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探訪記録 山形   8 : 庄内  8 


佐藤リスト 位置番号 8 : 飽海郡遊佐町杉沢・中山 古四王神社
              備考)自然石、聞き耳地蔵
              〈桑原リスト:遊佐町中山・古四王神社

《探訪の準備》
*『池田・方寸5』には「杉沢から南約1キロのところに、縄文晩期の遺物として知られ、奈良国立博物館に保管されている土偶の出土地があるが、道路をはさんでその反対側に中山の古四王神社がある。ご神体の自然石が横たえられている。道路傍に置かれていたのが、石の形がよいので、稲川村の某が家に運んで庭石として眺めたが、そのころより家庭内に異変が続き、不思議に思って巫女にいって聞いたら古四王神であることが分かり、驚いて元の位置にかえして手厚く祠をたてご祈祷をしたという話が残っており、付近の人たちは、このご神体を「聞き耳地蔵」として崇敬している。」とあります。
 祠の写真が載せられ「ご神体は自然石で、ベークライトのお椀もさがっている。」の説明が付いています。
 写真を見ると祠は瓦葺きの平入り屋根で、平瓦は左右に八枚上下に四枚乗っています。社殿の前側には木の柵があり、布状の物等が掛けられているように見えます。
*『遊佐郷村落誌(上)=第一章 蕨岡の巻・四 中山 拓進』では「〈略〉中山の道路に北面して古四王神社がある。神体は自然石で『きかじさま』としての伝説を残している。門田の某が誤ってこの神体を運び庭石にしたところ、家族中耳が遠くなったので巫女にきいたところ、その石の祟りであるという。早速もとに返し、お祓いして社殿を建てた。耳はもとのようになったという。お椀に穴をあけて奉納すると耳の病に効くと伝えている。祭神は経津主命か大彦命である。さだかではない。ここは熊野神社の社地で、本町に古四王社は十社あるが北面しているのはこの社と鳥崎の社〈「探訪記録 庄内10」参照〉だけである。寛文二年(1662)この村に住んでいた徳右エ門が高瀬の中山新田に移り開発したという。中山の創りである。〈略〉」とあります。

《探訪の記録》
*2017年6月9日
 杉沢を訪ねたあとに向かいました。
 熊野神社前から県道373号線を南に行き、語りべの館の先で右に曲がり、道なりに進んでいくと「開畑」という集落名看板があり、道路右側の開畑公民館の所に「土偶出土の地 杉沢A遺跡」の案内板があります。
 そこから300メートル程行くと、道路左側に古四王神社が在りました。
 社殿は、ご神体の自然石を納め安置するための覆屋のような建物といった方がよいようです。
 『方寸5』の写真とは異なり、より大きく作り直されたようです。
 道路脇に幟の柱用の対のコンクリート柱があり、数段の階段があります。
 社殿は、流造風の金属葺きの屋根と向背柱状の柱があり、コンクリート基礎の上に三方が壁の建物で、床板はありません。
 建物の前側は木柵が設置され、柵にいくつもの穴のあいたお椀が紐で結ばれています。
 内部には、賽銭箱とご神体、布の袋状の鈴緒がいくつもさげられています。
 堂内に「古四王神社 遷座祭 昭和五十五年四月十三日(日)」の表示、『遊佐郷村落誌(上)・四 中山 拓進』に記された神社の謂れの表示、「古四王神社 階段寄付者」の額、御札納棚に古四王神社の御札があります。
 「古四王神社 階段寄付者」の額には、宮司さんと八名の寄付者が記載されていて、工事代金と昭和五十五年四月十三日の日付のあとに熊野神社氏子惣代と記されて三名のお名前が記されています。その三名は、寄付者でもあります。
 ご神体は、あえて言えば一抱えより大きそうながっしりずんぐりした武骨な石塊で、お地蔵様の前掛けのような布が掛けられていて、全貌は詳しくは分かりません。石の種類は私には分かりません。
 右側の幟柱用のコンクリート柱の横に立て看板が設置されています。
 看板には〔「古四王神社〈「こしおう」の振仮名〉(きかずさま)」と表題があり、「自然石をご神体とし、耳の神として厚い信仰をうけている。お参りするときは、耳の形に似ているお椀に穴をあけてお願いする。」の説明文があり、続いて「伝説」として「余りに立派な石を、ご神体と知らずに自宅の庭に運び庭石にしたところ、家人みんな耳が遠くなった。巫女に占いをたてたら、ご神体が元のところに帰りたいと出てきたので、驚いて元のところに戻したところ、耳は元通りになった。」「平成28年9月 蕨岡まちづくり協会」〕と記されています。

