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探訪記録 山形  22 : 庄内 22


佐藤リスト 位置番号 16 :  鶴岡市由良・古四王田 古四王神社
              備考)北向き社殿、大彦命など、撫で神さま、9月1日
              〈桑原リスト:西田川郡豊浦村由良・古四王神社、古四王田

《探訪の準備》
*由良地域は、現在は鶴岡市由良ですが、これは昭和30年に西田川郡豊浦村が鶴岡市に編入したことによります。
 その豊浦村は明治22年の町村制施行で三瀬村・小波渡村・堅苔沢村・由良村が合併して発足しています。

*『豊浦の歴史=第九章豊浦の民俗・第二節祭り』(豊浦の歴史刊行会 平15・2003)の記載は「一、気比神社の祭礼と行事」から始まり「二、白山シラヤマ神社(水無)」「三、水無神社」「四、八乎止女ヤオトメ神社」「五、疱瘡神社」「六、白山ハクサン神社の祭礼と行事」「七、古四王コシオウ神社」「八、合祀宮ゴウシノミヤ」「九、白岩と疱瘡送り」「十、熊野神社の祭り」と続いています。
 「七、古四王コシオウ神社」の記述に「由良字古四王田に鎮座し、社の山麓には清冽な湧き水がでている。『鶴岡・西田川郡神社誌』によると、祭神は武甕槌命・大彦命で、熊野、山王両神を合祀している。また由緒は同書によると、当社地は今より一千五百余年前頃の坂上田村麿将軍一行御陣屋をつくり、永く御滞在された。田村麿将軍は常に古四王の祭神を尊崇なされ堂宇を建立、大神を祀り産業開発をみちびき、あわせて庶民の難病をお救い下された。のち元亀年間(1570ー73)に当村ク氏和田善右衛門自ら社殿を管理され地区の守護神として祭祀し、今日に至ったものであると伝えている。ところが、明治28年五月、社殿を全焼して貴重な文献、什物などを失ったといわれている。」とあります。
 「同・第四節伝説」に「古四王さまと石のまじない」の項目があり「別記の『八乙女と洞窟』の記事に、赤ん坊の顔や幼児の体にイボが出て困ったときは、ここ八乙女浦の石浜から黒・茶・白などの艶のある玉石をひろって、その石で七回なでると、跡かたもなくとれると記しておいた。ところがこの石の信仰は大人たちの間にも広まり、体の悪いところをなでると必ず直ると信じられている。そして石は村(由良)の古四王神社に奉納することになっている。今はむらの人たちは、神前の箱から石を借りて、前出のようにからだの悪いところをなでまわす。そしてなおったお礼にと、借りた石に海岸からひろった石を添えて二つにして奉納している。この信仰は今も年輩の人たちによって継承されている。」とあります。

*庄内町立図書館でコピーさせていただいた『由良部落氏子鎮座古四王神社の由来、古四王社と旧大庄屋和田家との間柄略記』を読ませていただきました。
 坂上田村麿将軍にちなむ神社創建の由来及び由良の民との交流が記されています。
 また、「坂上田村麿将軍由良の浦を去るに当り庶民の幸福と難病平癒を御救いのため祭神大彦命の尊い御神託を御つげ伝えられた御霊験あらたかであります。」に続いて「難病者御救いには八乙女の浜にある小石を海水で清浄されたものを御神前に奉納いたし小石を古四王大神より御授けになり御守護石として信仰する難病者は平癒になります。御礼御返石は倍にして大神の御神前え還納する御神託であります。」とあります。
 和田家に関しては「…元亀年間の頃、豊臣太閤没落に伴い、豊臣方の勇将和田義盛の末孫和田善右衛門日向が最上義昭公に従い由良の浦の僻地に転住さるや山田森一帯(古四王山)と古四王田を開拓されたのである。其の中に建立ある古四王社殿及び聖地を保存さるに当り御遺徳尊き古四王大神並びに田村麿将軍の御神託に崇敬信仰なさるると共に御社を管掌されて来た理因であります。寛永年間より和田家代々当地神社、仏閣に最高の崇敬を以て造営に多額御寄進と御尽力なされて来たのである。〈略〉」とあります。

*由良の古四王神社は『平成の祭』で確認できました。
 祭神:《主》武甕槌神・大彦命 
 鎮座地: 鶴岡市由良字古四王田11 
*ネット地図(いつもNAVI PC)にて由良の古四王神社が確認できました。
 国道7号線を由良漁港を左にして進むと右側に山の端まで続く細い道があり、その道の奥から少し離れて参道があり古四王神社が在るようです。7号線から山端まで200メートル程の道のようです。
 その道の奥に小さな四角形の「水」の場所の記載が地図にあります。『豊浦の歴史』に「社の山麓には清冽な湧き水がでている」とあり、気になります。

