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探訪記録 山形 4 : 庄内 4
佐藤リスト
位置番号
4 : 飽海郡遊佐町上大内 古四王神社
備考)◯◯家の屋敷神 もと古鏡4枚、12月14日夜篭り
〈桑原リスト : 遊佐町上大内・古正大明神
《探訪の準備》
上大内の社について『池田・方寸5』には、「遊佐町内の◯◯家の祖先は、武州埼玉郡△△城主二万五千石の領主の一族であるが、上大内の「下の家」とよばれている◯◯氏宅の屋敷神として古四王神が祀られている。この古四王神社は出羽風土略記にも名前がのっている。〈略〉参拝したことがあるが、祠といっても縦・横それぞれ1メートルぐらいの小さなものである。もとはご神体として古鏡が四まい入っていたとのことであるが、現在は柄鏡二まいで、鏡が直径約十二センチ、柄は八センチで、それに唐草と桐の葉に藤原二橋伊豆守義重と刻されている。…お話によれば、十一月十四日の夜篭りに餅をあげてご祈祷しているとのことである。〈〇〇 △△は当方による。〉
『遊佐郷村落誌(上)=第一章 蕨岡の巻・十三 上下大内野目』に「出羽国風土略記、船橋八幡宮の項に、船橋の北に川を隔て大内目村(石辻組也)といふ有。往古朝家(朝廷)より官人を置れたる所にて大内目とは称しけるにや。村役人の宅地を見るに其の構常躰(カマエタイ)の人の居住せし地とは見へず。地内に古四王の社有。〈改行〉
天子の御所を大内(ダイナイ)といい、目は戸、家の謂、即ち朝廷から遣わされた役人の家(役所か)の意から大内目(ダイナイノメ)が大内野目(オオウチノメ)となったのであろう。古四王社は◯◯家…の地内にあって東面し鏡を神体にしている。本家の◯◯家…がもと此処に住んでいたが後今の…に移り住んだという。◯◯家は大彦命の後裔武州埼玉郡△△城主△△主膳の末家たる右近、左近より出ると考えられる。即ち天正十一年(1583)八月△△城没落、主膳最上家に寄る。〈以下経緯が記されていますが省略〉」とあります。
〈『池田・方寸5』『遊佐郷村落誌(上)』の引用文には◯◯家ではなく家名が記されており、△△にも城主名が記されておりますが、当方の記事では、個人宅の屋敷神様であることでもあり、これらを伏せさせていただきました。〉
遊佐町の住所を検索しても、「上大内」はでてきません。
現在の遊佐町豊岡大内が上大内のようです。
旧上大内野目村は明治9年に豊岡村になり、豊岡村は明治22年に一郷村となり、一郷村は明治23年蕨岡村に編入となって、昭和29年に遊佐町になるようです。
《探訪の記録》
*2017年6月9日
遊佐町立図書館でわざと古い住宅地図を出していただいて上大内にあたる集落を確認しましたところ「◯◯家」が何軒かあるので、行って聞くしかないと、車を向かわせました。
道路脇の「上大内」と旧村名を表示した看板から入って、住宅地図にあった上大内公民館へ行ってみました。
どうやらこの公民館は今は使っていないようで閉まっていましたが、草刈りをしていた方がいらしたので「下の家・◯◯家」のことをお尋ねしたところすぐ近くとのことでした。
◯◯様を訪ねてみましたが、お留守でした。
公民館に戻ったところ、教えてくれた方がまだいらしたので、お留守のことをお伝えし、古四王様の祠のことをお聞きしましたところ、◯◯家の本家の場所を教えてもらいましたので、本家をお訪ねしてみることにしました。
公民館の周辺に、湯殿山塔や庚申塔などの様々な石碑が集められているようでした。公民館の場所もかつてはなにか信仰に関連する場所だったのでしょうか。
昔ながらの道と思われる狭い道に入って迷いながらも本家をお訪ねしました。
庭木の手入れ中の御主人様がいらっしゃいましたので、経緯をお伝えしてお話しをお聞きして、本家の屋敷神様の社殿にお参りさせていただきました。メモが読めなくなってしまいましたが、八幡様だったように思います。
再び「下の家・◯◯家」行ってみましたが、お留守のままでした。
*2017年6月10日
日を改めてもう一度◯◯様をお訪ねしてみましたが、お留守でした。運が無いようです。
名刺の裏にお訪ねした事を書いて郵便受けに入れさせていただき、お庭の奥に大きさ1メートル程の祠がありましたので、お庭の外から写真を撮らせていただきました。
左: 「上大内」看板-国道345号沿・旧?公民館への道の角 右: 古四王の祠(周囲をぼかし加工)
《地図: マークは訪ねた旧?公民館
《探訪の整理》
念のため、『出羽国風土略記』(歴史図書社・昭和四十九年発行版)にあたってみましたが『遊佐郷村落誌(上) 上下大内野目』の引用以上のことは分かりませんでしたが、「地内に古四王の社有(祭神新田郡の下に注す)」と括弧書きが付いていました。