 左上: 開畑公民館前の案内版  左下: 柵と穴あき椀   右上: 古四王神社 全景  右下: 立看板


《探訪の整理》
 古四王神社の所在地の現在の住所は、遊佐町杉沢大樽川か杉沢中山口かと思うのですが、どちらか分かりません。杉沢大樽川と杉沢中山口の境が県道373号線であれば小字地名は大樽川になると思います。

 ご神体の自然石に関する伝説は、この記事に引用した三者間で微妙に違っています。
 「聞き耳地蔵」か「きかじさま」か「きかずさま」で、耳の遠いのに霊験がある神様とされているようです。
 遊佐町の古四王神社では、丸池の古四王神社は御神体が大自然石で「きかずさま」と言われており、北福升の古四王神社のご神体は30p位の楕円形の石で「聞かず〈じ〉大明神」として信仰されており、鳥崎の古四王神社〈「探訪記録 庄内10」参照〉も「きかずさま」と言われているとのことですがご神体が石かどうかは不明です。
 ここでは、これらの耳の神様を言う場合には「きかずさま」と表記することにします。
 遊佐町で知られている十社の古四王神社のうち少なくとも四社が「きかずさま」でその内三社のご神体は自然石ということになります。
 杉沢の熊野神社境内の古四王神社のご神体も自然石ですが、「きかずさま」に関する記載を見ていません。

 中山の「きかずさま」の伝説によれば、ご神体の自然石は道路脇にそのままあった石であって、なにか惹かれるものがある石であったのでしょうが、信仰の対象と明確に分かる形では祀られていなかったことがうかがえます。
 この石を動かしたところ耳が遠くなり、そこでこの石は唯の石ではないということになり、元の場所に戻して祀ったところ耳が治ったので、この石はおろそかにされるとそれをした者達の耳が遠くなるというのがまずあって、それが転じて耳の聞こえ回復を願う神様になったようです。
 「きかず」というのは、耳の聞こえないことを言う方言と思います。
 「きかずさま」が先にあって、古四王様と結び付けられていったのか。
 古四王様があって、何の神様なのかとなり、耳に霊験のある神様とされ、きかずさまになったのか。
 中山の伝説では、自然石がきかずさまであったことの判明があって、それが古四王神社ということになっていったと受け取れます。
 古四王という神の存在が、祭神の明確なかたちではなく認知されていたから、結びつくことが出来たのではないかと思います。
 中山の伝説の年代はいつ頃の事なのでしょうか。そんなに古いことではなさそうですが。
 石を動かした「稲川村の某」とありますが、稲川村は大正11年発足の村名で、村域は岩川村(岩川・岩川新田)・増穂村(仙北新田・南福升・北福升・鵜沼)・庄泉村(大井・大服部・小服部)・江地村(上江地・下江地・五分市)・宮田村(宮田・下宮田・向宮田・万部・上鍬島・下鍬島・大宮田)のようですので、結構広域に渡ります。
 「門田の某」の門田が地名だとすると『山形県地名録』では稲川村域内には見当たりませんでした。
 同書を探すと、西荒瀬村に門田〈モンデ〉がありました。西荒瀬村の門田は、現在の酒田市穗積門田でしょうから、場所はJR本楯駅の北西にあたり、中山の古四王神社からは直線距離で8キロメートル程も離れています。ここなのでしょうか。
 伝説にある村名が分かれば、村の創立年代も分かるかもしれないので、伝説の生まれた年代が絞れるかも知れないと思ったのですが。
 想像を逞しくすれば、この付近には縄文時代の集落跡遺跡がありますので、縄文時代からのその石に対する畏怖の記憶が伝わって、きかずさまに結び付けられ、古四王様に結び付けられていったのかもしれません。
 あるいは、遺跡の場所に神社が祀られることは他にも例がありますので、遺跡に対する侵してはならない場所というような意識があれば、そこにある石を特別なものとしたということはあるのかも・・・。