《探訪の記録》
*2014年11月2日
 あいにくの小雨模様のなか、神社へ向かう道を探しました。
 道は7号線から少し坂道を斜めにのぼるようになっていて、道の奥の方の見通しが無く、見つけやすくはありませんでした。
 国道7号線から山側への道に入ると、入って20〜30メートル程の所に鳥居が立っていましたので、この道で間違いないようですが、道は左右に田圃があるいわゆる農道で軽トラックでもすれ違いは難しそうな未舗装の狭い道でした。
 神社近くまで車で行くと、車を返す所があるかどうか分かりませんので、歩いて行くことにしました。
 7号線に戻って車を止めておける場所を探し、長靴に履き替えて傘を持って行きました。

 農道の鳥居には古四王神社の額があげられていました。
 道は少しずつのぼっていて、道の終点に桜の木(?)があり、左方面に回っていくと赤い鳥居があります。
 右側にはコンクリートの柱で四角く廻された玉垣状に囲われた水場があり、その奥にブロックの囲いの中に何体かの石仏と墓碑があります。 石仏は1体はお地蔵様で他はお不動様のようです。
 この水場が「山麓には清冽な湧き水」かどうか分かりません。

 赤い鳥居に古四王神社の社額があり、鳥居の先に一対の石灯籠があり、その先に赤い鳥居が数基並んでいて、そこから石段が社殿に向かっています。
 石段をあがると社殿前の左側に赤い小石祠があり、陶器の狐が置かれていますので、数基の赤鳥居はお稲荷様の鳥居だったようです。
 その他にも小石祠があります。
 社殿には、熊野神社・古四王神社・日枝神社の三社が書かれた社額があげられています。
 社殿の中を覗かせていただくと、拝殿に蝋燭台と賽銭箱?が置かれてあり、その横に『豊浦の歴史』にある「神前の箱から石を借りて」の「箱」ではないかと思える上部の開口部が広がった箱がありました。
 この社の向きを「北向」としている記載をいくつか見かけましたが、現在の社殿の正面が向いている方向は、私が社殿前の木の段の上に方位磁石を置いてみたところ、社殿は北ではなく東よりの方向に向いているようです。
 社殿周りは斜面であったり笹竹の類が茂ったりして、それほど空間がなく社殿の背後に回り込むことをしませんでした。
 天候のせいもありますが、光が入りにくいのか暗く感じました。

 古四王神社を後にして白山神社に参ろうと海岸へ向いました。
 白山神社の鎮座する白山島に掛る海上の橋の近くの駐車場に車を止めると、八乙女の像が目に入り、護岸に蜂子皇子上陸の地と書かれていました。
 海上の橋から陸地の方を見ると、古四王神社に向かう農道や鳥居も見えました。

左上: 農道と鳥居                      右上: 農道終点。 左に木立に囲まれた鳥居
左下: 水場と石仏                      右下: 参道
左上: 社殿の扉の上の社額                 右上: 参道鳥居付近から望む白鳥島
左下: 八乙女の像と背後の蜂子皇子上陸地の書入れ      右下: 白鳥島


《探訪の整理》
*法人社であり、熊野神社・日枝神社を合祀している古四王神社ということもあり、本殿・拝殿型の社殿を有する神社でした。
 現在の住所は、鶴岡市由良11。
*征夷の武人の宿営と住民への恩恵と神社創建の伝説は、由良だけではなく他にもみられます。
 伝説に反映されるような何らかの事柄があったのでしょうか。その事柄が坂上田村麻呂伝説に結び付けて、特別な里の謂れとして伝えられてきたのでしょうか。
 他の例について記事にする際に、この伝説についてあらためて触れたいと思います。

*古四王神社の御守護石の信仰と八乙女浜の石といぼに関する話はどのような関係にあるのでしょうか。
 古四王神がいぼに霊験があるということが知られていて、その霊験がイボだけではなく拡張されていった可能性はないでしょうか。
*古四王神社へ向かう農道の左右に緩い段々の田圃が開かれていました。田圃の周囲は山林です。
 由良は地図で見ると三方を山に囲まれていて、田圃はこの場所以外に山と山の間の細長い土地に開かれているのが見て取れます。
 古四王田という地名はこれによるのでしょうか。

*蛇足になりますが、『方寸 第5号』=「アイヌの研究(上)」と『方寸 第6号』=「庄内地方と先住民族について」(共に佐藤権吉)に写真で「古四王神社の平重盛の墓」が載っています。文章との脈絡が無く載せられていますので明確ではありませんが、これは由良の古四王神社への農道の突き当りにあった石仏と墓碑の中の一つのようです。どういうことなのでしょうか。
 また「庄内地方と先住民族について」のなかに「〈昭和47年〉飽海郡寺内部落の八幡神社にある、石仏調査の折、境内に古四王碑を発見、云々」という記載があります。不明な情報なので載せておきます。

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