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探訪記録 山形  15 : 庄内 15


佐藤リスト 位置番号  13 :  酒田市熊野田 古将様 
                備考)熊野神社境内の神明社の呼称
                〈桑原リスト(参考):酒田市熊野田熊野神社境内の
                          神明社を「コショサマ(古将様)」と呼ぶ。

《探訪の準備》
*『池田・方寸5』に「熊野田の熊野神社の境内の神明社を、部落民は「コショサマ」ともいっている。漢字に書いてもらったら「古将様」と書いたということである。及川大渓氏はその著書「みちのくの庶民信仰」で、古将とは坂上田村麻呂のことで毘沙門天の化身といわれ、夷族には畏怖の対象であった。御所・五所・小塩・御諸・小姓・五聖・五社・小□〈□は草冠に徙〉とも書かれ、古四王神とは異名同神であるとのべている。また、同書によれば腰神も古四王神であるといっているが、…」とあります。

*『酒田市合併村史 第三巻』で中平田の熊野田についての記述〈第一章第三節 中平田地区の古代・中世〉を見ると「地名の由来は鎮守として祀っている熊野神社に由来する。遺跡発掘により平安時代に開けた所とわかった。ここの熊野神社は当地方では最も古いのではなかろうか。杉沢比山で有名な遊佐町杉沢の熊野神社の縁起に、熊野田の熊野神社から北上し輿休に至り、日向川を遡上して杉沢の地に至り、祭祀したとある。ここの熊野神社は、かつては熊野三所権現といわれ、神仏習合により弥陀・薬師・観音の三尊を祀ってあり、明治の神仏分離令後も祭典の幟には『熊野三所権現』とあった。今の幟は『熊野神社』となっている。拝殿に向かって右側に脇社の皇大神宮は総欅造りの釘を全く使わず「腰斗供組造り」という建築様式で、当地方では上日枝神社本殿と供に数少ない貴重な建造物である。地元では今もこの社を「こしょうさま」と呼んでいる。おそらく「越王」「古四王」さまを祀っていたのではなかろうか。」の記述があります。

 『池田・方寸5』で引用した記述は、“及川大渓によると古将とは毘沙門天の化身といわれた坂上田村麻呂のことであり、古将は古四王神とは異名同神であるそうなので、熊野田のコショウサマは古四王神である”という意味でしょうか。
 私の読んだ限りでは、及川の前記の著書に「坂上田村麻呂を毘沙門天の権化化身とした」はあっても「古将とは坂上田村麻呂のこと」という記述はないように思います。
 及川は「古四王は一に胡四王、越王、腰王、小□王などといい、また古将、小姓、御所(御諸)、五聖、五社なども、それ等の訛りと考えられるから、」と記していますが、それらのコシオウ・コショウがすべて古四王神であるとは考えにくいと思います。
 胡四王、越王、腰王、小□王については、コシオウ神社の存在を確認しています。〈□は草冠に徙〉

 コショサマと古四王神社が結びつくことを示すような例が見受けられますので、地元の方に「コショサマ」と呼ばれていたということで、熊野田の神明社は古四王社の所在地候補になると思います。
 裏付けとなるような資料があればよいのですが。

《探訪の記録》
*2018年6月24日
 熊野田は横代の西の方にあります。
 横代集落の南を流れていた矢流川が合流して新井田川になりますが、その新井田川の南に熊野田集落があります。
 熊野田の熊野神社から横代の熊野神社までは直線距離で2300b程です。

 熊野神社へは南側から参道がつけられています。
 境内の手前に小さな橋が設けてあり、橋を渡ると鳥居の手前右側に熊野神社と刻まれた標柱があり、左側には碑状の自然石が立てられていますが文字は見えません。
 鳥居に横代の熊野神社の社殿の注連縄と同様な形式の注連縄があげられています。
 鳥居をくぐって参道を社殿に向うと、社殿は参道に対して少し斜めに建てられており、参道の正面に位置していません。

 境内の鳥居を入って右側には、精緻な造りの小社殿があり、正面には柵が設けられ三方は覆われています。
 太神宮の社額があげられています。
 この社が、「脇社の皇大神宮」で「地元では今もこの社を『こしょうさま』と呼んでいる。」の社殿と思われます。
 この社殿も少し左に傾けて建っています。
 社殿の方角を確認してこなかったのですが、正面を真南に向けるためでしょうか。

 境内には、馬頭観音碑、疱瘡神碑、庚申碑、猿田彦大神碑、何かの土台のような石、華京多作碑と読める石碑がありました。

左上: 熊野神社の標柱、鳥居、等              右上: 参道と社殿の角度
左下: 境内社と熊野神社拝殿                      右下: 境内社の正面上部、太神宮の社額

《探訪の整理》
*新しい資料は見付けていません。

 市町村の変遷を見ますと、明治22年に、手蔵田村・熊野田村・熊手島村・大槻新田村・荻島村・本川村・茨野新田村・小牧新田村・中野新田村・勝保関村・土崎村・大多新田村・浜田村・小牧村・大野新田村・古荒新田村が飽海郡中平田村になり、昭和29年に酒田市に編入し、現在に至っています。
 『酒田市合併村史 第三巻』によれば、手蔵田・熊野田・小牧・荻島・本川は、中世以前に開村したと伝えられているそうです。
 同書に遊佐町杉沢の熊野神社の縁起に関する記述がありますが、杉沢の熊野神社は熊野田の熊野神社から勧請されたという伝えがあるということなのでしょうか。
 「探訪記録 庄内6」に杉沢の熊野神社に触れています。 
 また、昭和62・63年に発掘された熊野田遺跡から、庄内地方で三枚目の木簡が出土し、約300bに及ぶ板材列に囲まれた平安期の大型建物跡が数カ所あって、公的な施設が存在したと説明されている、とのことです。
 『山形県遺跡地図』で見ると、熊野田遺跡は現在の集落の北東側に県道352をまたいで遺跡範囲が囲われています。

 熊野神社については、『平成の祭』によれば祭神は熊野久須比命でそれ以外の記載はありませんし、『山形県神社誌』では祭神は熊野楠日命と記されているのみです。
 境内の「脇社の皇大神宮」の祭神や合祀などは記されていません。

 現在の熊野神社は、神仏分離令で指導があってクマノクスビノミコトを祭神とする神社になったのではないかと思いますが、ここに「太神宮」を合祀することをしなかったから合祀の記載も祭神の記載も無いのかも知れません。
 地元の方のお話は聞いていませんので想像ですが、この社を法人社とすることを避けて、神社として祀ってきたのではないかと思います。

 『池田・方寸5』では「神明社」とありますので、オシメサマというような呼び方もあったかも知れませんが「コショサマ」と混同されるようなことはないと思います。
 コショサマ(古将様)については、『池田・方寸5』『酒田市合併村史 第三巻』の報告以上のことは分かりませんでした。

 熊野神社の現在の住所表示は、酒田市熊野田高砂61です。

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