ページ先頭へ 前へ 次へ ページ末尾へ

探訪記録 山形  12 : 庄内 12


佐藤リスト 位置番号 10 :  飽海郡八幡町市条 古四王神社
                      備考)一条八幡神社に合祀、八森山北西中腹に北向き祠跡、古文書あり、4月8日
                   〈桑原リスト:飽海郡八幡町市条・古四王神社

《探訪の準備》
*『池田・方寸5』に、〈古四王神社は〉「元慶元年(877)山城国岩清水より勧請されたといわれる一条の八幡神社に合祀されている。もとは八盛山の現在の市条簡易水道の水源地になっているところにあったもので、永享二年(1430)の一条八幡宮祭礼日記にも『古四王免千二百苅、畠五百地、弥藤五郎造り御マツリハ四月八日也』と書かれている通り、由緒あるものであったが、小社合祀の指導により明治四十三年四月八日に八幡神社に合祀された。」とあります。
 ここに記されている「永享二年の一条八幡宮祭礼日記」の『古四王免千二百苅…』についてですが、佐藤偵宏『コシオウ信仰研究序説』に「…八幡町市条には永享2年(1430)とそれを写した長享3年(1489)の一条八幡祭礼日記がある。その中に『小四王めん千二百かり』『小四王のまつり四月四日』と記録されている(山形県 1977、井川 1981)」という記述があります。〈山形県 1977は山形県史資料編・古代中世史料1ー一条八幡神社文書、井川 1981は井川一良「八幡町史上巻」〉
 佐藤の「小四王」と池田の「古四王」の表記の違いはなんでしょうか。

*『八幡町史 資料編5』所収の「六所神社と古四王神社について(山口重三)」の「三、古四王神社について」に「八幡町内には二社の古四王神社が祀られてあります。その一社は市條の八幡神社に合祀されている古四王神社で、もう一社は観音寺の飛沢神社の境内に摂社としてきわめて小さい祠ではあるが祀られてある同名の神社と、合わせて二社が祀られてあります。市條の古四王神社は合祀前、八幡神社の裏山に当たる鳥海水道の貯水池附近の北側の山麓の所に北向きの社として祀られていたもので、今でも古四王様の社地と言って其の聖地が明確に残されています。」とあります。
 