「祭神新田郡の下に注す」とありますが、『出羽国風土略記』に「新田郡」が見当たりません。
同書に、秋田郡があり、そこに古四王社の項目がありますが、「下に注す」にあたるものがわかりません。
祭神については引用させていただいた資料には記されていませんが、大彦命の後裔であることからすれば、この古四王社の祭神は大彦命なのでしょうし、大彦命を祀ることで古四王社と称したのかも知れません。
◯◯家の古四王様の鏡に刻られている「藤原二橋伊豆守義重」というのは、鏡師の名前かも知れません。ネットにあたると「江戸の鏡師二橋伊豆守藤原吉重」が出てきました。
夜篭りに関しては、『池田・方寸5』では11月14日で佐藤リストでは12月14日になっています。
旧暦11月14日で、月遅れでおまつりしているのでしょうか。
地図を見ると上大内と下大内の位置関係は、東が上大内で西側が下大内になっています。
付近の上小松と下小松も同様の位置関係にありますので、東を上とするのではないでしょうか。
◯◯家の「下の家」というのもそのような事なのかも知れないと思います。
ウエッブサイト「戦国武将録:戦国武蔵国人名辞典」に「△△貞次 埼玉郡△△城主。足利晴氏家臣。通称主膳正。1583年〈天正11〉、家臣の裏切りによって△△城は落城した。△△貞次は家臣20余人を引き連れて、庄内地方に赴き最上義光に仕えた。」という記載がありました。足利晴氏は古河公方の事かと思います。
上大内公民館をネットで検索してみると私の見た古い住宅地図とはちがう場所になっていますので、私の訪ねた閉まっていた公民館は旧公民館かと思います。
この記事の原稿を書いた段階で、◯◯家様に記事原稿を送らせていただき、ホームページへの掲載と写真使用に対する異議がおありかどうかを確認させていただこうといたしました。
原稿の段階では、◯◯家と伏せていなく引用文献の記載のままにしておりました。
それに対する異議の表明等はいただいておりませんが、念のため家名を伏せさせていただき、写真を加工いたしました。
もし、この社に関心をお持ちの場合も、個人宅の屋敷神様でありますので、ご配慮をお願いいたします。
《桑原・調査資料による追記》 2019-08
*桑原正史氏より新発田歴史図書館に寄贈された古四王神社研究関連資料中の神社調査資料によって、ホームページ「古四王神社探訪記録」の記事に追記させていただきました。このことについては、記事「庄内2」の《追記》をご参照下さい。
◎1975-08-26
調査ノートに◯◯家の奥様から伺ったお話しのメモがあり、箇条書きで「・コショウ様 ・祭日 9月1日(秋祭りと一緒) ・まいりにくる人なし ・福島or新潟から来た ・鏡 2枚 もと4枚あったという」とあります。
『池田・方寸5』で、鏡に刻されているという「藤原二橋伊豆守義重」は、調査ノートのスケッチには以下のように記されていました。
藤原吉重が正しければ、公開済みのホームページ記事に記した「江戸の鏡師二橋伊豆守藤原吉重」とぴったりです。
また、幟を保存されており、幟の文字は縦書きで「古正大神社」で「明治三十六年 旧 四月七日」とメモにあります。
祭日が9月1日で秋祭りと一緒とありましたので、『遊佐郷村落誌(上)』の「十三 上下大内野目」の項目を見てみますと、上下大内野目村旧暦時代行事の記載中に「八月一日 秋祭、八幡神社の本祭で初米餅を供え、食べる。親族もよぶ。」があり、「十二月十四日 夜篭り。前に述べた通り大賑い。子ども達は豆腐汁を馳走になり大喜びした。」がありました。
「前に述べた通り」は、元は上村と下村両村の鎮守であった日枝神社(山王さん)の十二月十四日の夜篭り行事の様子を記した部分を指していて、「健康息災を願う行事である。この行事は終戦後迄続いた。」とありました。
その集落行事の日にコショウ様に「夜篭りに餅をあげてご祈祷している」ということなのでしょう。
*「桑原リスト」と呼ばせていただいている古四王所在地情報の一覧表〈「古四王神社の分布」=新発田郷土誌・第9号所収 昭和51年・1976〉に、「遊佐町上大内・古正大明神」とあります。
この神社の現地調査が昭和50年・1975で、「古正大神社」の幟を確認しておりますので、それがあっての「古正」表記なのでしょうか。
『池田・方寸5』でも「古四王」表記ですし、庄内のコシオウ社のほとんどが古四王表記ですので、桑原リストで古正大明神とした根拠が分かりませんでした。
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