ページ先頭へ 前へ 次へ ページ末尾へ

探訪記録 山形 番外 : 庄内 番外


リストなし :   西田川郡温海町大字五十川字黒滝64(鈴) 薬師神社

《探訪の準備》
*この社は、記事「庄内 23」で取上げた『角川 日本地名大辞典 6山形県』で「西田川郡温海町」の五十川の神社として挙げられていた「古四王神社・古四王河内神社・薬師神社」のなかの薬師神社です。

*『平成の祭』の「薬師神社」から引用します。
 「祭神: 《主》大彦命、大己貴命、少彦名命、 鎮座地: 西田川郡温海町大字五十川字黒瀧64。
  境内社= 両滝神社 祭神: 《主》 日本武命 」とあります。
  大彦命を祀っています。

*『温海町史 上巻』
「薬師神社 五十川字黒滝六四(鈴) 祭神: 少彦名命、外一柱
 縁起: 少彦名命が大彦命に従って北上する途中、海上波高く進路をあやまり苦しんでいたところを、土民がこれを導き五十川海岸に上陸させた。その厚意に報いるため土民の中に病者が続出していたのに対し持っていた薬草を与えて救った。土民はその恩恵を偲ぶために一社を建てたのが当社の最初である。また別の説によれば、寛治元年(1087)八幡太郎義家が五十川飛ケ坂で安倍の伏兵と戦った時、将兵は悪病に苦しんだが、何者かに薬草を与えられ、みるみる快復した。義家は大いに悦び一挙に安倍軍を打破った。義家は出立にあたり、薬草のお陰だとして一堂を建てたと伝えられている。また別の説に拠れば、寛永五年、天宥上人の弟子大蔵坊という社僧が別当となり、占術を施し世人の難を救ったという。」とあります。
 大彦命と海路の難儀の事、源義家と安倍側の兵との戦いの事という五十川鳶ケ坂の古四王神社の伝説に出てくる題材と共通の要素が見て取れます。
 古四王神社と称する条件は備えていると思いますし、古四王神社と称したとしても不思議ではないと思います。
 古四王神社と称することと、古四王神社を名乗らないこと薬師神社と名乗ることの違いは、なにによるのでしょうか。
 古四王神社とする事が出来るのにそう称していない神社の例と思えます。
 なぜなのかを調べることも、古四王神社探訪の一環と思います。

 訪ねてみたいと思います。

《探訪の記録》
*2014年11月2日
 当時のインターネットの有料地図では薬師神社の詳しい場所が分からない状態でした。

 国土地理院の地形図では鈴の地名と線路の東側に鳥居マークが確認できますが、鳥居と集落との位置関係までは分かりませんでした。
 鈴の集落をあちこちと探して歩き、鈴村鎮座と側面に彫られている薬師神社の社標を見付けました。
 そこから坂道を行き線路の向こうへ出て、さらに未舗装の狭い道を上っていくと銀杏の木の向こうに鳥居と社殿が見えました。
 11月初旬ですが、社殿は雪囲いがされていました。
 現在の社殿は海に向いて建てられているようですので、西よりの方角を向いているのではないかと思います。

 現在の住所表示では、鶴岡市五十川に地区名「鈴」はありません。
 薬師神社の住所は、鶴岡市五十川黒滝64です。
 黒滝には他に34(番地)があり、そこは鈴公民館です。
 鈴集落の民家の住所は五十川丙になるようです。

薬師神社 社標                      薬師神社 両脇の銀杏の木と鳥居と社殿(雪囲)


《探訪の整理》
*『神社明細帳』
 「山形県管下羽前國西田川郡五十川村字鈴〈鈴を黒滝に朱字により訂正〉
              無格社
               薬師神社
 一 祭神 大己貴命 少彦名命〈二行並記〉
 一 由緒 不詳   
 一 境内神社壱社  皇大神社 祭神 天照大御神 由緒不詳  〈略〉」
 このように記されているだけです。

*『鶴岡西田川神社誌』
「薬師神社
 鎮座地 西田川郡温海町五十川字黒滝64(鈴)
 祭神  大彦命 大己貴命 少彦名命
 境内社 両瀧神社
 由緒  鈴には五十川、安土の古四王神社とともに古四王の神を祀り、当社は北向き薬師と称される神社である。その昔、大彦命が四道将軍として海路軍を進めて来たが、大時化で遭難、鈴の村人がこれを五十川の浜に導き無事上陸させた。さらに、命の率いる兵士が目の病に罹って苦しんでいたので、境内社の塩込瀧の水で洗って病を癒やしてやった。いっぽうその頃、鈴の村人が悪病で困っていることを知るや、命が持参の薬草を授けて救ってくれた。村人はその徳を慕い一社を建立したという。」
 この由緒は、大彦命が話の中心になっていて、五十川鳶ケ坂の古四王神社の話との整合性が感じられます。
 村人ではなく兵士の病を回復させるという題材が出ていて、温海町史にある義家の兵士についての題材と共通性が思われます。

 『神社明細帳』では祭神に「大彦命」が見られません。
 『温海町史上巻』では、由緒伝説は少彦名命が中心の話に受け取れ、「少彦名命が大彦命に従って北上…」という関係になっていますし、祭神は少彦名命、外一柱ですので、当所の由緒には大彦命があらわれずあとから大彦命を由緒に組み入れる修正をした可能性について思いを巡らすことになります。
 あるいは、薬師信仰のため由緒伝説の主人公を大彦命ではなく少彦名命にしたのでしょうか。

 五十川地域の神社に伝説の生まれ方の例を見るような気がします。
 
 病に霊験有って、薬師と呼ばれるということはあったろうか。
 北向き薬師と呼ばれていて、五十川の神社であれば大彦命を祀っていると思われたことはないだろうか。
 分からないことだらけです。
 北向き薬師と呼ばれても、古四王神社とは名乗ってこなかった。
 古四王神社を名乗らないのであれば、大彦命が祭神であろうが、北向き薬師であろうが、古四王神社ではないわけです。

 『温海町史上巻』にある「寛永五年〈1628〉、天宥上人の弟子大蔵坊という社僧が別当となり」という記述ですが、「大蔵坊」というのは『鶴岡西田川神社誌』の五十川の古四王神社の由緒にある「大蔵坊」と同一人物でしょうか。〈記事「庄内 23」〉
 両方とも寛永年間の事になっていますのでその点は合致しています。
 寛永の時代で「天宥上人の弟子」というのは時代的に合わないように思います。

 『山形県神社誌』の「薬師神社」の記述を引用します。
 「祭神: 大己貴命 少彦名命
  由緒: 当社の創建は、四道将軍・大彦命の医療を担う「北向薬師」として建立されたという。命の医療の信仰伝承が多く伝わる。文政六年社殿建て替え、大正十一年、現在地に移転、〈略〉」
 旧社地は分かりません。

ページ先頭へ 前へ 次へ ページ末尾へ