*『東北文化研究 第二巻第二号』(昭4・1929)所収の「一條村の古四王神社に就て」(増村卯助)から引用すると〔「一條村の古四王神社は大字市條縣社八幡神社の末社で社格は無格社であるが、同社の境内にあるのではなく、約二丁程東南に離れた、字八森の御林から北方に向つて傾斜せる、俗称古四王平の中腹にあったのを、明治四十三年四月八日八幡神社に合祀されたので、跡地は大正七年二月四日国有林に編入され、社殿は已に腐朽倒壊して…、礎石は其儘に残って居ります。」「明治九年四月三十日地租改正の際一條村から書上げた書面には、字古四王平七反五畝六歩(内一個所林、一個所萱場)は、享保九年〈1724〉辰四月舊藩から、八幡神社へ修覆山として御預けになった民有地であるとありますが、…、明治十二年七月二十二日書上げた社寺明細帳には、境内坪数二十八坪と出て居ります。」「然らばいつからこの地を境内としたのかといへば、元禄十一年〈1698〉以前の一條村古絵図及八幡社古図(…)に、其の位置を示していないばかりでなく、其後の地図及旧記等にも何等の所見はありませんが、一條村から同社に詣でるには、八幡神社の裏から灌漑水路添の隘路を通って、辛うじて通ずる位であるから、決して地の理を得た所とはいへません。而しそれは現在のやうに、荒瀬川沿岸の狭地に数條の水路を有する地形から見ての話であって荒瀬川流域南漸する迄は相当の広さがあり、青澤街道が同社の前面を通って居た頃には、交通上の要路に沿う枢要の地点に相違なかった(十三)。故に往古は古四王神社の特徴として選まれた北面の境内に、社殿も北向きに建って居たものと思はれるに拘はらず、最近倒壊した社殿が、傾斜面とは直角を為す西向に建てられ、詣路も斜につけられて居る事は、荒瀬川の南漸に伴ふ水路の南漸、及増設に妨げられた結果であらうと思うのであります(十四)。…」「最近腐朽倒壊した社殿が、宝暦九年〈1759〉卯四月八日の建替えである事は棟札で知られ、又其外にも一回建替られた事があるのも、又棟札によって知られますが、創建の年代は矢張り分かりません。唯永享二年〈1430〉には已に八幡神社の末社であったらう事を想像する事が出来ますから(十九)、相当古い神社である事は勿論、永享年代に田地一千二百苅畠五百地の社領があった所を見ると(二十)、古来相当の崇敬を受けた事も窺はれます。而して八幡神社が元慶元年〈877〉の勧請である事は、永享二年の祭礼日記に明記してあり、…、殊に古来其神社が八幡神社と共に小野某を以て神主とする処などから推して、或は元慶年代に小野春泉、小野春風等が征夷の神として、茲に古四王神社を勧請したのではなかったらうかとの疑問を、私は抱いて居るのであります。」「古四王神社の祭神は、一般に高志の王として大彦命を祭ったといはれて居りますが、一條村の古四王神社は、甕速日神、□速日神〈□は漢の部首が火偏〉、武甕槌神、経津主神の四神を祭って居るのであります。是は古い記録等にある訳ではなく、明治十二年七月二十二日に小野祠官から縣に届けた書類にあるのみであるが、少なくも斯かる伝唱があったものと見る事が出来ませう。」「筆者が最近古四王神社の旧社地を見分した時、社殿の跡から拳大の有孔石を発見したので、或は民間信仰に関係がある遺物ではないかと思ひ、前記土屋信安氏〈一條村史談の著者〉を訊した処、此地方では耳の病気に罹った者が、同神社に祈願し、全治の後礼まいりに此の有孔石、又はお椀に孔を穿ち、紐を通したのを納める風習があるとの事でありました。是は元より他の俗信が混入したものでせうが、参考のため附記して置きます。」があります。
 脚注は「(十三)市條村古絵図及延享五年〈1748〉辰五月絵図」「(十四)明和五年〈1768〉子八月乍恐以書付奉願候、宝暦三年〈1753〉酉六月地形争論濟口證文〈□はママ」「(十九・二十)一條八幡宮祭礼日記」〕です。
 この報告は、喜田貞吉が『東北文化研究』の第一巻第四号・五号・六号(昭3・12〜昭4・3)で「越の国及び越人の研究」の発表をしたことをうけてのものになります。
 鎮座地・旧社殿についての調査に基づく論及と推論があり、所在地等に関する実際の情報部分をなるべく簡潔に引用したいと思ったのですが、そうもいきませんでした。
 
 永享二年の一条八幡神社文書に、「コシオウ」のことが記載されているので、その頃に八幡神社の関与する社であったのでしょうが、明治9年の一条村の提出書類に「享保九年」の「古四王平」の情報が記されていますが、それ以外の明治以前の文献的な資料は、「地図及旧記等にも何等の所見はありません」「〈祭神について〉是は古い記録等にある訳ではなく、明治十二年小野祠官から縣に届けた書類にあるのみ」とあり、見当たらないようです。
 「永享年代に田地一千二百苅畠五百地の社領」というのが、どの程度のものなのか、一条八幡神社が「長享三年頃には神領十万八千刈」とのことですのでその百分の一ですが、「苅」「地」の単位〈?〉がどの程度なのか分かりません。

 傾斜面に神社が置かれる場合は、神社を高台に位置させる意図があるのではないかと思います。下から見上げる方向に社殿の正面を向けるのではないかと思います。
 「宝暦九年」「建替え」の「最近倒壊した社殿」が「傾斜面とは直角を為す西向に建てられ、詣路も斜につけられて居る」のですから、社殿を一条村に向ける方向に建替えたのではないかと思います。
 そこに神社があったからその場所に建てることにしたことによって、「傾斜面とは直角を為す」ことになったのではないでしょうか。
 その場所に建替える神社は、建立し祀る一条村に向けた神社であることが当然とされたのではないでしょうか。
 神社は耳の病に御利益のある神社となり、社殿を北に向ける意味は失われたのではないでしょうか。
 「詣路も斜につけられて居る」というのは、たんに神社の真下の位置から斜面を直登する参道がなく、八幡宮の裏手の水路の脇からの道を神社ヘ登って来ることを言うのでしょうか。

