社の境内社のひとつです。
 「観音堂」は、沼田集落の東端側にある神社という地元の方のお話がありましたが、私の聞き違いかもしれません。
 その東端側にある神社の境内社が、もしかすると稲荷社かもしれません。

*皇大神社の境内とその神社の配置は少し不思議のように思います。
 鳥居が境内の北側にありますので、鳥居の正面に神社があれば、神社は北を向くことになります。
 皇大神社は東向きになっており、鳥居に正面を向けていません。
 境内の南側には、ブランコや空地があります。
 もしそこに、古四天王社がかつて建っていたとすれば、鳥居の正面であり北面する神社となります。
 現在の小社殿のそばに積まれた石は、もしかするとかつての古四天王社の礎石かもしれないという思いが浮かびます。
 そうであれば、かつての古四天王社の社殿はそれ相応の大きさがあったのではないかと思います。
 それらは想像であり、裏付けがありません。
 古四天王社が何を祀ったのかも分かっていません。
 古四天王社の存在することと鎮座地は確認できたと思います。

 写真: 皇大神社前の道路から境内の様子・7枚       写真右4段目: 集落東端付近の神社

《探訪記録 添川》 
 藤島分室で閲覧した『添川郷土史料(写し)』は、私にとっては読むのが難しく、「古四王」の文字を探して文面の行を追っていきました。
 そうするなかで、稲荷神社が永鷲寺に遷されたというような記述がありましたので〈コピーが取れないので記述内容を明確に出来ません〉、永鷲寺をお訪ねいたしました。
 車でお寺に近づこうと添川農村公園の方から永鷲寺のほうへ進み、車を置いてお寺の方に向うと、赤い鳥居と赤い小祠があり、近づきますと狐の陶器の置物がありますので稲荷社のようです。方角は調べませんでしたが、北の方を向いているようです。
 庫裏をお訪ねし、出てきていただいた30代くらいの男性に、古四王稲荷をご存知ないかお伺いいたしましたところ、分からないとのことでした。

 集落を行き来して人をさがして、雪囲いをしている60代くらいの男性にお話をお聞きしましたが、分からないということで、両所神社の神主さんに聞いてみたらいいと教えていただきましたので、神社へ向いました。
 神主さんのお宅をお訪ねして40代くらいの方にお話を伺うことが出来ました。
 このあたりに「古四王」は無いとのことでした。
 米山219の稲荷神社についてお伺いすると、法人登録はあるが個人の家が祀っており、その家は東京へ移られ、社殿が老朽化し取り壊して、今は鳥居と礎石くらいしかないというようなことでした。
 稲荷神社のあった場所は、両所神社の北側の東西方向の道を少し山のほうに行った所から南の方を見ると鳥居が見えるとのことでした。
 行ってみますと道路の右側は沢になり、沢ごしに藪の奥の方を見てみますと、確かに石の鳥居の上の部分が見えました。
 鳥居が見えた場所にはどのようにしたら近づくことができるのか分かりませんでした。
 かつての稲荷神社は、位置的には両所神社の社殿の東側になりそうです。
 ネットの有料地図では、そのあたりには建物の表示がありませんでしたので、藤島分室の住宅地図では確認をいたしておりません。
 戻ってからになりますが、現在の住宅地図で見てみましたが、何も記されていません。

 それ以上のことはしないで、添川をあとにしました。
 分からないままです。

 左上: 両所神社                    右上: 道路右の沢越に望む、に鳥居
 左下: に鳥居                    右下: ズームで鳥居を捉える


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