 さて、新潟の方言では耳の聞こえないことを「きんか」と言うようです。
 「探訪記録 新潟5ー岩船郡朝日村早稲田」の記事で少しだけ触れたことですが、新潟県にも「きんかさま」という神様があります。当該記事をご覧いただければ幸いです。
 『村上市史・通史編2』によれば、山形県に隣接する新潟県北部の村上市域には道の神のなかに文字などの刻まれていない自然石の石神があり、村々では「きんかさま」と呼んでいるそうです。
 また、『新潟県の道祖神をたずねて』(横山旭三郎)によれば、新潟県では道祖神をきんか様と呼ぶ地帯、さいの神の地帯、どうらく神の地帯などが区分され、新潟県の下越地方で、東蒲原郡、旧北蒲原郡、旧中蒲原郡、旧南蒲原郡と言われた地帯がきんかさま地帯にあたるとのことです。
 山形の「きかずさま」は道の神との関係はないのでしょうか。
 耳の神の信仰は、山形・新潟に限ったことではないようです。
 『改訂 遊佐の歴史』の「二、遊佐と越族」に「この古四王神社全体に共通していることは、お椀に穴をあけて下げていることであり、『きかず大明神』とか『聞き耳地蔵』と称していることである。そして耳の神様・仏様として多くの信仰を受けている。どうして古四王神が耳の神仏にかわったのであろうか。どうしてお椀を下げるようになったのであろうか。〈略〉」とあり、続いて中山の伝説を紹介して「これは道祖神とか村と村との境の神とか地蔵信仰が入り混って、この石を動かしてはならないということを示しているのであろう。」とあります。
 丸山茂も『腰王神社及び越王山の考察』で道陸神との関連に触れています。

 お椀に穴をあけてさげることや耳の神様の信仰が「古四王神社全体に共通している」かどうかは、遊佐町の古四王神社の全体を言うのでしょうが、断定できないのではないかと思いますが、耳の神様とされている傾向があることには注意を払わねばならないと思います。
 道の神・塞の神との関連についても注意が必要のようです。 


《桑原・調査資料による追記》 2019-08
*桑原正史氏より新発田歴史図書館に寄贈された古四王神社研究関連資料中の神社調査資料によって、ホームページ「古四王神社探訪記録」の記事に追記させていただきました。このことについては、記事「庄内2」の《追記》をご参照下さい。

◎1975−08−26
 調査ノートに2名の方からのお話しが記されています。
 通りがかりの婦人の話として「御神体の石をある人が持っていったら、その人の耳が聞こえなくなってしまった。そこで、それを返した。耳がなおったのでキカンジラ様という。」があります。
 通りがかりの人は、ご近所の方なのでしょうが、こういった謂れを聞き知っていることが分かります。

 キカンジラ様という言い方が出てきました。調査ノートに「キカジ様」から矢印が引かれ「orキカンジロ様」とありました。
 キカンジラ(キカンジロ)とはどんな意味なのでしょうか。

 昭和11年ころ小学生だったという教育委員会の方の談として「ヤブの中にある時、御神体の自然石を、庭石に丁度いいというので門田(モンデン)部落の人が家へ運んだらその家の人は一家耳が聞こえなくなったと言う噂が広まり〔昭和11年ころの話〕石を返した。その際、道路脇に移転した。おわんなどを供えるようになったのはその後で、移転以前はそなえなかった。」があり、「『方寸』には稲川とされているが門田の話だという。」のメモ書きがあります。
 『遊佐郷村落誌(上)』にもある「門田」が正しいようです。
 
 石が返され道路脇に移転されてから「おわんを供える」事が行なわれたのであれば、耳の病に関して「おわんなどを供える」信仰の形態が以前からあり、その事が知られているという背景があったからではないでしょうか。
 自然石がヤブの中にあった時にはおわんを供えることが行なわれていなかったのだとしたら、その時はキカジ様は忘れられていたかキカジ様とは思われていなかったのではないでしょうか。
 昭和11年頃に噂が広まったのは、自然石が返された頃なのでしょうか。自然石が返された時期はもっと昔のことで、噂だけが昭和11年頃に広がったのでしょうか。
 もし昭和11年頃にキカジ様として祀られたのであれば、ずいぶんと歴史の浅い出来事の例となります。
 調査ノートに社殿のスケッチがあり、祭りーナシのメモ書きがあります。

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