 旧社地を見てみたいと思います。また、「古四王平」と言われていたそうですので、どのくらいの傾斜面なのかも気になります。
 ただ、旧社地にかんする情報から、八森自然公園の野球場と一条八幡宮の間にあるのではないかとは思いますが、それ以上の絞り込みは出来ませんでした。
 古四王神社の鎮座地が、「青澤街道」「荒瀬川」の庄内平野への出口にあたる場所にあること。
 そして「青澤街道」「荒瀬川」をはさんで直線距離で1q程の所に南北に二社鎮座していることは、何か意味があるのでしょうか。
 城輪柵のあることなど、気になる場所です。

 古四王神社の祭神の四柱については、宝暦十二年完成の進藤重記『出羽国風土略記』の「古四王社」(秋田郡)に「祭神四座〈略〉蝦夷降伏の為に城外に祭けるにや」とあることですし、古四王神社と四祭神のことは知られていたことと思います。
 また、こちらの古四王神社にも耳の神様としての信仰があったようで、「拳大の有孔石」が耳の病気全治の礼参りに納められたものとの見解が記されていますが、その有孔石は自然石ないしは遺物でしょうか。もし、硬い石に穴を開けてお礼としたのであれば、穴を開けるのは耳が聞こえるようになることを表わすのでしょうし、石に穴を開けるに値することなのでしょうが、大変なのでお椀に穴を開けるてその代替えとしたのでしょうが、何故お椀なのでしょう。形によるのでしょうか、食事をする大事な物ということでしょうか。

*「山形県神社誌」で八幡神社を見てみますと「鎮座地:飽海郡八幡町市条字水上壱番ノ内一、主祭神:足仲津彦尊 誉田別尊〈誉は旧字〉 息長足姫尊 配祀神:甕速日神 □速日神〈□は漢の部首が火偏〉経津主神  武甕槌神 建御名方尊 菅原大神 境内社:風宮 加茂神社 由緒:平安時代前期、元慶元年〈877〉出羽国司従五位下藤原朝臣興世が陸奥国の蝦夷民俗を討伐した時、山城国に御鎮座なる石清水八幡宮の御神霊を御荘河北荒瀬郡大泉郷に勧請されたのが創始とされる。同二年の元慶の乱が出羽国(秋田城)で勃発に際し、この内乱を収拾する為に鎮守府将軍小野朝臣春風、秋田へ下向に際し戦勝祈願され、翌年反乱を鎮定せられた。以来、多くの国司、郡司武将からの崇敬厚く、室町時代の長享三年〈1489〉頃には神領十万八千刈に及んでいた事が祭礼日記より伺う事が出来る。又、現在の場所に遷座されたのは、元禄十二年〈1699〉の時であり、本殿が慶長十七年〈1612〉六月四日、最上義光公の社領寄進に伴い改築、元和六年〈1620〉十二月竣工のものである。拝殿は宝永二年〈1705〉八月十一日に酒井忠真公より造営されたものである。」とあります。

 『蝦夷と東北戦争』〈「戦争の日本史3」鈴木拓也 吉川弘文館 平20・2008〉=「Wー2文室綿麻呂の征夷」の項目「征夷と神々」に「〈略〉征夷においてはしばしば神に戦勝を祈願することが行なわれた。桓武天皇は延暦八年・十三年の征夷で伊勢神宮や諸国の名神に戦勝を祈願しており、現地に赴任した将軍らも陸奥国などの諸神に祈願している。」「延暦元年五月には、征夷に霊験があったとして、陸奥国鹿島神(所在郡不明)に勲五等と封二戸が与えられている(…)。また延暦二十一年正月には、征夷将軍坂上田村麻呂の申請によって、征夷に霊験のあった陸奥国の三神(名称不明)に位階が加えられている。天皇や将軍による戦勝祈願とは別に、征夷に徴発された軍士が地元の神を奉じて戦場に赴くこともあった。」とあり、項目「征夷と鹿島苗裔神」に「征夷に関わった人々によって奉じられたと考えられるのが、常陸国の鹿島神宮が祭る武甕槌神である。陸奥国には鹿島苗裔神が三八社も存在していた。〈略〉」との記述がありました。
 山形県、東北地方に、八幡神社が勧請されはじめるのはいつ頃からなのでしょう。
 岩手の鎮守府八幡宮は、延暦二十年〈810〉坂上田村麻呂が宇佐八幡神の神霊を勧請し東北開拓経営の守護神とした社とのことですが。
 古四王神社を「征夷の神」「北方開拓の神」とする説がありますが、八幡神社の由緒を見るとかたなしです。
 古四王神社をそのような神威の神のひとつとすることを妨げることではありませんが。 

