トップ(表紙)
このサイトについて
探訪記録にあたって
福島県の古四王神社
新潟県の古四王神社
山形・庄内の古四王神社
山形・村山の古四王神社
山形・置賜の古四王神社
山形・最上の古四王神社
岩手県の古四王神社
秋田県の古四王神社
探訪記録以外の記事
引用・参照文献一覧
更新履歴
ページ先頭へ
前へ
次へ
ページ末尾へ
山形・庄内の古四王神社
庄内の古四王神社について
庄内 1
庄内 2
庄内 3
庄内 4
庄内 5
庄内 6
庄内 7
庄内 8
庄内 9
庄内 10
庄内 11
庄内 12
庄内 13
庄内 14
庄内 15
庄内 16
庄内 17
庄内 18
庄内 19
庄内 20
庄内 21
庄内 22
庄内 23
庄内 24
庄内 番外
庄内 25
庄内 追加
探訪記録 山形 24 : 庄内 24
佐藤リスト
位置番号
19 : 西田川郡温海町五十川 古四王河内神社
〈桑原リスト:西田川郡温海町五十川甲124・古四王河内神社
《探訪の準備》
*『平成の祭』: 古四王河内神社 西田川郡温海町大字五十川字安土124(甲124)
祭神 《主》大毘子命 《合》事代主命、溝咋姫命
*『温海町史 上巻』から古四王河内神社の記事を見てみます。
「古四王河内神社 五十川字安土一二四。 祭神 事代主命、大毘子命、溝咋姫命。 建物 本殿及拝殿十坪五。氏子二十二戸。縁起 崇神天皇が北陸道御巡回の折しばらく止って射術を試みられた時、□(
振仮名
:ダ)(射□
振仮名
アヅチ)〈□:土偏に朶〉があったので安土の地名が起ったという。旧社地は村の後の山麓にあったが、天正四年(1576)現在地に移されたと伝えられる。天文年中中尾浦城主武藤氏の崇敬を受け、慶長十七年には最上義光から灯明料二石を寄進された。弘化三年酒井家より普請奉行が遣わされ、社殿が再建された。明治九年村社に列せられた。
*インターネットの有料地図で五十川安土の場所は分かりましたが、神社の詳しい位置は当時の地図情報では分かりませんでした。
《探訪の記録》
*2014年11月2日
由良の古四王神社を訪ねた後に五十川に向い、先ず五十川安土に行き古四王河内神社を探しました。
安土集落内をあちこちと車で廻るのですが、神社らしい建物や鳥居が見当たりません。
何軒かのお宅をお訪ねし神社についてお聞きしようとしたのですが、ことごとくお留守で、ようやく出会った人は他所から来た人とのことで、情報を得ることが出来ませんでした。
歩いてあちこち行ってみるなかで、旧社地が村の後の山麓にあったとのことですので何か分かればと山へ続く道を行ってみると、谷状の斜面に囲まれて雨のせいもあるのかもしれませんが水の流れがある地形の所に赤い鳥居と扉を閉じた小社殿の神社がありました。鳥居に宮沢神社の額がありました。
山への道から集落のほうへ戻るときに、人家から少し離れた所に集会場かと思える建物がありました。集落のお寺のようでした。
あらためて集落内を歩いてみると、集落の家と家に囲まれて、小路に入った所に鳥居がありました。
ようやく見つけた神社は、民家のような建物の古四王河内神社の社殿でした。
狛犬もあまり見かけないものでした。
周囲をながめてみてもいたしかたないので、神社をあとにしました。
集落から離れようとするとき、集落のはずれの方の小路に入ってみると「安土集落未来マップ」という看板が立てられていました。
そこには古四王河内神社も宮沢神社もお寺の法徳寺も写真入りで載っていました。
早く見付けていていれば、苦労なく探せたのでしょうが。
古四王河内神社の現在の住所は、鶴岡市五十川安土124になります。
古四王河内神社: 鳥居と社殿。 狛犬。 神社前の小路。 安土集落未来マップ・案内看板
《探訪の整理》
*『西田川郡神社明細帳』によると
「山形県管下羽前國西田川郡五十川村字安土
無格社
古四王神社
川内神社 〈二行に並べて書かれている〉
一 祭神 事代主命 溝咋姫命 〈朱書追加二行〉少彦名命
大毘子命 日本武命
一 由緒 大毘子命御鎮座之儀崇神天皇ノ御代ニ北陸道御巡廻ノ折此地ニ暫ク御留リ有リテ
射術抔御試アラセ給ヒシ時ノ□有ケルヨリ安土ノ地名起リテ安土ハ則□ノ假字ナリト〈□:土偏に朶〉
旧社地ハ村ノ後ナル山ノ麓ニアリ今ノ社ニ何ノ頃相殿セシカ年月不詳
〈略〉
一 境内神社 二社 皇大神社 祭神 天照大御神
鹿嶌/白山〈二行〉神社 祭神 武甕鎚命 経津主命 天兒屋根命 比賣命
菊理比賣命 伊邪那岐命 伊邪那美命
一 信徒人員 五拾人 〈略〉」
宮沢神社については
「山形県管下羽前國西田川郡五十川村字安土
無格社
宮澤神社
一 祭神 少彦名命 日本武命
一 由緒 不詳 〈略〉」
朱書:明治四十年十月四日 古四王/河内神社〈二行並記〉へ合併許可
*『鶴岡西田川神社誌』
「古四王 河内神社
鎮座地 西田川郡温海町五十川字安土一二四
祭神 大毘子命 配祀 事代主命 溝咋姫命
由緒 第八代孝元天皇第一皇子大彦命、四道将軍となり北陸道鎮撫のため海路を北上して来たが、大時化に遭い遭難五十川の浜に漂着し暫く留まることになり、村人に農耕、製塩、医薬など優れた技術を授けた。滞在中、安土を兵士の弓術訓練場とされた。安土の地名は□アヅチ(的かけ場)より起こるという。旧境内地は村の後の山麓にあったが、天正四年(1576)四月二十日、現在地に移転改築した。明和四年(1767)、村の大火災で社殿類焼、安永元年(1772)九月二十日、再建した。
明治二年古四王大権現を古四王神社と改称、明治四十年(1907)宮沢神社を合併、古四王河内神社と改称した。」 〈□:土偏に朶〉
五十川鳶ケ沢の古四王神社の由緒との整合性を考えれば、この神社誌に記された由緒になるのでしょう。
『温海町史・上巻』には「大彦命」の名も遭難と上陸も見当たらないのはなぜでしょう。
*河内神社の祭神と分布に注目すると、旧西田川郡温海町には山五十川字宮田2と戸沢字東俣4に事代主命・溝咋姫命を祭神として河内カワウチ神社とする社があります。
『平成の祭』によれば、山形県に古四王河内神社を含めて河内神社が東田川郡に4社と西田川郡に3社の7社あり、東田川郡の3社の祭神は猿田彦・他になっています。
ページ先頭へ
前へ
次へ
ページ末尾へ