 さて、市町村の変遷を見てみます。 
 明治22年、飽海郡市条村、法連寺村、政所村、大島田村、岡島田村、前川村、南平沢村、北平沢村、寺田村が合併し一条村が発足。
 昭和29年、飽海郡一条村、観音寺村、大沢村、日向村が合併し八幡町になる。
 八幡町は、平成17年に酒田市及び飽海郡松山町、平田町と合併して、新設の酒田市になる。
 それで、市条と一条が使われていることが分かりました。
 八幡神社の社殿の現住所は、酒田市市条水上1−1。
 酒田市条水上14−1−1の住所が酒田市公式ウエブサイト・歴史文化施設にありますが、社務所でしょうか。

 八幡町の二社の古四王神社を訪ねたいと前々から思っているのですが、目を通したい文献が多いのでその時間を確保したいし、旧社地を探したいので時期も考えなければならないし、周辺も歩きたいので、簡単に行けない感じになっています。
 以前に酒田市立図書館を訪ねた時に長い休館の最中だったので鶴岡市立図書館へ行き、そこで見た『八森遺跡 先史図録編』(八幡町埋蔵文化財調査報告書 第13集 平15・2003)の地図に「古四王神社跡」の記載があることを見つけましたので、旧社地の場所がかなり絞り込めたので、行くだけなのですが。


《探訪の記録》
*2018年6月24日
 梅雨の時期ですし、草も茂って山道を覆っているでしょうが、日程が取れたので出かけました。
 飛澤神社訪問のあとに訪ねました。
 八幡神社境内の駐車場に車を停めさせてもらってから境内を出て、道路沿いの八幡宮の社額があげられた鳥居の所からあらためて境内を歩かせてもらいました。
 古四王神社は合祀されているとのことですが、境内に古四王神社の祠や碑のようなものは見当たりません。
 拝殿前で参拝させていただき、神社の後方から杉林を通り抜けて道路に出て、地図で確認していた道へ向いました。
 その道は、八森自然公園のある八森丘陵の北側を通っている二本の道で、その西の端へ行きました。
 この二本の道は、『八森遺跡・先史図録編』の地図〈以後「遺跡地図」〉の「古四王神社跡」の文字が記入されている場所の北側〈地図の上側〉を通っている道路〈以後「山側道」〉とその道路よりさらに北側を通っている道路〈以後「水路側道」〉で、その西の端はひとつに合わさっており、一条八幡宮の東側を通る道路に接合しています。
 遺跡地図では、この二本の道路は途中から点線で表されており、道がつながっていないかのようにも見うけられます。
 国土地理院の閲覧サービスで地図を見ると、二本の道は「遺跡地形図」で点線になっていた部分も記されていて東側でまた合わさって野球場近くのトイレ付近に通じています。西の端から東の合流点までの長さは直線距離で300メートル〈m〉強くらいでしょうか。
 山側道は西の端では標高30mの等高線より低い所から始まり、すぐに30mを超えますが道がカーブする先までのおよそ100mは40mより低い位置を進み、そこから東の端までの間に60m以上の高さになります。
 下側の水路側道は、全長の半分近くは30m以下の高さにありますが、その後は60mをこえる高さになっています。

 遺跡地図で「古四王神社跡」と記されている場所が古四王神社の旧社地なのでしょうか。「王」の文字の上側に「 〉」のような記号〈?〉が記されています。また、山側道は「王」の文字の北側あたりで南へ曲がって凹のような弓形になっています。その弓形になった道路の北側の端に「+」が少し傾いて〈×ほどではなく〉記され、弓形になった道路の北側に小さな□が右に傾いて記されています。これらがなにを意味するのか分かりませんので、行ってみるしかないと思います。
 遺跡地図の記載情報からすると、山側道を辿って古四王神社の跡地を探す事になると思います。

 実際に二本の道の西の端に来てみると、山側道は狭い草だらけの登りの山道状の道で、下側の水路側道は西の端から見る限りでは軽トラックが通れそうなやや広い道で、平坦で草も少ない状態です。
 二本の道の段差に2m程はありそうなコンクリートの土留壁と壁の上のフェンスがあります。
 山側道の端に「急傾斜地崩壊危険区域」の看板が立っていました。図示された区域内で工事や土砂採取等をする時は知事の許可が必要とのことで、立ち入り禁止ではないようです。
 草の茂る山側道に入り込む前に、八森自然公園に行って公園側から神社跡地方面へ接近できるかを見てみようと思い、公園へ向うことにしました。

 公園の野球場の奥〈西〉の八森荘の横の広場に車を停め、神社跡方面を見てみると密集した森で踏み込めるものではないので、草だらけの山側道を行くしかないようです。
 野球場のトイレの前の道の向こう側に「八森遺跡」の案内板が立っており、案内版に向って左横の奥〈北〉にフェンスに囲まれた「酒田市上水道八森配水場」がありました。
 山側道と水路側道は「八森配水場」の横〈西側〉を通って野球場のトイレ前の道路に通じていることになります。

 二本の道の西端に戻り、あらためて山側道を見ると草は歩けないほどではないので、行ってみることにしました。
 山側に注意を払って進みました。落石注意の看板があります。
 途中にやや傾斜が緩やかな場所がありましたが神社跡のようなものは無いようです。山側は総じてかなり急な斜面で、とても神社が置かれていたとは思えません。杉の林ですが、植林したものでしょうか。
 配水場のフェンスが見えるところまで来ましたが、道の公園側へ高くなる斜面には神社跡のようなものを見つけることは出来ませんでした。

 道を戻り、下に落ち込んでいる斜面側に注意して行きました。そうすると斜面の下に土留めをしたような所がいくつか見えました。
 それから屋根と骨組みだけになった廃小屋が道の脇にありました。それ以外に神社跡地のような所は分かりませんでした。

 続いて水路側道を行ってみました。コンクリートの土留壁が終わると、道は細い山道状になります。上の道から見えた土留めされたような場所は、ビニール波板等で囲われ、一部に網がかけられた畑のようでした。日当たりの悪いこんな所で何を作るのでしょうか。
 水路側道からも神社跡地と分かるようなものは見付けられませんでした。
 かろうじて畑が作られるような場所が斜面の下にあることが分かりました。

 もう一度八幡神社に行き、社務所を訪ねましたが鍵が掛っていましたので、神社の敷地に隣接しているお宅を訪ねてみました。
 出てきていただいた方は白い和服の年輩の方で、神職の方のお宅のようでした。
 これから出かけるというご多用な中にもかかわらず、いくつか教えていただきました。
 「廃小屋があった場所あたりが神社跡地であること。簡易水道の作業のための小屋であったらしいこと。畑の場所は神社跡ではないこと。古四王神社は合祀されているが、境内社のようなものは無いこと。危険なので、神社跡を探しに行かない方がいいこと。」等です。


 八幡神社 道路脇の鳥居前からの境内 及び 拝殿

 左上: 神社東側の道から丘陵北側の道への入口付近   右上: 丘陵北側の道の西端(山側道と水路側道)
 左下: 山側道の状態                 右下: 傾斜が緩やかな場所の様子
 左上: 道路脇の標柱のようなもの            右上: 壊れたコンクリート土留めのようなもの
 左下: 廃小屋                     右下:山側道から見た斜面下の土留めされた場所
 左: 水路側道の様子                  右: 畠のような状態

周辺地図 マークは八森自然公園北側の二本の道の西の端




《探訪の整理》
*あらためて「遺跡地図」を見てみると、地図の「古四王神社跡」の記入のある場所の上で道が弓状に凹に曲がっている部分の道沿いの北側に記入されていた□は、まさしく廃墟になっていた小屋でしょうから、神職のお話しによればその付近が古四王神社の旧社地になるものと思われます。
 国土地理院サイトの閲覧サービスで昭和51年の空中写真を見てみると、現在の八森自然公園の北西部の八森荘の在る場所から野球場や配水場、そしてまいづる荘とやまゆり荘、八森遺跡案内版の東までの土地が開かれており樹木がなく畑になっているように見えます。
 その開かれた土地を囲うように北側の斜面の所は森になっています。
 この公園部の北の森の中を二本の道が通っていることになります。
 1984年版(昭59)の住宅地図でもまだ公園ではなく畑のマークが記されています。

 『池田・方寸5』は昭和49年発行で、古四王神社を「もとは八盛山の現在の市条簡易水道の水源地になっているところにあったもの」と述べています。
 『八幡町史 資料編5』の発行は昭和50年ですから、その所収論文「六所神社と古四王神社について(山口重三)」で「八幡神社の裏山に当たる鳥海水道の貯水池附近の北側の山麓の所に北向きの社として祀られていたもので、今でも古四王様の社地と言って其の聖地が明確に残されています」と書かれた時代と池田論文の書かれた時代は大きくはへだたらないだろうと思われますが、水源地と貯水池付近と異なる記載になっています。水源地と貯水池は違うのでしょうか、どこにあったのでしょうか。
 森の中の廃小屋の位置に古四王神社が在ったとすると、その森の中の場所に「水源地」を設けたとは思えないし、その付近に「貯水池」があったとも思えません。
 現・配水場ほ野球場の北東にあるわけですし、廃小屋から200m程離れていますから、付近の範囲になるでしょうか。
 現・配水場とは別の所に在ったのでしょうか。

*「一條村の古四王神社に就て」(昭和4年)に「同社の境内にあるのではなく、約二丁程東南に離れた、字八森の御林から北方に向つて傾斜せる、俗称古四王平の中腹にあった」「同社に詣でるには、八幡神社の裏から灌漑水路添の隘路を通って、辛うじて通ずる位である」「社殿が、傾斜面とは直角を為す西向に建てられ、詣路も斜につけられて居る」とあり、この論文の著者は実際に旧社地を見分していることからして、「二丁」が約218メートルであれば、現・配水場には到底届かず、山側道の途中の場所に在ることになります。
 古四王神社の旧社地が廃小屋の場所であれば、この場所は等高線が凹の弓形になっていて、やや窪地状になっているので、建物を据えやすいようにも思えます。
 八森公園の北部の外縁部の森を見ても、このあたりでへこんでいて、その奥に神社があれば奥まった所のあるという印象かも知れませんが、神社の場所の標高は30〜40mの間です。公園の野球場付近の三角点に64.9mとありますので、中腹に当ります。
 何故中腹に神社を祀ったのでしょうか。中腹にある意味は何でしょう。 
 八森山の北の一般道から八森山を眺めてみましたが、家が建っているため山裾部分は見通せず、旧社地付近は分かりませんでした。
 かなり昔は杉林ではなかったでしょうし、家もそうは無かったでしょうから、神社があれば見えたのではないかと思います。
 旧社地周辺は傾斜地ですし広くはありませんので、「古四王平」というのは現在公園になって平坦地になっている高台の部分を言うのだろうと思います。

 *『八幡町史 上巻ー第二編・第一章・第四節 一条八幡宮の創立と神領』のなかに「神田は十万八千苅、およそ100町程で」とありますので、これによれば古四王神社の「永享年代に田地一千二百苅畠五百地の社領」というのはおよそ田地で1町強になり10反となり、他に畑もあるので結構広いものだったと思います。
 また、八幡神社の駐車場の奥の神職家は、小野家のようです。連綿として続いておられるのでしょうか。

*『山形県史 資料編 15上 古代中世史料 1』に所収の「一条八幡神社文書」を見てみます。
 収録文書のその一の表題「末代の日記(袋綴冊子本)」の末尾部分に「小四王めん千二百かり、やとう五郎、またはたけ五百、はたけ小四王のまつり四月八日、これハあれあいに申なり、〈次の行に〉(貼紙)『永享年間ノ物』」とあります。
 その二の「一条八幡宮祭禮日記(袋綴冊子本)」の末尾部分に「一、古四王免コシワウメン千二百苅、畠五百地、弥藤五郎造リ、御マツリハ四月八日也、〈改行・二字下げ〉本ハ永享二年庚戌為□此本ニ殊ノ外舊候間、〈改行〉長享三年己酉四月十五日ニ書寫畢、〈改行・下部に〉右筆律師□」とあります。〈□はママ〉
 永享二年〈1430〉の「末代の日記(袋綴冊子本)」を元にして長享三年〈1489〉に「一条八幡宮祭禮日記(袋綴冊子本)」が記されたとのことですが、活字になった状態でこれらの資料を読ませていただいているわけですが、原本に忠実に活字に現されているのでしょうから、永享二年には「小四王めん」と書かれ長享三年には「古四王免」とあらためられたのでしょう。
 『池田・方寸5』には、「永享二年の一条八幡宮祭礼日記」とありますが、実際は「長享三年」の「一条八幡宮祭禮日記」から引用したものであり、佐藤偵宏『コシオウ信仰研究序説』は永享二年の「末代の日記」のほうを取っていることが分かりました。
 「探訪記録 庄内2」でも触れましたが、佐藤論文では永享二年の記録に対して「コシオウ神社に関連してこれを遡る史料は知られていない。」と述べています。
 コシオウを小四王と書いた日記を元に59年後には古四王と書かれています。
 この頃、コシオウを古四王と表示することが公式的な表記と認識されていたのでしょうか。
 「小四王めん」のめんが「免」と記されています。「◯◯メン」という文言がこれらの資料中に他には無いので、「免」がどのような意味なのか私には分からないのですが、コシオウの取り分という言うようなことなのでしょうか。
 『八幡町史資料編8』に「一条八幡神社文書」があるようですが、こちらは見ていません。
 また、「八幡町公民館文書」というものもあるようですが、どんなものなのでしょうか。

*酒田市立図書館では八森遺跡に関する資料を時間が無くて見れなかったのですが、酒田から戻ってから『八森町埋蔵文化財調査報告書第11集 八森遺跡 古代編』及び『同 八森遺跡 古代図録編』(八森遺跡発掘調査委員会 平14・2002)を見る事が出来ました。
 『図録編』の「八森遺跡地形図」は『八森遺跡 先史図録編』と同じものでしたが、付図として八森遺跡実測図という縮尺500分の1の大きな地図が付いていて、古四王神社跡が地図の左端に明確に示されていました。
 鶴岡市立図書館でもう少ししつこく書庫から資料を出してもらっていれば、古四王社の旧社地跡の場所を知った上で現地へ行くことが出来たのに、と思うと残念です。
 古四王神社跡は、「八森遺跡地形図」で古四王神社跡と記された王の文字の上側の「 〉」のような記号の場所でした。「 〉」のようなものは、「実測図」では横長の長方形の実線で示された上側の長辺〈長さ〉と右側の短辺〈幅〉で、下の長辺と左の短辺は点線になっています。
 跡地に明瞭な境と不明瞭な境があるのではないかと思います。
 実測図上では、長辺は約9mm〈約4.5m〉、短辺は約7mm〈約3.5m〉です。
 長方形は右下に50度程傾いて記されています。「実測図」の真北は真上から右に35度程傾いていますので、神社跡は北側に向いていることになります。
 山側道から神社跡までは、一番近いところで約5mm〈約2.5m〉で遠い側では約9mm〈約4.5m〉です。山側道の幅は約4mm〈約2m〉程です。
 この神社跡の場所は、八幡宮の方から来ると山側道が右に曲がる所の南側で、等高線が弓形に凹状になっていてさらに間隔が広くなっているところです。八森公園の北側斜面では傾斜が緩やかで比較的神社を建てやすい場所でしょうか。
 このあたりの道路脇にコンクリートの標柱のようなものがあり、少し奥に壊れたコンクリート土留めのようなものがありましたが、神社跡と関連があるのでしょうか。
 また、「遺跡地形図」で二本の道は途中から点線になっていましたが、これは二本の道が工事中あるいは改修中で作業途上の状態を示していて、道の東側の部分は未完成ということかも知れません。そうでなければ、未調査のため点線としたものでしょうか。
 「実測図」に現在の山側道に沿って山側に細い二本の線〈線の間隔1mm〉が、山側道が点線になるあたりまで、記されています。これは細い道でしょうか。道だとすると実際の道幅は50cm程になります。水路や溝でしょうか。
 山側道を歩いた際には、水路などには気付きませんでした。 
 水路側道のほうは、西端から100mくらいの所で短く30m程の道のような水路のような細い二本の線が記されていて、その線は二本に分かれ、一本は等高線に平行にもう一本は斜面を登るように記されていて、斜面を登るような細い線は標高30m付近までしか記されていないのですが、その延長線の先は廃小屋の方向に見えます。
 増村論文に「灌漑水路添の隘路」とありますが、昭和初期の道はどのような道でどこを通っていたのでしょうか。
 山側道と細い道・水路も西から来ると途中で右に曲がっていますが、これは等高線が弓形の凹状になっているでそれに合わせて道も曲がったのかも知れません。
 山側道を通って古四王神社の旧社地に来る場合は、標高の低い北側から南側に位置する旧古四王神社に参拝することになりますので、「傾斜面とは直角を為す西向に建てられ」た社殿であれば社殿の横から向うことになります。
 社殿が北面していれば、山側道は社殿の正面を社殿を上に見て通る道になりますので、その道から神社境内に入れば社殿正面に向って行くことになると思います。

 『八森遺跡 古代編』の「第1章 遺跡の環境・二 遺跡の歴史的環境・1 遺跡近辺の古代的痕跡」に「八森丘陵付近には歴史的な遺産と伝承が残存している。遺跡西麓の平地には一条八幡宮、その神社から中位段丘への山道の途中に古四王神社跡、登りきった段丘西麓から南100mの中腹には六所神社が鎮座しており、丘陵西南麓には六所神社登り口と普門院がある。〈一条八幡宮は〉創建の時期には異論もあるし、神社の現在地は荒瀬川対岸の小泉からの移転との見方もある。古四王神社は現在は一条八幡宮に合祀されているが、遺跡と一条八幡宮を結ぶ丘陵の中腹、標高36mにその跡地があり、かつての祠は北向きに建っていた。」がありました。

 遺跡関係の分野は、佐藤偵宏先生のいわば専門のところで、そういった仕事の関わりもあったのでしょうが、古四王神社に関する論文を残していただいて、探訪を導いていただいております。

《桑原・調査資料による追記》 2019-08
*桑原正史氏より新発田歴史図書館に寄贈された古四王神社研究関連資料中の神社調査資料によって、ホームページ「古四王神社探訪記録」の記事に追記させていただきました。このことについては、記事「庄内2」の《追記》をご参照下さい。

◎調査ノートに、昭和50年10月〈1975〉の菅原傳作氏からの8月の神社調査の補足の葉書の内容が箇条書きで記されています。
 それによると、神主さんより電話で聞くことができた事として「・もとありました場所には何もしるしはない、・もとの古四王神社は北向きであった、・御神体は自然石である、・お祭りはもとは八幡神社と違う日であったが今は一緒、・きかず様とはいわないが耳の悪い人が石かお椀に穴をあけて納め癒ると倍にして奉納したものだという今でもその風習は残っている」などが記されていました。
 こちらの古四王神社の御神体も自然石ということ、耳の病に関する信仰があるがキカズ様とは言っていないことが記されていました。

 公開済みの記事で、穴あき石について「その有孔石は自然石ないしは遺物でしょうか。もし、硬い石に穴を開けてお礼としたのであれば云々」と記し、穴あき石の素性についての疑問を記しています。
 山形新聞のインターネットサイトに「穴あき石を地元の霊場に寄贈〈略〉〈2019年5月25日〉」の記事がありました。それによると、穴あき石を川から探したそうで「1週間探して1個みつかるかどうか」というものを約300個寄贈したそうです。〈河北〉町郷土史研究会長によるととして「穴あき石はその珍しさから、さい銭以上の価値があるとされ、神社や寺に奉納されてきたという。」と記されていました。
〈検索サイトで「穴あき石 山形新聞」でさがせると思います。〉
 穴あき石は、川や海岸で見つけることが出来るようです。

ページ先頭へ 前へ 次へ ページ末尾へ